ノモンハン事件

出陣学徒壮行会(2025/10/21)

82年前の今日、明治神宮外苑競技場(現;国立競技場)にて東京都内の大学の男子学生、約25,000人に対する出陣学徒壮行会が行われた。いわゆる戦時中のニュース映画で有名な“あれ”である。

この度、調べたところによると、同じ時期に全国各地で行われたようだ。神戸では三ノ宮の東遊園地で行われたという。

 

学徒出陣(日本ニュース 第177号 昭和18年)

 
さて、今回、紹介する番組は、NHKスペシャル「雨の神宮外苑~学徒出陣・56年目の証言~」(2000年放送)である。
 
この番組の凄いところは、上記、日本ニュースの原版フィルムが発見された…というところから始まる。ニュース映画は5分足らずだが、原版映像は約15分。その映像には、行進曲(“陸軍分列式行進曲”)を演奏する陸軍軍楽隊や、この日のために動員され、スタンドを埋め尽くした東京都内 約30校の高等女学校、専門学校の女子学生たち、約25,000人の姿も捉えられていた。
 
そして何より、この壮行会に参加し、映像に映る当事者である大学生たちや、女学生が当時を振り返る点である。
2000年当時、彼らはまだ70代であり、証言する姿もしっかりと力強かった。
 
また、ニュース映画の方ではよくわからないが、壮行を受ける男子学生たちの心理を鼓舞すべく、巧みな位置に女子学生たちが配置されていたという。当日は朝から土砂降りの雨。だが、男子学生も女子学生も、その全く記憶が無い…
 
~以下、証言のまとめ創作~
男子学生の隊列がスタジアムの入口にさしかかると、軍楽隊の演奏する行進曲が遠くから聞こえ始め、マーチに歩調を合わせ隊列を整える。やや薄暗い通路を抜け視界が開けると、軍楽隊の演奏、場内を埋め尽くす観客、そして右手スタンドには25,000名の女学生。男子学生たちの脳裏には、否が応でも彼女たちを守るために戦場に向かうのだ…という責任感に加え、晴れ舞台に立ったというような一種の高揚感があったという。
そして、ハプニングが起きた。スタンドを埋め尽くす女学生の一群が、男子学生の隊列に向かって雪崩打つように駆け寄ったのだ(※彼女らの白のブラウスにより、本当に雪崩のように見えたかもしれない)
だが、男子学生たちは微動だにせず、隊列を維持したまま行進を続ける。この女学生の一群の行為は、当時の倫理観においては大変恥ずかしいことだったという。それでも女学生たちは男子学生の隊列に駆け寄らざろう得ない心理状況に陥ったのだという。現代に例えるなら、TV中継があるような重要な式典の壇上に駆け上がってしまうような感じだったのだろう。
ちょいと懐かしい始まり方…
 
現在の国立競技場(東京五輪2020の前の状態)にて、昭和18年…朝から降り続いた土砂降りの雨の中、壮行会は行われた。男子学生も女子学生も、凄まじい熱気で激しい雨の記憶はほとんど無いという。
 
陸軍戸山学校軍楽隊と、ニュース映画には出てこない白のブラウス姿の女子学生が埋め尽くすメインスタンド。
 
当時、メインスタンドは直線だったという。
 
初回放送から25年。ご存命なら102~103歳といった方たちの証言は貴重だった。

ガザの惨状(2025/10/19)

NHKスペシャル「サラームの戦場 NHKガザ事務所の740日」を視聴。久々に鮮烈な内容の番組だった。

最近見た中では、2023/02/26放送のNHKスペシャル「ウクライナ大統領府 軍事侵攻・緊迫の72時間」に匹敵するものだった。

それよりも、まぁ、よくぞ無事で…と感じずにはいられない。2023年の直後に彼の活動を知って以降、多数のジャーナリストが亡くなる中、番組の予告が放送された際、彼の安否に率直な安堵を感じたのだった。

 

 
それにしてもガザの破壊状況は凄まじい。
先日からノモンハン事件現場での砲弾の着弾痕を調べる過程で、ウクライナの戦場とガザ地区の衛星画像を確認していた。
さすがにストリートビューで地上の状況を見ることはできないので、放送内容は特に興味があった。
ウクライナも物凄いが、ガザも、まぁよくもここまで破壊したな…ここまでする必要があるのか…いったい何の目的でここまでやるのか?地震や津波被害ではない。人間の所業である。
 
