雨のあとに虹 その110
「この店は空いているかな?」
俊之は言うとちょうど屋台が立ち並ぶにぎやかな場所で足を止めてみた。
「混んでいるみたい。」
久美子は言いながら周囲を見た。
「いらっしゃい。」
と言って茶髪に耳ピアスをしたラーメン屋の若い男が愛想よく手招きをした。
「ふたりです。」
俊之が言うと
「大丈夫ですよ。」
と若い男が言った。
「混んでいるみたいですね。」
久美子が言うと
「隣のゾーンが空いていますよ。」
若い男が優しく言った。俊之が見ると隣のゾーンは死角になっているために誰も座っていなかった。
「これはタイミングがよかったね。」
俊之が言って席に座った。久美子も座りながら
「貸切りみたいに空いているね。」
と言って微笑んだ。久美子はにぎやかな隣のゾーンと違って静かなゾーンで俊之とふたりきりになったのを喜んでいたのだ。
「お客様。」
男が言った。
「はい。」
俊之が言うと
「今日は特別にチャーシュー麺が100円引きですよ。」
言いながら男がメニューを見せた。
「何処へ行っていたのだ。」
純一は言った。純一は自分中心に物事が動かないと気がすまない性格であった。生まれながらの我がままは治りそうもなかった。
「絵馬を見ていただけよ。」
千晴はそんな純一には少し反抗的になって言った。
「ふたりとも今日だけは自分を抑えたらどうなの?」
静江はあきれたように言った。最近では静江自身が純一には失望していた。高校の同級生だった純一とは在学中に付き合い始めた。静江も純一もお互いが初恋であった。高校を卒業したあとは純一は東部農業大学に入学して静江は関東アカデミア短期大学に入学した。そのあとも順調に交際を続けて25歳でふたりは結婚していた。大学卒業後は家業である石井園を継いだ純一はアルバイト経験もなく社会人としても適性に欠けていた。静江に男を見る目がなかったと言えばそれまでである。純一には可哀想であるが世間知らずで苦労をした事がない純一と世界規模で事業を展開していた三友ゴム工業に入社した静江とは大きく違っていた。考えの溝を埋める事が出来なかったのも仕方がない事である。純一のわがままな性格は今後も変わらないはずである。静江は今まで会社で様々な人を見てきていた。それだから解る事もたくさんあった。日本という立場で世界を相手にする三友ゴム工業にいた静江にとって造園業の7代目で向こう三軒両隣だけが世間という感覚の純一が理解出来なかったのである。せめてアルバイトの経験でもあれば人間としての優しさや思いやりの心も持てていたと思えるのであった。
「ごちそうさま。」
久美子は箸をおいて言った。
「量が多いから食べきれないほどだね。」
俊之はやっと食べ終えて言った。ふたりがいるゾーンにはお客は来なかった俊之も久美子も静かに食事をしながら自然の中に溶け込んだこの場所でゆっくり寛ぐことができた。
「ここだけを見たら自然がきれいで東京とは思えないですね。」
久美子が言うと
「そうだね。」
俊之は言った。
「またここに来たいね。」
久美子が言うと
「この自然をいつまでも残してほしいものだね。」
と俊之は自分の思いを言ったのである。
雨のあとに虹 その109
「それ!」
俊之は言って賽銭を投げた。
「入ったね。」
久美子は言っては賽銭が箱に入るのを目で追っていた。ふたりは目を瞑って手を合わせると夫婦にも見えるのだった。ここは都内有数の神社である。例年の初詣客は常に日本一であった。その混雑の中でふたりは新年を特別な雰囲気を肌で感じていた。遊園地で新年を向かえて朝までアトラクションを楽しみながら時間を過ごしふたりは夜明けの珈琲を飲んでからここに来たのである。
「凄い混雑だね。」
俊之は言って行列の中で周囲を見回した。
「混んでいるけど楽しいですよ。」
久美子は言った。
「お正月はいくつになっても楽しいからね。」
俊之が言うと久美子は
「俊さんは何をお願いしたの?」
と言った。
「去年より今年が良い年になるようにね。」
俊之は言った。
「それが一番良いですよ。」
久美子は言った。
「久美ちゃんは何をお願いしたの?」
俊之が言うと
「それは内緒ですよ。」
久美子はおどけて言った。
「それはずるいよ。」
と俊之が言うが
「ずるくないですよ。」
と久美子も言った。心穏やかな時間がふたりを包み込むように流れていた。俊之は行列から少しはずれて横道へ行くと
「こちらの道が空いているよ。」
と言った。久美子はなんとなく気が進まなかったので
「その道は止めましょうよ。」
と言った。特に理由はなかったが霊感のようなものを久美子が感じたためであった。
「この道を歩いた方がいいかい?」
俊之は言った。
「もう少し人混みを歩いてみたいの。」
久美子が言った。
「それも良いね。」
俊之は言って道をまっすぐに歩こうとすると久美子が
「そろそろお腹が空きませんか?」
と言った。
「そういえば空いてきたね。」
俊之は言った。
