ものすごく人と会いたいターンに突入していた時期があって、

SNSでその旨を吐露したところ、

中学・高校の同級生が何人か会ってくれるということで、

約束をして実際に会うことができています。

 

特に高校の同級生・部活の仲間とは卒業以来会っていなかったのでとても久々でした。

大学入学後、コロナもあり人との交流をほとんどしてこずに、

一人で淡々と生活を送ってきたという生活を前提にしながら、

彼らと会えたことで、「結局、変わらないんだな」という想いと、

「結局、この人たちも同じだったんだな」という想いを持ちました。

 

高校で3年間クラスが同じだったA君がいて、

そいつはもう本当に顔が良くて(笑)、ド陽のチャラ男みたいな雰囲気を醸し出していたんです。高校の時。

それでも僕の記憶だと高校3年間で彼となんだかんだ一緒だった時間がかなり長かったんです。

当時も若干の疑問の中で日々を過ごしていたんですが、それが今回の再会でわかったような気がして。

根底に流れているものというか、生きている世界観が同じな感じなんですよね。

一人でいることへの考え方とかお金の使い方とか、改めて話してみるとかなり一致していて、

そういう奥底が一緒で心地よかったんだろうなと。

当時はそんなことなかったんですが、アニメやラノベ、ゲームの話も嘘みたいに盛り上がって。

高校卒業してから数年全く会っていなかったけれど、

流れるものが同じな僕たちの行きつく先は同じだったわけですね。

 

彼に対してクロバット並みのくろいまなざしで「君は僕の親友だから」と口に出してしまいましたが、

自分の生き方に迷ったとき、人間関係に苦しんだとき、彼の存在があるというだけで強く生きていけそうな気がしました。

まさに“心の拠り所”ってやつですね。

 

 

高校のころからずっとゲームをしていた印象のあった奴は今はもっと、一日中ゲームをしているようで。

太っていくことをネタにしていた奴はプロレスラーのような見た目になっていて。

とにかく笑顔が印象的だった奴は今も相変わらずまぶしい笑顔で笑っていて。

 

そんな愉快な4人に共通していたこと、「みんな好きで好きなことをやっているんだな」ってことでした。

僕自身はいつの間にか、一人で趣味を楽しむことをどこかコミュニティで楽しむことへのアンチテーゼとして捉えていた感じがして。

でもそうじゃないよなと。

好きでアニメを観ているし、好きで声優の番組を観ているし、好きであるバンドの曲を聴いてライブに行っている。

自分の好きなものに真直ぐに、時間とお金を使っていきたい。誰と比較するでもなく。

それを共有できる仲間がいることを改めて確認することができたのだから。

 

あまり変わっていなかった(一人の見た目を除く)高校の同級生との再会は、

確実に自分がこれから生きていく上での心の拠り所となったし、

自分にとって何が大切かに改めて気づかせてくれる、そんな良い時間でした。

8月の上旬あたりに初めて某コロナ感染症にかかりまして、

その時の症状自体は、1日半高熱が出て、あとは結構平気な感じだったのですが、

味と匂いがしない期間が1~2週間ほど。

味については現時点で、印象6割くらい戻ってきて、

匂いは印象4割くらい戻ってきている感じです。

 

味と匂いがしないというのは一般的には辛い話だと思うのですが、

個人的にはそうもネガティブなことだけではなく。

 

味がしないので値段とカロリーに重きを置いた食選択ができるという点が一つ。

そしてもう一つが大きな点で、

自分はどうやら他の人より嗅覚が強いようで、

他の人が受けていないようなにおいによるストレスを受けていたことが多々ありました。

それが今はなくなっているわけなので、

匂いによるストレスが皆無な状態です。

もう少し戻ってほしいなとは思いつつ、

完璧に戻らなくても良いなという少し我儘な願いを持っています。

(自分の汗のにおいが全然わからないのは恐怖です。)

 

 

 

そしてコロナとの関係性の有無は全くわかりませんが、

「乗り物酔いをしなくなった」という事象が私の身に発生しています。

小さい頃からバス・車と電車の酔いがひどく、

特にバスなんかはたかが5分乗るだけなのに酔っぱらってしまい、

正直絶対に乗りたくない、ただの苦行乗り物でした。

 