そして80年前の日本、戦後の焼け野原もまた、同様だった。
 
戦後の焼け野原の状況(神戸市・新開地周辺)
⇩国土地理院「地図・空中写真アーカイブス」
 整理番号 USA、コース番号    M324-A-6
 写真番号 52、撮影年月日 1946/11/20(昭21)

 

「サラームの戦場 NHKガザ事務所の740日」より

「サラームの戦場 NHKガザ事務所の740日」より

彼の居た付近は難民テントの凄まじいこと…

 

ノモンハン事件の戦場「川又渡し・モンゴル側」86年前の砲弾クレーターが鮮明に残る。この一帯は、ソ蒙軍の渡河を阻むべく、日本軍からの砲撃ということだろう。またいずれ現地調査に…

 

ウクライナ、バフムト近郊。こちらも完全に破壊し尽くされている。

 

砲弾クレーターの多さに唖然。どうすればこうなるのか???

 

ガザ市近郊の状況…

 

上記は同一地点だが、戦車とブルドーザーにより、農園はきれいさっぱり更地にされてしまった。

これはベトナム戦争で枯葉剤が使われたのと同じ理由から…だけとは言えないようだ。

 

これら惨状を映像で見て感じるのは80年前の沖縄戦である。ガザ地区の戦闘と沖縄戦は、狭いエリアで逃げ場の無い市民を巻き込んだ戦い…という点で、非常に似通ったものと僕は考えている。

ガザ地区は南北に45km弱、東西に7~12km。これを沖縄にあてはめると石川~嘉手納~摩文仁に凡そ、一致する感じだ。

 

2014年にシュガーローフ(安里52高地)を調査した際に感じたこと…

シュガーローフは、かつて地元では「慶良間チージ」と呼ばれ、天気の良い日には慶良間諸島が垣間見える、風光明媚な田園の中の丘だったという。

シュガーローフから眺める蹂躙された農地。天気が良ければ、写真の左端付近の水平線上(写真ではわかりにくいが水平線が映り込んでいる)に慶良間諸島が見えるらしい。

 

在りし日の慶良間チージの一帯(想像図)

シュガ-ロ-フの戦い: 日米少年兵達の戦場 (上)新里堅進・著、裏表紙より 

 

戦後、シュガーローフの北側で撮影された写真。ガザの果樹園で、このような復興が始まるのはいつの日だろうか?

 

見ごたえのあった…

ノモンハン事件の報道について(2025/10/19)途中~

1999年8月には「ノモンハン事件60年目の真実」、2018年8月には「ノモンハン 責任なき戦い」が放送された。

 

さて、

 

 

 

2000年に現地初。まさかこの番組に出てきた方々(サンダグゥオチル館長、ダシュナムさん)に出会えるとは思ってみなかったのだった。(後に考えると、現地慰霊団と当時のモンゴルでのネットワークの一つから番組が作られたということのようだ)
 
 
 
 
 

https://www.jvvap.jp/yagira_rinichi.pdf

 

 

洗濯板の使い方(2025/10/13)

~~編集中~~

 

長年、両親のインタビューを行ってきたが、時折、話題になったのが、戦前~戦後昭和30年代頃までを話題とした映画・ドラマの洗濯板の使い方である。まるでなってない…というのが両親の意見であった。

これは家事をやらない昭和一桁の父であっても同意見だったので、よほどひどい…ということだろう。(※加えて軍人さんが丸坊主でない、長髪であることも気に入らない様子…)

 

先ずは2018年に私が作ったYouTube動画なのだが、NHKドラマ「夕凪の街 桜の国2018」にてキムラ緑子さんが、泥に汚れた衣類をゴシゴシ洗っているのを観たのが最大のインパクトとなって制作したものだ。

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2018/08/08

最近の戦前~戦後を題材としたドラマ・映画を見ると、間違った洗濯板の使い方をしているものが全てと言って過言でない状況となりました。祖母や母たちの生きた「昭和」がブームとなりながらも、実際の家事労働がこのような形で、間違って伝承されて行くことに危機感を感じずにはいられません。 一方、ネット検索しても、今一つ明確に正しい洗い方を動画解説しているものがありません。これを機会に、昭和39年まで洗濯板で洗濯をしていた、昭和8年生まれの母に実演してもらい、記録に残すことにしました。

