校歌の広場 -9ページ目

校歌の広場

高校の校歌についていろいろ書き綴っています。
高校野球でも流れたりする、校歌の世界は奥深いですよ~

3連続で静岡県というのもどうかとは思いましたが、最後の紹介ですのでお許しを(笑)

今回は佐佐木信綱氏です。”佐々木信綱”と書かれることも多いようですが、本人は明治頃から佐佐木を使用しています。

三重県鈴鹿郡石薬師村(現・鈴鹿市)出身の歌人・国文学者で、生涯に詠んだ歌は一万首以上とも言われています。特に万葉集の研究で知られ、第一回(昭和12年)文化勲章の受賞者でもあります。

私がこの人を知ったのは国語の教科書の副読本に載っていた「ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲」の歌。大学時代に関西にいたとき、唐招提寺や薬師寺を訪ねたことを思い出しますね。

明治から戦後くらいまで活躍し、校歌も北海道から長崎まで約120校ほど作ったそうです↓

佐佐木信綱顕彰会 http://nobutsuna-karuta.org/

 

今回は、静岡県の浜松聖星高校です。

https://hamamatsu-seisei.jp/

 

浜松市街のやや西方の佐鳴湖に近い蜆塚地区に所在し、昭和31年に浜松海の星高校として開校したカトリック系のミッションスクール校です。校名の「海の星」とは”海星"と同じく聖母マリアを意味し、キリスト教の始祖で”神の子”イエス・キリストの母マリアはクリスチャンにおいての希望の象徴、導きを与える星に例えられています。

平成29年に女子校から共学となり浜松聖星高校に改称しました。

南には蜆塚遺跡が公園となって整備されており、縄文時代後期の貝塚とその周辺に住居跡や墓地が発掘されて公開され、また当時の住居が想像復元されています。

 

開校当初は聖歌338番「そらのかなた」が校歌代用として歌われていました。なぜ聖歌338番なのかは学校史からはわからなかったのですが、当時学校を運営していたのが聖ベルナルド女子修道会(BEC)だったことが大きいのでしょう。
この組織は6世紀に聖ベネディクトが興したベネディクト会の戒律を護持するシトー会が世界に散らばり、その中から19世紀に新しい修道会として誕生した、ということです。聖ベルナルドはマリアを”Stella Maris・海の星なる聖母”と呼び、大洋を航海する船を安全に導きます女神とみなしていました。その教えを最も表しているのが聖歌「Ave Maris Stella」や「そらのかなた」だったのではないでしょうか。

 そらのかなた まさやけく

 ふなじしめす うみのほし

 波をけたてて 我等はゆく

ちなみに”海の星”はほとんどの場合北極星(ポラリス)を指し、北の空に夜中位置を変えないことから古来世界中で航海の目印とされていたことは周知のとおりですが、他に金星やシリウスに該当する説もあります。どちらも明るい星で、特に金星はカトリックで地中海沿岸から見る明け・宵の明星とする解釈のもと崇拝の対象とされ、「そらのかなた」の”海の星”も内容からすると夜空に光る北極星ではなく朝夕に輝く金星です。

 

さて開校からしばらく経った昭和37年、校旗と校歌を制定してはどうかとの議があり色々検討の結果、佐佐木信綱・信時潔の組み合わせで進めることになりました。そして佐佐木氏の快諾を得て当時居住していた熱海まで資料持参で訪問、約2ヶ月後に完成しましたが、この時佐佐木氏は実に91歳の超高齢で学校関係者も心配するほど体が衰えていたそうです。

作詞:佐佐木信綱 作曲:信時潔で昭和38年制定です。

浜松聖星 (全3番)
 あけぼの まぢかし 澄みゆく空に
 さやかに 船路を示す 海の星
 仰ぎて 祈らく 心は ひとつ
 真理を学ばむ 真理に生きむ
 真理は 人の世の命
 よき地浜松 浜松のよき学校

 

「真理」は他の”海星”の校歌でも三重・海星愛と真理に育まれ」や長崎・海星旧2番「螢に雪に究めん真理」、宇都宮神戸海星女子学院2番「真理の道を一筋に」など特に強調して歌われています。校章にあるVERITASも真理の意味で「真理を学び、真理と愛に基づいて生活する人になるという本校の理念を表しています」だそうです。

