Amazonで、ワイザーズというメーカーの商品を注文しました。

メーカー直送の封筒デザインに、思わずスマイル(・∀・)

 

 

サイコロの展開図になってる。

面白いアイデアやね、誰が考えたんだろう?

こういう遊び心のあるものは大好きですヾ(*´∀`)ノ

 

サイコロ展開図の脇にはこんなメッセージが……

 

切って、貼って、創りましょう。

 

メーカーの遊び心にリスペクトして、さっそくサイコロを作ってみました。

重量が軽すぎて、うまく転がりませんでしたが、

オブジェとして飾っておくにはカワイイです。

 

 

六面サイコロにはそれぞれ、心がほっこりするメッセージが書かれています。

 

・ EXPECT A MIRACLE  (ミラクルを期待しよう)

 

・ DO SOMETHING NEW  (新しいことをしよう)

 

・ CELEBRATE EVERY MOMENT  (あらゆる瞬間を祝福しよう)

 

・ WEAR A SMILE  (笑顔でいよう)

 

・ CALL A FRIEND  (友だちに電話しよう)

 

・ MAKE A DIFFERENCE  (違いをつけてみよう

 

私が特にひかれたのは、WEAR A SMILE (笑顔でいよう) です。

スマイルを MAKE(作る)や FAKE(フェイク、偽装) するんじゃなくて、

WEAR(身に着ける) なんだなって。

なんだか、とても心が軽くなりました。

 

今回は、WEAR A SMILE で連想した聖書個所をてきとうに見ていきたいと思います。

 

 【今回のもくじ】

 

 ・ スマイルを偽装して、ビョーキになる

 ・ スマイルを捏造して、詐欺師になる
 ・ スマイルは……身に着く? 身に着ける?
 ・ 自然に身に着くまで待てばいい

 

 

■ スマイルを偽装して、ビョーキになる

 

私は、「いつも笑顔でいましょう」という類の標語が嫌いなんです。

嘘の作り笑いを強要されてる感があるから。

心を無理やり抑えつけて、辛いことなんかないふりをして、

空虚なスマイルを浮かべる日々を送ると、かならず心がビョーキになります。


電車を待っていて順番抜かしをされたとか、そういう程度のことなら、

いちいち心を乱さないで、スマイルでやりすごすのがいいと思います。

 

でも、魂が弱っているとき、心が血を流しているようなときに、

無理にスマイルを作り続けることはまったく推奨できませんね。

 
泣きたいときには泣いた方がいい。

腹立たしいときにはちゃんと怒った方がいい。

それを表現するTPO(時、場所、状況)は選ぶべきですが。

自分の部屋で一人で、神様相手に大泣きしたり、怒鳴ったりしていいのです。

 (参考) 【詩編58編】 ナメクジは溶け、黄金は永遠に輝く … 苦悩の谷底でエウレカ!

 

健全な手段でガス抜きをするのは大事。

どうしても笑顔になんかなれないネガティブな自分を受け入れるのも大事。

そういう自分の何かを抑えつけてしまうと、

それが心の中でどんどん腐敗して、心がビョーキになる。

 

ところが、新約聖書のパウロ書簡(使徒パウロが書いた手紙シリーズ)には、

キリスト信徒の作り笑いを強要するのに便利な箇所があります。

 

 いつも喜んでいなさい。
 絶えず祈りなさい。
 どんなことにも感謝しなさい。

 これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。

 

 ――新約聖書 『テサロニケの信徒への手紙 一』 5章16-18節

 

パウロの手紙の文脈を無視して、この部分だけをピックアップしてしまうと、

いつも嘘くさいスマイルを浮かべたクリスチャンが量産されることになります。

 

パウロの手紙は命令形が多いです。

 

いつも喜んでいなさい、祈りなさい、感謝しなさい、

愛しあいなさい、寛容でいなさい、赦しなさい、

力いっぱい献金しなさい、働かざる者食うべからず、

女は教会では黙っていなさい、女教師は認めません、女のオシャレは禁止……

 

命令に命令、規則に規則。

パウロ書簡は聖句テロリスト御用達の文書です。

(※聖句テロリスト = 聖書の言葉で人を追いつめて苦しめるキリスト信者)

 

