校歌の広場 -10ページ目

校歌の広場

高校の校歌についていろいろ書き綴っています。
高校野球でも流れたりする、校歌の世界は奥深いですよ~

野口雨情氏からもうひとつ。

氏が作った中で今年(2024年)の選抜高校野球の出場校は、愛知県の豊川高校です。

https://toyokawa.ed.jp/index.html

 

豊川市は愛知県の東南部、豊橋市に隣接する町で豊川稲荷の門前町として古くから歴史があります。また東海道の街道筋にあり、御油宿赤坂宿が置かれ賑わっていた土地、太平洋戦争では豊川海軍工廠があったため空襲の被害にもあっています。

日本三大稲荷のひとつともされる豊川稲荷は1441年の創建とされ、県内でも熱田神宮と並ぶ初詣の参拝客数が多い寺院として知られています。神社ではなくお寺で、円福山豊川閣妙厳寺が正式名称。また”いなり寿司”のルーツのひとつとも伝えられています。

 

その一大寺院が運営する学校は、明治15年に子弟教育のための豊川閣家庭学校として設置したのに始まります。昭和3年に夜間中学に準ずる豊川学堂に改称、さらに豊川夜間中豊川中と変遷して戦後の学制改革で豊川高校になりました。

戦前の校歌は作詞:野口雨情 作曲:駒井一陽で昭和13年制定です。

旧制・豊川中 (全4番)

 本宮山の 朝風に

 若き希望は 漲りて
 仰ぐは高き 大み空

 日々のつとめに 励まなむ

 

姫路工業高校と同じように野口雨情の校歌の半数ほどが駒井一陽氏作曲です。この人については詳しい情報がなく、生涯や人柄については今のところ皆目不明です。

学校史によれば昭和12年春に野口氏が豊川稲荷(豊川閣妙厳寺)を参詣した折、学校側からこの機会に作ってほしいとの依頼をうけて承諾、完成しました。これもほとんど姫工と同じ経緯ですね。

 

現在の校歌は作詞:丸山薫 作曲:駒井一陽で昭和24年制定です。
豊川高校 (全4番)
 けだかきすがた 本宮の

 嶺の光を 窓にうけ
 名もかくれなき 豊川に

 そそる甍は わが母校

 

高校になった直後の昭和24年に当時愛知大学の講師だった詩人・丸山薫氏に新しい校歌を依頼した際、従来の曲に合わせた詞にすることをお願いして現在のものになりました。旧校歌の内容も一部取り入れたと見え、「霊地の鐘」や「難きゆくて」にその影響がみてとれます。

高校野球の愛知県大会でもいつ頃からか校歌が歌われるようになったのですが、私がこの県大会のテレビ中継で初めて聞いたのが豊川高校の校歌でした。当時は歌詞字幕がなくよく分からず、それより胸の大きな宝珠紋が目を引きました。

 

高校野球では平成26年春に甲子園初出場、3勝を挙げてベスト4入りを果たしています。今回はその時以来2回目の出場で再び躍進が期待されますね。

部活動では駅伝部が高校駅伝の強豪校として知られ、女子部は全国優勝4回、男子部も1回優勝しています。水泳部もインターハイ3連覇や男女アベック優勝も成した名門です。

校歌は誰が作るのか。

それは学校によって様々ですが、ポピュラーなものとしては有名人に依頼して詞や曲を付けてもらうことでしょう。

現在でも名あるシンガーソングライターやミュージシャンに作ってもらいましたという宣伝を打ち出しているところも多く見かけますね。

そうした傾向は昔からあり、例えば皆さんも幼少時に聞いたり歌ったりした歌(童謡など)を作った人が校歌も手掛けていることもざらにあります。そういった人々の多くはこの世を去ってしまわれましたが、学校史にも時折ドラマ性を持って紹介されているのを見かけます。

今回からしばらく、その幾人かの晩年の作として野口雨情、北原白秋、折口信夫、穂積忠、佐佐木信綱を取り上げてみます。

 

1回目は茨城県出身の詩人、野口雨情です。

野口雨情は明治15年に現在の北茨城市で誕生、大正期から詩壇で注目されるようになり童謡も多く手掛けています。「シャボン玉」「七つの子」「証城寺の狸囃子」あたりが有名所でしょうか。その後昭和10年頃からは作品が減少し昭和20年に終戦を待たず病没しました。

北茨城市にある歴史民俗資料館・野口雨情記念館様の調査によれば、校歌は国内外で30数校ほど作られたようです。主な学校は豊川夜間中学(現・豊川高)谷村高女(現・都留興譲館高)などで、その最後の作とされるのは姫路工業学校。

