テスラ逸話集 | ひろじの物理ブログ ミオくんとなんでも科学探究隊

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 エジソンの同時代の発明家ライバル、テスラです。日本では無名に近いけど、その功績は大きく、エジソンが物理の単位名に名を残せなかったのに対し、テスラは磁束密度の単位として名を残しています。エジソンのように実利的な成功は得られなかったけれど、科学者から得た名誉では、テスラの勝利といえるのではないでしょうか。

 昔集めたテスラに関するメモに、最近のものも追加して、逸話集を集めておきます。

 テスラはクロアチア生まれのセルビア人。フランスでエジソンの会社に雇われたのち、アメリカに渡っています。交流と無線通信で数々の特許を取りながら、どちらでも実利的な成功を得られなかったのは、技術の問題こそがすべてを解決するという頑固さが足かせになったためでしょう。

 

◆テスラとノーベル賞

 ハンガリー時代から発明家であったが、28歳のときにアメリカへ移住しエジソンと提携して働いた。しかし、エジソンが約束どおりの金を払わなかったことから仲間割れし独立。難しい性格で、彼を怒らせないで交際することは不可能であった。晩年はハトを飼育し愛情のすべてを注いだ。

 交流の実用化に貢献。効率的な交流の送電のために変圧器を発明。交流で動く電動機も発明した。直流をすすめるエジソンと対決しエジソンを打ち破った。1912年、テスラとエジソンの2人ともノーベル賞候補とされたが、テスラがエジソンと共同で受けるのを嫌がったため実現しなかった。

(科学技術人名辞典・アシモフ)

 

 アイザック・アシモフは自分の本でテスラについてはあまり多くを語っていません。テスラとエジソンのノーベル賞騒動についてのアシモフの見解は、アメリカで一般に信じられているものです。アシモフもこれに倣ったのでしょう。しかし、ノーベル賞委員会にはテスラが受賞対象者となったという記録がないため、どうやらこの一件は、当時の新聞社が「勇み足」で起こしたガセネタ騒ぎだったようです。(エジソンは受賞対象者としての記録がある)

 

 それにしても、テスラがノーベル賞の候補者にあがらなかったのは、今の基準からすると、解せません。テスラが交流モーターを発明し、多相交流による効率的な送電を開発したことは、特筆すべき業績です。マルコーニは無線によってノーベル賞を取りましたが、マルコーニの技術はほとんどテスラの技術の焼き直しですから、マルコーニとテスラの同時受賞もありえたはずです。こうやって考えると、テスラは少なくとも二回、ノーベル賞を取って当然だったことになりますね。

 ノーベル賞第一回の受賞者はレントゲン。

 テスラとエジソンのノーベル賞騒ぎがあった年の受賞者はX線回折のブラッグ親子でした。この受賞には、寺田寅彦の裏話もありますが、それは別記事で(*1)

 初期のノーベル賞の受賞では、ヨーロッパ勢がだんぜん優勢でした。それは、この頃はまだアメリカは科学会では異端児だったからです。

 ノーベル賞が純粋に科学の功績を称える賞でないことは、設立当初から同じだったのでしょうね。現在はアメリカ勢が圧倒的に有利。これも困ったものです。

 

(*1)科学者タロット解題〜16塔 寺田寅彦

 

◆強迫性障害

 テスラは幼い頃から、1つの幻覚に悩まされていた。それは、何かの対象について考えたとたん、その物体が目の前に出現することだった。物体はたしかな量感、質感を備えていたため、それが本物かどうか、兄や二人の姉にたしかめなければならないほどだった。困惑した彼は消去法を発見しようとしたが、どうしてもうまくいかなかった。

 しかし、この迷惑な力が数学の勉強には役立った。与えられた問題は絶対に消えず、頭の中の黒板には必要な計算と記号がたちどころに出現するのだった。

(知られざる天才ニコラ・テスラ・新戸雅章)

 

 ちょっと信じがたい話ですが、側頭葉てんかんや強迫性障害の可能性を指摘する人もいるそうです。側頭葉てんかんは、幻覚幻聴幻臭などの症例があり、強迫性障害は繰り返し不快な思考や衝動、イメージなどが繰り返される人格障害。

 テスラは後に発明した複雑な装置を設計図なしに作っていますが、この人並み外れたイメージ力がないと不可能なことだったでしょう。これらの「障害」が、テスラの「天才」を支えていたともいえます。

 

◆感覚過敏

 ブダペスト時代、テスラは日に5時間しか休まず、睡眠時間は二時間のみ。残りはすべて仕事にあてた。その代償として、まもなく重度の精神的病に侵され、仕事を中断するはめに陥った。