京都観光でやむを得ずバスを使う必要がかなりあり、

正直かなり戦々恐々としていたのですが、

何分乗っても、何十分乗っても、全く酔わない。

昔乗って酔って途中で何度も降りていた新快速さえも全く酔わない。

 

小さい頃から天敵だった近所のバスに試しに乗ってみても全然酔わない。

これは、大人になったということなのでしょうか。

それとも味覚や嗅覚が弱まっているのと同じように、

そこら辺の感覚が一時的に弱まっているだけなのでしょうか...。

 

今はバスや電車にもう酔わずに乗れるようになったという事実が、

ただただうれしくて、正直もうバスに乗ってどこにでも行きたい気分です。

 

またあの最悪な“酔い”という現象が私の身を襲わないことを願って...。

 

 

夏休みが数日潰れ、精神的にはきつかったコロナだったけれども、

意外と良いこともあったのかもしれない、という話でした。

総てはそう、捉え方次第。

 

(本文は科学的根拠も論理的思考もないただの個人の感想と思い込みです)

 

 

 

井の中の蛙大海を知らず

されど空の青さを知る

 

「井の中の蛙大海を知ってしまう」

大海を知りたくて、飛び込んでしまった。

しかし自分にとっての大海は、

決して綺麗なものでも希望にあふれるものでもなかった。

ただただ自分のいないところで回る世界・動く日常感という

強烈な塩辛さに触れる結果となってしまった。

聞きたくなかった、知りたくなかった話の数々。

大海に飛び込もうとしなければ、きっと心はもっと自由だった。

 

 

「されど空の青さを知る」

ことわざには続きがあった。

井の中で暮らす蛙だからこそ、空の青さは知っている。

大海を知らずとも、自身の生活の中で突き詰めた何かを持っている。

 

世間知らずで見識の狭い私(=井の中の蛙)だけれども、

自分なりのやり方で、自分なりの好きなものを、

深く深く突き詰めていけば、それでよいのではないか。

例えそれが大海には馴染まないものであったとしても。

それが自分の生き方だから。

 

そしていつか、違う井の中の蛙と、

お互いが深め合った大切なものを、

共有できる日が来るのを待って。

 

これまでの夏休み、私は自らで設定した個人的目標をもって生活してきました。

それはシンプルなもので、「人と関わる」こと。

春学期に大学で受けた「人とのつながり」を教えてくれた授業は印象的な授業だったし、

大学4年の身として残された少ない時間で、この先も付き合える人間との関係を作りたいと強く願った。

 

自分なりにできることはやったと思う。

遊びにも参加することができたし、人を誘って遊びに行くこともできた。

コミュニティの一員になれている確かな手ごたえを感じていた。

 

しかし、そんな充実感と同時に、コミュニティに参加することは自分に大きな疎外感をも与えてきた。

自分の知らない話があまりに多いこと。「え、それで、何で俺いないの」という集まりの多いこと。

自分のいないところで世界が勝手に回っている感覚。

 

もちろんわかっている。これが傲慢で我儘な心の弱さだということを。俗にいうメンヘラだということも。

ただこれは、“これまでしてこなかったこと”に挑戦したことによる新鮮な心の動きなのだと思う。

この心が、この先どのようにこの動きと向き合っていくのか、楽しみな部分でもある。

 

というか、人間と関わるということをする世の中の人間にとって、このような事象はありふれたことなのだろうか。

当たり前のように友達と遊んで、また違う友達と遊んでいるように見える人たちは、

このような「自分のいないところで世界が回る感覚」に対してどのように心が動いているのだろうか。

 

 

自分なりに今導き出している答えは、「近づきすぎない」ことだ。

「井の中の蛙大海を知らず」とはよく言ったことだが、

大海に触れてしまうから、大海に触れたいと思ってしまったから、

こんなにも心を損耗させてしまっているのだろうと考えている。

人と繋がりたい、コミュニティに所属したいと強く願うことが“自分にとって”は間違いなのではないかと。

 

こんなに苦しい思いをするくらいなら、こんなに悲しい思いをするくらいなら、

人との付き合い、コミュニティに近づくことを諦めて、“お一人様コース”を極めるしかないのではないか。

 

極端だ。情緒不安定だ。メンヘラだ。わかっている。

22歳にしてこんな脆弱な心にしか育っていないという事実。

人との付き合いによって立証されたこの事実から逃避するためにも。

 

