花緒no心理学ブログ

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ものの見方転換アドバイザー、心理カウンセラー花緒の、昔話分析
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こんにちは!ものの見方転換アドバイザー・花緒です!
今日もご覧くださいまして、ありがとうございます(*^^*)
 
さて今日は十和田湖に伝わる「三湖伝説」のパート4でございます!

龍になってしまった八郎太郎と辰子、そして南祖坊のお話をご紹介してきましたが、いよいよこの三人が出会います。
 

ざっくりストーリー
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南祖坊との戦いに敗れて十和田湖を追い出された八郎太郎は、逃げた先で湖を作り、そこに住まうようになりました。それはとても広い湖で、のちに八郎潟と呼ばれるようになります。
 
ある日男鹿半島にある一の目潟に、美しい女神が住んでいるという話をききました。なんでもその女神が住んでいる一の目潟は、冬でも凍らないそうな。
 
八郎太郎は早速一の目潟に出向き、女神に「惚れた!一緒に住もう」と持ち掛けます。ところが男鹿真山神社の神主である武内弥五郎という男に矢で射られ、片目を負傷して逃げかえります。
 
そんなころ、八郎潟に飛来する渡り鳥から、田沢湖に辰子という大変美しい龍が住みついた、という噂を聞きました。辰子を一目見た八郎太郎は、すっかり辰子に心を奪われてしまいました。
 
最愛の母と離れ離れになり、龍に変化するという身の上に消沈していた辰子も、八郎太郎のそんな気持ちを受け入れ、ふたりは田沢湖で半同棲状態になります。
 
そんなある日、八郎太郎が出かけたすきに、南祖坊が田沢湖を訪れました。南祖坊もまた、辰子の噂を聞いたのです。そして辰子に一目ぼれしてしまいました。南祖坊は彼女を一生懸命口説こうとしました。
 
ところがそこへ、八郎太郎が帰ってきます。ただでさえ一度住みかを追い出された憎い相手なのに、なんと自分が妻と決めた辰子を口説こうとは・・・!!
 
八郎太郎は怒り、南祖坊と再び激しい戦いとなりました。
 
南祖坊は強く、八郎太郎は劣勢でしたが、それを見て取った辰子は田沢湖からクニマス(辰子の母が辰子との別れの際に放った松明が変化した魚。パート3参照)を捕まえて南祖坊に向かって投げつけました。するとクニマスは松明に戻り、赤く燃えた松明で南祖坊は大やけどを負って、退却を余儀なくされました。

ふたりは力を合わせて、勝利を得たのです。
 
その後、八郎太郎と辰子は田沢湖で末永く暮らしましたとさ。
 
主がめったに戻ってこなくなった八郎潟は徐々に浅くなり、逆に主がふたりになった田沢湖はどんどん深くなったということです。
 
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八郎太郎・・・けっこう軽い男だな(苦笑)
 
お話のバージョンもいろいろあって、八郎太郎は辰子の手助けなしで2度目は戦いに勝ったというものもあります。
 
一の目潟の女神を口説いたのも、「一の目潟が冬でも凍らないから一緒に住みたい」と言ったという民話もあり・・・八郎太郎、けっこうゲスでげす(苦笑)
 
恋愛が絡む連続ドラマの展開としては、あるあるですね。「わたしのためにケンカしないで!!」みたいなwww 
 
でもこれ、ビジュアル的には3匹の龍がぐるぐるして戦ってるわけですから、スケールがでかい。
 
実はこの戦いの描写は、実際に起きた自然災害を現しているという説があります。火山の噴火と、噴火によって降り注いだ土砂が川をせき止め、各地で大洪水をおこすということが、実際に915年にあったとされています。
 
その未曽有の大災害が、この地に住まう人たちにとってはまるで龍が激しく戦っているかのように映ったのかもしれません。
 

さて。
 
 
心理学的にみたとき、相まみえる「敵」は、自分自身の中にある理解しがたい(もしくはよくわからない)部分を暗示することがあります。そして「戦い」は、その「理解しがたい自分」と折り合いをつけようとする心の動きです。
 
わたしたちはいろいろなところで、いろいろな人たちと関わり合いながら生きています。家にいれば親や兄弟、学校では先生やクラスメイト、働きに出れば上司や同僚。
 
その中で、つい、誰かと自分を比べてしまいがちです。
 
自分はあいつより上だ、と思えば、それが優越感になりますし、自分はあいつより下だ、と思えば、それは劣等感につながります。特に後者が何度も何度も繰り返されると、劣等感にさいなまれ、自分はどうしようもない人間だ、生きてる価値なんてない・・・と落ち込んでしまうことも、多々あります。
 
これは、形は違うけれど同じ「戦い」の心理です。
 
戦いは、結果として「勝者」と「敗者」を作り出します。

負けたくないから戦う。でも勝ったところで、心の安息は得られません。戦いはいたるところで起き、次は負けるかもしれないと思うからです。
そうすると、周りの人たちを信じることができなくなります。周りにいるのがまるで全員「敵」のように思えてくるのです。
 
それに、勝ち負けにばかりこだわっていると、自分の非を認められなくなります。これでは周囲の人たちとうまくコミュニケーションが取れるわけがありません。相手をすべて敵視しているわけですから、人間関係は悪化していくばかりでしょう。
 
でもじつは、その「戦い」は、相手との戦いではなく、本当は自分の心の中の自分との戦いなのです。自分が勝者と敗者を決めているにすぎません。
 
これではいつか、心が疲れ切ってしまいますよね。
 
戦いのリングから、降りてみましょう。

そしてそばに寄り添ってくれる誰かのことを、思い出してみてください。

今そばにいなくても、過去にいた誰かでもかまいません。

きっと心が楽になります。
 

八郎太郎、南祖坊、ともに、もしかしたらそういった「心の安息」を辰子に求めたのかもしれません。
 
 
それにしても・・・
 
 
辰子は八郎太郎のどこがよかったんでしょうね?(苦笑)

やっぱり境遇が似ていたから、そこに親近感を感じたのでしょうかw
南祖坊は戦いには勝ったけれど、結局は辰子の心を手に入れることはできませんでした。っていうかまず辰子の気持ちを聞こうよ(苦笑)
 

と、いうことで。
 
4回にわたってお送りしてきた「三湖伝説」はこれにて終了でございます。お読みいただきありがとうございました!

お楽しみいただけましたでしょうか?w
 
次回はまた違う昔話をご紹介いたします。
ぜひまた、読んでやってくださいね(*^^*)
 
こんにちは!ものの見方転換アドバイザー・花緒です!
今日もご覧くださいまして、ありがとうございます(*^^*)
 
昨日にひきつづき、三湖伝説パート3でございますー。

八郎太郎と辰子が出会う前に、もう一人重要な登場人物がいるので、今日はそのお話をご紹介いたします。
 

ざっくりストーリー
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昔、青森県の三戸郡のある村に、南祖坊(なんそのぼう)という男が住んでいました。
 
南祖坊はあちこちで修行を積み、熊野に参った際に神様から鉄でできたわらじを授かりました。神様は「このわらじが切れた場所が、おまえの終の棲家となる」とのお告げをくださったのでした。
 
南祖坊が十和田湖にさしかかったところ、鉄のわらじが切れました。

ところがこの十和田湖には、八郎太郎という龍が住んでいたので、十和田湖を自分の住みかとするために、南祖坊は八郎太郎に戦いを挑みました。
 
ふたりの戦いは激しく、7日7晩続きました。

戦いの末、八郎太郎は勝負に負け、十和田湖を追い出されます。そして十和田神社には南祖坊が祀られることとなりました。
 
十和田湖を追い出された八郎太郎は、七座山のあたりまで来て、一度ここで川をせき止めて湖を作ろうとしますが、地元の神々の反対に合い、さらに川を下って日本海の近くにたどり着きます。
 
そうして八郎太郎が作った湖が、現在の八郎潟だということです。
 
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っていうか、八郎太郎が十和田湖を追い出されちゃった(@@;
龍になったのにどうした八郎太郎!!頑張れ八郎太郎!!(T^T)
 
南祖坊は修行を積んだ僧侶なのだと思うのですが、強さがかなり人並み外れています。おそらくこの人物も、純粋な人間ではなかったのでしょう。
 
この「三湖伝説」、青森県・秋田県にある三つの湖で起こったお話なわけですが・・・・もしかしてこの三人の(少なくとも八郎太郎と辰子の)父親は、同じ龍なんじゃ・・・??とか勘ぐってしまいます(苦笑) 
 