昭和10年から18年まで満州の鞍山で暮らした母によると、満州時代の時から既に洗濯板の波目にはカーブが付けられていたそうです。また、洗い方は誰に教わるでも無く、見様見真似で覚えたものだった・・ということでした。 また、濯ぎの際に、洗濯板の上下を逆に使うのが正しい方法とされている様ですが、「そんなことをしている人は居なかったねぇ・・・」とのこと。何が正解で何が間違いか?は、地域や年代によって異なる為、一括りでは言えない様です。

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実はこんなことがあった。動画作成から遡ること7年。2011年上半期の連ドラの「おひさま」にて、視聴者より、陽子役の井上真央さんの洗濯板の扱いが全くなってない…との指摘があった。もちろん私の両親も直ぐに気が付いた。この指摘は放送直後のかなり早い段階から存在し、ネット(掲示板)だけでなく、地元紙・神戸新聞のイイミミ(投書欄)にも投稿されたのだった。

 

後に私が録画で確認したところによると、放送開始直後の第7話での陽子の洗濯シーン、第73話の須藤・父の洗濯シーン、第111話で陽子がおしめを洗うシーン…こ3シーンが、まさに洗濯板に布地をゴシゴシと擦り付ける洗い方だった。

ところが 第144話では陽子は正しい洗濯法を行っており、それもかなりのアップで映されていたのだった。第7話から第144話までには約5ヶ月間の期間があるので、視聴者の指摘が取り入れられたのだろうと考えていた。

 

この一件以降、男優の長髪はともかく、これでNHKの時代考証は安泰だと考えていたところに来ての「夕凪の街 桜の国2018」だった。それもベテラン女優のキムラ緑子さんである。これはいかんと思ったのだった。

 

何か参考になる動画はないかと調べてみたところ、実際に実演している動画がほとんど存在しないことも判明した。

以下の動画が当時、一番参考になったのだが、残念ながらというか、洗う際の洗濯板の波目が逆なのである。もちろん、どちらで使ってもご本人の自由なのだが、世界中見ても和式洗濯板だけにこの波目カーブがつけられている。この意味を説明するには不適であった。もしこの動画が、波目を正規の方向で使われていたなら、母モデルの実演動画は日の目を観なかったのである。

 

さて、参考になる動画が無ければ自分で作るしかない。幸い、私のオムツ(布)を洗った母が健在ではないか…

これまでさんざん、戦前~の話をインタビューして来たし、「昭和のくらし博物館」館長の小泉和子さん著の「昭和の家事」の内容についても考察してもらったこともあった。

 

投稿後、ほどなく再生回数がUPしているのを知った。東京のとある小学校で授業に使わせて欲しいとの連絡もあったり、2022年7月にはキーワード検索でトップに表示されるようになっていた。今日、洗濯板の使い方というキーワードで検索すると、かなりの数がヒットするようになった。ここまで来ると時代考証の際にも何も知らないスタッフが参考にして、間違いも無くなるのではないか?そんな気がする。

 

NHKドラマ「夕凪の街 桜の国2018」にてキムラ緑子さん

 

あの超名作映画でも…

 

放送開始直後の第7話での陽子の洗濯シーン

 

第73話の須藤・父もゴシゴシと…

 

ところが5ヶ月後の第144話。陽子は正しい洗濯法で、ゆるゆると…

 

このシーンは「濯ぎ」なので「波目がさかさま」「水は透き通っている」とのこと。さすがです(片淵監督に確認)

BT戦車の装甲の変な穴(2025/10/13)

Xの投稿(2023/5/1)より

 

【22年を経て新たな謎が浮上】

撮影当時は小銃弾などの弾痕だと思っていた。弾痕といっても、ノモンハン事件当時のもの、もしくは、モンゴル国境警備隊の悪戯(射撃の標的)と考えていたが、どうやら違ったようだ。これら現地で確認した複数の残骸は、北京五輪による屑鉄高騰の折、回収され処分されたと聞く。今では確認することはできない。もっと調査・撮影すればよかったと後悔している。