追記:上の野口雨情記念館様の資料にはありませんが、私の調査では広島県の増川高等女学校(後の増川高校、現・福山明王台高校)も作詞しています。作曲者は藤井清水氏で「歳の流れも増川の…」で始まるものです。

今回は、兵庫県の姫路工業高校です。

https://www.hyogo-c.ed.jp/~himeji-ths/

 

通称は”姫工”で工都・姫路市にふさわしい高校といえるのではないでしょうか。

その歴史は意外と新しく昭和11年に姫路工業学校として創立、昭和23年の学制改革で姫路工業高校に、昭和25年から40年までは姫路工業大学附属高校、大学から分離して再び姫路工業高校に戻っています。ちなみに平成前半期にも県立姫路工業大学附属高校がありましたが別物で、現在は兵庫県立大学中学・高校となっています。

姫路城のやや北に位置し約90年の伝統を誇る学校の、戦前の校歌は作詞:野口雨情 作曲:駒井一陽で昭和18年制定です。

旧制・姫路工 (全4番)

 嘶く駒に 明けそめて

 朝日輝く 白鷺城

 五彩の雲も うちなびき

 御稜威の光 隈もなし

 

学校史によれば、この年の5月に駒井氏とともに山陰旅行の途中で姫路に立ち寄られたとき「わざわざ姫工への来校をお願いし、親しく本校の生活を見て頂き、力強く典雅なる校歌を作詞して頂いた」とあり、その時の座談会で姫路の印象は「15年前に初めて参ったときと同じく大変結構な所だと思います」という言葉を残しています。しかし一方で「姫路に来られたときはすでに体調を崩され、校歌の中では本校が最後のものとなってしまった」とも付け加えられています。昭和15年から全国の地方への講演や童謡小唄を作るうちに無理がたたったのでしょうか。

嘶く駒に」部分の意図はよく分かりませんが、私見としては姫路城には日本陸軍の師団(軍隊の編成部隊)が置かれていたことがあり、その観兵式で騎兵隊や軍馬が集まって嘶いていた…という情景かなとは思っています。あるいは姫路城の馬場に関係あるかもしれませんが今のところ場所は知りません。この歌い出しは同じく雨情作の熊本県天草市に所在した城河原小学校の校歌と同じです。

 

終戦後から改訂についての検討が始まり、野口雨情方の許可を得て国語科の教師陣によって書き改められたのが現在のものです。時期は確実な記録が無いものの昭和23年頃ではないかと推測しているとあり、高校になってからと思われます。

姫路工業高校 (全4番)

 うすむらさきに 明けそめて

 朝日輝く 白鷺城

 五彩の雲も うちなびき

 平和の光 隈もなし

 

 改訂でも「御稜威」など軍国調の廃止と共学化をうけて大部分変わっていますが、割合歌いやすい部類の校歌だと思います。

 

高校野球では、平成6年春の初出場を始め5度の甲子園出場があり、最初の春に2勝をあげベスト8入りしました。

平成17年夏以後20年ほど遠ざかっていますが、激戦区兵庫県、チャンスはまだあると思いますね。

他にもバレーボール部などが全国大会進出するなど活躍しているようです。

 

昨年から近畿各府県の学校を取り上げていて、今回の和歌山県でようやく一区切りです(笑)

先日、第96回選抜高校野球の出場校が決定しました。

その中でも校名や歴史が話題となったのが和歌山県の耐久高校。ペリー来航以前からある超伝統校というのが興味をひかれたようですね。

https://www.taikyu-h.wakayama-c.ed.jp/

あと開設当初から同じだったPC上のブログデザインも変えてみました。

 

今回は、そんな耐久高校の校歌です。

湯浅町は和歌山県の北東部、湯浅湾と呼ばれる湾奥にある町です。湾に注ぐ広川を境に北側が湯浅町、南が広川町です。
湯浅町はなんといっても”醤油醸造発祥の町”で知られています。金山寺味噌という味噌の仕込み樽に溜まる液体をもとに試行錯誤の末、最初の醤油を完成させたそうです。その後は全国で改良が重ねられ、世界に誇る調味料のひとつとなりました。また蜜柑などの柑橘やアジやシラス漁業も盛んな土地です。

学校はそうした紀州の町の一角、JR湯浅駅北の紀勢線沿いにあります。
簡単な歴史としては1852年(嘉永5年)創立の耐久社を源流とし、幾度か変遷を経たのち昭和23年の学制改革で旧制耐久中有田高等女学校を統合して耐久高校となりました。
校地は湯浅町の有田高女を受け継いでいます。耐久中の校地はそのまま新制の広中学校となり、後に耐久中学校に改称しました。