この南祖坊についても、八郎太郎や辰子と同じパターンだとしたら、南祖坊にも「人間として生きるための掟を破った」なにかがあったと考えられます。
 
話の中に出てくるのは、「鉄でできたわらじ」。

普通、稲のわらで編んだのがわらじです。
 
皆さんはわらじとぞうりの違いをご存知でしょうか?ぞうりはいわゆるサンダルで、足につっかけるだけの履物ですが、わらじは足首までわら縄が巻き付く形をしています。鼻緒だけのぞうりに比べて足にきちんと密着するので、長距離歩いたり山を歩くには必需品だったらしいです。
 
それが鉄でできているってことは、わら縄部分も鉄なのか?それとも下の部分だけが鉄?よくわかりません。どちらにせよなんだかものすごく靴擦れしそう(苦笑)
 

心理学的にみると、「履物」は社会的地位や恋人を現します。神様から鉄のわらじを授かったというのは、社会的地位または恋人を手に入れることを暗示しています。
 
つまり南祖坊は修行の末、神様から社会的地位や恋人を約束されたということです。僧侶って煩悩を捨て去るために修行するんだと思っていましたが、神様はあえてその煩悩を提示したわけですね。
 
南祖坊が「人間として生きるための掟」は、この煩悩だったのかもしれません。もし彼がそれを受け入れず、鉄のわらじを履かないという選択をしていたなら、彼は人間でいられたのかもしれません。
 
しかし、彼は煩悩を選びました。そして、人ではなくなったのです。
 
「履物」を脱いだり、なくしたりするのは、身近な人間関係の消失を暗示しています。人でなくなった南祖坊は、人であったときにかかわりを持った人間たちとの関係を無くしたわけです。
 

彼がもし、もともと「人と妖怪のハーフ」、もしくは「人として育てられた妖怪」だったのだとしたら、小さいころから人とは違ってケタはずれな部分が垣間見えたはずです。八郎太郎に戦いを挑んだことからも、決して気性は穏やかではなかったと思われます。周囲の人々はそんな彼に恐怖し、近づかなくなった。
 
言ってみればコミュ障で暴力的。現代で言えば警察にマークされる札付き?彼が僧侶の道を目指したのは、心の安らぎと、自分の「居場所」を手に入れたかったからなのかもしれません。だからこそ、鉄のわらじを授けた神様は「終の棲家」の場所・・・彼の本当にいるべき、いてもいい場所・・・を提示したのでしょう。
 
粗野な彼の心は、もしかするととても繊細で、不安とさみしさでいっぱいだったのかもしれません。でも彼は修行をいくら続けても、心の安息を得ることはできませんでした。
 
激しい戦いの末に十和田湖を勝ち取った彼。彼の眼には、十和田湖はどのように映ったのでしょうか。
 
 

人はだれでも、「自分のいるべき場所」を求めるものです。

どこか会社に就職しても、まわりにはいろいろな人がいて、大なり小なり摩擦は起きます。会社の歯車のひとつとして働く以上、自分が本当にやりたいことを好きにやれるわけもなく、ただただ時間に追われて長く働くうちに、ある日突然思うのです。
 
俺、なにやってんだろう。
 
それまでやってきたことがすべて無意味に思えて、

でもなにかやりたいことがあるわけでもなく・・・

何のために生きているのか、何のために働いているのか?
 
自分がわからなくなる。
 

そんな体験、あなたにもありませんか?

わたしはありました。なんどもありました。朝起きて、ご飯作って食べて仕事に行き、5時になったら帰ってご飯作って食べて、お風呂入って寝る。家では顔を合わせるたびに夫や義父から小言を言われる毎日・・・・。
 
これになんの意味がある?
わたしはなんのために生きてるの?
なにが楽しくてこんなことやってるの?
 
笑うことをしなくなりました。なにをしてもなにをみても楽しくない。
今思えば、鬱状態に近かったんだと思います。

毎日思っていたのは、
 
神様。
わたしはなんのために生まれてきたんですか?
 
・・・でした。
 
幸いなことに、身近にわたしを本気で心配してくれる人がいました。その人が話を聞いてくれて、そんなぐちゃぐちゃな思考回路のわたしを、認めてくれました。
 
それで気づいたんです。生きる目的は、天から降ってくるものじゃない。

自分で見つけるものなんだと。
 
それがわたしの、起業を思い立ったきっかけとなりました。
 
 
南祖坊のように、心の中の混沌といくら戦っても、勝負はつきません。
混沌を受け入れましょう。ぐちゃぐちゃだろうが汚れていようが、あなたはこの世でたった一人のあなたなんです。それがあなたなんですから、それでいいんです。
 
それができたとき、自分の本当の居場所が見つかるのではないかと、わたしは思っています。
 
南祖坊にとって、八郎太郎との戦いは、自分の中の混沌との闘いだったのかもしれません。そして安住の地を得た彼は、現在、十和田神社に「青龍権現」として祀られています。(やっぱり南祖坊も龍だった!!)
 

さて。
 
三湖伝説はまだ続きます!

このあと、この三匹の龍神が、めくるめくラブロマンスを・・・
ってのはちょっと盛りすぎですが(苦笑) まだひと悶着あります!
 
パート4をお楽しみにー!!
 
こんにちは!ものの見方転換アドバイザー・花緒です!
今日もご覧くださいまして、ありがとうございます(*^^*)
 
今日は東北、青森県と秋田県にまたがる「十和田湖」に伝わる伝説「三湖伝説」の第2弾、田沢湖に伝わる「辰子伝説」をご紹介します。
 
(第1弾「八郎太郎」の伝説についてはこちら! https://ameblo.jp/hanaoplanning/entry-12464699983.html )
 
田沢湖は秋田県仙北氏にある淡水湖で、その美しさは日本百景にも選ばれているほど。日本一深い湖とされ、その深さゆえ、太陽光の差し込みによって色がひすい色から藍色まで変わるといわれます。
 
わたしもだいぶ昔になっちゃいましたが田沢湖に行ったことがあります。湖面はとても穏やかで、傍らに辰子の像が立っており、当時は辰子の伝説なんてまったく知らなかったのですが、その像の悲しげなたたずまいがなんとも印象に残っています。
 

ざっくりストーリー
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昔、田沢湖のそばにある神成村というところに、辰子という名の娘が住んでいました。たいそう美しい娘でしたが、辰子はある日、ふと ある不安に駆られます。
 
わたしはとても美しい。

でも徐々に年を取っていき、この美貌は衰えていくのだ・・・。
 
一度そう思い始めると、彼女の中でその不安は日々、増していくばかり。不安にさいなまれるようになりました。
 
そこで辰子は、観音様にすがることにしました。村のうしろにそびえる院内岳にある神社にお百度参りをすることにしたのです。
 
辰子は永遠の若さと美しさを願ったのです。
 
観音様は辰子の必死の願いを聞き入れ、あるお告げを授けました。山のずっと奥に泉があるから、そこの水を飲みなさい、と。
 
辰子は山に分け入り、ようやく泉を見つけました。そしてその水を一口飲むと・・・なぜか逆に猛烈な喉の渇きを覚えました。たまらず泉の水をゴクゴクと飲んだのですが、いくら飲んでも喉の渇きは一向に収まらず・・・いつしか、辰子の姿は龍に変わってしまいました。
 
辰子は自分勝手な願いをした報いだと悟り、田沢湖に住まうようになったのです。
 
ちなみにこの田沢湖に生息するクニマスは、帰らない辰子の身を案じた母が辰子と再会してその身の上を悲しみ、湖に投げた一本の松明が魚に姿を変えたといわれています。そして、田沢湖はどれほど寒くても凍らない湖になったということです。

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田沢湖は実際に凍らない湖だそうですが、それは深いが故だそうです。

第一弾でご紹介した八郎太郎と、驚くほど似ています。というかそのまんま。
 
辰子に関しては出生の秘密のようなものは出てきませんでしたが、絶世の美女ということで、もしかすると八郎太郎と同じように人間と龍のハーフだったのかもしれません。
 
八郎太郎は仲間の分のイワナを食べた報いで、龍になりました。

辰子は己の美しさと若さが永遠に続くことを願った報いで、龍になりました。
 
 
なんだかとても理不尽じゃないですか?(苦笑)
 

八郎太郎ははっきりしたキッカケがありましたけれど、辰子はただ願っただけなのに。そして観音様の指示で泉の水を飲んだのに、まさか観音様に騙される(?)とは・・・。
 
 
そりゃあ辰子像も、もの悲しいわけですよねぇ。
 

人の世には、どうしてもあらがえない決まりがあります。
 
それは、どんな人であっても、いつか必ず「死」が訪れるということ。
 
人間は昔から、この絶対的な掟にあらがおうとしてきました。医学の発展は、まさしく死に対する抵抗ですし、美容整形も老いに対する抵抗という一面があります。実際に体にメスを入れ、強制的に死や老いに抵抗するという意味では、現代医学のほうが辰子に比べて何千倍も罪が重いのかもしれませんね。
 
辰子が願ったことは、人間としてまっとうな、至極自然な願いともいえるのです。
 
 
では、辰子が願ったことと、人が願うことのどこに、彼女を龍に変えるまでに大きい「違い」があったのでしょうか?
 