 テスラによれば、症状の一つはすべての感覚器官の異常な鋭敏さだった。もともと感覚の鋭さは自認していたが、今度ばかりは度を越していた。最悪の状態では、三部屋先の柱時計の音がはっきり聞こえ、テーブルに降り立つハエの羽ばたきがバタンバタンと耳を圧した。鋭敏さは全身に及び、数キロ先の雑踏や30キロ先の汽車の汽笛が、身体や椅子を激しく揺さぶった。(中略)感覚はとぎすまされ、暗闇の中でも三メートル先の物体を識別するほどだった。身体は絶え間ない痙攣に襲われ、脈拍は平常と最高毎分260の間を上下した。

(知られざる天才ニコラ・テスラ・新戸雅章)

 

 自閉症スペクトラムの人にも、これと同様な感覚過敏が起こる場合があるそうです。

 テスラは二枚目で、ヨーロッパ講演で成功したときには、さまざまな女性から熱い視線を浴びたのですが、何も起きませんでした。同性愛説まで語られたほどですが、若い頃に熱愛した女性がいたと本人がいっていますので、これはハズレでしょう。むしろ、強迫症のやっかいな性格を抱えたまま女性とつきあうのは大変だったんでしょうね。本人は「結婚した人間によってなされた偉大な発明をあげることはできない」といっています。

 

◆異常症状オンパレード

 テスラは懐具合にかかわらずホテルや高級レストランで優雅なディナーを摂るのがつねだった。重度の細菌恐怖症のため、清潔なテーブルクロスと18枚の新しいナプキンを店に用意させて、それでナイフ、フォーク、皿などを一つずつ吹くという儀式が不可欠だったのである。(中略)ほかにも、すべてのものを機械的に数えないと落ち着かない計算強迫障害、野生のハトに対する溺愛、闇への嗜好、丸いものに対するコンプレックス、女性のアクセサリーに対する恐怖症、女性の髪にふれることができないという強迫観念、樟脳の臭いに対する過敏さ、視覚と嗅覚のように二つ以上の感覚が錯綜する共感覚、父ミルティンももっていたとされる独言癖など(以下略)

 

 むしろ、これだけの症状を抱えながら、数々の発明を成功させた集中力に舌を巻きます。

 

◆シュタインメッツ

 複雑な交流回路理論を複素数を使って数学的に完全なものにした。(中略)彼の書いた教科書によって、電気技師の間にその理論が浸透していき、テスラが開発した交流は完全に直流を押さえてしまった。

(科学技術人名辞典・アシモフ)

 

 交流回路の電圧・電流は三角関数の和で表され、それは数学的には動径ベクトルの和として表されます。ベクトルは複素平面内の複素数で表すことで計算が簡単になるので、シュタインメッツの複素数理論は、交流回路の標準理論になりました。現代の大学で履修する交流回路理論も、この複素数を用いたものになっています。

 

◆エジソンとテスラ

 あだ名を付けるのが好きだったエジソンは、新しく仲間に加わったテスラを「われらがパリジャン」と呼び、ゴーアク街の工場で発電機の修繕を担当させた。エジソンはテスラの発想を「すばらしいとは思うが少しも実用的でない」と酷評した。

 1888年の春に開かれた全米電気技師協会の総会での講演「新システムーー交流発電機と変圧器」に興味を持ったのがウェヅティングハウス。

(エジソン20世紀を発明した男・ボールドウィン)より一部編集

 

 エジソンはこのような「冗談」をよく部下にやって「ハッパをかけていた」ようです。悪気はなかったのでしょうが、他の部下と違うのはテスラは本当に頼まれた仕事を成功させてしまったのです。エジソンが自分の言葉に責任を持つ上司なら、テスラとの約束を守ったのでしょうが、どっこい、エジソンはそういう点ではひどく「人間くさい」性格です。

 アメリカには、ブラヴァツキー婦人によって作られた神智学協会という、スウェーデンボルグを開祖とするオカルト的な会があり、エジソンもその会員だったのですが、成功してからその話題がマスコミに取り上げられると、エジソンは必死にそんな会とは無関係だと突っぱねました。(どこかの国の政治家みたいですね)その会の会員名簿には、彼の名前がちゃんと記載されていたのですが、それも神智学協会の思い違いだと言いはったのです。こういう人ですから、部下とのちょっとした約束を反故にするなんて、朝飯前だったんでしょう。

 

