静岡県立 韮山高等学校 | 校歌の広場

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高校の校歌についていろいろ書き綴っています。
高校野球でも流れたりする、校歌の世界は奥深いですよ~

穂積忠氏は生涯で校歌をどのくらい作ったのでしょうか。

死後に纏められた『穂積忠全歌集』には校歌は収録されていないそうですが、才ある詩人の割にはあまり作らなかったようで多く見積もっても10校くらいではないかと思われます。しかも最も活躍していた戦前でも確認できるのは1校、韮山中学校だけです。

これは歌・詩作を生業にしていたわけではなく、本業は教師だったからです。旧制韮山中から國學院大学に進学、大学卒業後すぐに長野県の高等女学校の教師になっています。関東大震災で実家のある伊豆に帰郷後は死去するまでそこを離れていません。勤務していた三島高女(現・三島北高校)、韮山中伊東高女(現・伊東高校)は、すでに校歌があったので新たに作る機会がなかったというのもあるでしょうか。戦後作で確認できるのは校長となった三島南高校を始め小中高6校ほど。

 

穂積氏は前回でも触れた通り、北原白秋折口信夫に師事しました。始めは韮山中在学時代から白秋門下に入り「穂積茅愁」の号で歌壇に投稿する一介の門人でしたが、白秋と直に会ってからは才を認められ愛弟子となり早々に詩集編纂を勧められるほどになったといいます。一方、進学した國學院大学で折口に学び薫陶を受けるようになった頃から両師の軋轢が芽生えたのではないかと後年の研究家は語り「穂積氏の才能と早熟に対する賞賛が、北原・折口とで共有されず反目し合うという不幸を招いた」、これが後々まで穂積氏の葛藤と心境に暗い影を落とし続けることになったとされます。校長の多忙も相まってストレスも多かったようで3度に及ぶ胃潰瘍発症や死因とされる心臓疾患にこの人の苦難を見る思いです。

 

閑話休題、韮山高校の話に戻りましょう。

https://www.edu.pref.shizuoka.jp/nirayama-h/home.nsf/IndexFormView?OpenView

 

伊豆の国市は伊豆半島の中北部に位置し、ここも伊豆長岡温泉などいくつか温泉が湧出する出湯の町です。韮山といえば平治の乱で敗れた源頼朝が伊豆に流され蛭ヶ小島に逗留した地というのが定説ですが、実際のところは『伊豆に配流』のみで”蛭島”は後世の推定地だそうです。そして後北条氏の初代当主・北条早雲が拠点とした韮山城。伊豆・相模平定の足がかりとした城で別名は「龍城」、本拠地を小田原に移したあとも重要拠点でしたが豊臣秀吉の小田原征伐の際に抵抗しながらも落城、のち廃城となってしまいました。韮山は幕府直轄領となり韮山代官所が置かれ、明治時代の廃藩置県直後の数年間は武蔵・相模・伊豆国一円を包括する大県”韮山県”だったこともあります。

見どころのひとつに国指定史跡、また明治日本の産業革命遺産にも指定された韮山反射炉は明治に建設された溶解炉で、主に大砲やキャノン砲などの武器製造に使われました。実際に稼働した反射炉で遺構が現存するのは世界でもここだけとされます。

 

学校は明治6年開設と相当に古く、すでに150年に達した静岡県有数の伝統校です。学校名も10回以上の改称・変遷を重ね、明治34年に韮山中学校に落ち着いたあと昭和23年の学制改革で韮山高校になりました。

現在の校歌は作詞:穂積忠 作曲:佐々木英で大正14年制定です。
韮山高校 (全3番)
 空を仰げば  魂ゆらぎ

 地を踏みゆけば  肉躍る
 歴史は古き 韮山の

 男子の気噴 吹き明れ 

 

制定は大正14年ですが、校歌募集に応じて作詞したのは大正8年です。なぜ6年も空いているのかはわかりませんが、その時点では応募作に適当なものは無いと判断されたのが創立30年記念で有名になっていた穂積氏の作を引っ張り出して完成させた、という感じになるのかもしれません。穂積氏は昭和6年に母校の韮山中に転任しているので自作の校歌も歌っていたのでしょうね。

ちなみに学校関係者の証言によれば実際の原稿には1,2,3番の別はないそうですが、数字譜で書かれた古い楽譜(おそらく制定当時?)を見ると3章に分かれています。本人の意図はもはや知り得ず、分かれても分かれていなくてもどっちでもいいのかもしれません。

2番に龍城が取り入れられ、伊豆・相模平定の足がかりとした城を見守ってきた松のように「勁く、ますぐに、飾りなく」おのおのが伸びよと歌うさまは旧制中学らしさを垣間見ます。

 

大正時代の校歌募集の際「校歌ハ学生ノ元気ヲ鼓舞シ…本校未ダ一ノ校歌ナキヲ憾トシ、茲ニ賞ヲ懸ケテ之ヲ募ラントス…」とあり、これ以前には無かったかのような文面ですが、実は旧校歌はあったようです。古いOBの記憶から採譜されたもので明治期作とされ、3番まであったようですが現在2番までしか再現できず正式な表記や作者は不明だそうです。

韮山中 旧校歌?(全3番?)

 カワノナガレヤ ミズノイロ (川の流れや水の色)

 ミガケル ヤマトダマシイノ (磨ける大和魂の)

 オモイハタカキ フジノヤマ (思ひは高き富士の山)

 ココロハキヨキ イズノウミ (心は清き伊豆の海)

 ハコネオロシニ キタエタル (箱根おろしに鍛へたる)

 ニラヤマダンジノ キフウゾヤ (韮山男児の気風ぞや)

 

こちらでは2番に源頼朝と北条氏が出てきます。ただそれほど長く歌われなかったために学校の記録にも残されなかったのかもしれません。あるいは憶測として、他校でも生徒が”校歌”と称して勝手に応援歌のように作って歌っていた記録が稀にあるのでそのような類の歌だったのでは?と考えられます。

 

高校野球では、春夏1回ずつ甲子園出場しています。2回だけとはいえ昭和25年春は初出場初優勝、平成7年夏も2勝と優秀な戦績です。3拍子の校歌ですが、落ち着いた雰囲気ながらも荘重さを感じさせますね。