パウロの言葉を偏重すると、キリスト教が「スマイル強要教」になっていきます。

これがカルト化すると、どの信者もみんな同じ表情(うつろな笑顔)になります……
 

 

もちろんこれは神の御心ではありません。

私の考えでは、キリスト教はスマイル強要教ではなく、

「スマイル仮面を捨てる教」です。

 

スマイルになれないみじめな自分を直視して、

キリエ・エレイソン(主よ、あわれみたまえ)と神に祈る。

そうすると、スマイルになれない自分をも、神は愛してくれているという実感がわいてきます。

神に愛されているという安心感があれば、自然にスマイルになれるでしょう。

 

WEAR A SMILE は、直訳すれば「スマイルを着る」ですが、

言葉のニュアンスとしては、「スマイルが身に着いている」という感じです。

スマイル仮面を顔に着けるのではなく、

心のスマイル状態が顔に表れている感じ。

無理な作り笑顔のことではないです。

 

WEAR には「疲れ果てる、ボロボロになるまで着つぶす」という意味もあります。

WEAR A SMILE は、「スマイルを使い果たしてボロボロに疲れる」と翻訳できなくもない。

スマイル仮面の着用頻度に比例して、仮面の傷みも早くなる。

最後には仮面が壊れて、もはや作り笑いすらできないほどに魂が疲弊する。

うつ病はそういう状態なのだと思います。

 

心からスマイルになれない何かがあるなら、

それらを一つ一つ、神様の前に明らかにして、

神様といっしょにそれらを昇華あるいは浄化していくことが大事。

人為的なスマイルは、臭いものにふたをしているだけですから、何の解決にもなりませんね。

 (参考) 【サムエル記上16:7】人は外観を見、主は心を見る。… データを見ても人の実情は見えない

 

心優しい人は、他者に心配をかけまいとして、偽スマイルを作ることがあるでしょう。

でも、「いつも喜んでいなければ! 相手に気を使わせないようにしなければ!」

と考えて、スマイル仮面をかぶりつづけていると、

名無しのレギオンという悪霊に憑依されて、霊的な命を失うことにもなります。

 (参考) 【マルコ5章】レギオン(みんな)という悪霊からの解放 … 人に飼われる社畜は、神に養われる羊に

 

新約聖書を神の言葉として読むなら、パウロの手紙シリーズは後回しでいいです。

なによりも福音書のイエスの言動に注目すべきです。

 

イエスは十字架にかかるとき、喜んではいませんでした。

十字架刑の前夜には、弟子の前で悲しみに震えながら、

「できれば十字架を回避してほしい」と父なる神に祈っていました。

十字架上で息絶えるときにも、

「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」

と叫んでいました。

イエスは最後まで己の弱さに正直でした。

 (参考) 人間に弱味をさらけ出すキリスト … 心の痛みで震えるも、軸は不動。

 

日常の中で、ちょっと気持ちが落ち込んだ程度なら、

「いつも喜んでいなさい……」というパウロの言葉はプラスに働くでしょう。

でも、この言葉の使い方を間違えると、

人の魂にとどめをさす無慈悲な聖句テロリストになってしまうから要注意です。

聖句テロにやられそうなときは、イエス(の言葉)にすがりつくのが正解。

 

■ スマイルを捏造して、詐欺師になる
 
世の中には、あからさまな悪意でもって、スマイルを捏造する人もいます。
自己保身のためにネコをかぶる程度のものから、
本格的な詐欺まで、捏造レベルはいろいろですが。
 
もちろん、スマイル捏造も神の御心ではありません。
WEAR A SMILE は、スマイルを捏造しようという意味ではありません。
イエスはスマイルを捏造する人を警戒せよと語っています。
 
 偽預言者を警戒しなさい。
 彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、
 その内側は貪欲な狼である。
 あなたがたは、その実で彼らを見分ける。
 茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。
 すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。
 
 ――新約聖書 『マタイによる福音書』 7章15-17節
 
「羊の皮をかぶった狼」の出典はここなんですね。
相手を騙してやろうという悪意の大きさに比例して、
笑顔も大げさになり、おべんちゃらの回数も増えますね。
 
詐欺師は、優しい言葉と態度で相手を信用させて、騙します。
詐欺師はスマイル捏造の達人でしょう。
詐欺師でなくても、日常の社交辞令なども、
場合によってはスマイル捏造カテゴリーに含めていいと思います。
 
