日本的ナルシズムの罪 | 地球日記

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日本的ナルシズムの罪(堀 有伸)

 

心理学の立場から見た的確な日本社会分析であり、納得させられることが多かった。個人や家庭の問題に収斂しがちな心理学的概念を駆使し、個人、家庭、日本社会社会を貫く精神の錯誤を描く様は圧巻である。確かに今日本人に求められているのは、○○を取り戻す、に代表されるような、都合の悪い現実を否認する「想像上の一体感」ではなく現実の一体感であり、そのためには想像の一体感の肯定か否定かという二項対立の中に潜む日本的ナルシズムを直視し克服するしかない。

 

『日本的ナルシズムは、あらゆることを曖昧なままに混合させた状態が理想化されています。そして、西洋近代が情緒を低く見て理論を過大に評価する一方で、日本文化はその逆です。どちらにも良い面と悪い面があるものだ、と物事を相対化させるだけではなく、日本文化のマイナス面を「日本的ナルシズム」として抽出し、それと真剣に向き合って思考することが、時代の変革期における精神的危機の乗り越えるために必要です』(P180)

 

問題はこの著者の堀氏である。彼は本書の中で、脱原発派を福島原発事故の放射能による健康被害を過大に喧伝することで否定的一体感を得ようとする輩として、安全神話という日本的ナルシズムに一体化する原発推進派と心理学的には表裏一体の等価であると切り捨てる。そこから彼の論理は微妙にずれてゆき、日本的ナルシズムの克服に向かわずその入り口で停滞する。

 

『想像上の一体感やナルシズムの問題はこのように取り扱われます。それを否定することから始まって、未知の現実や他者に出会うことで修正され、ぐるっと回って元の所に戻ってくる、そのような循環をくり返して生きることです。』(P173)

 

なぜか?

 

文を追っていくと、堀氏自身が抱える想像上の一体感とナルシズムの問題に突き当たる。

 

「このような、想像上の一体感を基盤とした人と人のつながりを尊しとする日本人の精神性は、私の中にも染みついています。それが、震災後に南相馬市で生活することを私に決意ささせた一因であったようにも思います」(P173)

 

堀氏を南相馬という場に誘導した彼の想像上の一体感は、「原発をめぐる曖昧なナルシズム」と題された第七章の次の言葉に結実する。

 

『原発事故の影響を受ける土地に暮らすことは、自分自身にも息づく日本的ナルシズムを修正する機会を与えてくれます。「放射線被ばくは危険か否か」という疑問に観念的な水準で判断しているだけでは、ここでの生活は成り立ちません。

 

実際に自分が生活する場所の空間線量を計測し、必要と判断すれば除染を行い、その上で外部被ばくについて評価する。身の回りにある食品の放射線量を計測し、内部被ばくについてもホールディングカウンターを用いて計測します。「放射性物質」という外部の現実とこのようにかかわる経験を持つことは、精神的には「自我の機能」を高めることにつながるのかもしれません。』(P173)

 

医師として放射能リスクのあることを十分承知し、自分も周囲の人間も危険に身を晒させながら得られるのは

 

「かもしれません」

 

という曖昧な結論。これは、見たくない現実を否認し現状を容認したいがための「堀氏をめぐる曖昧なナルシズム」というべきものだろう。

 

『その「場」につながってさえいれば救済してもらえると考え、集団から独立した個人としての利害、将来への不安は真剣に検討されない』(P22)

 

南相馬という場を共有することによる情緒的結びつきによって、堀氏の抱える想像上の一体感と日本的ナルシズムは守られ、閉じた循環として完成する。

 

堀氏が自らにこのような巧妙極まる心理工作を行うのも、3・11の衝撃により、彼が依拠していた想像上の一体感の中味である医師像と日本社会像の間に亀裂を生じさせ、医師としての自己像が危機に陥ったためであろう。彼の3・11以後の動因は、使い物にならなくなった想像の一体感を復興せしめ、医師という生業を継続するための精神的統合性を保つことにある。堀氏からすれば、日本的ナルシズムを内方しつつ健全な日本的自我を再確立することで福島と日本社会復興に寄与せんがため、医師としての職業倫理をかけたギリギリの選択をしているのだと主張するかもしれないが。

 

いずれにせよ、日本社会にいる限り「想像上の一体感」を乗り越えるのは並大抵ではないことを教えてくれる一冊である。