あけぼの=夜明け近くに船路を示す海の星、これもやはり明けの明星たる金星でしょうか。

学校関係者が「明日を夢み、未来を望む青年への心へ贈る温かい指標が、今日ほどに”海の星”にぴったりするときはない」と評した校歌は共学となった現在も歌われ続けているのです。

佐佐木氏はこの年(昭和38年)終わり頃に92歳で逝去、信時氏も2年後(昭和40年)に亡くなりました。

 

現在ではミッションスクールとしてチャペルアワーやステラサンクタクリスマスと称するコンサートを行っている他、留学による実践英語教育や理数教育(STEAM)のICT分野で目覚ましい活躍があります。

穂積忠氏は生涯で校歌をどのくらい作ったのでしょうか。

死後に纏められた『穂積忠全歌集』には校歌は収録されていないそうですが、才ある詩人の割にはあまり作らなかったようで多く見積もっても10校くらいではないかと思われます。しかも最も活躍していた戦前でも確認できるのは1校、韮山中学校だけです。

これは歌・詩作を生業にしていたわけではなく、本業は教師だったからです。旧制韮山中から國學院大学に進学、大学卒業後すぐに長野県の高等女学校の教師になっています。関東大震災で実家のある伊豆に帰郷後は死去するまでそこを離れていません。勤務していた三島高女(現・三島北高校)、韮山中伊東高女(現・伊東高校)は、すでに校歌があったので新たに作る機会がなかったというのもあるでしょうか。戦後作で確認できるのは校長となった三島南高校を始め小中高6校ほど。

 

穂積氏は前回でも触れた通り、北原白秋折口信夫に師事しました。始めは韮山中在学時代から白秋門下に入り「穂積茅愁」の号で歌壇に投稿する一介の門人でしたが、白秋と直に会ってからは才を認められ愛弟子となり早々に詩集編纂を勧められるほどになったといいます。一方、進学した國學院大学で折口に学び薫陶を受けるようになった頃から両師の軋轢が芽生えたのではないかと後年の研究家は語り「穂積氏の才能と早熟に対する賞賛が、北原・折口とで共有されず反目し合うという不幸を招いた」、これが後々まで穂積氏の葛藤と心境に暗い影を落とし続けることになったとされます。校長の多忙も相まってストレスも多かったようで3度に及ぶ胃潰瘍発症や死因とされる心臓疾患にこの人の苦難を見る思いです。

 

閑話休題、韮山高校の話に戻りましょう。

https://www.edu.pref.shizuoka.jp/nirayama-h/home.nsf/IndexFormView?OpenView

 

伊豆の国市は伊豆半島の中北部に位置し、ここも伊豆長岡温泉などいくつか温泉が湧出する出湯の町です。韮山といえば平治の乱で敗れた源頼朝が伊豆に流され蛭ヶ小島に逗留した地というのが定説ですが、実際のところは『伊豆に配流』のみで”蛭島”は後世の推定地だそうです。そして後北条氏の初代当主・北条早雲が拠点とした韮山城。伊豆・相模平定の足がかりとした城で別名は「龍城」、本拠地を小田原に移したあとも重要拠点でしたが豊臣秀吉の小田原征伐の際に抵抗しながらも落城、のち廃城となってしまいました。韮山は幕府直轄領となり韮山代官所が置かれ、明治時代の廃藩置県直後の数年間は武蔵・相模・伊豆国一円を包括する大県”韮山県”だったこともあります。

見どころのひとつに国指定史跡、また明治日本の産業革命遺産にも指定された韮山反射炉は明治に建設された溶解炉で、主に大砲やキャノン砲などの武器製造に使われました。実際に稼働した反射炉で遺構が現存するのは世界でもここだけとされます。

 

学校は明治6年開設と相当に古く、すでに150年に達した静岡県有数の伝統校です。学校名も10回以上の改称・変遷を重ね、明治34年に韮山中学校に落ち着いたあと昭和23年の学制改革で韮山高校になりました。