私自身も、2,3年前まで、無意識に社交辞令を言い重ねていた部分があって、
そこを神様から徹底的に叩かれました。
当初は、「何がダメなの、これぐらいのことはみんなやってるじゃないか」と思いましたが、
「みんな」がそうやっていようとも、やっぱりダメなものはダメなのですね。

 

旧約聖書の預言者エレミヤの時代には、
偽預言者がしばしばエレミヤの邪魔をしたようです。
 
偽預言者って、なんかすごく腹黒い悪人のように思えますね。
でも、エレミヤの邪魔をした偽預言者たちは、
暗い世相を明るくしたいというヒューマニズムが動機で、
楽観的な偽預言をくりかえしていたようです。
大衆受けのする預言をすることで、人気者になりたいというエゴもあったでしょうが、
現代人の感覚からすれば、「悪人」とか「詐欺師」というほどの悪意は感じられません。
 
でも、うすっぺらいヒューマニズムを動機としている偽預言者は、
神の真実を妨げているわけですから、神の目には完全にアウトなんですね。
神はエレミヤを通してこう語っています。
 
 見よ、わたしは自分の舌先だけで、
 その言葉を「託宣」と称する預言者たちに立ち向かう、と主は言われる。
 見よ、わたしは偽りの夢を預言する者たちに立ち向かう、と主は言われる。
 彼らは、それを解き明かして、偽りと気まぐれをもってわが民を迷わせた。
 わたしは、彼らを遣わしたことも、彼らに命じたこともない。
 彼らはこの民に何の益ももたらさない、と主は言われる。
 
 ――旧約聖書 『エレミヤ書』 23章31、32節
 
また、エレミヤの前に立ちはだかった偽預言者ハナンヤに対しては、
こう告げています。
 
 更に、預言者エレミヤは、預言者ハナンヤに言った。
 「ハナンヤよ、よく聞け。
 主はお前を遣わされていない。
 お前はこの民を安心させようとしているが、それは偽りだ。
 それゆえ、主はこう言われる。
 『わたしはお前を地の面から追い払う』と。
 お前は今年のうちに死ぬ。
 主に逆らって語ったからだ。
 預言者ハナンヤは、その年の七月に死んだ。
 
 ――『エレミヤ書』 27章15-17節
 
国が滅亡するかもしれないぐらいに疲弊している社会状況において。
偽預言者ハナンヤは、人々の暗い顔をスマイルにしたかったのでしょう。
現代でいうポジティブシンキング、イメージングの類ですね。
心が明るくなるイメージを描き続けることでその現実が引き寄せられてくる……云々。
 
でも、国が疲弊している原因……悪事の横行から目をそらして、
平和がないのに「平和、平和」などというのは、
民を惑わして滅亡を加速させているだけなんですよね。
それで偽預言者ハナンヤは、神から排除されてしまいました。
 
エレミヤは、ダメなものはダメだとはっきり言いきります。
悪から離れて、神の道に立ち返れ、さもなくばユダヤ王国は滅亡するぞと。
 
しかし偽預言者は、あと2,3年すればユダヤ王国を攻める敵はいなくなる等、
神の御心とは無関係の、人間的希望を「神の言葉」と称して語る。
きっとそれで喜んで笑顔になる人が少なからずいたのでしょう。
でも、根拠のないポジティブメッセージで人々をぬか喜びさせるというのは、
ぱっと見イイコトしているように見えるだけに、悪意の詐欺より始末が悪い。
 
わざわざ悪意の詐欺をしてやろうと計画する人は、ごく少数だと思います。
でも、良かれと思って、その場しのぎのスマイルを捏造してしまう危険は、
誰にでもあると思います。

安易なヒューマニズムの罠には、私もよくよく気を付けたいと思います。

 

■ スマイルは……身に着く? 身に着ける?

