兵庫県立 姫路西高等学校(詩人の最後の校歌シリーズ・その2) | 校歌の広場

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高校の校歌についていろいろ書き綴っています。
高校野球でも流れたりする、校歌の世界は奥深いですよ~

今回は北原白秋を取り上げてみます。

戦前の詩人としては大抵の人が名前を知っていると思われるくらい有名な人です。福岡柳河出身(出生は熊本県)で明治~大正の詩壇に多数参加して名声を上げました。一方実生活ではいろいろ波乱万丈だったようで、不倫で訴えられたり窮乏生活を強いられるなど苦労も多かったそうです。詩歌や童謡を生業とする中で校歌も多数手掛け、その多くは山田耕筰とのコンビで作られたものです。

正確に言えば白秋氏の「最後の校歌」となるのは中等学校では昭和16年作の大分県立第一高女になるのでしょうが、旧制姫路中学校も最晩年に当たるので紹介します。

今回は姫路中の後継校、姫路西高校です。

https://www.hyogo-c.ed.jp/~himenisi-hs/

 

前々回に紹介した姫路工業高校とは道路を隔ててすぐ西隣に位置し、明治11年に組合立姫路中学校として開校した兵庫県では最古の中学校です。

地勢からいえば人口最多にして県都たる神戸市に最初に設置されるのが普通だったのでしょうが、”都市熱鬧(繁華街で騒々しい)”が教育にふさわしくないということで比較的落ち着いていた姫路に”兵庫一中”が置かれたようです。もっとも明治20年代に尋常中学校だったことはあっても神戸(第一神戸中)とは違い正式に「一中」を名乗ったことはありません。

明治32年に再び姫路中学校となり、そのまま戦後まで続きました。

姫中の校歌は作詞:北原白秋 作曲:山田耕筰で昭和14年制定です。

旧制・姫路中(全3番)

 呼べよ、天下の白鷺城

 雲に、嵐に、湧きおこる
 時代の熱を、はた意気を、

 正大 いまに鍾まれば
 豪壮これぞ 我が姫路。
 鷺城、鷺城、鷺城 我等が精神

 

姫中時代は、実は開校以来60年以上校歌はありませんでした。大正年間や昭和にも募集がかけられたこともあったようですが沙汰止みとなり、代表的な応援歌”鷺山に秋の”が歌い継がれていくままに過ぎていきました。

転機となったのは昭和11年の選抜野球大会。この時も選手懇親会で校歌代わりに応援歌を紹介した際に「校歌ではない、校歌は無い」ことに引け目を感じ、ついに学校側も動くことになりました。もっとも例えば京都の平安中はその長い旧制時代ついに校歌が制定されず、できたのは高校になってから…ということもあるのですが。

その最初は校内募集から次に校閲?の段階で頓挫、しばらくして皇紀2600年記念事業として再出発、まず姫中の教師だった柴垣氏と知己にあった山田耕筰を通じて白秋に作詞を依頼したそうです。しかし作詞はなかなか進まず、柴垣氏らが白秋邸まで上京し「熱を持って命がけで」催促してやっと完成しました。この頃の白秋は病気で視力が大幅に落ちてしまい、”薄明微茫の中にいる”状況で書き上げたことになります。これは後述する校歌発表会でも自ら言及しています。山田氏は詞の原稿を受け取って直ちに作曲、レコード吹き込みも行うという力の入れようで昭和14年の年末に完成しました。

公式HPでは校歌制定年月日は昭和14年12月25日となっていますが、本当の意味での制定は昭和15年の元旦だったのではないかと推測します。この時に元旦拝賀式があり校歌が発表されたからです。発表直前に白秋からの電文「…白秋今や明を失しつつあれども心眼能く厳たる白鷺城を仰ぐ…鷺城、鷺城、我等が精神、奮え、奮え、姫路中学」が読み上げられました。

白秋はこの2年後に亡くなっています。腎臓病・糖尿病などの持病をかかえながら歌誌『多磨』の編集に集中していたさ中でした。

 

昭和23年の学制改革で姫路新制高校となったあと高女から転換した姫路女子高校との折半交流で共学に、また学区制により姫中校舎のあった西側が姫路西高校となりました。

西高の校歌は作詞:阿部知二 作曲:山田耕筰で昭和27年制定です。副題に「友にあたう」と付きます。
姫路西高校(全4番)
 光かがようはりま野よ いのちの春のこの三年
 真理の道をもとめつつ ここに集いて友を得ぬ

 

この歌についても長くなるので、2、3点ほど要約しましょう。

この時にも在職していた柴垣氏が、これまた知己で詩人でもあった阿部氏に依頼して2年くらい後に完成しました。阿部氏はどちらかといえば”校歌”に好意的ではなかったよう(事実、姫路西高校が唯一の作だそうです)ですが、姫中OBでもあり親子三代にわたって親交のあった柴垣氏からの懇望ということもあって引き受けたとされます。

そして”友にあたう”。阿部氏が「姫路西高校の一先輩からこれから入学・卒業していく後輩に与えた歌という意味で題してほしい」と希望されたと伝えられ、今後良いものが作られたらいつでも廃して構わぬとも言っていたそうですが現在まで続けて歌われています。

山田耕筰氏は自由を主題とする3番を念頭に短調で作曲され、全体的な調和を出すことに苦労されたといいます。それでも当時の生徒のみならず姫路内外の文学者からも評判の良い作品となりました。

 

高校野球では、前述の昭和11年春が最初で最後の甲子園出場となっています。

学業では県内の公立高校でもトップクラスにあり、姫路や播磨地域をリードする進学校として多くの生徒が東大京大をはじめ国公立や私立大学を目指しています。間もなく創立150年を迎える兵庫きっての伝統校、「スーパーグローバルハイスクール(SGH)事業」また「スーパーサイエンスハイスクール(SSH)事業」の指定校として活躍しています。