「せっかくだから何か食べて行きましょうよ。」
久美子が言うと
「何か食べたいものはある?」
俊之は言った。
「ラーメン屋さんに入ってみたいです。」
久美子は言った。久美子は以前からこういうところで食事がしたかったのである。ふたりが歩き出してすぐに俊之が行こうとしたわき道から千晴が歩いて来た。千晴の後ろには俊之の妹である静江と夫の純一も一緒であった。もう少しで俊之と顔を合わせるところだったのだ。
「どうしてあの道を通りたくなかったの?」
俊之は言った。
「少し嫌な予感がしたからです。」
久美子は言った。
「嫌な予感?」
俊之は言って首を傾げた。
「何となく女の感ですよ。」
久美子は言った。
「あれ!」
千晴は少し歩いてから後ろを降り向いて言った。
「どうしたの?」
静江が言うと千晴は
「ちょっとね。」
と言った。
「どうかしたのか?」
純一が言うと
「何でもないよ。」
千晴は言った。千晴は純一も静江も置いて今来た道とは方角の道を足早に歩いて行った。俊之のか顔を見たような気がしたのだった。俊之の横には自分とそんなに年が離れていない若い女性が一緒に歩いていた。
「おじさんを見直したよ。」
千晴はそう言うと今来た道を戻って行った。
雨のあとに虹 その108
初日の出が東の空から少しずつ顔を出してきた。水平線から差し込む光が神々しくさえ見えている。その光が射す方向から飛んで来た飛行機はロンドンのヒースロー空港から新東京国際空港への直行便であった。飛行機は空港に接近して水平飛行から着陸態勢にはいった。日本が誇る2代航空会社のひとつが所有して運営するジャンボジェット機である。事故が少なく経営も健全なこの日本広域空輸は国内便の安全と高品質なサービスには定評があり国際便も同じクオリティを維持していた。定刻より5分ほど遅れてA滑走路に着陸した飛行機には神々しいまでの威厳と余裕があった。お正月のサービスに追われる空港職員はとても忙しくしていた。到着ロビーに乗客が降りて来ると一段とにぎやかになるのだ。30代半ばの春香はその中でも気品に満ちていた。身のこなしなどから高い教養も窺われて周囲の人間とは違う雰囲気を持っていた。横には夫の大介が居るが春香の影に霞んで見えるほどであった。
「失礼しました。」
春香は言った。前を歩く人に接触しそうになったのである。きちんとした言葉を返す教養を身につけた春香は日本の土を踏むのはこの春が来れば3年ぶりであった。
「長いフライトに疲れなかったかい?」
大介は優しい言葉を言ったが春香は
「これくらい大丈夫よ。」
と言った。
「入国手続きは向こうだよ。」
大介は言うと
「帰って来たのね。」
春香は言った。ふたりは所定の手続きを済ませて大きなカートを引きながら空港の外に出て行った。外には50歳を少しばかり過ぎた紳士が高級車を止めて春香を待っていたのである。
「春香さん。」
男は言った。
「田中さん」
春香が言うと田中進は
「お帰りなさい。」
と言って深々と頭を下げた。春香は
「お正月なのにごめんなさいね。」
と言って労いの言葉をかけるのを忘れなかった。
「ありがとう。」
大介も田中に言った。
「とんでもありません。」
田中は言った。
「3年ぶりね。」
春香は懐かしそうに田中を見て言った。田中進は3年ぶりに見る春香が一段と成長している事をすぐに理解した。
「大介さんもお車へどうぞ。」
田中は言った。荷物を入れてから春香と大介は高級車にゆっくりと乗り込んでいた。田中が運転する高級車は静かに走り出してスピードを上げていった。高速に入り空港から遠ざかると少しずつ都心に近づいてくるのが解った。春香は少しだけ窓を開けて久しぶりに日本の空気を吸込んでいた。
「懐かしい。」
春香が言うと
「3年ぶりの日本だからね。」
大介が言った。何とも形容できない懐かしさがあり春香は嬉しかった。
「気が済むまで空気を吸ってください。」
田中は言った。春香は目を閉じて空気を吸い込んでいたがおもむろに携帯を取り出して耳にあてた。呼び出し音がしてすぐに相手が出た。
「笹川さん。」
春香は言うと
「春香さん!」
翔太は言った。
「お正月なのにごめんなさいね。」
春香が言うと
「気にしないでください。」
翔太は言った。
「予定通りでしたね。」
翔太が言うと
「飛行機が遅れなくてよかったわ。」
春香が言った。
「ご帰国を待っていましたよ。」
翔太が言うと
「落着いたら早めに会いましょう。」
春香が言った。
「なるべく早く会いたいですね。」
翔太が言うと
「私も笹川さんに早く会いたいわ。」
春香が言った。
「積もる話もあります。」
翔太は言った。
「高村さんにも早く会いたいわね。」
春香は言いながら全身からエネルギーが出て来るのを感じていた。電話を切った翔太はすぐに関口に電話をかけた。
「いよいよ本格的に力を借りる時が来るぞ。」
翔太が言うと
「任せてください。」
関口は言った。翔太は春香の帰国が誰よりも待ち遠しかったのであった。