 

ところで、「いつも喜んでいなさい……」と語ったパウロの言葉は、こう続いていきます。

 

 いつも喜んでいなさい。
 絶えず祈りなさい。
 どんなことにも感謝しなさい。

 これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。

 

 ……どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。

 また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、

 わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、

 非のうちどころのないものとしてくださいますように。
 あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。

 

 ――新約聖書 『テサロニケの信徒への手紙一』 5章16-18、23、24節

 

パウロが言いたいのは、こういうことなんですね。

 

 × 自力でメンタルを鍛えて、いつも喜んでいられる者でありなさい。

 

 ◎ いつも神と共にある喜びに満ちていられるようにと祈りなさい。

   キリストがあなたがたを招いたのだから、必ずその祈りはきかれます

 

パウロの手紙は全体的に命令形が多いです。

キリスト教が理屈っぽい「ねばならない教」になってしまうのは、

イエス・キリストの福音をさしおいて、パウロ崇拝をしてしまうからです。

 

しかしパウロの意図はそうではありません。

「しなさい/してはいけません」という命令を、

人間的な努力でがんばって守れと言っているのではないです。

(そう言っているように聞こえる箇所が多いのだけれども)

 

イエスを神の御子キリストと信じて魂が救われた者は、

キリストの聖霊がその人の内に宿ります。

聖霊が宿っているのであれば、その人の思考・行動内容は、

徐々に聖霊の望む方向と変えられてゆきます。

これは新陳代謝みたいな感じで、徐々に変えられてゆくのが基本です。

 (参考) 人間の身体は聖霊の宮 … 土の器に命の息を宿す者、神と共にある生き方、人間生活の基礎

 

聖霊によって内側から徐々に変えられていった結果、

パウロの手紙で「あれをしろ、これをしろ……」と言われていることも、

特別に意識しなくても、それが自明のこととしてできるようになっていきます。

自然に「身に着く」のです。

 

そのことを、パウロは『コロサイ人への手紙』で、

「古い人を脱いで、新しい人を着る」というユニークな表現で語っています。

 

 互いにうそをついてはなりません。

 古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、
 造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、

 日々新たにされて、真の知識に達するのです。

 

 そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、

 未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。

 キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。

 

 あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、

 憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。 

 

 ――新約聖書 『コロサイの信徒への手紙』 3章9-12節

 

人間的な努力で、古い自分を脱ぎ捨てて、

キリストに倣う自分という着ぐるみを着るのではありません。

それだとスマイルの偽装者、羊の皮を着るオオカミと同じです。

 

コロサイ3章の前後の文脈から判断すると、

パウロが伝えたいのは、これだと思います。

 

 「キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。」

 

キリストがすべてであり、キリストがすべてのものの内におられるゆえに、

私たちは、日々にキリストの聖霊によって内側から新たな人に作りかえられ、

その結果として、神の性質(憐みの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容etc)が身に着いてゆく。

 

この個所でも、パウロはまた「憐みの心……を身に着けなさい」と命令していますが。

たぶん「身に着ける」という表現はパウロの個人的な口癖なんだろうと思います。

他のパウロ書簡でも、キリストを着る、正義を身に着ける、武装する……

という他動詞表現が見られます(原文のギリシア語がどうなっているかは知りませんが)。

 

本来なら、神の性質が「身に着く」という自動詞で表現するべきことだと思います。

神の性質が内側からにじみ出てくるというイメージです。

 

しかしパウロが多用する「身に着ける」系の他動詞だと、人間が主語になる。

「努力してキリストの性質を身に着けよう。まずは表面的な形から入ればいいのだな」

という印象を与えてしまいますね。

そして表面的にがんばってキリストの真似をしようとして、挫折してしまう。

いつでも喜んでいる自分でいようとして、無理なスマイルを捏造してしまう。

まじめに神を求めている人ほど、その罠にはまりやすいでしょう。

 

実は、かくいう私自身が、パウロ書簡の罠にはまってひどく苦しんだことがあります。

私が自分の本心を抑えて、社交辞令を多用するようになった原因の一つでもあります。

しかし神は、私が心にもない社交辞令をやめるようにと、徹底的に叩いてきた。

 

いまだにその件が腹立たしくて、私はしばしば神に文句を言います。

「だったらどうして私を止めてくれなかったんだ、

 どうして正しい導き手をよこしてくれなかったんだ」と。

それに対する神の答えは?

 

「あなたを導くには、正解を教えるより、間違いを実体験させた方が確実だから」。

 

ガッデム、ガッデム!!!!