わたしたち普通の人間は、どんなに願っていることだったとしても、人の力でどうこうできることとできないことがあると知っています。死にたくない、老いたくないと思ったとしても、それは不可能であることを知っています。
 
ですが辰子は、その願いを叶えようとお百度参りまでしました。
 
八郎太郎についての分析のときに、彼がイワナを食べたことが「人間として生きるうえでの掟を破ったことの象徴」だったというお話をしましたが、もし辰子も同じだったとしたら、彼女の中のその「象徴」となる出来事は、このお百度参りだったのかもしれません。人の力を超える何か大きな力を、彼女は心から望んだのでしょう。
 

辰子もまた、思春期真っただ中だったのかもしれませんね。

それとも龍という生き物は、思春期を迎え、大人になると、本物の龍として目覚めるのでしょうか。なんだかそれはそれでロマンだなあ(笑)

そして、わたしはこのお話の最後に添えられた、辰子のお母さんのエピソードがとても好きです。
 
もし辰子が本当に龍とのハーフだったとしたら、そのことを知るのはこのお母さんだけだったはずです。だから、「辰子」という名前を付けた。
お母さんが、いずれこういう形で辰子が龍に変わってしまうことを予想していたのだとしたら・・・辰子を育てる間、どれほど悩み苦しんだでしょうか。
 
そしてとうとうその日がやってきた。お母さんは、いきなり龍に変わってしまった娘がさみしい思いをしないように、そして冷たい湖で凍えないようにと、願いを込めて松明を放ったのかもしれません。観音様はそのお母さんの愛を、魚に変えた。
 

最近特に幼児虐待や子供が通り魔にあって殺害されるという、悲しくやりきれないニュースが多く報道されています。

逮捕される犯人は、子供のころに両親(特に母親)の愛情を受けられずに育ったケースが多いですよね。大きな愛情を受けて育っていたら、彼らもモンスターに変わらずに済んだかもしれない。龍神に変わった辰子のように、人に受け入れられ、人の役に立てる存在になれたかもしれません。
 
辰子のお母さんの愛があったからこそ、辰子は荒ぶることなく、龍としての第二の人生を受け入れられたのかもしれませんね。
 
心理学を学んでいると、小さいころのほんの小さな心の傷を、大人になってからも長く引きずってしまうのだということがよく理解できます。血なんかつながっていなくても、深い愛をもって接してもらった子供は、強くなれる。
 
辰子の伝説は、そこが「芯」だったのかもしれません。
 

さて。
 
 
辰子は、こののち、八郎太郎と出会うこととなります。

似た運命を背負ったふたりは一体どうなってしまうのか?!
 
第3弾で書きますので、お楽しみに♪
(なんだか連ドラみたいになってきちゃったw)
 
 
 
こんにちは!ものの見方転換アドバイザー・花緒です!
今日もご覧くださいまして、ありがとうございます(*^^*)
 
6月になり、梅雨入りしたところもありますね。最近雨が多いです。

わたしの引っ越しももうすぐ。家の中の片づけはだいぶ進み、あとは日常で使っているもののみが残った状態になりました。少しは気分的に落ち着いたかなw
 
 
さて、今日ご紹介する昔話は「絵姿女房」です。

色恋のお話はあまり多くない昔話の世界で、このお話はとてもほっこりする夫婦の物語です。
 

ざっくりストーリー
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昔、あるところに兵六(ひょうろく)という男がおりました。兵六には嫁がおりましたが、この嫁がとても気立てがよく、超絶美人。近所でも評判の女性でした。
 
兵六は嫁のことが好きで好きで、あまりに美しいので嫁のことを見てばかり。目を離したくなくて畑にも行かないため、嫁はそんな兵六のために絵師に頼んで自分の似顔絵を描いてもらい、それを兵六に持たせることにしました。

喜んだ兵六はその絵を板に張り付けて立札にし、畑のそばに立てていつでも絵を見られるようにしながら、畑仕事にいそしんでいました。
 
ある日その絵が強い風に飛ばされてしまいました。

兵六は必死で追いかけたものの、見失ってしまいます。
絵は都へ飛ばされてゆき、それが殿様の目にとまりました。
 
殿様は絵の女性のあまりの美しさに、心奪われてしまいます。手下を総動員してその絵の女性を広く探させ、兵六の嫁を見つけました。

殿様は強引に自分の妻に迎えようと、兵六の嫁を連れ去ろうとしたのです。
 
嫁は連れ去られる際、兵六に一粒の桃の種を渡して言いました。
「この種を植えれば、3年後に桃がなります。その桃を城に売りに来て。きっとですよ。」
 
 
3年後、兵六が育てた桃の木は見事な桃の実をたくさん実らせました。兵六はそれを持って、城に売りに行きました。
 
一方、城に連れ去られた嫁はこの3年間まったく笑わず、殿様はほとほと困り果てていました。
 
そこへ兵六がやってきます。兵六の桃を売る声をきいて、嫁はとてもうれしそうに笑いました。殿様は喜んで、兵六を屋敷の中に招き入れました。

兵六の一挙一動に嫁がキャッキャと喜ぶので、殿様はもっと嫁の笑顔が見たくて、兵六と着物を交換し、桃売りの真似をしながら庭を歩き、門の外へ出ていきました。
 
ひとしきり門の外で桃売りの真似をした殿様は、屋敷の中に戻ろうとしましたが、門番はただの桃売りだと思い、中には入れてくれませんでした。
 
こうして殿様になりかわった兵六は、嫁といっしょに幸せに暮らしましたとさ。
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さらっと読んだかぎり、美しい奥さんにゾッコンのだんなさんが、奥さんの知恵(?)で富まで手に入れるという、棚ぼたなお話ですw
 
殿様やお姫様と着物を交換したことで、相手になりかわってすべてを手に入れるという展開は、昔話には結構多いものです。これは、今の時代なら宝くじに当たってある日突然億万長者になるのと似た、「庶民が想像できる中で一番のラッキー」なのかもしれませんね。
 
兵六が育てた「桃」も、ほかの昔話に多々出てくることの多い果物で、富や栄誉を現します。そういう意味でも、典型的な昔話と言えます。
 

ですが。
 
 
この昔話を心理学的に読み解くブログをご覧くださっているあなたなら、きっと「いやいや、裏にきっとなにかあるだろう!!」と思われるのではないでしょうか(笑)
 
長い年月語り継がれてきた昔話には、人生に対する教訓や自然に対する畏怖の念など、なにかしらのメッセージが必ずといっていいほど含まれているものです。
 
だからこそ、人々の心に訴えるものがあって、親から子へ、人から人へと長く伝わっていくのだと思います。
 

ところが、この「絵姿女房」のお話では、それが薄いような気がしませんか?単なる棚ボタのお話だなんて。
 

このお話には、鬼や妖怪などは一切出てきません。

その代わりに、象徴的に出てくるのは、超絶美人な奥さん。
 
わたしは、この奥さん、実は妖怪だったのではないかと思うのですw
 
超絶美人の奥さんがどんな生まれで、どこから来た人だったのかという説明は一切ないのですが、普通に考えてそんな超絶美人な女性が、たいして働きもよろしくなさげな、小さな村の百姓である兵六と結婚するなんて、なんとなく違和感を感じます。
 
そもそも美人の度合いも、並外れています。

一般人である兵六は、仕事も手につかなくなるほど魅入られました。彼女の似顔絵ですら、それを見た者(殿様)の心をつかみます。
 
このブログでも様々な妖怪が出てくる昔話をご紹介していますが、化けタヌキや化けキツネなど、人間の近くで生きる妖怪は、人に取り入る妖術を使うことが多い。兵六の奥さんも、本当は何らかの妖怪であり、人に紛れて生きるために妖術を使って、人の心を惹きつけていたのではないでしょうか。
 