 

② 戦車の墓場、1台目~2台目。

 

③ 戦車の墓場、3台目、及び、スンベル博物館展示車両。

 

④ 今回の気付きのきっかけとなったYoutube動画より

 

⑤ リンク先 https://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:Bt42_parola_2.jpg

⑥ それぞれの「穴」の位置は微妙に異なるが、装甲面の各パート毎に1つ空いているようだ。

 

⑦ ちなみに、射撃による装甲貫通は、以下の写真のようになる。

(※2000年、スンベル村郊外の廃材置き場にて撮影。BT-5型)

 

⑧ 貫通といっても、この写真のように、割れて抜けたような車体もあった。

装甲板の材質が安定していなかったのか?(※2000年8月、スンベル村郊外の廃材置き場にて撮影。BT-5型)

 

⑨ 探せば他にも… 

・チョイバルサンの戦勝記念公園のBT-5型(2010年撮影)

・激戦地バインチャガンのモニュメントのBT-5型(2010年撮影) 

(※ちなみにバインチャガンのBT-5は、長らく当地に放置されていたものを、1970年代に参戦兵士らの人力により、記念碑台上に乗せられたものと伝えられている。)

 

砲弾の破片(2025/10/13)

このネタは、アニメ映画「この世界の片隅に」にて、呉空襲の際の、対空砲弾が炸裂した破片被害を表現するシーンが、Xで話題となっていた頃(2017/11/4)Xに投稿したものである。

 

【砲弾の破片】

鋭利な石器の欠片と似ており、投げ釣りの錘の様な重量感がある。それが真っ赤に焼けて音速で飛んで来る。実物を見れば、砲弾の炸裂する中を主人公が駆け抜ける・・なんて不可能だという事がよくわかる。

 

実物は物凄く鋭利だ。至近距離から手で投げつけられたら、当り所が悪ければ大怪我である。ノモンハン戦場跡は乾燥地帯なので、南方の戦場跡の様に腐食が進まず、当時の鋭利さを保った砲弾の破片が多い。

 

これ1発で、半径50m以内は全滅だ・・ノモンハン事件参戦経験者がそう語っていた。

 

炸裂した砲弾の、小さな数ミリの破片がこめかみを貫通し、眠るように亡くなった方の描写が「ノロ高地(ノモンハン戦車孅滅戦記 )」(草場榮著)にはある。

 

散在する八九式重擲弾。バルシャガル西・733高地、司令部跡。 (ノモンハン事件の現場にて2010年8月撮影)

Kさんの戦争体験(2025/10/13)

Xの投稿から

 

2015年11月、平成12~13年とノモンハンで一緒だった東京のKさんと14年ぶりの再会を果たす。当時は慰霊団の副団長。また、後の厚生労働省の遺骨収集団の現地案内役を務めた方である。

 

また、Kさんは、シベリア抑留も経験され、引揚げ後、航空自衛隊発足までの間に東宝に入社。東宝争議なども経験されたユニークな経験をお持ちの方だ。 戦闘には参加したことが無かったそうだが、97戦を操縦した経験や、館林の航空学校で空襲に遭い、九死に一生を得た経験をお持ちである。

 

Kさんからは、航空自衛隊時代の裏話も何度となく聞く事ができた。 また、97戦を操縦した経験があるということで、西原大叔父の話も当時から知っており、私とは何か通じるものがあった。そんな経緯もあり、ノモンハン現地でもKさんと一緒にいる時間が多かった。

 

Kさん、航空学生の頃、館林の航空学校で空襲に遭った。逃げ遅れて一人走っていると、爆弾が落ちて来て目の前のコンクリートの床に突き刺さった。落ちて来る爆弾を見ながら、自分はどうなるのかな?などと、冷静に考えていた。そして、ふと振り向くと、コルセアが襲い掛かって来た…

 

Kさん、我に返って急いで塹壕(たこつぼ)に飛び込む。そのままぼんやりしていたらやられる所だった。飛び込んだ途端、コルセアの12.7 mm機銃6門による炎の嵐・・・上空で、爆弾を落とした機と無線更新しながらの連携プレーだったのではないか?・・とのこと。

 

