ひだまり 日常生活 -23ページ目

ひだまり 日常生活

日記を書くことで考えを整理したり、気づいたことを記しています

                

本来、冷静に話すはずの議論が感情的になってしまうのは何故でしょうか。
たとえ発言が客観的な事実であっても語気や前後の文脈に感情が隠れていたり、逆に聞く側が相手の感情を探ろうとする、このようなことも原因ではないかと思います。

話を聞きながら、相手の心境を憶測し、自分の主張も同時に考えることは可能でしょうか。
私にとっては至難の業です。
実際に、発言者の意図や感情を気にしすぎると、話の内容が頭に入ってきません。

相手の感情が気になるのは、自分の意見が酷評されるのを恐れているからかも。その一方で、自分は主張したい、自分は正しい、こういう気持ちが強い。これらにこだわっていると、相手の話を理解する余裕など何処にもないのでしょう。

議論で感情的にならないためには、客観的な視点を維持して内容に集中し、まず自分から相手の話を理解する姿勢が必要ではないかと気づきました。

当然のことのようですが、私はこれが出来ていません。
こうして考えを整理してみると、要領を得ればさほど難しくなさそうです。感情ばかりを気にしすぎてもいけないのですが、相手への思いやりは忘れてはならないのだと思います。








結果を求めて無理に利益を出そうとして逸脱すると、偽装や不正または詐欺などの犯罪行為になり、以前から、このような事件が後を絶ちません。

また、摂取するだけで痩せるというダイエットサプリやお酒を飲んでも大丈夫という触れ込みのものも、結果だけを求めた商品だと思います。

そして、過度な金融政策(金融緩和)も素人目に見て、数字だけを求めすぎているように思えてなりません。
いずれも外圧がかかって、本筋を見失っているかのようです。

一方、実際に結果を出さないとやっていけないことも現実なので、私はこの現実をどうとらえてよいのかわかりません。

結果だけを求める人、結果のみを見て批判する人、結果に翻弄される人・・

そういう私も実際、結果しか見えないときがあり、それだけを見て判断や批判し、結果に一喜一憂したりします。


ただ、最近少し考え直したことがあります。
それは、今までは自分がおこなったことに対して「それ見たことか」と、そしりを受けるのが嫌だったのですが、結果だけを見て批判する人に言われたところで、その批判は検討に値しないなと思うようになりました。


=「模倣と独立」『漱石文明論集』より抜粋=

「・・・その遣方(やりかた)の善し悪しなどは見ないで、唯結果ばかり見て批評をする。それであの人は成功したとか失敗したとかいうけれども、私の成功というのはそういう単純な意味ではない。仮令(たとい)その結果は失敗に終っても、その遣ることが善いことを行い、それが同情に値いし、敬服に値いする観念を起させれば、それは成功である。そういう意味の成功を私は成功といいたい。・・・」


この文章の前には、学校騒動を改革する校長先生の話のほか、親鸞や明治維新(原文では明治改革)を例に挙げ、“その遣ること”は人々が共感し、相応の根拠(根柢)が必要である、このようなことも記されています。


自分が為そうとすることの根拠があやふやで、明確に説明出来ないから批判を恐れてしまうのではないか、今、私はそう考えています。






「模倣と独立」は、漱石が第一高等学校にて学生を対象とした講演です。
終始ほとんど、「模倣」をイミテーション(imitation)、「独立」をインデペンデント(independent)と英語で表現されています。

・人は模倣する ・独立自尊の傾向をもっている
一人の人がどちらも持っているこの両面の分析・洞察が講演の主題です。

この時代(大正二年)では、イミテーションもインデペンデントも両方が大切だと述べられていますが、どちらかというと自分から何かしたいとするインデペンデントのほうが当時の日本の状況からいえば大切であると終盤結ばれています。

※抜粋=p.168~169 「模倣と独立」『漱石文明論集』岩波文庫

クルミの資料に目を通していたとき、ふと食文化が発展した理由は何だろうと考えました。

▽ おいしいもの、珍しいものが食べたいという欲求や道楽心

▽ 風習と合わせて広めよう、土用の丑の鰻のように理由をつけて売り出してやろうという商売根性(商魂)

▽ 生きるために試行錯誤した調理方法や保存の工夫

クルミに関しては最後の理由が当てはまるのではないかと思います。
というのは、資料によるとクルミは栄養価が高く貯蔵性に優れているため、飢饉に備える救荒作物として栽培された経緯があるからです。
北日本に伝わる「くるみ味噌」や「くるみもち」の郷土料理はその名残だそうです。

必要性から生まれたものには、昔の人の思いが込められています。
そして、人々がどうにかして食料にしよう、保存しておこうと工夫されたものには、無意識に伝えるというエネルギーが働いているのかもしれません。

