今回は折口信夫です。
どちらかといえば本名の折口信夫より詩人・歌人としての釈迢空の号のほうが知名度がやや上なのではないかと思います。また民俗学者・国文学者でもあり、主に万葉集や祭祀考古学などの研究に打ち込みその成果は後に「折口学」と呼ばれる独創的な内容の学問として現在でも多くの研究者が居られるようです。
折口信夫氏が校歌をどのくらい作ったかははっきりしないのですが、小学校から大学まで30校ほどだったのではないかと思います。
今回は愛知県の愛知中学・高校です。
名古屋市千種区の東部、平和公園の近くに位置する学校で、県名を冠し150年近くの歴史ある伝統校です。
明治9年に名古屋駅南東の大須観音で有名な大須に曹洞宗専門学校の支校として開学しました。
移転を繰り返しながら愛知中学林を経て明治35年に曹洞宗第三中学林に、大正14年に愛知中学校に改称し、戦後の学制改革で愛知高校となりました。千種区の現在地におさまったのは昭和42年のことです。長らく男子校でしたが、平成16年に中学校、平成17年に高校が相次いで共学化しました。
旧制の校歌は曹洞宗では「正法御和讃」と呼ばれるもので、宗歌ともされています。
作詞:大内青巒 作曲:長妻完至で制定年は学校史に無く不明ですが、後述から明治40年代と思われます。
愛知中 (全1番)
花の晨に 片頬笑み
雪の夕べに 臂を断ち
代々に伝ふる 道はしも
余所に比類は 荒磯の
浪も得よせぬ 高岩に
かきもつくべき 法ならばこそ
宗歌ではありますが、この歌の発祥は第二中学林(のち栴檀学園高校)の「校歌を作りたい」という要望からの流れで作られたもの。明治40年に仙台出身で曹洞宗の開祖・道元の言葉をまとめた”修証義”の原作者である大内青巒氏に依頼して「宗歌」「校歌」「学生歌」の3つが作られたとされます。
このうち「校歌」は第二中学林独自のものでしたが、やがて「宗歌」は曹洞宗宗務院公認のものとなり第一~第四中学林(当時)に頒布したとのことです。世田谷学園高校の前身でもあるので昭和10年に制定された校歌「法の花咲く学び舎に…」の前は「宗歌」「学生歌」が歌われていたと思われます。
第三中学林→愛知中学では一貫して「宗歌」を校歌として歌っていました。
高校になってからの校歌は作詞:折口信夫 作曲:平井康三郎で昭和28年制定です。また愛知中学・愛知高校・愛知学院大学共通の校歌であり、愛知学院の”学院歌”ともいえます。
愛知高校 (全3番)
大講堂の 朝ぼらけ
ここにこぞれる 友の顔
清き光の みなぎるを
信念遠く 人に超え
伝統永く 世に伝ふ
わが若き日の 尊さよ
校歌作成の流れとしては、昭和28年まず信時潔氏に作曲してもらうことを決定、信時氏は万葉調の詞しか手掛けないらしいという助言で折口氏に作詞を依頼したそうです。しかし詞が届かないまま数ヶ月後に折口は病死、学校は訃報に際し一旦は諦めそうになりましたが、なんと詞は完成していて草稿を写真に写し届けてもらったといいます。このことから最後の作品だったのは間違いないでしょう。
校歌に精通している人にとって折口氏は”割合長めの詞”を書くこと、3番形式の中で朝昼夕(または夜)の情景を入れることが多いこと、たびたび”反歌”を取り入れているのが特徴というのが知られているところですが、愛知高校には反歌、いわゆる最後に歌うCoda部分はありません。しかし折口信夫全集に記載されている原作では「ああ愛知学院 学院、学院、愛知学院」という反歌がある他、1章が7行(校歌は6行)になっています。
なぜかといえば、折口氏の原作が届いたあと作曲の段階になってある代議士の進言によって当時新進気鋭の平井康三郎氏に変更、また北見志保子氏が原作を校訂して現在歌われているものになりました。北見・平井のコンビは戦前「平城山」で一躍有名になったことでこの時にも縁を取り持ったようです。
高校野球では春4回と夏2回、甲子園出場しています。春は未勝利ですが、夏は平成6年に2勝するなど計3勝を挙げました。このとき以来30年ほど甲子園から遠ざかっていますが、かつて”私学5強”と呼ばれた頃のようにまた戻ってきてほしいですね。
学業面では系列の愛知学院大学を始め国公私立大学や医学部にも多数進学するなど、高レベルを維持しているそうです。