◆エジソンの先行

 テスラが研究所を開いた1887年には、エジソン系の発電所は五十七ヶ所に増え、全米で数十万個の電球が灯されるまでになっていた。

(知られざる天才ニコラ・テスラ・新戸雅章)

 

 なんといっても、エジソンは蓄音機、白熱電球の社会的な成功で、アメリカではすでにビッグネームになっていました。エジソンは直流による送電システムを作り、白熱電球を売りまくっていたのです。

 しかし、こうして直流送電が実用化されていくと、徐々にその欠点、つまり、送電線でのエネルギーロスが大きく、家庭に届く頃には電圧がかなり下がっていることがわかってきました。そして、それを改善する見込みがないことも。

 

◆エジソンの戦略

 エジソン陣営は、交流の危険性とウェスティングハウスの特許侵害に対する非難声明を出し、大量のパンフレットを配布した。また、送電電圧の上限を800ボルトとする法律制定を議会に働きかけて、交流による高圧送電の利点を削ごうとした。

(知られざる天才ニコラ・テスラ・新戸雅章)

 

 テスラを擁したウェスティングハウスの交流派と、エジソン率いる直流派の、いわゆる「電流戦争」は日に日に激化していきました。「電流戦争」は二社の対決にとどまらず、電気業界全体の問題でもありました。

 交流は直流に比べて複雑で、しかも、当時はまだ交流によって動くモーターがなかったので、最初は直流を支持する技術者が多かったのですが、テスラの開発した交流で簡単に動く誘導モーターの登場で、形勢が逆転します。モーターの問題が解決すれば、送電のエネルギーロスを抑えることのできる交流の方が有利なのは、誰から見ても明らかだったからです。

 焦ったエジソン陣営は、なりふりかまわず、直流の優位と、交流の危険性を宣伝するようになります。

 

◆エジソンの暴走

 ウェストオレンジの彼の大研究所では、痛ましい居雪の実験が始められた。新聞記者や客を招き、その前でエジソンとバチェラーが、1000ボルトの交流発電機に動線をつないだブリキ片に、イヌやネコをじりじりと近づけていくのであった。そうして処刑されるイヌやネコは一匹25セントで買い上げられ、学童たちが熱心に集めてきた。(*)

(エジソンの生涯・マシュウ・ジョセフソン)

 

(*)イヌは人間と比べて体重が軽いという批判を受け、批判の後、馬、象なども感電死させている。

 

 追い込まれたエジソン陣営は、ついに禁断の扉を開け、暴走を始めます。これはもう、マッドサイエンティストの領域ですね。エジソンの研究所のあった街界隈ではノラ犬、ノラ猫の姿が消え、それで足りないので、業者から犬猫を買って実験に使いました。それはさらにエスカレートし、馬や象まで感電死させるデモンストレーションをするようになります。

 この感電死実験に使った交流発電機は、おそらくウェスティングハウス社のものでしょう。エジソンが完成させた電気椅子の交流発電機は、秘密裏にウェスティングハウス製の中古品を買い求めて作ったそうですから。

 後年、オカルト関係者がテスラを持ち上げたことで、テスラに「マッドサイエンティスト」のイメージがついてしまいましたが、本当の「マッドサイエンティスト」は、むしろエジソンの方だったのではないでしょうか。

 

◆レントゲンとテスラ

 1896年1月、ドイツの医学者ウィルヘルム・レントゲンがイギリスの科学雑誌「ネイチャー」に「新種の放射線」の発見を報告する論文を掲載した。論文には、発見者が「X線」と命名した未知の放射線が記述され、それを使って「手の指の骨」を撮影した写真が添えられた。

 テスラも(中略)すぐにX線写真の撮影に成功した。この写真をレントゲンに送ると、丁寧な礼状が届いた。「この写真はきわめて興味深いものです。できれば撮影方法を公開していただけるとありがたいのですが」

(知られざる天才ニコラ・テスラ・新戸雅章)

 

 じつは、放電実験をいっぱいしているテスラは、レントゲンより先にX線撮影に成功していますが、それをX線によるものだと気づきませんでした。科学史では、こういうことはとてもよくあることです。

 レントゲンもまた、テスラとは理由が異なりますが、実利的な成功をつかむことはありませんでした。

 

◆人工地震

 事件後、この出来事を検討したテスラは、研究所の周囲よりも、遠方の警察署で揺れが激しかった理由は共振にあると考えた。(中略)研究所の機械振動子から振動が周囲に伝わる途中に、警察署という共振源に出会い、振動が拡大された結果、大きな揺れになったというわけである。

 テスラはこの考察に基づいて、共振を地球的規模まで拡大すれば、「子供がりんごを割るように」地球をまっぷたつにできると主張した。

(知られざる天才ニコラ・テスラ・新戸雅章)