現在の校歌は作詞:穂積忠 作曲:佐々木英で大正14年制定です。
韮山高校 (全3番)
 空を仰げば  魂ゆらぎ

 地を踏みゆけば  肉躍る
 歴史は古き 韮山の

 男子の気噴 吹き明れ 

 

制定は大正14年ですが、校歌募集に応じて作詞したのは大正8年です。なぜ6年も空いているのかはわかりませんが、その時点では応募作に適当なものは無いと判断されたのが創立30年記念で有名になっていた穂積氏の作を引っ張り出して完成させた、という感じになるのかもしれません。穂積氏は昭和6年に母校の韮山中に転任しているので自作の校歌も歌っていたのでしょうね。

ちなみに学校関係者の証言によれば実際の原稿には1,2,3番の別はないそうですが、数字譜で書かれた古い楽譜(おそらく制定当時?)を見ると3章に分かれています。本人の意図はもはや知り得ず、分かれても分かれていなくてもどっちでもいいのかもしれません。

2番に龍城が取り入れられ、伊豆・相模平定の足がかりとした城を見守ってきた松のように「勁く、ますぐに、飾りなく」おのおのが伸びよと歌うさまは旧制中学らしさを垣間見ます。

 

大正時代の校歌募集の際「校歌ハ学生ノ元気ヲ鼓舞シ…本校未ダ一ノ校歌ナキヲ憾トシ、茲ニ賞ヲ懸ケテ之ヲ募ラントス…」とあり、これ以前には無かったかのような文面ですが、実は旧校歌はあったようです。古いOBの記憶から採譜されたもので明治期作とされ、3番まであったようですが現在2番までしか再現できず正式な表記や作者は不明だそうです。

韮山中 旧校歌?(全3番?)

 カワノナガレヤ ミズノイロ (川の流れや水の色)

 ミガケル ヤマトダマシイノ (磨ける大和魂の)

 オモイハタカキ フジノヤマ (思ひは高き富士の山)

 ココロハキヨキ イズノウミ (心は清き伊豆の海)

 ハコネオロシニ キタエタル (箱根おろしに鍛へたる)

 ニラヤマダンジノ キフウゾヤ (韮山男児の気風ぞや)

 

こちらでは2番に源頼朝と北条氏が出てきます。ただそれほど長く歌われなかったために学校の記録にも残されなかったのかもしれません。あるいは憶測として、他校でも生徒が”校歌”と称して勝手に応援歌のように作って歌っていた記録が稀にあるのでそのような類の歌だったのでは?と考えられます。

 

高校野球では、春夏1回ずつ甲子園出場しています。2回だけとはいえ昭和25年春は初出場初優勝、平成7年夏も2勝と優秀な戦績です。3拍子の校歌ですが、落ち着いた雰囲気ながらも荘重さを感じさせますね。

 

今回は、穂積忠を取り上げます。忠は「ただし」ではなく「きよし」と読みます。

静岡県の伊豆大仁出身で、北原白秋折口信夫の両氏に師事した詩人・歌人として伊豆では有名だそうです。

当人は「学問の師は折口信夫、歌の師は北原白秋」ということを誇りにしていたそうですが、またこの両巨匠から愛弟子と目されていたことから三角関係のような形に悩みもあったようです。もう少し突っ込んだ話は次回、韮山高校で。

 

今回は静岡県の松崎高校です。

https://www.edu.pref.shizuoka.jp/matsuzaki-h/home.nsf/IndexFormView?OpenView

 

賀茂郡松崎町は、静岡県の東部、伊豆半島の南西海岸に位置する温泉と桜の町です。

伊豆半島は太平洋プレートがフィリピン海プレート下に潜入する部分の上にあり、伊豆諸島と共に火山が連なる地域です。歌で有名な天城山、今は緑に覆われている大室山・小室山など東部火山群などが代表的な山ですね。その成り立ちから熱海や伊東、西海岸でも土肥や堂ヶ島など温泉が豊富な地域で、松崎町でも松崎温泉が湧出しています。松崎温泉は開湯が昭和38年と新しいものの旧家の名残を残す町並みと海岸美もあり「日本で最も美しい村」連合にも加盟しています。

町内を流れる那賀川は春になると川堤に植えられた約1200本の桜が咲き誇り、静岡県でも有数の桜の名所となっています。

 

