静岡県立 松崎高等学校(詩人の最後の校歌シリーズ その4) | 校歌の広場

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高校の校歌についていろいろ書き綴っています。
高校野球でも流れたりする、校歌の世界は奥深いですよ~

今回は、穂積忠を取り上げます。忠は「ただし」ではなく「きよし」と読みます。

静岡県の伊豆大仁出身で、北原白秋折口信夫の両氏に師事した詩人・歌人として伊豆では有名だそうです。

当人は「学問の師は折口信夫、歌の師は北原白秋」ということを誇りにしていたそうですが、またこの両巨匠から愛弟子と目されていたことから三角関係のような形に悩みもあったようです。もう少し突っ込んだ話は次回、韮山高校で。

 

今回は静岡県の松崎高校です。

https://www.edu.pref.shizuoka.jp/matsuzaki-h/home.nsf/IndexFormView?OpenView

 

賀茂郡松崎町は、静岡県の東部、伊豆半島の南西海岸に位置する温泉と桜の町です。

伊豆半島は太平洋プレートがフィリピン海プレート下に潜入する部分の上にあり、伊豆諸島と共に火山が連なる地域です。歌で有名な天城山、今は緑に覆われている大室山・小室山など東部火山群などが代表的な山ですね。その成り立ちから熱海や伊東、西海岸でも土肥や堂ヶ島など温泉が豊富な地域で、松崎町でも松崎温泉が湧出しています。松崎温泉は開湯が昭和38年と新しいものの旧家の名残を残す町並みと海岸美もあり「日本で最も美しい村」連合にも加盟しています。

町内を流れる那賀川は春になると川堤に植えられた約1200本の桜が咲き誇り、静岡県でも有数の桜の名所となっています。

 

学校は大正12年に松崎町立女子技芸学校として開校、翌年に松崎実科高女、昭和18年に松崎高女に改称し、昭和23年の学制改革で松崎高校になりました。戦後に松崎実業学校が設立されたようですが、実態はよくわかりません。

校歌は作詞:穂積忠 作曲:小平時之助で昭和28年制定と推測されています。
松崎高校 (全3番)
 明きこころの 象徴とも
 天城の尾根の 空の色
 きよき生命の ひびきとも
 伊豆西海の 潮のおと
 われらが世代 たたへつつ
 ねがはむ 明日のさいはひを
 ああ 校庭の塑像の群
 よき松崎や のびゆく母校

 

松崎高校の学校史での沿革では昭和25~30年の間に作られたとしかありませんが、関係者が校歌について調査講演されたときの記事が載っていました。それによれば校歌の意味や作者の生い立ちなどが説明されている他、校歌が作られた時期の範囲を徐々に狭めていき最後にOB、OGの証言から昭和28年度中との結論を出しています。

穂積氏は昭和27年に胃の手術を終え退院した時には精神的にも気楽になり「師・北原白秋没後これより真の歌出来そうな気さえしはじめたり」との心情からそれまでより割合平易な詞になっていると思われ、以降に作詞したこの松崎高校か静浦東小学校が最後の作品になるのでしょう。穂積氏の死去は昭和29年2月ですが、最後の半年は師・折口の死去の衝撃からもはや歌を作るのもままならないほど憔悴しきっていたそうで、失意のまま心臓疾患で急死しました。

塑像」とは”可塑性のある軟材を用いて形成された立体造形のこと”とあり、松崎高校にはセメントの彫刻作品が現在30体以上あるそうです。これは昭和25年から当時の卒業生による作品として作られ続けているもので、セメント製なので経年劣化で壊れてしまったものもあるのかもしれませんが、学校の特徴的なシンボルとして来校者の目を引いています。

また映画やドラマのロケ地となったことでその道の”聖地”ともなっているそうですね。

 

前身の松崎高女の校歌は制定されなかったようですが、併設されていた松崎尋常高等小学校の校歌を高女に進学してからも歌っていたという証言があるので共通の校歌だった可能性があります。この校歌は現在も松崎小学校に受け継がれているようです。