「飯降山(いぶりやま)」と、感情のコントロール | 花緒no心理学ブログ

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ものの見方転換アドバイザー、心理カウンセラー花緒の、昔話分析
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こんにちは!ものの見方転換アドバイザー・花緒です!
今日もご覧くださいまして、ありがとうございます(*^^*)
 
ここ最近暑いですね!!ついこの前まで春だったのになぁ。

毎年暑くなる時期が早まっているような気がします。季節が少しずつズレてるような。まだ5月だからと油断せず、皆様水分補給を忘れずに!!(^^;
 
 
さて、今日は福井県に伝わる「飯降山(いぶりやま)」のお話をご紹介します。

この山の名前の由来となった昔話です。
 

ざっくりストーリー
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昔、三人の尼が修行のためにある山に入りました。
 
女性とはいえ尼の修行は大変厳しく、殺生はできないので食べ物も山に生える草や木の実、きのこなどしかありません。ときたま下山してふもとの村で托鉢に回るのでしたが、三人の尼さんたちのやせ細った姿から、十分な食べ物はとれていないのがあきらかでした。
 
ある日、三人が修行中、一番若い尼さんが空からなにかが山の頂上あたりに落ちてくるのを見ました。一体なんなのだろうと尼さん三人で山頂へ行ってみると、切株の上になんと握り飯が三つ、ちょこんとおいてあるではないですか!

しかも握り飯は今作ったかのように、温かかったのです。
 
尼さん三人は、これはきっと仏様が自分たちのことを思ってお恵みくださったに違いないと、ありがたく握り飯をいただくことにしました。
 
それ以来、握り飯は毎日空から降ってくるようになりました。

その握り飯のおいしいこと、おいしいこと・・・。三人の尼さんたちは、心から感謝しました。
 
そうするうちに季節は冬になり、山は雪に埋もれ、尼さん三人はいよいよ食べ物に困るようになりました。口にできるのは、毎日山頂に降ってくる握り飯だけ。空腹はやがて彼女たちの精神を錯乱させていきました。
 
そしてある時、尼さんのひとりが、ほかの二人を崖から突き落としました。尼さんは、握り飯を独り占めしたかったのです。
 
ところがそれ以降、握り飯はぴたっと降ってこなくなってしまいましたとさ。
 
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握り飯が降ってきたという伝説から、この山は「飯降山(いぶりやま)」と呼ばれるようになりました。福井県福井市にある、市では一番高い山です。地元では昔から五穀豊穣の神が宿る霊山として愛されているそうです。
 
このお話もまた諸説あるのですが、崖から突き落として殺したというもののほかに、実は殺して食べてしまったというものもあるようです(怖)

いわゆるカニバリズムですね。
 
仏の道を歩む修行というのはとてもとても厳しいと、僧侶の方から伺ったことがあります。煩悩を心から追い出すために様々な修行があり、己との闘いなのだと。昔のことならなおさら、厳しい修行をこなさなくてはならなかったでしょう。
 
このお話でほかの二人を殺した尼さんは、心が弱かったのでしょう。ほかの二人の握り飯まで食べたいという欲に勝つことができませんでした。
 
それでもそんな極限状態まで追い込まれても山を下りるという選択をしなかったのには、なにか大きな事情があったのかもしれません。
 

人間が思い悩むことの大きな要因は、過去起こったこと・したことに対する後悔と、将来に対する不安だと言われます。いくら悔やんでも過去は変えられませんし、いくら心配しても未来は見えません。それだけに、この悩みは人の心をとらえて離さず、もんもんと悩んでしまうことになります。
 
ですが、この手の悩みをあまり抱えないといわれる人たちがいます。

それは、実はお寺の僧侶。

実際に過去、そういった研究をされて、結果がそうだったらしいです。
 
僧侶は今、その時の自分の心の中にある煩悩を消すために、お経を唱えたり滝に打たれたり、さまざまな修行をします。「今、この時に集中すること」 実はこれが、悩みを消す一番の特効薬だったのです。
 
人は感情で動く生き物です。ですが、感情はコントロールすることができます。

例えば誰かと口論になったとしましょう。カッと頭に血がのぼり、ぶっとばしてやる!!と思うときもありますよね。
 
でも、そう思ったからといって、本当に相手を殴ることはほとんどありませんよね。これはつまり、「感情」と「行動」は切り離すことができる、ということを意味します。
 
この野郎、ぶっ飛ばしてやる!!と思ったからといって、自動的に腕が動いて相手をブン殴るということは、絶対に起きません。殴ったとしたらそれは「かっとしてつい」ではなく、自分が相手を殴るという行動をとった、ということなんです。自分で殴るという判断をして行動を起こしたわけです。確信犯です。
 
僧侶は、修行をする中で、これを会得するのだとか。

つまり感情は感情としてあっていい。でも、行動と感情はまったく別もので、感情が動いたとき、自分の心の中では今、なにが起こっているのか?を冷静に俯瞰して見ることで、心に平安をもたらすわけですね。
 
こう考えると僧侶ってスゴイ(@@;
 
感情と行動を切り離す。
 
かっとしたら、自分のその感情を俯瞰してみましょう。
 
今、わたしは怒っている。なんで怒っているのだろう?相手のなにが気に障ったのか?
 
そうすると、自分の心の奥底にある感情が見えてきます。
 
馬鹿にされた気がしたとか、理不尽な責めを受けたとか。自分の「沸点ポイント」がわかっただけで、実はさきほどの怒りはだいぶクールダウンしていることに気づくはずです。
 
物語に出てきた尼さんはこれができませんでしたが・・・心のからくりを知ると、感情はコントロールできるようになります。
そうしたら、もっと「悩まずに」肩の力を抜いて楽に生きることができるようになりますよ。
 
ぜひ、おためしあれw