この話を聞いた時、私は、一人の日本人少年を殺す為に、2機がかりでこんな事までしたんだなと・・・戦争の残忍さをひしひしと感じた。コルセアの搭乗員達にとってはゲーム感覚だったのかもしれないが…

 

Kさん一人を殺そうと二機が連携して・・本土空襲の後半、米軍戦闘機隊では、日本人は全員戦闘員であるとの認識を持たされていたという。竹槍訓練など、国民が一丸となって米軍上陸に際し、戦う準備をしていた・・というのがその理由だ。

 

訓練学生だったKさんを襲ったのは海軍のコルセアであり、番組で取り上げられていた本土爆撃隊の、随伴戦闘機隊による一般国民に対する無差別攻撃とは話題は異なるが、非戦闘員であるはずの女子供に戦闘訓練を行えば、それは米側から見れば、ある種の理由付けとなるのは仕方が無いと思えた。

占守島の戦い・N団長の証言(2025/10/13)

この元ネタは、Xの投稿をまとめ化(スレッド化)したものである。

N団長の証言については、私自身は信じている…が、その一方で裏取りが必要だとも考えている。おそらく、下記の文章を読んで「ウソつけ!」と思われる方も多いだろう。

N団長がハルビン特務機関員だったという点については、現地慰霊を取り仕切ったノモンハン会(閉会)でも全く信じられていなかったらしい。結果としてN団長はノモンハン会と袂を分かち、独自に現地慰霊を行うようになった。

信じてもらえなかった理由が、N団長が当時、師団付き将校だったという記録による。N団長曰く「潜入していたのだから当然」だと。

 

私がN団長を信じている理由の一つが、ノモンハンで一緒だったKさんの証言。KさんはN団長と共にソ連に抑留されたのだが、戦後、モンゴル民主化以降のノモンハン現地慰霊の初期(1990年代)になって初めてN団長が特務機関員だったと知らされたという。抑留の際は「占守島で壊滅した池田戦車隊に所属」と語っていたそうだが、当時、KさんはN団長のことを「戦車兵にしては身体が大きい…」と違和感を持っていたのだという。

 

さて、

① N団長は、ハルビン特務機関員としてノモンハン事件に参戦。訳ありでハルビンにおれなくなり内地へ移動。中野学校教官を経た後、昭和17年、日露漁業の社員に扮してカムチャッカに潜入。ソ連軍の動向を探っていた。 カムチャッカには足掛け4年居た。

 

②昭和18年、千島列島に8個師団・12万の配置。しかし、昭和19年、本土防衛に回す。輸送船がほとんどやられて撃沈。実質の戦備移動は出来なかった。

 

③千島方面には3万5千程度の兵しか残されてなかった。一方、武器、弾薬、燃料はそのままだった。少数の兵士で武器・弾薬の管理を全て行わなければならなかったので、大変だった。これは中央による管理の押し付けと言える。

 

④昭和20年8月9日、海軍の徴用船・最後の船便?信濃丸(日魯漁業)にてカムチャッカ脱出。ソ連軍侵攻は短波ラジオからの情報で知っていた。14日、カゲヌマ(?)電探にて、ポツダム宣言受諾を知った。15日の玉音放送はほとんどの兵士には聞き取れなかった。

 

⑤占守島には、8月17日の23:30にはソ連軍は上陸していた・・・と考えている。(でなければその後のつじつまが合わない)戦闘は21日まで続いた。ソ連軍艦船は、上陸前に航空隊により8隻撃沈された。戦車第11連隊の19台は対戦車銃(?の意味)でやられた。

 

⑥戦車第11連隊の池田大佐は良く知っている。(ハルビンで)何度か会って話(食事)をしたことがある。 8月21日、トヨヒラ川までソ連軍を押し戻す。もう一押しで完全に砂浜まで押し返すところだった。

※ここまでの証言は、後の記録(戦闘詳報)などと照らし合わせてのコメントという印象を持つ。

 

⑦武装解除はミヨシノ飛行場にて日本軍自身の手で行われた。その際、ソ連軍は怯えて寄って来なかった。(※砂浜に押し返されるほどにやられた為)軍備品にはなぜか提灯などもあった。

 