 

この数か月で気づいたこと、私はきっと人間関係が得意ではないのだろう。

純粋な憧れや願いだけを頼りにするのではなく、“自分に合った”人間関係の構築を模索する必要があるのだろう。

自分の心も、コミュニティも、諸行無常。

“初めからこうなるようになっている”と信じて、自分の心の動き自体を楽しんでいきたいと思う。

 

また期間が空いてしまいました。

もう8月が終わろうとしています。

しかし大学の夏休みは10月中旬まで続くため、

塾バイトの夏期講習もなくなるこれから1か月が、

私にとってかなり苦しい夏休みとなることが予想されます。

 

そんな時間がある中、最近はイナズマイレブンを観返しています。

私くらいの世代の人たちと、数個年齢が違う人たちとも、

イナズマイレブンの話であれば信じられないくらい盛り上がることができます。

カラオケでイナズマイレブンのOP, EDをみんなで歌うこともあります。

自分たちの学生時代にそういう共通して楽しめる作品が“まだ”あること、

本当に良かったなと思います。

これだけコンテンツが溢れて、それぞれが好きなものを楽しめている今の小中学生たちは、

10年後くらいにどのような話をして盛り上がるのでしょうか。

 

 

 

久しぶりにイナズマイレブンを観返すといろいろと面白いことに気づき直します。

最初のFF世宇子中戦から、エイリア学園編まで一旦観返しましたが、

①風丸が割と早い段階からドーピングフラグを立てている

②中村悠一さんや梶裕貴さんが毎話のように声とキャラを変えて出演している

という2つの点が特に面白いなと思いました。

 

 

そして当時は全く印象に残っていなかったと思うのですが、

雷門イレブン一行が、デスゾーン習得のため、帝国学園と練習試合をした際の、

鬼道と佐久間のやり取りがグッときましたね。

鬼道からしたら、帝国学園を裏切ったことを気にして、自分の口から説明しなければと考えていたのに対し、

それを口にする前から佐久間の方から、「雷門で、お前の個性はより輝いて見える」という言葉をかけていたシーンです。

一度は道をたがえた仲間たちがしっかりと自分の選択を尊重してくれる。

そして何より今の自分を認めて、応援してくれる。

些細な会話だけれども、そんな仲間の大切さを教えてくれる大事なシーンだったなと思いました。

 

(ただその前、円堂のメガトンヘッド習得のための特訓で、未完成な状態にもかかわらず、

円堂に皇帝ペンギン2号を打ち込んだのにはだいぶ笑いました。)

 

 

 

この世宇子中編からエイリア学園編にかけて、物語では“力の渇望”が大きなテーマとなっていました。

強大な力を手にすることができる「神のアクア」「エイリア石」という圧倒的な“憧れ”がありながら、

どのように強大な敵に立ち向かっていくのか。

「もっと強くなりたい」という想いは一緒でも、選手たちの少しの心の持ちようによって、様々な選手視点から、

「勝つために大事なもの」が何なのか、考えさせられる作品となっていたんだなと思いました。

最後の戦いが、途中で離脱・挫折した「力を求める」メンバーとの対戦、というのもまた大きなポイントでした。

古臭い考え方かもしれないけれど、簡単には力は手に入らない。

時間をかけて培った「友情・努力・仲間」によって人は、集団は強くなっていくんだろうなと思いました。

 

 

そして物語のキーパーソン、吹雪の葛藤やその克服の過程には今の自分にも通じる部分があったと思います。

「周りから求められる人間でないと意味がない。」

「周りからの期待に応えるために、完璧な人間でないといけない。」

もちろん彼には二重人格という重要な設定があったけれど、

私自身も所属する集団の中で、自分の役割は何か、何を期待されているのか、

「何のために」をよく考えてしまいます。

 

でも違う。

誰かに求められるために、期待に応えるために生まれて、生きているわけじゃない。

完璧な人間なんているわけがない。

完璧じゃないからこそ、自分自身の中から完璧へのピースを探すのではなく、

自分ではない他の“仲間”と補いながら、助け合いながら、一つの方向へと向かっていく。

「完璧になりたいなら、必要なものを間違えないことだ」と、豪炎寺さんに言われて私自身もハッとしました。

 