学校は大正12年に松崎町立女子技芸学校として開校、翌年に松崎実科高女、昭和18年に松崎高女に改称し、昭和23年の学制改革で松崎高校になりました。戦後に松崎実業学校が設立されたようですが、実態はよくわかりません。

校歌は作詞:穂積忠 作曲:小平時之助で昭和28年制定と推測されています。
松崎高校 (全3番)
 明きこころの 象徴とも
 天城の尾根の 空の色
 きよき生命の ひびきとも
 伊豆西海の 潮のおと
 われらが世代 たたへつつ
 ねがはむ 明日のさいはひを
 ああ 校庭の塑像の群
 よき松崎や のびゆく母校

 

松崎高校の学校史での沿革では昭和25~30年の間に作られたとしかありませんが、関係者が校歌について調査講演されたときの記事が載っていました。それによれば校歌の意味や作者の生い立ちなどが説明されている他、校歌が作られた時期の範囲を徐々に狭めていき最後にOB、OGの証言から昭和28年度中との結論を出しています。

穂積氏は昭和27年に胃の手術を終え退院した時には精神的にも気楽になり「師・北原白秋没後これより真の歌出来そうな気さえしはじめたり」との心情からそれまでより割合平易な詞になっていると思われ、以降に作詞したこの松崎高校か静浦東小学校が最後の作品になるのでしょう。穂積氏の死去は昭和29年2月ですが、最後の半年は師・折口の死去の衝撃からもはや歌を作るのもままならないほど憔悴しきっていたそうで、失意のまま心臓疾患で急死しました。

塑像」とは”可塑性のある軟材を用いて形成された立体造形のこと”とあり、松崎高校にはセメントの彫刻作品が現在30体以上あるそうです。これは昭和25年から当時の卒業生による作品として作られ続けているもので、セメント製なので経年劣化で壊れてしまったものもあるのかもしれませんが、学校の特徴的なシンボルとして来校者の目を引いています。

また映画やドラマのロケ地となったことでその道の”聖地”ともなっているそうですね。

 

前身の松崎高女の校歌は制定されなかったようですが、併設されていた松崎尋常高等小学校の校歌を高女に進学してからも歌っていたという証言があるので共通の校歌だった可能性があります。この校歌は現在も松崎小学校に受け継がれているようです。

 

今回は折口信夫です。

どちらかといえば本名の折口信夫より詩人・歌人としての釈迢空の号のほうが知名度がやや上なのではないかと思います。また民俗学者・国文学者でもあり、主に万葉集や祭祀考古学などの研究に打ち込みその成果は後に「折口学」と呼ばれる独創的な内容の学問として現在でも多くの研究者が居られるようです。

折口信夫氏が校歌をどのくらい作ったかははっきりしないのですが、小学校から大学まで30校ほどだったのではないかと思います。

今回は愛知県の愛知中学・高校です。

https://www.aichi-h.ed.jp/hs/

 

名古屋市千種区の東部、平和公園の近くに位置する学校で、県名を冠し150年近くの歴史ある伝統校です。

明治9年に名古屋駅南東の大須観音で有名な大須に曹洞宗専門学校の支校として開学しました。

移転を繰り返しながら愛知中学林を経て明治35年に曹洞宗第三中学林に、大正14年に愛知中学校に改称し、戦後の学制改革で愛知高校となりました。千種区の現在地におさまったのは昭和42年のことです。長らく男子校でしたが、平成16年に中学校、平成17年に高校が相次いで共学化しました。

旧制の校歌は曹洞宗では「正法御和讃」と呼ばれるもので、宗歌ともされています。
作詞:大内青巒 作曲:長妻完至で制定年は学校史に無く不明ですが、後述から明治40年代と思われます。

愛知中 (全1番)

 花の晨に 片頬笑み
 雪の夕べに 臂を断ち
 代々に伝ふる 道はしも
 余所に比類は 荒磯の
 浪も得よせぬ 高岩に
 かきもつくべき 法ならばこそ

 

宗歌ではありますが、この歌の発祥は第二中学林(のち栴檀学園高校)の「校歌を作りたい」という要望からの流れで作られたもの。明治40年に仙台出身で曹洞宗の開祖・道元の言葉をまとめた”修証義”の原作者である大内青巒氏に依頼して「宗歌」「校歌」「学生歌」の3つが作られたとされます。