⑧40tの弾薬を工兵が梱包爆薬にしていた。それをミヨシノ飛行場に置いていたところ、ソ連軍が誤って爆発させてしまった。自分は飛行場から1km附近にいた。やる事も無くぶらぶら遊んでいたら、15時頃、突然、大爆発が起き、爆風で吹き飛ばされた。

 

⑨大爆発の跡地に行くと、米国から援助を受けたソ連側のトラックのタイヤしか残っていなかった。

 

⑩爆薬の後処理(爆破)は全て日本軍にさせた。命がけの作業。使える武器はソ連の大型貨物船を使ってソ連へ運んだ。移送作業は概ね1ヶ月間かかった。航空燃料や爆薬(500kg)は全島200m間隔で備蓄された。(※停戦後の処理)

 

⑪現地では砲兵と一緒に戦った。霧が深かった。3回目の軍使でようやく(停戦の)連絡が取れた。 占守島ではソ連を徹底的にやっつけたが、本家(本土)が負けてしまったのではどうしようもない。

佐世保空襲(2025/10/12)

父が佐世保学徒動員で見た佐世保空襲をXにて以下のように投稿した(2021/06/29)

 

①この時、唐津商業学校からの学徒動員中だった父達は、日宇の宿舎の裏山に逃げ込み、真っ赤に染まる夜空を見ながら朝まで過ごした。

 

②学徒動員に出たのは昭和19年、唐津商業学校3年の2学期以降と思う。佐世保第21海軍工廠・自動車部に配属された。現場の作業員は、工員と工作兵に分かれていた。動員生徒は工員の手伝いが主な仕事だった。早岐→大塔→日宇で終戦となる。長崎に行っていたら原爆で人生は終わっていた。

 

③早岐では朝鮮人工員の指揮で道の造成に携わった。発破をかけた瓦礫をブレーキ付きのトロッコで運んだ。朝鮮人工員は日本語が堪能。この早岐の道は現在でも残っている。早岐では土木作業が中心。大塔の宿舎に移動してからも土木作業。日宇の宿舎に移動してからは鋳物工場での作業だった。

 

④早岐の宿舎は山の斜面にあり、便所が斜面から突き出ており、便壷部分が斜面の下の方にあった。大塔では同級生が他の動員生徒と揉めて決闘を起こし、停学になった。その後、彼は予科練に進んで仮屋の予科練訓練所(?)に進み、姉の世話になったという(※父の姉、私の伯母)

 

⑤戦後、彼が姉から、私(父)が彼と同級生で、同じ佐世保に動員に行ってたことを知ると、同窓会などで会いに来るようになった。 (※父は仮屋の予科練訓練所と言ってるが正式なところはわからない。仮屋に予科練関連の施設があり、祖母や伯母が世話しに行ってたということらしい)

 

⑥日宇の鋳物工場は、ふるいの砂が舞い上がり、ススけた作業場所だった(※鋳型の砂を再利用するため砕いてふるいにかける)胸をやられると考え、体力的には厳しいが外でコークスを運ぶ仕事に回った。隣の工場では旋盤作業をしていた。

 

⑦溶銑炉の作業は工作兵・姫野兵曹とペア(?)コークスと鉄鉱石を溶鉱炉の上から投げ込んで行く。鉄が溶けきった頃、鉄の長い棒(バール)を炉の下部にある口に突き立ててハンマーで叩く。ぐるぐる回して引き抜くと穴から真っ赤な銑鉄が流れ出て来る。それを内側を粘土で固めたバケツで受ける。

 

⑧丸い鉄の円盤が付いた棒(持ち手の部分は曲げてある)の先に、おにぎり形(円錐形)に粘土をつけ、銑鉄が流れ出る炉の穴に押し込むと流れが止まる。

 

⑨しかし、時に銑鉄の流れが止まらず、(閉じた粘土の)脇から線香花火のようにピッピッと漏れ出すと、もうどうにもならない。一同が逃げ出すと、銑鉄は一気に流れ出し、作業場のあたり一面に銑鉄が広がる。跡片付けが大変だった。

⑩屋外に置かれた資材の上に大きな雨避けのシートが架けられていた。それを夜間、盗みに行った。破る時に大きな音がしたが緊張感はなかった。門を出る時(宿舎に戻る際)監守に見付からないよう腹に巻いて出た。