 

「吹雪かっけー」で終わっていた当時の自分とは比べ物にならないくらい多くのインプットを、

今回の観返し企画によって受け取っている気がします。

 

引き続き、いけるところまで、できればイナズマイレブンGOの最後までは、

観返し企画を続けていきたいなと思います。

また当時の視点とは違う、新たな何かを得られるような確信があるので。

久しぶりの読書感想文です。

 

瓜生 中, 2014. 「ブッダなら、僕らの悩みにどう答えるか」旬報社

 

を読みました。

読んだきっかけとしては安直ですが私の尊敬する人の考えに近づきたいと思ったからです。

推しによって世界が広げられていく、典型的な例の一環です。

実名を出してしまえば、Mr.Childrenの桜井さんに感化されたものです。

 

 

この本を読んでの大まかな感想ですが、仏教の考え方への入門として、

そして日常に対する新たな観方・考え方を与えてくれる一冊として、

初学者にもわかりやすい、読みやすい一冊だったなと思いました。

 

仏教の考え方について、これはあくまで私の捉え方になってしまうので詳しく述べることは避けますが、

「ほどほどで生きること(=中道)」「全てのものに自我はなく、常に移り変わっていくもの(=諸法無我、諸行無常)」

の考え方が印象に残りました。

 

ほどほどというのは“ニュートラル”ということであり、何かに偏ることも執着することもなく生きていきたいなと。

そして諸法無我について。

日々に永遠なんてものはなく変わっていくのが当たり前。それを受け止めて“今”を最大限楽しむこと、受け取ることが重要なんだなと思いました。

それとともに自分自身も変わっていくのが当たり前。自分自身の些細な変化も、「そうである」と認めて受け入れていく。

自分を客観視してしまうと言えば簡単ですが、苦しいと思う自分もきついと感じている自分も「そうだよな」と受け止めていくことができる気がしています。

 

少しでもこのような考え方を頭に入れようとすると、日常の見方が変わってきた実感がほんの少しですがあります。

特に人との出会い、“縁”について。

 

鳩にフンを落とされて、かなりショックだったのに、その後奇跡的な人との出会いを果たせたり、

行くか行かないか迷ったイベントに行ったらまた奇跡的な人との出会い、再開を果たせたり、

そういうことがこの2週間立て続けに起こりました。

「奇跡だ!」と言ってしまえばそれで終わりかもしれませんが、

自分の中では少し違う受け取り方ができた気がして。

「こうなることになっていたんだろうなぁ」って。

人との出会いとか「縁」ってこういうことなんだろうなぁって。

 

まぁその後コロナ陽性になり貴重な夏休みを一週間失うことになったことも含めて、

“こう”なっていくのが人生だし、どうにもならないんだから、今の出会いを、今の日常を楽しんでいくしかないよなと。

言葉では形容しづらいですが、仏教の世界観にほんの少し触れたことで、

これまでの自分にはなかったような捉え方ができるようになったかなと思います。

 

読んでよかったです。

だいぶ期間が空いてしまいました。

 

私の大学は既に夏休みに突入しています。

7月20日前後から10月10日前後までの夏休み。本当に長い。

 

ただ、この夏休みは自分にとって「最初で最後の夏休み」なんだなとしみじみ思います。

 

 

大学1年・2年の夏休みはコロナとコロナに対する自分の過剰な意識があって、

昨年は他の大学生に紛れて企業のインターンやワークショップに参加することに躍起になっていました。

そして社会人になる来年を控えた大学4年の夏休み。

本当に今年こそは自分のやりたいことをやろうと思っています。

他人と比較することなく、自分の人生を豊かにするために。

 

これまで2週間ほど経過しましたが、意外と充実している夏休みになっています。

海外のサッカーチームが日本で試合をする、国立競技場での2試合を観に行くことが出来たり、

声優の朗読劇を鑑賞しに行って初めて私の“推し”を生で見ることができたり。

 

これから先も、初めて神戸にサッカー観戦をしに行く予定が出来たり、

来年入る予定の研修旅行で札幌まで連れて行ってもらえる機会があったり、

そして毎日のような地獄の塾バイト夏期講習があったり。

こんなに予定が入っている(自分比)のは初めてで嬉しい気持ちでいっぱいです。

自分の好きなことを好きなように楽しんでいる感触を得ることができています。

 