 
彼女が妖怪だと考えると、この後の展開も何となく納得がいきます。
 
例えば桃。

奥さんは殿様に連れていかれるとき、兵六に桃の種を渡して、それを育てろと言い残します。おそらく奥さんの頭の中にはこのときすでに、兵六が3年後桃を売りに来て起こる出来事が見えていたのです。それは「予知」だったのか、それとも彼女の「策略」だったのかはわかりませんが、結末を知っていたからこそ、この切羽詰まった時にそんな突拍子もないことを言ったのでしょう。
 
そしてそれから3年の間、彼女は殿様に対して一切笑わなくなりました。

これが計画を成就させるための「策略」なら、演技だったことになります。でもそれも、普通に考えればかなり難しいことなのです。
 

人は、感情で生きる生き物です。感情は体調とも精神状態とも密接につながっています。
 
 
1971年8月、アメリカのスタンフォード大学心理学部で、ある有名な実験が行われました。いわゆる「看守と受刑者の実験」。

大学の地下にある実験室を刑務所のように改造し、新聞広告などで集めた一般の大学生など21人に協力してもらって行った実験です。
 
実験は以下のようなものでした。

まず協力者21人を、10人と11人のふたつのグループに分け、それぞれ受刑者、看守に扮してもらいます。彼らはそれが実験であることを知っていますし、やっていることが演技だということも知っていたにも関わらず、時間がたつにつれ、彼らはそれぞれの役にふさわしい行動をとるようになっていきました。
 
これは、特殊な肩書や地位を与えられると、その役割にふさわしい行動をとるようになることを証明していました。つまり、それがたとえ演技だとしても、時間が長くなればなるほど、それは自分の心の中では「演技」ではなくなってくるということです。
 
 
この実験の意味を踏まえたうえで、殿様のもとへ連れ去られた奥さんの気持ちを考えてみましょう。
 
愛する兵六と3年もの間、一切連絡が取れません。さみしい上に、そもそも兵六が3年後に言った通り桃を売りに来てくれるかどうかすら不確かです。
 
嫁として連れ去られてきたのですから、当然体の関係も迫られたでしょう。それは彼女にとって、屈辱でしかなかったはずです。
 
それでも3年後に兵六が来るまでは、殿様の気持ちは惹きつけておかなければならない。殿様に捨てられて追い出されてしまったら、「策略」が無に帰してしまいますから。
 
一切笑わなかったということは、プラスの感情をすべて封じたということです。いつも「元気なさげに」「何を見てもつまらなそうに」していたわけです。
 
 
一般的に男性に比べて女性のほうが、感情的な生き物です。
 
普通の女性であったなら、(はじめは演技だったとしても)この状況を長く続けていたなら、精神的に異常をきたします。強い精神的ストレスをもたらしますから、体調を崩したり鬱状態になったりしてもまったくおかしくないのです。
 
ですが彼女は健康でした。兵六が桃を売りに来た時も、門の外から聞こえる声を聴いただけで、キャッキャと笑うことができたのは、精神的に壊れていなかった証拠です。
 
そんな強靭な精神力の持ち主なんて、なかなかいませんよね(苦笑)
 

では、彼女が妖怪だったとして・・・
 
彼女の本当の目的は、いったい何だったのでしょうか?
 
考えられることはふたつ。
 
1)兵六を本当に愛していた。
 
2)兵六を利用して「本当の目的」を成就させたかった。
 
2)だったとするなら、その本当の目的とは??

衝撃の結末は、次回につづく!!
 
 
 
・・・なんちって。ウソですすみません(笑)
 
わたしの想像した、彼女の「本当の目的」はこうです。
 

彼女は、もともとこの地に住むタヌキかキツネが妖怪と化したものだったのではないでしょうか。たくさんの仲間や家族とともに、昔からこの土地に住んでいました。

ですが人間が来て、山を追われます。基本的に彼らには縄張りがありますから、土地を追われたからといってそうそう簡単に仲間全員で引っ越すということが難しかった。
 
なんとかして人間の森林伐採をとめなくてはならない。
 
長く人間の近くで暮らしてきた彼らは、殿様がこのあたりで一番「えらい」ことを知っていました。ただ、彼らがある日突然殿様とすり替わることは無理があった。殿様はその土地を治める「責任者」でもある。森林伐採を止められたとしても、それ以外のことでヘマをした場合は、捕らえられ処刑される可能性もあるからです。
 
だからこそ、純粋で人の好い「兵六」を利用する方法を思いついた。万が一なにかヘマをしても、処刑されるのは兵六です。自分はスキをついて逃げればいい。彼を殿様に仕立て、となりで彼を操る方法をとることにしたのです。
 

これでなおかつ兵六との間に本当の愛があったなら、正真正銘のハッピーエンドなんだけどなぁ。わたしも50年近く生きてきて、すっかり心が汚れちゃったということか(苦笑)
 
 
教訓。
真実は、時として 知らないほうが幸せである。

(苦笑)
 
 

こんにちは!ものの見方転換アドバイザー・花緒です!
今日もご覧くださいまして、ありがとうございます(*^^*)
 
今日は東北、青森県と秋田県にまたがる「十和田湖」に伝わる伝説「三湖伝説」をご紹介します。本来はこの名の通り、十和田湖、八郎潟、田沢湖という3つの湖にそれぞれ住む神のお話で、それぞれ伝説があって興味深いので、数回にわたってご紹介していこうと思います。
 
そんなわけで、まずご紹介するのは十和田湖に住む「八郎太郎」の物語です。
 

ざっくりストーリー
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昔、鹿角郡の村に八郎太郎という名の若者がおりました。

八郎太郎は寒風山(かんぷうざん)に住む龍と村の娘との間にできた子でしたが、生まれるときそれはそれは難産で、母親は命を落とし、祖父母に育てられました。
 
八郎太郎は村の仲間たちとともにマタギをして暮らしていました。マタギ仲間の間では人のものを奪ってはならないという掟があったのですが、ある日仲間とイワナ捕りをしたときに、つい仲間の分のイワナまで食べてしまいました。
 
すると、突然八郎太郎は激しい喉の渇きを感じました。そばを流れていた川にとびついてガブガブと水を飲みましたが、喉の渇きはまったく癒えず、33夜にも渡って水を飲み続けます。
 
そうしてふと気が付くと、八郎太郎の体は33尺の龍に変わっていました。己の姿を見た八郎太郎は、仲間を裏切った罪を受け止め、十和田山の山頂に湖を作って、そこに住むようになりました。それが現在の十和田湖だということです。
 
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おおぅ、なんとまたスゴイ展開(苦笑)

たしかに仲間の分の魚を食べちゃったのはいけないことですが、それの報いの大きさはあまりに理不尽な気がしません?(^^;
 
このお話いわゆる自然(この場合大きな湖)に対する畏怖の念からできたお話なので、そこに何らかの「教訓」は含まれないと思われます。
 
興味深いのは、八郎太郎がそもそも人間と龍の間にできた、「妖怪」の一種だったということです。そもそも、「龍」の血が入っていたわけで、もしかするとイワナなんか食べなくてもいつかは「龍」に変化する運命だったのかもしれません。
 
では 「イワナ」が現しているものとは、なんだったのでしょうか?

わたしは、これは「人間らしさ」だったと思うのです。
 
八郎太郎はそもそも半分が龍、半分が人間でした。ですが人間として育てられ、人間の世界に溶け込んで生きてきました。
 
一方、妖怪(または自然神)である龍という生き物は、そもそも人間のしきたりや決まり事に縛られることはありません。
 
八郎太郎がマタギ仲間と交わした「掟」は、彼にとってはただの決まり事ではなく、「人間として生きるための境界線」だったのではないかと思うのです。
 
その掟を破ることは、彼にとって「人間であること」を捨てる行為だった。境界線を越えたことで、心も体も「龍」に変化してしまったのです。
 

では、心理学的に見た場合はどうでしょうか。
 
龍は10代の心と体の大きな変化を現します。性的な目覚めによる心と体の変化だけではなく、いわゆる中二病的な根拠のない自信や世界観の形成なども含まれます。
 
またイワナ(魚)は男性自身を、魚を食べる行為は心の成長を現します。

要するに八郎太郎は思春期だったわけですねw
そう見るとなんかほほえましく感じますww
 
ただ、掟を破るという行為については、心身の不調を意味するので、これもまた思春期における急成長に心がついていけないことで、心身のバランスが多少崩れている状態を表しているものと読めます。
 
 
やっぱり中二病かっ(苦笑)
 
 
そのあと龍に変化したのは、そういった危うい変化期を経て「大人になった」ということなのでしょう。龍は山頂に湖を作り(=自分の生活拠点を確立させ)、そこに住む(=腰を据えて生活する)ことを決めました。大人として立派に成長したといえます。
 
つまり八郎太郎の伝説は、心理学的に読むとごく一般的な人間の成長過程を現していると思われます。興味深いですね~!
 