このうち「校歌」は第二中学林独自のものでしたが、やがて「宗歌」は曹洞宗宗務院公認のものとなり第一~第四中学林(当時)に頒布したとのことです。世田谷学園高校の前身でもあるので昭和10年に制定された校歌「法の花咲く学び舎に…」の前は「宗歌」「学生歌」が歌われていたと思われます。

第三中学林→愛知中学では一貫して「宗歌」を校歌として歌っていました。

 

高校になってからの校歌は作詞:折口信夫 作曲:平井康三郎で昭和28年制定です。また愛知中学・愛知高校・愛知学院大学共通の校歌であり、愛知学院の”学院歌”ともいえます。

愛知高校 (全3番)

 大講堂の 朝ぼらけ

 ここにこぞれる 友の顔
 清き光の みなぎるを

 信念遠く 人に超え
 伝統永く 世に伝ふ

 わが若き日の 尊さよ

 

校歌作成の流れとしては、昭和28年まず信時潔氏に作曲してもらうことを決定、信時氏は万葉調の詞しか手掛けないらしいという助言で折口氏に作詞を依頼したそうです。しかし詞が届かないまま数ヶ月後に折口は病死、学校は訃報に際し一旦は諦めそうになりましたが、なんと詞は完成していて草稿を写真に写し届けてもらったといいます。このことから最後の作品だったのは間違いないでしょう。

校歌に精通している人にとって折口氏は”割合長めの詞”を書くこと、3番形式の中で朝昼夕(または夜)の情景を入れることが多いこと、たびたび”反歌”を取り入れているのが特徴というのが知られているところですが、愛知高校には反歌、いわゆる最後に歌うCoda部分はありません。しかし折口信夫全集に記載されている原作では「ああ愛知学院 学院、学院、愛知学院」という反歌がある他、1章が7行(校歌は6行)になっています。

なぜかといえば、折口氏の原作が届いたあと作曲の段階になってある代議士の進言によって当時新進気鋭の平井康三郎氏に変更、また北見志保子氏が原作を校訂して現在歌われているものになりました。北見・平井のコンビは戦前「平城山」で一躍有名になったことでこの時にも縁を取り持ったようです。

 

高校野球では春4回と夏2回、甲子園出場しています。春は未勝利ですが、夏は平成6年に2勝するなど計3勝を挙げました。このとき以来30年ほど甲子園から遠ざかっていますが、かつて”私学5強”と呼ばれた頃のようにまた戻ってきてほしいですね。

学業面では系列の愛知学院大学を始め国公私立大学や医学部にも多数進学するなど、高レベルを維持しているそうです。

 

今回は北原白秋を取り上げてみます。

戦前の詩人としては大抵の人が名前を知っていると思われるくらい有名な人です。福岡柳河出身(出生は熊本県)で明治~大正の詩壇に多数参加して名声を上げました。一方実生活ではいろいろ波乱万丈だったようで、不倫で訴えられたり窮乏生活を強いられるなど苦労も多かったそうです。詩歌や童謡を生業とする中で校歌も多数手掛け、その多くは山田耕筰とのコンビで作られたものです。

正確に言えば白秋氏の「最後の校歌」となるのは中等学校では昭和16年作の大分県立第一高女になるのでしょうが、旧制姫路中学校も最晩年に当たるので紹介します。

今回は姫路中の後継校、姫路西高校です。

https://www.hyogo-c.ed.jp/~himenisi-hs/

 

前々回に紹介した姫路工業高校とは道路を隔ててすぐ西隣に位置し、明治11年に組合立姫路中学校として開校した兵庫県では最古の中学校です。

地勢からいえば人口最多にして県都たる神戸市に最初に設置されるのが普通だったのでしょうが、”都市熱鬧(繁華街で騒々しい)”が教育にふさわしくないということで比較的落ち着いていた姫路に”兵庫一中”が置かれたようです。もっとも明治20年代に尋常中学校だったことはあっても神戸(第一神戸中)とは違い正式に「一中」を名乗ったことはありません。