ただ、そこで生じる大きな問題。

「人の誘い方がわからん。」

大学で受けたある授業の影響で、“人と繋がりたい欲”はMAX。

ただどうしたものか、自分にはあまりそういう経験がないので、

「遊ぼうよ!どっか行こうよ!」まで言えるのに、それ以上の進展がない。

行きたいところはフラッと一人で行ってしまうし、わざわざ他の人を誘うまでもない。

そのまま特に予定もたつことがなく時間が流れ、結局なかったことになる展開が容易に想像がついています。

 

この夏休みの帰着点が、「結局一人が楽」にならないようにしないといけません。

なりそうな気しかしませんが。

これから先も頼り頼られるつながりを作っていくために、一歩勇気を踏み出したい。

今のコミュニティでいられる時間ももう残り少ないわけなのでね。

根本 寛, 2015. 「新筆跡鑑定 事件を見抜く筆跡心理学」三和書籍

 

 

期間が空きましたが上の本を読みました。

図書館で見つけて純粋に興味を持ったので読みました。

 

現場で筆者が用いている筆跡鑑定について、一部具体例が紹介され、

実際に起きた事件や事例のケースの紹介、そして現状の筆跡鑑定現場の問題点などが挙げられていました。

 

まず最も印象的だった文は、「筆跡個性は脳に蓄えたイメージの反映」という文です。

筆跡個性というのは各々が字を書くときに現れる時の特徴で、

基本的に鑑定はその特徴をもとに行われるのですが、

角の丸みや突出部分、一字内の隙間などに“個性”が見られます。

もちろんその時のコンディションや気分によって字が変わることはありますが(=個人内変動)、

各々が字の形として何を求めるか、その好き嫌いはイメージとして蓄積されたもので変わらない、それが書いた人の特徴でもあるし、別人が書いたことがわかる契機ともなります。

 

私は個別塾でアルバイトをしていて、生徒・講師ともに多くの直筆の字を目にする機会があるので、

書いた人やその字の特徴や個性を読み取れるんじゃないかとワクワクしています。

ただこの本を読んだだけだけど、人の字を詳しく見たいという新たな欲望に出会うことができてうれしく思います。

 

 

ただ「こういった筆跡鑑定が行われています!」ということだけではなくて、

現在行われている筆跡鑑定の問題点についても著者なりの見解がありました。

大きな二つの問題点として、

 ・バイアスにとらわれてしまう傾向が強い

 ・データベースがない

の二つがあるとのことでした。

前者については、筆跡鑑定士の収入という点にも直結していましたが、

二つの筆跡が「同じである」ことを証明するために筆跡鑑定をしてしまうと。

そうすると「同じである」ための理由付けを無理やり行うことになってしまうわけです。

また、警察組織の内部やそのOBの関係性的に、前の人が「白」なら後の人も「白」にしなければならない風潮があることが述べられていました。

 

後者については、日本語の文字の量も一つの文字に見受けられる判別可能な特徴の量も多すぎるため、

データベースとして記録することが難しいという点でした。

なので個人の経験やケーススタディの蓄積でしか判別ができないということでした。

 

最近だと画像判別や文字班別のAIがかなり発展してきていますが、

この辺りはどうなのでしょうか。

形の判別という点では非常にやりやすくなるだろうとは思いますが、

その背後にある人物の特徴を踏まえて判断するのには、

AIによる違いの発見と、人間による特徴の判断の組み合わせが必要になるのではないかと考えました。

 

 

ここからは個人的な興味の話です。

書いた文字を通してその人の特徴がある程度わかるならば、

(筆跡は個人が現れるものとして、容姿や行動習慣と同じ)

似たような字を書く人は似たような性格だと言えることができるのでしょうか。

字の特徴が現れるのであればYESだと言えそうな気もしていますが、興味深い所です。

 

そして、もう一点、これは個別塾とかこれまでの学生生活の経験則でしかないのですが、女子の字ってだいたいみんな似てきませんか?

似てると思い込んでしまっているだけで、細かい所の判別をしていない可能性が大いにありますが、

人それぞれの好き嫌いがある中でどうしてあそこまで似るんだろうというのは純粋な疑問としてあります。

 

 

以上です!

