佐世保空襲(2025/10/12) | ノモンハン事件

佐世保空襲(2025/10/12)

父が佐世保学徒動員で見た佐世保空襲をXにて以下のように投稿した(2021/06/29)

 

①この時、唐津商業学校からの学徒動員中だった父達は、日宇の宿舎の裏山に逃げ込み、真っ赤に染まる夜空を見ながら朝まで過ごした。

 

②学徒動員に出たのは昭和19年、唐津商業学校3年の2学期以降と思う。佐世保第21海軍工廠・自動車部に配属された。現場の作業員は、工員と工作兵に分かれていた。動員生徒は工員の手伝いが主な仕事だった。早岐→大塔→日宇で終戦となる。長崎に行っていたら原爆で人生は終わっていた。

 

③早岐では朝鮮人工員の指揮で道の造成に携わった。発破をかけた瓦礫をブレーキ付きのトロッコで運んだ。朝鮮人工員は日本語が堪能。この早岐の道は現在でも残っている。早岐では土木作業が中心。大塔の宿舎に移動してからも土木作業。日宇の宿舎に移動してからは鋳物工場での作業だった。

 

④早岐の宿舎は山の斜面にあり、便所が斜面から突き出ており、便壷部分が斜面の下の方にあった。大塔では同級生が他の動員生徒と揉めて決闘を起こし、停学になった。その後、彼は予科練に進んで仮屋の予科練訓練所(?)に進み、姉の世話になったという(※父の姉、私の伯母)

 

⑤戦後、彼が姉から、私(父)が彼と同級生で、同じ佐世保に動員に行ってたことを知ると、同窓会などで会いに来るようになった。 (※父は仮屋の予科練訓練所と言ってるが正式なところはわからない。仮屋に予科練関連の施設があり、祖母や伯母が世話しに行ってたということらしい)

 

⑥日宇の鋳物工場は、ふるいの砂が舞い上がり、ススけた作業場所だった(※鋳型の砂を再利用するため砕いてふるいにかける)胸をやられると考え、体力的には厳しいが外でコークスを運ぶ仕事に回った。隣の工場では旋盤作業をしていた。

 

⑦溶銑炉の作業は工作兵・姫野兵曹とペア(?)コークスと鉄鉱石を溶鉱炉の上から投げ込んで行く。鉄が溶けきった頃、鉄の長い棒(バール)を炉の下部にある口に突き立ててハンマーで叩く。ぐるぐる回して引き抜くと穴から真っ赤な銑鉄が流れ出て来る。それを内側を粘土で固めたバケツで受ける。

 

⑧丸い鉄の円盤が付いた棒(持ち手の部分は曲げてある)の先に、おにぎり形(円錐形)に粘土をつけ、銑鉄が流れ出る炉の穴に押し込むと流れが止まる。

 

⑨しかし、時に銑鉄の流れが止まらず、(閉じた粘土の)脇から線香花火のようにピッピッと漏れ出すと、もうどうにもならない。一同が逃げ出すと、銑鉄は一気に流れ出し、作業場のあたり一面に銑鉄が広がる。跡片付けが大変だった。

⑩屋外に置かれた資材の上に大きな雨避けのシートが架けられていた。それを夜間、盗みに行った。破る時に大きな音がしたが緊張感はなかった。門を出る時(宿舎に戻る際)監守に見付からないよう腹に巻いて出た。

⑪帰郷の際にその布(盗んだ雨避けシート)で母にズボンを作ってもらった。布が無い時代、非常に良い生地だったのだが、固すぎて又ずれが起きた。 (※工場での泊り勤務があったのではないか?その際にシートを切り取って盗み、工場外に持ち出したのだと思う)

 

⑫溶銑炉用のレンガが不足し、隣の部門まで夜間に盗みに行った。守衛がライトを灯して歩いて行くのが見え、壁ぎわを腹ばいになって隠れながら進んだが、非常に緊張し、怖かった記憶がある。 (※隣の部門にも溶銑炉があったのか?真相は定かではない)

 

⑬一人で道を歩いていると(※鋳物部門からの帰りだろうか?)突然、後ろから覆いかぶさるようにネイビー色の米軍機が低空で飛来した。あまりに突然のことで驚いた。道の脇の土手に転がり込むように飛び込んで隠れた。低空で飛行し、抜けて行く際にパイロットの頭が見えた。

⑭パイロットはこちらを向いてはいない。(自分に)気が付いていなかった。こちらに気が付いていたら戻って来ると思い、気が気では無かった。 (※単機だったという。機種は不明。)

 