子供のころって、「大人はズルくて嫌いだ」とか思いませんでした?
でも誰でも例外なく、大人になるんですよね。いやでも。
 
子供のころは「大人」と「子供」との間に境界線がありました。ですが実際に大人になると、そこに感じていた境界線なんて実にあいまいで、なんならそんなものなかったかのようにさえ感じます。
 
成長するってそういうことなのでしょうけれど、中には子供のころに感じていた「おとなへの不信感」が心の奥底に残ったままになっていることがあります。なぜかわからないけど相手を信用できなかったり、意味不明に嫌悪感を感じたり疑ったり。こういう場合は、子供のころ感じていた気持ちが「思い込み」となって残っていることが原因な場合もあります。
 
 
わたしが心理学を学んで一番興味深かったのは、そこでした。

人は様々な経験をして大人になっていきます。でも、その心の奥底には、「子供のころの自分」がそのままで存在します。いわゆる潜在意識として、残り続けるんです。
 
ヒプノセラピー(催眠療法)では、年齢退行という「過去の自分に戻る」療法があります。催眠状態に入ることで潜在意識の中に深く潜っていき、小さいころの自分に向き合う、心のタイムスリップです。
 
子供のころには気づかなかったけど、大人になった今ならわかることってありますよね。そのうえで子供のころの自分を受け入れて、理解してあげる。そうすると、それまでこうだと思い込んでいたことが変化して、気持ちが楽になるんです。
 
つくづく、人の心ってすごいと思う今日このごろw
 

さて。
 
 
八郎太郎はこのあと、田沢湖の神様に恋をします。

八郎潟にの神様と恋のライバルになり、ひと悶着あります。
神様でも恋は思ったようにいかないのですね(^^;
 
そのお話はまた、次回に(*^^*)
 
こんにちは!ものの見方転換アドバイザー・花緒です!
今日もご覧くださいまして、ありがとうございます(*^^*)
 
ここ最近暑いですね!!ついこの前まで春だったのになぁ。

毎年暑くなる時期が早まっているような気がします。季節が少しずつズレてるような。まだ5月だからと油断せず、皆様水分補給を忘れずに!!(^^;
 
 
さて、今日は福井県に伝わる「飯降山(いぶりやま)」のお話をご紹介します。

この山の名前の由来となった昔話です。
 

ざっくりストーリー
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昔、三人の尼が修行のためにある山に入りました。
 
女性とはいえ尼の修行は大変厳しく、殺生はできないので食べ物も山に生える草や木の実、きのこなどしかありません。ときたま下山してふもとの村で托鉢に回るのでしたが、三人の尼さんたちのやせ細った姿から、十分な食べ物はとれていないのがあきらかでした。
 
ある日、三人が修行中、一番若い尼さんが空からなにかが山の頂上あたりに落ちてくるのを見ました。一体なんなのだろうと尼さん三人で山頂へ行ってみると、切株の上になんと握り飯が三つ、ちょこんとおいてあるではないですか!

しかも握り飯は今作ったかのように、温かかったのです。
 
尼さん三人は、これはきっと仏様が自分たちのことを思ってお恵みくださったに違いないと、ありがたく握り飯をいただくことにしました。
 
それ以来、握り飯は毎日空から降ってくるようになりました。

その握り飯のおいしいこと、おいしいこと・・・。三人の尼さんたちは、心から感謝しました。
 
そうするうちに季節は冬になり、山は雪に埋もれ、尼さん三人はいよいよ食べ物に困るようになりました。口にできるのは、毎日山頂に降ってくる握り飯だけ。空腹はやがて彼女たちの精神を錯乱させていきました。
 
そしてある時、尼さんのひとりが、ほかの二人を崖から突き落としました。尼さんは、握り飯を独り占めしたかったのです。
 
ところがそれ以降、握り飯はぴたっと降ってこなくなってしまいましたとさ。
 
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握り飯が降ってきたという伝説から、この山は「飯降山(いぶりやま)」と呼ばれるようになりました。福井県福井市にある、市では一番高い山です。地元では昔から五穀豊穣の神が宿る霊山として愛されているそうです。
 
このお話もまた諸説あるのですが、崖から突き落として殺したというもののほかに、実は殺して食べてしまったというものもあるようです(怖)

いわゆるカニバリズムですね。
 
仏の道を歩む修行というのはとてもとても厳しいと、僧侶の方から伺ったことがあります。煩悩を心から追い出すために様々な修行があり、己との闘いなのだと。昔のことならなおさら、厳しい修行をこなさなくてはならなかったでしょう。
 
このお話でほかの二人を殺した尼さんは、心が弱かったのでしょう。ほかの二人の握り飯まで食べたいという欲に勝つことができませんでした。
 
それでもそんな極限状態まで追い込まれても山を下りるという選択をしなかったのには、なにか大きな事情があったのかもしれません。
 

人間が思い悩むことの大きな要因は、過去起こったこと・したことに対する後悔と、将来に対する不安だと言われます。いくら悔やんでも過去は変えられませんし、いくら心配しても未来は見えません。それだけに、この悩みは人の心をとらえて離さず、もんもんと悩んでしまうことになります。
 
ですが、この手の悩みをあまり抱えないといわれる人たちがいます。

それは、実はお寺の僧侶。

実際に過去、そういった研究をされて、結果がそうだったらしいです。
 
僧侶は今、その時の自分の心の中にある煩悩を消すために、お経を唱えたり滝に打たれたり、さまざまな修行をします。「今、この時に集中すること」 実はこれが、悩みを消す一番の特効薬だったのです。
 
人は感情で動く生き物です。ですが、感情はコントロールすることができます。

例えば誰かと口論になったとしましょう。カッと頭に血がのぼり、ぶっとばしてやる!!と思うときもありますよね。
 
でも、そう思ったからといって、本当に相手を殴ることはほとんどありませんよね。これはつまり、「感情」と「行動」は切り離すことができる、ということを意味します。
 
この野郎、ぶっ飛ばしてやる!!と思ったからといって、自動的に腕が動いて相手をブン殴るということは、絶対に起きません。殴ったとしたらそれは「かっとしてつい」ではなく、自分が相手を殴るという行動をとった、ということなんです。自分で殴るという判断をして行動を起こしたわけです。確信犯です。
 
僧侶は、修行をする中で、これを会得するのだとか。

つまり感情は感情としてあっていい。でも、行動と感情はまったく別もので、感情が動いたとき、自分の心の中では今、なにが起こっているのか?を冷静に俯瞰して見ることで、心に平安をもたらすわけですね。
 
こう考えると僧侶ってスゴイ(@@;
 
感情と行動を切り離す。
 
かっとしたら、自分のその感情を俯瞰してみましょう。
 
今、わたしは怒っている。なんで怒っているのだろう?相手のなにが気に障ったのか?
 