高校の校歌は作詞:清水康夫 作曲:植村保で昭和23年制定です。
耐久高校 (全3番)
 東雲なびく 生石山

 夕日に映ゆる 那耆の海
 自然の恵 身に受けて

 道を修めん 若人の
 学びの庭の名も高し

 讃えよ耐久 吾等が母校

 

1番は学校のある湯浅町の自然環境を歌います。生石山は和歌山県北部の長峰山脈中の主峰であり、生石高原と呼ばれるススキ草原が有名です。「那耆(なぎ)の海」とは湯浅町と広川町に面する入海・湯浅湾のことでしょうが、梛(なぎ)の意味をなすとすれば南紀熊野三山の神木とされたり護符代わりに身に着けていたとも言われ、学校近くの広村堤防にも植えられているそうです。あるいは海が「凪ぐ」にも掛かっているかもしれません。

作詞者の言によれば「応募した詞とはずいぶん変わってしまった」ので作詞というより原作に近く、教師によって大幅に校訂されたというのが正しそうです。

 

耐久の源流に遡ってみれば、醤油の元祖ともいえるヤマサ醤油(株)の7代目を襲名した濱口梧陵と他2名によって1852年に開設された私塾「稽古場」に始まります。この頃は剣術や槍術、国学や漢学を教えていたそうです。

2年後に発生した安政南海地震による津波で被災しましたが再建、1866年(慶応2年)に移転し梧陵自ら”永続”と”自学自労”の精神に満ち溢れた人材教育を願って「耐久社」と命名されました。明治25年に校風を一新して普通教育を開始、校名も耐久学舎に改称しています。

最初の校歌は作詞:濱口恵璋 曲:金剛石の歌、明治36年頃に作られたようです。
旧制・耐久学舎 (全3番)
 たたふる波も那耆の海 たなびく雲や生石山
 わが学び舎は礎を 嘉永の昔ここに置き
 耐久学舎の名とともに 幾年月を過ぎにけり

 

作詞者の濱口恵璋は濱口家菩提寺の住職のかたわら耐久中の教員も務められた人です。濱口梧陵と姻戚関係があるのかは残念ながらよくわかりません。

旧制中学校は藩校由来を除き早くとも明治初期からなので、「嘉永の昔」とわざわざ言及するあたりに伝統の重みを強調したものと思うのですね。3番に「はげみ進みて久しきに、耐ゆとふことを忘れざれ、道義の山は高くとも、真理の海は深くとも」とあり、これは耐久高校の2番に形を変えて受け継がれたとも感じられます。

 

その後明治41年に中学校令による耐久中学校に改称し、大正9年に県に移管されています。

二代目とされる校歌があり、作詞:佐藤安一 作曲:陸軍戸山学校軍楽隊ですが制定年は不明です。
旧制・耐久中 (全2番)
 すめらぎの 遠つ御祖の

 めぐらしし 美し紀の国
 そこに 耐久の名に負ひて

 歴史は古き わが学び舎
 おお その誉も高く

 弥々進まん 男の子われら

 

2番は冒頭に「逆巻きて寄する海嘯(つなみ)を、防がんと築きし堤の、そこに鬱蒼と逞しく、嵐に吼えて立つ松群」とあり、これは広村堤防を指します。耐久の創設者・濱口梧陵がモデルとなった”稲むらの火”物語にある安政南海地震の津波のあと、梧陵自身が私財を投じて築いた防潮堤で、現に昭和の東南海・南海地震でも効果を発揮し死者を最小限にとどめたそうです。

昔も現在も防潮林として松が多く植えられていることを表し、剛毅さを学べということでしょうか。


有田高女の校歌は作詞:尾上八郎 作曲:幾尾純ですが、別資料では作詞者が山崎兼次郎となっています。
旧制・有田高女 (全3番)
 有田の川辺は 橘かをり

 湯浅の磯部は 松かげ青し
 栄ある里辺に 高くも立てる

 我等が学び舎は 光にみてり

 

今回の甲子園が初陣ということで、まずは初勝利を目指してもらいたいですね。

他の部活動としては、バドミントン部やマンドリン部が県内の強豪として活躍しているそうです。

 

今回は、奈良県の奈良育英高校と育英西高校です。

どちらも中高一貫教育として中学校を併設しています。

奈良育英 https://www.ikuei.ed.jp/ikuei-jh/

育英西 https://www.ikuei.ed.jp/ikunishi/

 

まず奈良育英中学・高校です。

県都・奈良市の行政の中心部、近鉄奈良駅の北にあり、学校は春日山や佐保川を近くに臨む地にあり、すぐ近くには奈良女子大学のキャンパスも見えます。

校名は「人間ひとりひとりが、みなその中に持っているすぐれた素質を、人間として、真に(ひい)でたものになるよう、(そだ)て養う」に基づき、奈良育英独自の「育英誓願」を学園の基準としています。