⑪帰郷の際にその布(盗んだ雨避けシート)で母にズボンを作ってもらった。布が無い時代、非常に良い生地だったのだが、固すぎて又ずれが起きた。 (※工場での泊り勤務があったのではないか?その際にシートを切り取って盗み、工場外に持ち出したのだと思う)

 

⑫溶銑炉用のレンガが不足し、隣の部門まで夜間に盗みに行った。守衛がライトを灯して歩いて行くのが見え、壁ぎわを腹ばいになって隠れながら進んだが、非常に緊張し、怖かった記憶がある。 (※隣の部門にも溶銑炉があったのか?真相は定かではない)

 

⑬一人で道を歩いていると(※鋳物部門からの帰りだろうか?)突然、後ろから覆いかぶさるようにネイビー色の米軍機が低空で飛来した。あまりに突然のことで驚いた。道の脇の土手に転がり込むように飛び込んで隠れた。低空で飛行し、抜けて行く際にパイロットの頭が見えた。

⑭パイロットはこちらを向いてはいない。(自分に)気が付いていなかった。こちらに気が付いていたら戻って来ると思い、気が気では無かった。 (※単機だったという。機種は不明。)

 

⑮日宇(自動車部)にいた時、偵察のB29が、単機、高高度で飛来した。警報が鳴ったため慌てふためいている工員さんが一人いた(※自分は落ち着いていられた)斜め手前で何かパラパラ落ちてきたら危険だが、真上を通過するまで何も無かったので大丈夫だと考えた。

 

⑯佐世保大空襲(S20/6/28、23:50頃より)の時は、日宇の宿舎の裏山に逃げ込んだ。裏山から見える空が真っ赤に染まっていた。花火が上がるような感じだった。

 

⑰動員時の食料事情は悪く、玄米に大豆カスや油カスを混ぜてあった。メニューはコッヘル1杯のご飯と味噌汁。食事の影響で全員下痢をしていた。昼食は現場から戻って宿舎で食事をしていたかもしれない。現場にお弁当は無理だった。(※昼食班が運んで来た可能性はある?)

 

⑱食事当番は1班5~6人。自分の器の分は押し付けて多くご飯を盛ったが、全員が着席すると誰かが必ず「右に○人ずらそう」と言った。結局、誰もが自分が盛った器を食べれなかった。

 

⑲日宇では、作業を早退し裏山に生えていた山桃の実をたらふく食べた思い出がある(※山桃の実が熟すのは6月中~下旬)郷里の食糧事情は良く、帰郷すると「おはぎ」などが食べれた。たらふく食べて、やはりお腹をこわした。

⑳動員の時、面会に来て欲しい際のサインを予め母と決めていた。手紙の文章の最後の「。」を「●」にしていたら来てほしいサイン。一般的に母が面会に来ると必ず食べ物を差し入れに持って来るものだった。しかし、動員中に母を面会に呼んだことは一度もなかった。

 

㉑佐世保駅の東側に海軍病院があった。疲労で作業が辛くなったら時、咳が出ると言って受診すると、気管支炎などの診断が出て帰郷できた。どうやら軍医さんの配慮だったようだ。 (※父がそうしたという意味ではない)

 

㉒日宇に移動した初日、生徒全員の持ち物検査があり、友人がタバコを所持しているのが見つかってしまう。友人はトイレに走って行きタバコを隠そうとしたが、先生に見つかり、相当、しぼられた。 (※後に仮屋小・代用教員時代の父に正教員試験の情報を教えた方)

 

㉓工廠将校は髪を伸ばしている人もいた。海軍は短剣、陸軍は軍刀を持っていた。

 

㉔戦後、昭和20年9月になると予科練から学生が戻って来た。甲種飛行予科練習生(コウヒ)達。数ヶ月行ったのみで、土木作業ばかりだったが、甲飛に行っていたというプライドは高かった。周囲はドカ練と呼んでいた。

 

㉕仮屋には予科練の水雷艇特攻基地があった。戦後、予科練の碑を建てる際に、母の従姉の娘と結婚した方が尽力した。除幕式では鶴田浩二を呼んだという。甲飛に行っていた友人2名も参加した。 (※)旧学制は複雑で、学力の均一化を図る目的で本科に進む前に予科が設けられることが多かった。