単に特産物を入れた土産物が軽薄に感じられるのは、その成り立ちに違いがあるからでしょう。


私的なことになりますが、商品について考えるときは、お客様の心理や傾向を冷静に観る視点が必要と言われています。
けれども、私はすぐに昔の人が考えたものと同じくらい人の心に働きかけるものをつくってみたい、と思い上がってしまうのです。

これは感情になるのか主観なのか分からないのですが、この気持ちが出た瞬間に考えが現実路線から離れてしまう、そのような気がします。







※16~17世紀のヨーロッパでは身体部分に類似した植物を処方する「象形薬能論」という学説があったそうです。
脳の形に似たクルミは頭部疾患の治療や知能の向上、感情の沈静を期待して使用されていたとのこと。
また、中国でも「似類捕類」といって似たものは似たものを補うとされて、クルミは割り方によっては心臓に似ているので、心臓によいと考えられていました。


自分の住んでいる地域を客観視したくて、先月、私は日帰りで、ある温泉地の視察に出かけました。
環境や交通のアクセスなど双方の特性を認識できて、課題も明確になったので行ってよかったと思っています。

視察したところは近隣に景勝地がないため、そこには旅行者の楽しめる工夫が随所にありました。
展示施設や文化的な催しのほか、足湯の整備にも力が入っていたのです。
これらを見て、私の地域は景勝地の恩恵に頼りすぎて、旅行者に楽しんでもらう姿勢が足りないと感じました。

視察地で気になったのが展示施設や連日開催されるイベント、足湯管理などの費用です。
これらには相当の資金が費やされていると思います。
そして、一定の資金が継続的に供給されなければ維持できません。
私が住んでいる温泉地には、その資金がないのです。






そうなると金銭では為し得ないことに眼を向けなければならないという発想が出てきます。
例えばサービスの向上、情報共有やその的確性、鄙の情緒をアピールしたり、不便さを逆手にとることなどです。
どれもすぐに効果が得られるものではなく、目に見えた分かりやすさもありません。

「このようなことを言っている段階ではない」そう言われれば御尤もです。
実際に観光協会の会費はこの2年ほどで未収金が500万円にもなり、すぐに効果のあるものをと多くの人が考えています。
しかし、資金を費やして目先の効果を得たとしても、広告費用は定期的に必要ですし、展示や催しも資金を投入し続けなければすぐに飽きられてしまいます。


それよりは、ひとの活力(人力)でやっていく方向に焦点を絞って、旅行者の単なる満足感だけではなく、自然の中のささやかな楽しみ、都会と違った価値観や、非日常の体験など精神的なものにシフトしていくほうがよいと思うのです。
それをした段階でメディア戦略やスポンサー企業への交渉を図る、私の勝手な空想ですけど。

「そんなこと言っている場合じゃない、何をするにも資金が必要だ」と嘲笑されればそれまでで、そこで議論は終わってしまいます。


資金(補助金)に頼りたい人が多く、その資金は供給され続けなければならないこと、さらに、人々が分かりやすい満足感やお得感を求めているところに難しさがあるのかなと思います。

そして、金銭では為し得ないことは労力が必要で、さりとてすぐに効果が出ず、誰もがその結果を待ってられないのです。
視察以来、観光地(温泉地)の活路について検討しましたが、私は何度考えても結局、『ひとの活力(人力)』に行き着いてしまいます。











売り上げの低迷が続いて資金繰りに苦慮し、新商品を作ろうにもリスクが伴うので作れない、私はそういう現状にいます。

そうして、知識や技術については、向上したところで現実との差異が生じて葛藤が大きくなるだけと思って、専門書は何年も本棚の奥に仕舞い込んだままになっていました。
この頃、このままでは自分らしさを失ってしまうような気がしたので、あえて時間をつくって専門書を見るようにしています。



以前は、どれが採算が合うかや材料の調達は可能かと“ふるい”にかけて見るだけでしたが、今は製品になった経緯やどのような発想で作られているかという視点で読んでいます。
すると、一見関係のないようなものでも発想や作り方が参考になって、その製品ひとつにとどまらず、考えが広がり応用がきくことがわかりました。




私はフランス料理のレストランでパティシエをしていたとき、そこは、フォンドヴォーでもソースでも徹底して自前で作っているところで、とりわけ忠実に作ることを教えられました。
この経験だけが原因ではないのですが、私には基本に忠実にさえしていれば安心という考えが染み付いています。
改めて考えてみたのですが、基本への忠実さばかりに頼って、自分に自信がなければ独創性の生まれる余地はないなと思いました。




喩えが適切かどうか分かりませんが、僻地だからと医療知識の向上に意欲のない医者には診て貰いたくないし、教えることが同じだからといって研鑽を積まない教師の話は詰まらないと思います。

技術の向上を目指して自信を持った菓子職人が作ったもののほうがお客様に喜んでいただけるような気がして、また、そうでないと独創性のあるものは生まれないのかなと。
ようやく、そのようなことに気が付きました。