筆跡鑑定、非常に興味深いですね。

人の字に興味を持てましたし、自分の字を堂々と書いていこうと思いました。

2023年7月9日 in 国立競技場

 

東京ヴェルディvsFC町田ゼルビア の試合観戦に行きました。

私は東京ヴェルディのファンです。

小さいころ居住自治体の小学生無料招待とかでヴェルディの試合に行って、

そしてコロナ明け何となくヴェルディの試合観戦に行って、

小さい頃聞いたチャントだったり、純粋な緑の色が懐かしく、心地よく、温かく、そして熱く、

このチームに情熱を持つようになりました。

 

J2初の国立競技場開催の試合では何となく「誰かと行きたい!」と思い、無料招待チケットに申し込み当選しました。

Jリーグの試合初めてとなるお友達との観戦になったわけです。

「自分から誘っておいて、あんまりな試合だったらどうしよう...」「こんな暑い日に来てくれて、残念な思いをさせたくない...」

などと、誘った者の責任としていろいろ考えてしまっていたのですが、

結果としては「良かった!」です。

 

友達君もヴェルディを応援するよう仕向けていました。

しかし特に試合の前半はヴェルディとしてはかなり苦しい展開になってしまっていて、隣のお友達君がうとうとしていたんです。

「これはまずいなぁ」と思いながらも後半を迎えましたが、

後半は東京ヴェルディ視点で言えば展開も内容も面白く、同点弾が入ったときには二人で叫び盛り上がることができました。

 

試合内容はもちろん会場の雰囲気もよく、特にヴェルディサポーターに近い席に陣取ったので、

この日の、彼らのチームに対する声量・熱量に終始熱い思いを抱き。

そして入場者数は38000人というJ2の試合にしてはかなり多い数字を記録。

あの熱量に触れた中立のサッカーファンが少しでもヴェルディに興味を持ってくれれば良いなと思いました。

 

 

「勝ちたかった」「移籍した某選手の姿を一目でも見てやりたかった」「友達君と写真撮っておけばよかった」

と、いろいろと悔いは残りますが、総じて楽しい国立観戦だったと思います。

 

そして水曜日、青赤さんとの東京ダービーにも、味の素スタジアムに足を運びました。

またこの試合についても感想を書きたいと思います。

人間関係って難しいですよね。

僕が難しいなと思うポイントは案外明確です。

 

僕は友達が多いわけではありません。

「友達いないキャラ」として生きていけるような感じの人間です。

ただ、友達がいらないと思っているわけではなく、

「友達になりたい!」と思う人が結構少ないんですよね。

 

人間は好きで、人のことを観察したり話を聞いたりするのは好きなんですが、

「仲良くなりたい」と思うまでの壁が結構高いイメージです。

 

最近また「もっと仲良くなりたい」と思える人が現れました。

普通に同性の後輩君なんですけど、「嬉しい」という感情を思い起こしてくれるような存在で。

気づいたらすごい長時間話していたり、くだらない話で盛り上がっていたり...

他にも嬉しいポイントがいくつもあるのですが、なんだかすごい心地が良いんですよね。

 

で、ここからが本題で。

人間関係難しいなと思うポイントの話です。

 

僕にとっては「1/1」で仲良くしたい友達だったとしても、

向こうからしたら「1/有象無象」になってしまうんだろなって考えてしまうんですよね。

いやもう考えていること完全にメンヘラみたいな感じですけど(笑)

 

この状況、何かに似ているなぁって思ったら、就活に似ていますよね。

上手く相手の心をつかむために何とか自分をよく表現して、相手に合わせる人間になるしかないのかな、なんて。

 

仲良くありたいという願いを叶え続けるためには、何か自分にしかできない価値を提供する必要があるのではないかと。

先輩後輩という関係上、今それをつなぎとめてくれているのは奢る奢られるの関係性だけのような気がしていて。

いやぁ難しいですね。難しく考えすぎているだけかもしれないですけど。

“友達”として今後も付き合っていくにはどうすればよいのでしょうか。

 

そもそも“友達”という関係性に慣れていないだけなのかもしれないけれど、

そもそも“友達になりたい”と思う人が少なく、その人への愛が強すぎてしまうのがおかしいだけなのかもしれないけれど、

人間関係、難しいなぁ。