 

㉖戦争が続いていたら自分は予科海軍兵学校に行きたいと考えていた。予科海軍兵学校は、当時、針尾島に新設されていた。動員などで勉強が一切できなかったので新設された学校である。陸軍には陸軍幼年学校というものがあった。終戦の日は、予科海軍兵学校受験準備で郷里の仮屋に戻っていた。

 

㉗以上が父からの聞き取りになる。

 

㉘当時の証言では「予科学生」と「予科練習生」を混同しないようにしたい。普通に進学のための「予科学校」が存在した。玄海町あった震洋基地では建設に甲飛学生が動員され、その宿舎が仮屋に存在したということになる。その際、祖母や伯母も世話に当たったようだ。

 

㉙であるから、先に登場した父の同級生(唐津商業学校から佐世保動員にて決闘で停学となった彼)は、唐津商業学校から予科練に進み、仮屋で特攻基地の建設に携わった際に祖母・伯母と接点があったということになる。

 

㉚つまり「特攻基地」「予科練」キーワードでも、鹿屋や知覧のような逸話とは少し違う。 昨年は会えなかったが、父の小学校~高等科1年までの同級生で、遠縁の親戚になる中島照夫さん。僕も墓参りの際は必ず中島さん宅を訪問し、父の証言の裏を取るようにしている。

 

㉛唐津商業学校より佐世保第21海軍工廠に動員中、他校の生徒と決闘をして停学となり、学校を辞めたWさんは、その後予科練へ進み仮屋湾・田ノ浦特攻基地建設に従事した。

 

 

戸籍謄本での住所(2025/10/12)

母方の家系図を作る際にマイクロソフトExcelを使用している。もっとも、世間には家系図用のフリーソフトも、多数、存在するようだが、自由度が効かない点が難点のようである。私の場合、家系図本体とは別に、戸籍謄本に登場した人物のデータを別シートに配置し、リンクさせて作図している。

 

さて、戸籍には「戸籍への出入りが記録」されている。嫁に来た、養子に出た…などである。その場所を調べるのに下記のサイトが役に立っている。

 

【 時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」 】
埼玉大学教育学部 谷 謙二(2000~2022年)

「今昔マップ3」もダウンロード版として存在するらしい。
 
母方の佐賀県みやき町は、上記Web版の範囲にあり、古い地名を探すのにかなり役に立った。(※父方の玄海町は対象外。今昔マップ3ではカバーされているかもしれない)
母の除籍簿が中心なので旧住所での表記がほとんどだが、GoogleMAPを使用すればドンピシャで当該家を探し当てることも可能だった。
 
ちなみに国土地理院の地図閲覧サービスに登録すると、明治期からの地図が閲覧可能である。過去には原図のコピーも購入もしたが、高細度データで閲覧する方が、実物地図よりも確認しやすい。
【国土地理院、地図・空中写真閲覧サービス】
さて、母方の一族の特徴として、家系図に登場する家族の中で、祖父母も含め満州に渡った家族が6家族存在する(母のインタビューに登場したものを含めると7家族)そして、引き揚げの際に亡くなった子供たちの、その亡くなった地名など、満州の複数箇所の地名が登場する。
以下…
〇満州での母の一家の居住地
 満州国奉天省鞍山市南一番町26番地2-9
〇祖父死去
 満州国奉天省鞍山市南九条町38番地(鞍山満鉄病院)
〇満州国新京特別市自強街市紅醫院
 →中華人民共和国吉林省長春市南关区自強街(現;吉林大病院ではないか?)
〇満州国牡丹江省寧安県東京城車站官舎街
 →中華人民共和国黒龍江省寧安市東京城の駅近く
〇満州国東満總省東寧県東寧街欽明區平安大街6番地
 →中華人民共和国黒竜江省牡丹江市東寧県東寧鎮の付近?
〇満州国牡丹江省寧安県馬連河鉄道自警村
 →中華人民共和国黒竜江省牡丹江市寧安市馬連河村のどこか?
〇満州国通化省通化市二道江区二道江街8段57号
 →中華人民共和国吉林省通化市二道江区二道江郷の付近?
現在の住所は百度地図などで推察しており、これからまだまだ調査の余地ありである。