そうすると、自分の心の奥底にある感情が見えてきます。
 
馬鹿にされた気がしたとか、理不尽な責めを受けたとか。自分の「沸点ポイント」がわかっただけで、実はさきほどの怒りはだいぶクールダウンしていることに気づくはずです。
 
物語に出てきた尼さんはこれができませんでしたが・・・心のからくりを知ると、感情はコントロールできるようになります。
そうしたら、もっと「悩まずに」肩の力を抜いて楽に生きることができるようになりますよ。
 
ぜひ、おためしあれw
 
こんにちは!ものの見方転換アドバイザー・花緒です!
今日もご覧くださいまして、ありがとうございます(*^^*)
 
引っ越しまで1か月を切り、荷造り・掃除やらライフラインの手続きやらなにやらでばたばたと日が過ぎていっています。GW終盤から始めた運動のおかげで筋力がちょっとずつついてきて、腹まわりの肉浮き輪が少しずつしぼんできたような(苦笑)

アラフィフなので心拍数の上昇しすぎには注意しながら、ビリーズブートキャンプをつづけていますw
 
 
さて、久々の昔話シリーズ、今日は「牛鬼淵」をお届けします。

三重県に伝わる、化け物のお話です。
 

ざっくりストーリー
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昔、伊勢の山奥には頭が牛で体が鬼という化け物が住むという淵がありました。

ふたりの木こりが、その淵の近くの山小屋に泊りがけで木を切る仕事をしていたときのことです。
 
木こりたちは大きなのこぎりを使います。毎日夜になると年配の木こりはのこぎりを丁寧に研ぐのを日課にしていました。
 
ある日の夜更け。いつものように年配の木こりがのこぎりを研ぎ、若い木こりはそばの囲炉裏で酒を飲んでいると、小屋の入り口を覗く者がいることに気づきました。
 
 
その男はてぬぐいを被って顔がよく見えませんが、大柄で、入口の外からほんの少しだけ中を覗きこみながら声をかけてきました。
 
「お前さんがた、なにをしているのか?」
 
人里離れた山奥の、しかもこんな夜更けに、ほっかむりをした怪しい男・・・。
 
年配の木こりはなんとなく、嫌な予感がしました。まさか、ここいらに伝わる鬼じゃああるまいな・・・?? そこで、こう答えました。

「木を切るのこぎりを研いでいるんじゃ。この、一番下の刃(は)は「鬼刃(おにば)」といって、鬼を殺すための刃なんじゃよ」
 
すると、怪しい男はだまってすうっと姿を消しました。
 
それ以降毎夜のように、その男は現れ、同じことを聞くようになりました。
 
これはいよいよ、本当に鬼かもしれんな・・・。
 
そういう年配の男の話を、若い男は笑ってまともに聞き入れようとしませんでした。
 
 
ある日木を切っているとき、のこぎりの刃が硬い幹に食い込んで、鬼刃が折れてしまいました。嫌な予感がしたので、年配の木こりはその日のうちに里へ下りて、ノコギリの刃を直してもらうことにし、山小屋にのこるという若い木こりに「毎夜来るあの男には、決して鬼刃が折れたことは話すなよ」と言いつけて、山を下りていきました。
 
ところが・・・

若い木こりは鬼の話などまったく信じていませんでした。
 
そしてその夜、またあの怪しい男が現れます。年配の木こりがいない理由を尋ねられた木こりは、酒が入っていてつい、鬼刃が欠けてその修理のために出かけたと話してしまいました。
 
すると怪しい男が「そうか、今日は鬼刃はないのだな」というと、ぬぅっと小屋の中に入ってきました。てぬぐいを取った頭には2本の角が生えており・・・ 怪しい男は伝説の「牛鬼」だったのです。
 
翌日年配の木こりが急いで山小屋に戻る途中、淵の水面に若い男の着物が浮いているのを見つけただけで、若い木こりの姿はどこにも見当たらなかったということです。
 
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三重やるなあ!!w
これは結構コワイ話ですねぇ~!!
 
これもまた、全国各地に伝わる「鬼」が出てくるお話です。
 
木こりが使っているこのノコギリは、いわゆる「木挽き(きびき)ノコ」と呼ばれるのこぎりで、一般的なノコギリに比べて効率的に木を切ることができるよう、大きな刃がならんでいます。その最後、一番手元の柄に近いところにある刃が「鬼刃」で、鬼の歯(?)を模して作られたといわれており、魔を払う力を宿すといわれます。
 
昔から、山は神聖な場所として人々からあがめられてきました。神聖な場所であるが故、魔物も多く住み着くといわれます。

今のように交通手段や通信手段などがほとんどなかった昔は、人里離れた山奥でなにか事故にあった場合、それが致命傷となって命を落とすことも多々ありました。ですので悪いことが起こらないように、魔除けとして鬼刃を仕込んでおいたようです。
 
ノコギリや刀などは、心理学的にいうと「男性」そのものを現すほか、攻撃性や極度のストレス、恐怖心も現します。
 
山にこもり、自分や家族に何があってもすぐには戻れない隔絶された環境の中で、危険な仕事をしていたわけですから、そのストレスは半端なかったことでしょう。
 
その弱い心を「魔」が狙ってきた。つまり若い木こりは、まだ年配の木こりほど心が強くありませんでした。隔絶された山の中で何日も仕事をするうち、さらに心が弱くなって、注意力が散漫になったために、ノコギリの操作を誤って刃を折ってしまったのです。

このお話は現代に伝わるある種の都市伝説と似た点があります。
 
「幽霊や魔物と出会った者はすべて死ぬ」というたぐいのやつです。じゃあだれがその話をしたんだよ!というツッコミがされるパターンの話ですね。
 
このお話にも、若い木こりが鬼に襲われて死んだ、という記述はどこにもありません。後から淵の水面で男の着物が見つかっただけで、だれも木こりが鬼に襲われたところを見ていませんし、音を聞いた人間もいません。
 
「鬼」のもつ見た目問題・・・人とは大きくかけ離れた恐ろしく醜い姿・・・が、何の証拠もないのに鬼を悪者と決めつけているのです。
 

わたしはこの点に、このお話の「闇」を感じてしまいます。

もしも、この話の中で語られている「鬼」が、見た目問題を抱えた普通の人間だったとしたら・・・?
 
たとえば、何らかの事故や病気が原因で外見に問題が生じ、それを忌み嫌われて村を追い出され、山奥でひっそりと暮らしていた、普通の人間だったとしたら?

彼はただ、人恋しくて、話をしたくて、木こりたちの山小屋を訪ねた。
自分の見た目が人によい印象を与えないことをよく知っていた彼は、相手を驚かさないよう、わざわざ夜になってから木こりたちを訪ねました。そして、彼らに嫌われたくなくて、明るい屋内に踏み入ろうとせず、入口からほんの少し顔をのぞかせるだけにとどめました。
 
ですがなにを話せばよいのかわからず、なにをしているのか?と尋ねます。
 
 
ところが。
 
 
年配の木こりは、恐ろしく大きい、刃の何枚も付いたノコギリを、毎晩とりつかれたように研いでいるのです。しかも、自分の質問とはあまり脈絡のない、鬼刃の話をしました。「この鬼刃は、鬼を引き殺すんだ」と。
 
この様子と返事の内容に、狂気を感じたのは私だけでしょうか?
 
そりゃあ無言で立ち去りますよね、鬼じゃなくても(苦笑)
 

若い木こりは、単に心が弱っていたところに酒を飲んだことで、心神耗弱状態に陥り、走って外へ飛び出して淵に落ちたというところではないでしょうか。
 
醜いものを悪と決めつける、人の心の恐ろしさと弱さを語った昔話だとおもえてなりません。

先日、ネットの記事でゲイの男性の体験談を読みました。

ゲイであることをせめて母親にだけは認めてもらいたいと思い、母親に打ち明けるのですが、母親は彼を認めることができなかったというお話でした。
 
現在は性別や好みなどについて、千差万別であるという認識が、少しづつ広まってきていますが、それでもなかなか社会的に受け入れてはもらえないのが現状です。
 
見た目問題も、同じだと思うのです。
 
誰も彼の本質を見ていない。彼が恐ろしい存在なのかどうかを判断しているのは、彼を見た側の人間の中の「常識(と思い込んでいること)」なのです。
 
人はだれしも自分がそれまでにしてきた体験から学び取ったことを基準として、それに沿って生きています。人から言われたり、実際に体験したことでその「基準=常識」が作られるので、実はそれはみんな違うわけです。
 
自分の中のフィルターを通して相手を判断し、良い悪いを勝手に決めているのです。
 
例えば赤ちゃんを見たとき、感じ方は人それぞれですよね。
 
純粋無垢で、かわいらしいと感じる人もいれば、
 
ひっきりなしにギャーギャー泣いて、ただミルク飲んでウンチするだけの面倒くさい生き物と感じる人もいます。
 
それは、その人がしてきた過去の体験から、その人が作り出したフィルターを通して赤ちゃんを見たときに湧き上がってくる感情が、人それぞれ違うからなんです。
 
でも本当は?

そのフィルターを外してみたとき、
赤ちゃんはかわいいだけの生き物でしょうか?
赤ちゃんは面倒くさいだけの生き物でしょうか?
 
