ひだまり 日常生活 -22ページ目

ひだまり 日常生活

日記を書くことで考えを整理したり、気づいたことを記しています

                

今になって、不思議と母校の教育理念が心に浮かびます。
それは、自由 愛と奉仕 です。その中でも、私は以前から自由に対して漠然とした問いがあり、それが心の奥に漂っている、そのような感覚です。

先人は、「自由になるのが、自分の思考だけであることを完全に納得しきった※」はずなのに、その思考さえ何かに影響されているのではないかと疑います。考えてみると、社会において自由自体が作り出す問題やその背景を、私はいかほども理解していません。理解せずして社会が抱える窮状に対し、私は疑念を持ち続けているのです。


INITIUM SPIENETIÆ TIMOR DIMINI
 イニティウム・サピエンティアエ・ティモル・ドミニー
  主を畏れることは知恵の初め

これは母校校舎の礎石に刻まれていた言葉です。私は主の概念を明確に把握していないため、この文がしっくりきません。しかし、主という言葉を森羅万象、自然の摂理と置き換えると納得します。

森羅万象、自然の摂理 
これに畏敬の念を抱くことは知恵の初めである


大きな問いには、このような謙虚な姿勢と冷徹な眼、さらに自分以外の視点という助けを借りる必要があると気づきました。なぜなら理解しようとすることは、予想しているよりもはるかに深いところにあると感じるからです。







※引用 縦書き文庫 : 『方法序説』 (40/118)
 http://tb.antiscroll.com/novels/library/2085?p=39








ひとは誰しも、対象となる物や状態にその時の感情が現れた経験があるのではないかと思います。

私は感情が揺れても一定の製品が作れるよう訓練してきたつもりですが、体調や状況などいくつもの条件が重なると思うように仕上がらないことがあり、そんな時つくづく、人間だなぁと感じるのです。

向上心が過ぎると、ある瞬間、欲となり、上手くやってやろうと邪心が生まれてきれいに出来ません。また、効率化ばかり考えると魔が差して横着が出ます。唯ひたすら完成を目指して無心で取り組み、気がつけば完成している、そんな境地が理想ですが、無心から逸脱するとぼんやりしてうっかり混ぜ過ぎたりするのです。

向上心と欲 効率化と横着 無心と放心
面倒な時や逆に気負いが強い時、これらの間にある垣根は低くなり、すぐに超えてしまうような気がします。

この心の微妙な動きにも私は人間らしさを感じるのです。













この夏はいつもよりたくさんの蝶が飛びかっていました。ところで、どうして蝶はひらひらと不規則に飛ぶのでしょうか。天敵の眼を眩ますためや空気抵抗が少ないからと言われていますが、私はよく分かりません。人は分からないことで自分に関わりのないことは判断を下さず、そのままにしておけるのだと思います。

ところが、自分に関わりのあることは分からないままで放っておけず、記憶するために何らかの判断を下しがちで、時には、仮の判断をしてそれを前提とし、考えを発展させたり行動したりする、そのような性質があると思います。そして、ともすれば自分にとって都合の良い判断や精神的負担の少ない思い込みをしてしまうのです。


下の2つは私がかつてした非常に軽率な思い込みです。

この先、景気はある程度下げ止まるだろう
人がやっているから自分も出来るだろう

今思えば何て浅はかと思うのですが、当時(2002年頃)は「失われた10年」ということが語られ、世間にもなんとなく景気の下落が一段落した空気があったように思います。それが「失われた20年」いやそれ以上になるとは。誤りは第一義的に私自身にあるのですが、風潮が予断に影響した可能性が少なからずあったと考えると、人は自分だけで判断しているつもりが、実はいくつもの何らかの外的要因が作用しているような気がします。となると、普段接している事象やメディアなどの情報も予断の要素をなしていると見るのは自然なことではないでしょうか。

予断だけでなく先入観や偏見についても元をたどると、その人が普段何に触れて何を感じて、どのような姿勢で、どう考えているか、人そのものに起因するのではないかと思います。












※最近購入した書籍 
 本文とは直接関係ございません











観光シーズンの8月も残りわずかになりました。

予想していたほど忙しくなかったので、私はお盆の終わりごろに近くの様子を見に行きました。一見するとたくさん車があって、どの旅館も部屋が埋まっている雰囲気でしたが、よく見ると人気で上位の3~4割が満室のようで、その他はそうでもありませんでした。

車が走っているとはいえ、この辺でウロウロというより、一目散に目的地へ向かっている様子です。ネットで情報収集して行きたいところだけ行く、そういう時代の流れなのでしょう。
これからは情報収集の時点で俎上(そじょう)に載せなければ、話にならないのだと思います。

物質としての車は走っていますが、「人の意識が次の目的地に向かっている」観点からすると多くの車が虚像に思えます。つまり、実質の観光客数は想定よりかなり少ない、これが現状なのでしょう。



ところで、現在の経済状況は政策によりなんとか体を成していて、しかも、市場には不安を煽ったり欲求や虚栄心を刺激する不必要な商品が満ち溢れています。経済は虚像の風船みたいです。
一方、政治に関して考えると、仮に非公開の文書や密約など裏の実像を知ることが出来たら、私は腰を抜かして寝込むくらい衝撃を受けると思います。


世間の現状(虚像と実像)を認識する行為は、意識の持ち方とともに精神的なエネルギーが必要なのだと思います。日々に追われていたり、心が不安や悩みで占められていると、そのエネルギーを生み出すことは難しいのかもしれません。

ただ、状況にもよりますけれど、現状を観ずに思い悩むエネルギーも、現状を認識して次へ踏み出すエネルギーも、大差はないのではないか、最近そう思うようになってきました。













「私の日常生活がもたらす真の収穫は、朝と夕べの色あいとおなじように、触れることも言葉であらわすこともできない。 いわば捕らえられた小さな星屑、つかみ取った虹のひとかけらである。」
 
※p.86 『森の生活』下 H.D.ソロー 岩波文庫より引用


H.D.ソローは詩的かつ直観的な洞察力を重視する姿勢で著書を書いているためか、感受性が豊でないと自分の中に入ってこない箇所が多いようです。

もともと私は感受性が強いほうですが、詩的な文章を読んだり音楽を聴くとさらに強くなります。そして、感受性が強いときほど理性が必要なのだと思います。
受け取った感覚や観念から考えを巡らせるときに、正しいか間違っているかを判断するのが理性です。突飛な空想から現実に戻すのも理性の役割だと思います。
ところが、受けた影響が大きいときは、よほど注意を払わないと、それに陶酔してしまって混乱したり勝手な思い込みをしてしまうのです。


これが思い込みでないか自信はありませんが、現実(社会)とは所詮人間が作った世界なので不自然で理不尽な側面がある、そう考えると気が楽になりました。


また、このごろ人智が及ばない自然の偉大さについて考えると不思議な気分になります。
久々にH.D.ソローに触れて、感化されたからかもしれません。










・:,。゚・:,。ショパン 革命 エチュード。゚・:,。・:,。゚・:,。
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<メッセージボード変更>8.28
~美しいものを観て美しいと感じ
    幸せなひとを見て微笑ましく思う
       このような穏やかな心で過ごせたら~

「私の日常生活がもたらす真の収穫は、朝と夕べの色あいとおなじように、触れることも言葉であらわすこともできない。 いわば捕らえられた小さな星屑、つかみ取った虹のひとかけらである。」
 
 ※p.86 『森の生活』下 H.D.ソロー 岩波文庫より引用