 

 共振によって地震の被害が大きくなることに気づいたのが、自分の作った人工地震装置による騒ぎだったというのが、いかにもテスラらしい逸話です。こういう逸話に尾ひれがついて、オカルト的なイメージがついていったんでしょうね。

 まあ、テスラ自身がこういうぶっそうな発言をたびたびする人だったので、半分くらいは自己責任でしょうが。

 

◆交流モーター

 交流は、直流に比べあまり役立つようには思われなかったが、1883年、クロアチアの電気技師テスラ(1856-1943)は、役立つ仕事に交流を利用できるように誘導電動機を作り上げた。エディソンは直流に執着し、交流を使うことに反対の立場をとったが、最終的には交流が主流となった。

(科学と発見の年表・アシモフ)

 

 回転磁場による誘導モーターは、今でもファンなどに使われています。テスラは工科大学にいたとき、講義で見た直流モーターの整流子に火花があがるのを見て、その効率の悪さに学生時代に気づき、交流で動くモーターを作れば、この火花問題が解決すると指摘しています。すでに交流モーターというイメージは学生時代から持っていたのですね。

 

◆マーク・トウェインとの友情

 トウェインは多彩な才能の持ち主で、出版事業を営む実業家であり、特許を保有する発明家の顔ももっていた。それだけにテスラの研究に対する興味も人一倍強かったのか、東ヒューストン街の研究所をひんぱんに訪れては、その発明品やデモンストレーションを見るのを楽しみにしていた。

(知られざる天才ニコラ・テスラ・新戸雅章)

 

 マーク・トウェインは『トム・ソーヤの冒険』などで知られる、問答無用のアメリカの文豪。当時の流行とはいえ、アメリカのSPR(心霊現象研究協会)にも顔を出していますが、テスラはSPRには興味がなかったようで、SPR関連の書物にはテスラの名前は登場しません。

 1892年2月のヨーロッパ講演では、デュワー、クルックス、JJトムソン、オリヴァー・ヘビサイト、フレミング、ケルヴィン卿が講演につめかけ、当時の王立協会会長だったレーリー卿に絶賛されます。クルックス、ヘヴィサイト、レーリー卿は、イギリスの本家SPRに深く関わった人たちですから、マーク・トウェインとも交流があったと思われます。不思議な因縁ですね。

 

◆予言

 (ギムナジウム時代)教室に展示されていた教材用の水車模型に興味を惹かれたテスラは、自分で何種類もの水車を組み立てた。本でナイアガラ瀑布のことを知ったとき、彼の中で二つのイメージがつながった。興奮した少年は、親戚のヨシブおじさんにこう宣言したという。「いつか、ぼくはアメリカに行って、ナイアガラ瀑布を利用して力を作るんだ」三十年後、この予言は現実のものとなった。

(知られざる天才ニコラ・テスラ・新戸雅章)

 

 テスラと組んだウェスティングハウスが、エジソンとの「電流戦争」に勝利して、ナイアガラ瀑布に水力発電所を完成させたのが1895年のこと。おもしろいことに、このとき発電にはウェスティングハウスの2相交流システム、送電にはGE社の3相交流システムが採用されています。GE社はもともと直流を推進してきたエジソン・ジェネラル・エレクトリック社だったのですが、エジソンの名をはずして再出発した会社。エジソンの直流を捨て、ライバルの交流を使うようになっています。

 

◆アメージング・ストーリーズ

 晩年のテスラを支えたのが、テスラの最大の賛美者であるヒューゴー・ガーンズバックだった。(中略)発明家としては成功せず、その頃全米に広まりつつ会ったアマチュア無線熱に乗って、無線部品の通販ビジネスに乗り出して成功した。また、電気や無線の最新情報を扱う大衆向け科学誌でも成功をおさめた。こうした雑誌のヒーローは、発明王エジソンであり、大西洋横断無線通信のマルコーニであり、とりわけ「電気の魔術師」テスラだった。

(知られざる天才ニコラ・テスラ・新戸雅章)

 

 ガーンズバックは1926年に世界初のSF専門誌「アメージング・ストーリーズ」を創刊した、アメリカSFの生みの親。さまざまな不幸な失敗により世間から忘れ去られようとしていたテスラの名を、再び広めたのがガーンズバック。テスラもガーンズバックの雑誌にはたくさんの記事を書いています。テスラに「マッドサイエンティスト」的なイメージがついていったのは、SF雑誌により名が広まったことも影響があったでしょうね。

 

 

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