 

ともかくそういうわけで私は、キリスト教に興味のある人には、パウロ書簡よりも、

四福音書のイエスの言葉を何度も読む方がぜったいに有益だと力説しています。

 (参考) 聖書には人間的エラーも含まれている … 権威を鵜呑みにしてはならない。

 

パウロは素晴らしいことを語っているのですが、いかんせん話し方が下手です。

パウロを崇敬する宗教家が何と言おうと、パウロの話し方は下手です。

 

実はパウロの存命中から、

パウロの手紙は少なからぬ人々に誤解を与えていたようです。

イエスの一番弟子にして、元漁師だったペテロがこう書いています。

 

 だから、愛する人たち、

 このことを待ち望みながら、きずや汚れが何一つなく、

 平和に過ごしていると神に認めていただけるように励みなさい。
 また、わたしたちの主の忍耐深さを、救いと考えなさい。

 

 それは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、

 神から授かった知恵に基づいて、あなたがたに書き送ったことでもあります。
 彼は、どの手紙の中でもこのことについて述べています。

 その手紙には難しく理解しにくい個所があって、

 無学な人や心の定まらない人は、それを聖書のほかの部分と同様に曲解し、

 自分の滅びを招いています。

 

 ――新約聖書 『ペトロの手紙 二』 3章14-16節

 

元漁師のペテロやヨハネの手紙は、普通にわかりやすい内容なんだけどね。

ユダヤ教エリートで高学歴なパウロの手紙は、頭が良すぎてわかりにくい(笑)

あげく、「難解なパウロ書簡を論じてる俺ってカッケー」

って感じのキリスト教神学が発展していきます。

(私にはキリスト教神学が、どうしてもそういう風にしか見えない。)

 

で、笑い事ではなく、パウロの手紙を読みすぎると、

イエス・キリストの福音がどっかにいってしまって、

あれをしろ/やめろという命令尽くしの聖句テロリストになってしまう危険があります。

注意が必要です。

 

■ 自然に身に着くまで待てばいい

 

神の性質も、スマイルも、即席で身に着けるようなものではないですね。

どんなに素晴らしいものでも、

無理に「身に着ける」と、必ずどこかにひずみがあらわれます。

 

旧約聖書で、少年ダビデが巨人ゴリアテと一騎打ちをする場面があります。

一騎打ちにあたって、サウル王は、立派な武具一式をダビデに着せます。

しかしダビデは、王様の武具を身に着けて歩いてみたものの……

 

 「こんなものを着たのでは、歩くこともできません。

 慣れていませんから」  (サムエル記上 17章39節)

 

と言って、王様の武具を全部脱いでしまいます。

結局、ダビデの普段着(羊飼いの服)でゴリアテとの一騎打ちにのぞみ、勝利します。

もしダビデが、王様の立派な装備一式で戦っていたら、ゴリアテに負けたでしょう。

 

 

ある人にはぴったりフィットの素晴らしい装備(性質、習慣など)でも、

自分にはサイズが合わない、着慣れていない、動きづらいのであれば、

着るべきではないですね。

もし今そういうものを身に着けているなら、さっさと脱いで身軽になってください。

 

そして、裸の自分を神様に採寸してもらえばよいのです。

そうすれば、神様はその人にいちばん合ってるものを選んで着せてくれるでしょう。

 

アダムとエバがエデンの園から追放された際、神は二人に皮の衣を着せています。

イチジクの葉で不細工な服を自作しなくても、

「裸では恥ずかしいから何か着せてください」と神に頼めばよかったわけです。

 (参考) 生命の樹への道であるキリスト … 受けいれる(QBL・カバラ)/信じる(AMN・アーメン)

 

そして、WEAR A SMILE ……スマイルを身に着けたいなら、

 

「いつも喜びに満ちた私でいられますように、

 神様、私のスネた心をなんとかしてください、私を支えてください、導いてください。」

 

という感じのシンプルな祈りを毎日祈ってみる。

そうしているうちに、いつでも神さまに愛されているという安心感(平安)が強まり、

平安ベースの自然なスマイル状態が「身に着く」のが理想だなと思います。

 

 

 

 

※ 記事中の聖句引用元/日本聖書協会『新共同訳聖書』または『口語訳聖書』
 
※ イエスキリストの純粋な福音を知りたい人には、
 『キリスト教放送局 FEBC』をお勧めします。
 
■ 「神と聖書と日ユ同祖論」 記事一覧&リンク →こちら
 
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