どちらも当たっている。でも1面だけしか見ていないんです。
 
物事を多角的にみること。視野を広げること。

これが、あなたの考え方・感じ方を変えてくれます。

心を鍛えて、強くしてくれます。
 
あなたの中の「常識」にとらわれないでください。
こんにちは!ものの見方転換アドバイザー・花緒です!
今日もご覧くださいまして、ありがとうございます(*^^*)
 
いまだかつて経験したことがない、大連休だあ!!とワクワクしていたのに、ゴールデンウィークも気づけば今日で終わり(泣)

まだまだ日数あるしー!なんて思っていた連休前半、ゴロ寝とYoutubeで1日をつぶしてしまったのが今になって悔やまれる・・・(苦笑)
 
とりあえず明日からまたがんばりましょうーー!!
 
 
さて、今日はわが福島県の会津地方に伝わる「イワナ坊主」のお話をご紹介します。といっても様々なバリエーションで東北地方を中心に、あちこちに伝わる昔話です。
 
(ちなみに今回この記事に使用させていただいたイラストはイワナではなくヤマメです)
 
 
ざっくりストーリー
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昔、ある夏のこと。水無川のずっと上流で、4人の木こりが山小屋に泊りがけで木を切っていました。あまりに連日暑いので、4人は翌日は仕事を休んで魚とりをして休むことにしました。

普段は釣りで魚を捕るのですが、この日はできるだけ楽をしようと「根流し」という方法をやることにしました。「根流し」というのは、山に生えている毒を含んだ木の根や植物を煮たりすりつぶしたりして「毒液」を作り、それを川に流して、毒で死んだ魚を一気に大量に捕る方法です。
 
その夜、4人で毒液を作っていると、山小屋をひとりの僧が訪ねてきました。こんな山奥になぜ、どこから来たのか?といぶかしむ4人に対し、僧は「根流し」などしたら小魚までたくさん死んでしまうから、そんなことはやめるようにと言います。
 
4人はこれは面倒くさい男が来た・・・と思い、とりあえず僧を招き入れ、団子をごちそうしながら話を聞き、「根流しはやめる」と口先だけ約束をしました。僧は安心したようで、団子を食べて帰っていきました。
 
翌日のこと。4人はもちろん、「根流し」をやめる気などありませんでした。川に毒を流し、浮いてきた川魚を採りました。そしてもっと大きな魚を捕ろうと山頂にある「底なしの淵」に行くと、そこに残った毒を流し入れました。
 
すると、見たこともないような大きなイワナが白い腹を上にして浮かんできました。これは大物だ、きっとこの淵の主だろう、と4人は喜び、イワナの腹を裂いてみると・・・そこからボロボロと出てきたのは、昨日僧にごちそうした団子でした。

4人が昨日の僧の正体はこのイワナだったのか、と気づいたとたん、木こりの一人がふいに倒れ、死んでしまいました。
 
時の流れとともに淵や川の水はきれいに戻りましたが、地元の村人たちは後々まで化けイワナについて語り継いだということです。

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このお話は、当時の一般的な村人たちの暮らしから生まれた「民話」です。「根流し」という手法が確立されており、それを用いた漁のしかたも一般的だったということがうかがえます。
 
ですから、この4人の木こりが行ったことは、特段変わったことでもなかったと思われます。
 
山小屋に泊りがけで男4人が力仕事をしているのですから、それなりの精がつく食材を確保しなければなりません。魚のほかに鳥やうさぎを狩るなどもしていたでしょうから、魚捕りをしたこと自体が悪かったわけではない様子です。
 
そもそも川にもたくさん魚はいるはずですし、夏ですから一気に大量に魚を捕っても保存することができません。川に毒を流すだけで、4人にとって十分な量の魚は確保できたはずです。
 
イワナは水のきれいな渓流に住み、とても警戒心の強い魚です。なかなか釣れないがゆえに、余計に釣り人の心をひきつけてやまない魚なのだとか。「逃げるものを追いかけて、苦労しながらも捕える楽しさ」を求めるのは、世の多くの男性にあてはまることなのかもしれませんね。

心理学的にみると、イワナなどの「魚」は幸運や豊穣、財産などのほかに、性的な意味での「男性」を現すことがあります。ということは、世の多くの男性陣にとって「魚」自体は性的興味を引く対象=女性を象徴していると考えられなくもありません。若い男性4人が一定の期間、家族や恋人から離れて山小屋に寝泊りしているという環境から察するに、女性恋しいという気持ちは強く持っていたかもしれません。
 
こう考えると、木こり達の気持ちは多少理解できます。

大きさから言って、このイワナは長い時間を生きて「妖怪」になったのでしょう。タヌキでもたまに失敗して茶釜と半分半分の姿になったりするわけですから(「ぶんぶく茶釜」参照)、人に化けるのは妖術の中でも高度な技のはず。人に化けるだけではなく、水から離れ、歩いて行かなくてはならないのですから、もしかすると命を縮めるほど大きな妖力が必要だったのかもしれません。
 

ここからはわたしの裏読みです。
 
木こりの男たち4人は、同じ村の住人でした。村にはとても器量よしの若い女性がひとりいました。4人の男たちは誰が彼女をものにするかで、競ってばかりいました。
 
そのうち、4人の男たちのうち一人が、その女性と恋仲になりました。女性の少ない小さな村でしたので、残りの3人はその男をとてもうらやみました。
 
そんなとき、木を伐採するために数週間、4人で山小屋にこもって仕事をすることになったのです。
 
持ってきた酒を飲んでいるうちに、女性のことで口論になりました。酔った勢いもあって・・・・3人の男たちは女性と付き合いだした男を、殺害してしまったのです。
 
3人は証拠を隠滅するために、山頂の「底なしの淵」に投げ入れました。そこには滝があり、滝壺はとても深かったので、そこに沈めれば死体は浮かんでは来ないと思ったのです。
 
そうして3人は、彼が事故で亡くなったのだと口裏を合わせたのでしたが・・・報告を受けて嘆き悲しんだ女性は、「底なしの淵」に身を投げました。
 
3人は自分たちが犯した罪の重さを背負いながら、一生を過ごしました。
 
 
逃げた魚と罪の代償は、大きかったというお話。

昔は人がみていなくても「お天道様が見ているよ」とよく言われたものでした。悪いことはできませんね!!
こんにちは!ものの見方転換アドバイザー・花緒です!
今日もご覧くださいまして、ありがとうございます(*^^*)
 
巷は10連休真っただ中ですが、皆様いかがおすごしでしょうか?
 
わたしは6月に引っ越しを決めたので、大々的な断捨離実施中ですwわたし自身はあまりものをごちゃごちゃ持つのはいやなほうなので、必要最低限のものしかないのですが、娘の持ち物がいっぱいあって困ってます。

一番困っているのは「首」(苦笑) 娘が美容学校に行っていたときに買った、カット練習用のマネキンの首みたいなやつです。燃えないゴミに気軽に出したら警察呼ばれそうだし(苦笑)、かといって飾っておくのも魔のものを呼んでしまいそうだし(苦笑) どうしたもんかなこれ。
 
欲しい方がいらっしゃいましたら差し上げますのでメッセージください(笑)
 
 
さて、今日は「座敷わらし」をご紹介します。

座敷わらしは妖怪のひとつで、全国各地に伝承が伝わる、いわゆる福の神的な存在です。岩手県には本当にこの座敷童が出るという旅館がありますよね。いつか行ってみたいw
 

ざっくりストーリー
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昔、ある小さな宿屋に力自慢の男が泊まっていました。夜、男が寝ていると、どこから来たのか小さな男の子が枕元にいて「遊ぼう」と声をかけてきます。
 
男の子に誘われるまま 腕相撲をするのですが、なかなかどうして、男の子は恐ろしく力が強くて、男はねじ伏せられてしまいました。
 
これが噂をよび、宿には力自慢の男たちが我こそはと押しかけ、男の子に勝負を挑むために泊まり込んだのですが、男の子は一向に現れず・・・朝になると、男たちの寝ていた布団が掛・敷逆になっており、びっくりしたといいます。
 
そんなことがさらに噂を読んで、宿はたいへん繁盛しました。
 
ところがそんなある日、宿の家の者が、入口から外へ出ていく小さな男の子の後姿を見かけます。そしてまもなく、噂も消えてゆき、宿はそれ以降客がぱったり途絶えたということです。
 
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調べてみたのですが、座敷わらしと一言で言っても伝承がありすぎて、収拾がつかないぐらい(@@; そしてわかったことがひとつあります。それは、昔はどうやら「小さい子供の姿をした、人間ではないもの」の総称として、「ざしきわらし」と呼んでいたらしいということです。
 