⑮日宇(自動車部)にいた時、偵察のB29が、単機、高高度で飛来した。警報が鳴ったため慌てふためいている工員さんが一人いた(※自分は落ち着いていられた)斜め手前で何かパラパラ落ちてきたら危険だが、真上を通過するまで何も無かったので大丈夫だと考えた。

 

⑯佐世保大空襲(S20/6/28、23:50頃より)の時は、日宇の宿舎の裏山に逃げ込んだ。裏山から見える空が真っ赤に染まっていた。花火が上がるような感じだった。

 

⑰動員時の食料事情は悪く、玄米に大豆カスや油カスを混ぜてあった。メニューはコッヘル1杯のご飯と味噌汁。食事の影響で全員下痢をしていた。昼食は現場から戻って宿舎で食事をしていたかもしれない。現場にお弁当は無理だった。(※昼食班が運んで来た可能性はある?)

 

⑱食事当番は1班5~6人。自分の器の分は押し付けて多くご飯を盛ったが、全員が着席すると誰かが必ず「右に○人ずらそう」と言った。結局、誰もが自分が盛った器を食べれなかった。

 

⑲日宇では、作業を早退し裏山に生えていた山桃の実をたらふく食べた思い出がある(※山桃の実が熟すのは6月中~下旬)郷里の食糧事情は良く、帰郷すると「おはぎ」などが食べれた。たらふく食べて、やはりお腹をこわした。

⑳動員の時、面会に来て欲しい際のサインを予め母と決めていた。手紙の文章の最後の「。」を「●」にしていたら来てほしいサイン。一般的に母が面会に来ると必ず食べ物を差し入れに持って来るものだった。しかし、動員中に母を面会に呼んだことは一度もなかった。

 

㉑佐世保駅の東側に海軍病院があった。疲労で作業が辛くなったら時、咳が出ると言って受診すると、気管支炎などの診断が出て帰郷できた。どうやら軍医さんの配慮だったようだ。 (※父がそうしたという意味ではない)

 

㉒日宇に移動した初日、生徒全員の持ち物検査があり、友人がタバコを所持しているのが見つかってしまう。友人はトイレに走って行きタバコを隠そうとしたが、先生に見つかり、相当、しぼられた。 (※後に仮屋小・代用教員時代の父に正教員試験の情報を教えた方)

 

㉓工廠将校は髪を伸ばしている人もいた。海軍は短剣、陸軍は軍刀を持っていた。

 

㉔戦後、昭和20年9月になると予科練から学生が戻って来た。甲種飛行予科練習生(コウヒ)達。数ヶ月行ったのみで、土木作業ばかりだったが、甲飛に行っていたというプライドは高かった。周囲はドカ練と呼んでいた。

 

㉕仮屋には予科練の水雷艇特攻基地があった。戦後、予科練の碑を建てる際に、母の従姉の娘と結婚した方が尽力した。除幕式では鶴田浩二を呼んだという。甲飛に行っていた友人2名も参加した。 (※)旧学制は複雑で、学力の均一化を図る目的で本科に進む前に予科が設けられることが多かった。

 

㉖戦争が続いていたら自分は予科海軍兵学校に行きたいと考えていた。予科海軍兵学校は、当時、針尾島に新設されていた。動員などで勉強が一切できなかったので新設された学校である。陸軍には陸軍幼年学校というものがあった。終戦の日は、予科海軍兵学校受験準備で郷里の仮屋に戻っていた。

 

㉗以上が父からの聞き取りになる。

 

㉘当時の証言では「予科学生」と「予科練習生」を混同しないようにしたい。普通に進学のための「予科学校」が存在した。玄海町あった震洋基地では建設に甲飛学生が動員され、その宿舎が仮屋に存在したということになる。その際、祖母や伯母も世話に当たったようだ。

 

㉙であるから、先に登場した父の同級生(唐津商業学校から佐世保動員にて決闘で停学となった彼)は、唐津商業学校から予科練に進み、仮屋で特攻基地の建設に携わった際に祖母・伯母と接点があったということになる。

 

㉚つまり「特攻基地」「予科練」キーワードでも、鹿屋や知覧のような逸話とは少し違う。 昨年は会えなかったが、父の小学校~高等科1年までの同級生で、遠縁の親戚になる中島照夫さん。僕も墓参りの際は必ず中島さん宅を訪問し、父の証言の裏を取るようにしている。

 

㉛唐津商業学校より佐世保第21海軍工廠に動員中、他校の生徒と決闘をして停学となり、学校を辞めたWさんは、その後予科練へ進み仮屋湾・田ノ浦特攻基地建設に従事した。