明治32年に再び姫路中学校となり、そのまま戦後まで続きました。

姫中の校歌は作詞:北原白秋 作曲:山田耕筰で昭和14年制定です。

旧制・姫路中(全3番)

 呼べよ、天下の白鷺城

 雲に、嵐に、湧きおこる
 時代の熱を、はた意気を、

 正大 いまに鍾まれば
 豪壮これぞ 我が姫路。
 鷺城、鷺城、鷺城 我等が精神

 

姫中時代は、実は開校以来60年以上校歌はありませんでした。大正年間や昭和にも募集がかけられたこともあったようですが沙汰止みとなり、代表的な応援歌”鷺山に秋の”が歌い継がれていくままに過ぎていきました。

転機となったのは昭和11年の選抜野球大会。この時も選手懇親会で校歌代わりに応援歌を紹介した際に「校歌ではない、校歌は無い」ことに引け目を感じ、ついに学校側も動くことになりました。もっとも例えば京都の平安中はその長い旧制時代ついに校歌が制定されず、できたのは高校になってから…ということもあるのですが。

その最初は校内募集から次に校閲?の段階で頓挫、しばらくして皇紀2600年記念事業として再出発、まず姫中の教師だった柴垣氏と知己にあった山田耕筰を通じて白秋に作詞を依頼したそうです。しかし作詞はなかなか進まず、柴垣氏らが白秋邸まで上京し「熱を持って命がけで」催促してやっと完成しました。この頃の白秋は病気で視力が大幅に落ちてしまい、”薄明微茫の中にいる”状況で書き上げたことになります。これは後述する校歌発表会でも自ら言及しています。山田氏は詞の原稿を受け取って直ちに作曲、レコード吹き込みも行うという力の入れようで昭和14年の年末に完成しました。

公式HPでは校歌制定年月日は昭和14年12月25日となっていますが、本当の意味での制定は昭和15年の元旦だったのではないかと推測します。この時に元旦拝賀式があり校歌が発表されたからです。発表直前に白秋からの電文「…白秋今や明を失しつつあれども心眼能く厳たる白鷺城を仰ぐ…鷺城、鷺城、我等が精神、奮え、奮え、姫路中学」が読み上げられました。

白秋はこの2年後に亡くなっています。腎臓病・糖尿病などの持病をかかえながら歌誌『多磨』の編集に集中していたさ中でした。

 

昭和23年の学制改革で姫路新制高校となったあと高女から転換した姫路女子高校との折半交流で共学に、また学区制により姫中校舎のあった西側が姫路西高校となりました。

西高の校歌は作詞:阿部知二 作曲:山田耕筰で昭和27年制定です。副題に「友にあたう」と付きます。
姫路西高校(全4番)
 光かがようはりま野よ いのちの春のこの三年
 真理の道をもとめつつ ここに集いて友を得ぬ

 

この歌についても長くなるので、2、3点ほど要約しましょう。

この時にも在職していた柴垣氏が、これまた知己で詩人でもあった阿部氏に依頼して2年くらい後に完成しました。阿部氏はどちらかといえば”校歌”に好意的ではなかったよう(事実、姫路西高校が唯一の作だそうです)ですが、姫中OBでもあり親子三代にわたって親交のあった柴垣氏からの懇望ということもあって引き受けたとされます。

そして”友にあたう”。阿部氏が「姫路西高校の一先輩からこれから入学・卒業していく後輩に与えた歌という意味で題してほしい」と希望されたと伝えられ、今後良いものが作られたらいつでも廃して構わぬとも言っていたそうですが現在まで続けて歌われています。

山田耕筰氏は自由を主題とする3番を念頭に短調で作曲され、全体的な調和を出すことに苦労されたといいます。それでも当時の生徒のみならず姫路内外の文学者からも評判の良い作品となりました。

 

高校野球では、前述の昭和11年春が最初で最後の甲子園出場となっています。

学業では県内の公立高校でもトップクラスにあり、姫路や播磨地域をリードする進学校として多くの生徒が東大京大をはじめ国公立や私立大学を目指しています。間もなく創立150年を迎える兵庫きっての伝統校、「スーパーグローバルハイスクール(SGH)事業」また「スーパーサイエンスハイスクール(SSH)事業」の指定校として活躍しています。