ひだまり 日常生活 -21ページ目

ひだまり 日常生活

日記を書くことで考えを整理したり、気づいたことを記しています

                

混乱から逃れてきたその民族は
いくつかの国にまたがって暮らしている。
それを把握するには想像力が必要だった。

ある日、私は政治難民と認定された方を
お祝いする食事会に招待された。

国に帰ると政治犯とみなされ、
死刑になる可能性が証明されたという。

私は素直に祝福できず、心中複雑だった。

政治にうとい私でも体制が覆れば罪ではなくなり、
帰国できることくらい理解できる。

ただ、それがいつになるか分からない。

その日が生きているうちに来るかどうかも。







混乱の渦中にある他国と比べると日本は安定しているように見える。しかし、その船には食料が少なく燃料も乏しい。しかも、その舵を「将来の展望や計画性を欠いた国民」が握って右往左往している、といえなくもない。それなのに私は安定した船に乗っている気分でいる。根拠のない安定を基盤にして生活を描く呑気な無意識と、現実に翻弄される意識との大きな隔たりが葛藤のひとつのようだ。

確かに、この不安定な船が自分の人生の基盤とは受け入れ難い。隔たりを失くす為にも何故世界が今に至ったのか知ろうと思う。歴史の必然では片付けられない何かを、無意識が納得するまで。










抑圧から逃れてきたその国の人々は
田舎に住む祖父母のような懐かしさがあった。

人が元来持っている素の人間味とでもいおうか。
懐かしさに民族の特性、血のようなものを感じた。

これとは別に、その国の人々が独立や戦況、
指導者の話をするときもまた、民族の血であった。
このとき、私が傍観者なのは言うまでもない。

話が始まると、いつ終わるか検討がつかない。
二時間三時間は常で、議論が熱くなり
席を立って帰ってしまう人もいた。

他民族と国境を接していない日本人には理解し得ない
何かがそこにはあった。

   



民族とは共通観念や共通認識のもと、心と心の間で絶え間なく共鳴し、呼応されているもののように思う。それが形となって現れたのが言語や風習、文化ではないだろうか。形ではないが「思考の特徴」は土台に近い。日本人の思考の特徴とは如何なるものか。仮に日本が島国ではなかったら、私はどのような思考と判断をし、どんな人生を送っていただろう。私はこれを書きながら日本の地理的な必然性から生まれた我々の奥にある「危機感の欠如」を危惧している。









私たちはベルヴューでトラムを降りた。
ベルヴューは素晴らしい眺め、とでも訳すべきか。
そこから湖は南に広がっているが端は見えない。

ベンチに腰をおろし行きかう船を眺めていると
ひときわ人影の多い一隻をみつけた。
船上結婚式らしい。

かすかに聞きとれる祝福の声。
そのときの私は希望しか見ていなかった。

「夢は?」

「夢なんて、ないよ」
「祖国が内戦状態で夢なんて持てるわけない」

突如、思考ができなくなった。
その悲惨さと苦悩を私は何度となく聞いていたのだ。

人々は出稼ぎの仕送りがないと生活できず、
街は他民族に支配され、路地を歩くことすら危険を伴う。
交戦参加の直前に自分の写真を全て捨てたのは、
遺された家族がそれを見て悲しまない為である。

これほどの、いや、これ以上の事実を知っておきながら、
これらの事実は単なる情報として私の脳で処理されていた。

相手の立場で考えることはおろか理解さえしていなかった。
悲しげな眼は、そんな私を哀れむ眼だったのだ。
あれから、どれくらいなるだろう。

「心情をおもんばかる」

周囲の人々の心境、状況、背景、立場・・・
私には何がわかっているのだろうか。







~私が知らないことについて無知であることを告白するのを、私は恥としない~ <Marcus Tullius Cicero>

冒頭にキケロの言葉を言い訳がましく挙げたのは、私が「愛」の概念をわかっていないからです。

私たちは幼い頃から「愛」という言葉に親しんできたでしょうか。家庭や学校で聞いたことも喋った覚えもありません。話すと逆に気恥ずかしいくらいです。私は高等学校で初めてこの言葉の観念が入ってきました。入ってきたというより欧米の価値観を教え込まれた、そう表現したほうが正しいかもしれません。以下は「愛」を説明しているとして、しばしば引用される聖書の言葉です。


「愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない。自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。・・」(コリント人への第一の手紙・第13章)


当時、私がこの文章から理解したのは、愛の対象の先には自己(エゴ)はない、利他的なイメージで、今読んでもそれは変わりません。

ところが、男女間の愛は言うに及ばす、敬愛にしても自己が見え隠れします。ご存知の方も多いと思いますが、キリスト教で示す「愛」は私たちが思い浮かべる「慈愛」のようなものです。一方、特定の人への「愛」は「恋」と比較され「愛は与えるもの」などときれいごとを並べたり、あたかも引用した聖書の言葉のように認識されたりします。

けれども、実際のところ、その「愛」は寛容さに欠け、嫉妬をし、いらだち、時には恨むこともあるのです。人は自己中心に知情意する本性があると言われています。理解して欲しい、自分だけを見て欲しい気持ちがあるのは自然ではないでしょうか。それを超人的な理想に仕向けることには無理があると思います。

私は慈愛のような愛と凡庸な愛を同じ言葉として使うということが不可思議でなりません。

凡庸な愛において、対象の先の自己(エゴ)を完全に失くすことは難しいとしても自己が小さい場合があると思います。ひとつは、自分がどう思われようと相手の為に忠言するとき、それと、自分から相手を理解したいときです。この場合、主観的な表現ですが、私は「したう(慕う)」もしくは「いとしい」「いとおしい」が心情をよくあらわしていると思います。

とりわけ「いとしい」「いとおしい」は、くったくのない無邪気な感情だからこそ、純粋に相手を思えるのかなと。




※投稿時「敬愛にしても」の後に「愛国心にしても」と記述しておりましたが、命を賭した方々に失礼にあたると感じて削除いたしました。





正直なところ、私は今まで奉仕活動に参加した経験がほとんどありません。それゆえ奉仕に対してどことなく後ろめたい気持ちがあります。


「奉仕」「ボランティア」 人によって言葉の持つイメージは微妙に違うと思いますが、私は個人的に、どちらも自主的な印象を持っています。ただ、「奉仕活動」となると自主性が抑えられる感じです。


宗教的に使われる「奉仕」の場合は、活動の方向が最終的に神へと向いているのだそうです。一方、災害や疾病などでの助け合い精神は、その方向が社会に向けられています。人が望んでいるのは秩序ある健全な社会だと思うのですが、何をもって健全というのかが人によって異なり、かくあるべき社会を具体的に突き詰めると思想や主義になる、そこが難しい点なのだと思います。


個々の心に描く社会があって、
それを実現しようとする見返りを求めない行為。

それが広い意味で社会奉仕だとすると、見過ごされがちな僅かなことも奉仕に変わりない、そういう気がしてなりません。