ですから、霊だろうが妖怪だろうが、まずすべてひとくくりにされていたために、その習性(?)やストーリーに一貫性がないんです。
 
その後、霊と妖怪との定義が分かれ、妖怪として認識が広まってからは、特徴として次のものがあげられるようになりました。
 
◆年齢はおおむね5~6歳ほどで、着物を着た子供の姿をしている。

◆座敷童はあちこちの家をつぎつぎに移り住む。滞在する期間は数日から百年以上までさまざまである。

◆座敷童が滞在している間はその家は栄え、座敷童が出ていくとその家はとたんに衰退する。

◆子供、または子供と同等の純粋な心の持ち主のみがその姿を見ることができる。
 

ますます会いたい(笑)
 
 
さて、世の中に本当に座敷童がいるかいないかはおいといて。
 
心理学的にみると、「子供」というのは自分の中の子供のような部分を指します。例えば純粋さや、わがままな部分、弱い部分などですね。
 
わたしたちが座敷童を通して見るもの、それは、自身の「心の弱さ」だとわたしは思います。
 
座敷童が来て、出ていくことが家の衰退につながっていますよね。

これは、「原因を自分とは関係ない、外から来たものに見出す心理」から来ているものと推測されます。
 
つまり人生における運・不運は、すべて自分がどうこうできるものではなく、ほかから来るまったく予想もしない「なにか」によって引き起こされる、という無責任さが見え隠れしているんです。
 
家の衰退は、その家の者の采配ひとつで良くも悪くもなります。ようするに自分の家が貧乏なのは、たいがいの場合自分の力でどうとでもなることなのに、人はそれを認めようとしないんですね。
 
 
こういった考えを持つことは、誰にだってあります。

それは人の心がとても傷つきやすく、怖がりだから。
 
でも、もし自分の人生をよりよくしたいと熱望するなら、今と同じことを続けていてはなにも変わりません。
 
「コンフォートゾーン」という言葉をご存知でしょうか?

コンフォートゾーンとは、自分がよく知っている、安心できる快適な範囲のことです。これは物理的な範囲(住んでいる町や働いている会社など)のほか、非物理的な範囲(自分はこれ以上できない、という境界線の内側)も指します。
 
人生は変化の連続です。

幼稚園、小学校、中学校、高校と少しずつ行動範囲を広げてゆき、たくさんある企業からひとつを選んで就職したり、出会った人と結婚したりするたびに、環境や付き合う人たちが変わりますよね。

この変化が、人としての成長をさせてくれます。
 
ですが人間はとても怖がりなので、外の世界に出ていくにはかなりの勇気を必要とします。たとえそこが自分にとって不利益な場所だったとしても、外の世界に出てしまったらなにが起きるか予測できない。その恐怖に比べれば、今いる場所の不利益(たとえばいじめにあっているとか、勤め先でひどいパワハラにあっているとか)のほうが、だいたいを予測できるので、そちらのほうが「安全」だと認識します。
 
結果、どこにも出られない。

自分の「コンフォートゾーン」から出ることをかたくなに拒むから、なにも変わらない。
 
ただ毎日、自分の周りの人や環境に責任をなすりつけて、文句を言うだけでは、なにも変わりませんよね?
 
座敷わらしという存在は、「自分を不運におとしめるなにか」を擬人化したものではないかと、わたしは思うのです。昔から人は、その心の弱さゆえに、原因を外に求めてきたということが、このお話から読み取れるのではないでしょうか。
 
静かな水面に小さい小石を落とせば、それは波紋となってまわりに広がります。

もし、あなたが今の生活のどこかに不満を抱いているのでしたら、現状を「いつものこと」とは思わずに、ひとつ解決できるよう動いてみてください。
 
ただし「予測」と「準備」はちゃんとしましょう!それさえできれば、怖いものなんてありません。座敷わらしのせいにしていないで、「コンフォートゾーン」から一歩飛び出してみましょう!(*^^*)
 
 
こんにちは!ものの見方転換アドバイザー・花緒です!
今日もご覧くださいまして、ありがとうございます(*^^*)
 
今日は、秋田県に伝わる民話「犬吠森(いぬぼえもり)」をお送りします。

秋田県鹿角市にある、犬吠森と呼ばれる山の伝承です。

この話の中にマタキ犬(猟に使われる犬)が出てくるのですが、その犬が現在の『秋田犬』の元祖なのだそうです。
 

ざっくりストーリー
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昔この地にさた六(さだ六という説もあり)という猟師がおりました。さた六はシロという名のとても賢いマタキ犬を飼っており、いつも一緒に狩りをしていました。
 
当時は他の領地で無断で狩りをした者は重罪とされていましたが、さた六は腕の良い猟師で、他のどこの領地でも狩りができる「許可証」をもっていました。
 
ある日、狩りに出たさた六とシロは、ニホンカモシカを追ううちに他の領地に入ってしまいました。カモシカを仕留め、持って帰ろうとしたとき、その領地の役人に呼び止められました。
 
許可証の提示を求められましたが、あいにくその日に限って、さた六は許可証を家に置いてきていました。その場でさた六は捕えられてしまいます。
 
さた六は、シロに「家に戻って許可証の巻物を持ってきてくれ」と頼みました。シロは急いで家に戻り、巻物を加えて届けようとしたのですが間に合わず・・・
 
さた六は処刑されてしまった後でした。
 
シロはさた六の遺体とともに家に帰ろうと、必死で遺体を引きずりながらいくつもの山を越えましたが、この峠に来たところで力尽きました。
 
悲しげな遠吠えをひとつすると、シロは命尽き、その身体は石に変わりました。

それ以来この峠は「犬吠峠」と呼ばれるようになりました。
 
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忠犬ハチ公に負けず劣らず、感動的なお話です(涙)

このシロが秋田犬の元祖と考えると、また更に秋田犬って素晴らしい!!そりゃザキトワさんもメロメロになるわな!!ってなりますね(笑)
 
「犬」は昔から人間の親友になりうる生き物として、常に人間とともに生きてきた動物です。心理学的にも、友達を意味します。そしてそれが猟犬だった場合は、さらに冒険心や積極性という意味も加わります。
 
シロはクマのように大きい犬だったと言い伝えられていますが、この大きさにも意味があって、存在の大きさを表します。
 
さた六の家族構成に関する記述はないので詳しいことはわかりませんが、さた六は一人者でシロとくらしていたとすれば、最後に主人を亡くしたシロが悲しみで石に変わった気持ちも納得できますね。さた六とシロの間には、深い深い絆があったのでしょう。
 

現代は携帯電話が普及し、インターネットで世界の誰とでもつながることができるようになりました。バーチャルでつながる場合、相手が実在しているのはわかっていても、どことなく現実味が感じられないことがあります。
 
もちろん人によるとは思います。ネカマと言われる、性別を変えた「キャラクター」的なものを演じている人や、ネットの世界だと全く違う性格になる人など、本当にさまざまで、そこに「真実」があるのかはわからないことがある一方で、心通わせる関係を築くことができて実生活で結婚し幸せになる人だっています。
 
運悪く、そういったバーチャルな出会いをした人が事件に巻き込まれたりすると、「最近の若者は・・・」なんて変にそこだけ強調されてニュースで流されることもあったりしますよね。
 
でも、よくよく考えてみれば、そんなの現実世界だって同じです。
 
たとえばあなたの家の5軒隣の人について、どの程度知っていますか?

隣の人ならまだしも、そこからたった4軒離れただけで、どんな人が住んでいるのかすらまったく知らないことって、けっこう多い(苦笑)
 
そうかと思えば何年も勤めた会社内でも、気が合う人合わない人がいる。コミュニケーションの頻度的には、5軒隣の人よりかはるかに多いのに、心が通じなかったりしませんか?
 

人間関係って本当に難しいです(苦笑)
 

逆にものを言う口がついているがゆえに、ウソをついたり誤解を招いたりするのかもしれませんね。心さえ通っていれば、さた六とシロのように口などきけなくても深い信頼関係が築けるのかもしれません。
 

「犬吠森」、いいお話だなぁ・・・。

個人的にはその後、さた六の遺体はちゃんと葬られたのかが心配ですけど(苦笑)

後から通りかかった人が発見したとしたら、そこにあるのは大きな石のそばに倒れている(おそらく首をはねられたので胴体だけ?)遺体だけだったでしょうから、恐ろしい光景だったと思われます(怖)
 
あっ。

いいお話の余韻を壊してしまった(苦笑)
 

とりあえずこのお話で分かったことは・・・
 
「ザキトワさんの選択は正解」でしたー!!!www