 

学園としては明治39年の奈良育英学校設立に始まるのですが、この頃は奈良女子師範学校進学または小学校教師志望者のための予備校的な意味合いだったようです。しかし師範学校廃止の機運が高まった(結局は存続していますが)のを受けて生徒が激減してしまい、廃校となりました。

その跡地、施設を引き継いで藤井夫妻により実科高女相当の女学校に変更、公式HPにもあるように大正5年に私立育英女学校初の17人の生徒入学をもって創立としています。大正12年に別途奈良育英高等女学校を新設の形で開校し、これが奈良育英高校の源流です。

校歌は作詞:吐田勝義 作曲:島崎赤太郎で制定年は不明ですが、割合早くに作られたと思われます。

奈良育英高女 (全2番)

 軒かほる 春日のみどり
 四時に変らぬ 操と仰ぎ
 窓さゆる 佐保の川なみ
 永久に濁らぬ 鏡ととげば
 鐘よ 誠の わが目醒め
 月よ 真如の わがすがた

 

創設者のひとり、藤井校長によって「誠」を第一とした教育理念は校歌にも現れ、仏教で言う”真如の月”も取り入れられています。

 

学制改革で共学の奈良育英高校となり、同系列の奈良育英中学校との併設型中高一貫教育を行っています。また戦後に相次いで幼稚園、小学校を設置して総合学園の様相になりました。

このため学園全体の校歌としての「学園歌」があり、作詞:大谷のり子 作曲:山口和彦です。

奈良育英 学園歌 (全3番)

 まろやかに 平城の山山
 若草の みどり匂いて
 佐保川の 流れに映ゆる
 育英の われら学び舎
 夢しげく 今を励むと
 おおらかに 門をひらけり
 ああわれら 奈良育英学園

 

またこの”学園歌”とは別に「スミレ咲く佐保のほとり、ならやまのまろきすがた…」で始まる”育英学園の歌”があるようですが、今でも歌われているのかは判然としません。

 

系列校の育英西中学・高校は奈良市と西隣の生駒市の市境近くに位置し、富雄駅から北のちょっとした丘陵上にあります。

昭和58年に中高一貫の女子校として開校し40周年を迎えました。国際バカロレア機構の認定校として女子校では日本初となったそうです。

校歌は学園歌とは異なる独自のもので、作詞:山本静山 作曲:山田光生、昭和59年制定です。

育英西 (全4番)

 春が来た来た 青垣山に

 萌ゆる緑と 三色の
 すみれ花咲く 学び舎に

 をとめの心 薫らせて
 四聖の教えを かかげなむ

 育英西校 光満つ

 

学園歌、育英学園の歌、育英西校歌に共通する語はスミレ四聖でしょうか。

校章でもあるスミレは”愛”を象徴し、育英学園の歌は特にこの花を強調しています。

四聖はいくつかの解釈があるようですが、ここでは”育英誓願”の世界四聖たる釈迦・孔子・ソクラテス・キリストを模範として完全の道を信じて完全を期するということです。

 

部活動としては奈良育英高校には硬式野球部はありませんが、高校サッカー全国大会出場16回を誇るサッカー部を始め運動部・文化部とも奈良県でも有数レベルで活躍しています。

育英西のほうは、ハンドボール部や文化系のクラブが頑張っているそうです。

2024年、明けましておめでとうございます!

プライベートでは大きく変化する年になりますが、このブログもなんとか続けていけたらと思っております。

 

前回、香川遠征をアップして今回はその後日談を。

香川県の高校の校歌を眺めていると、かなりの割合で頻出するワードがあることに気付きました。それも他県の学校ではそれほど多くは使われていない言葉。

それは「」。全国を見渡せば甲子園出場校でも常総学院高九州国際大附高などそれなりにちらほら(山名など含め)使われていることもありますが、香川県で突出しており多くのバリエーションをもって歌われます。

 

例をあげてみると…

高松高校 「おお清き若人が

香川誠陵高校 「わが向学の清し

三木高校 「憬れ高くあげて

(小豆島高校) 「研鑽の凛然と

坂出高校 「高邁自主の清く

農業経営高校 「学ぶわれらの高し

(多度津水産高校) 「夢見るよエンジンよ

高瀬高校 「見よ強き「信」のあかりを照らす

尽誠学園高校 「行こうをあげて雄気あふれ

観音寺第一高校 「理想に挙るあげて

(観音寺中央高校) 「若き理想のは輝く

他にも高松高専主基高校(現・農業経営高校)、上戸学園高校(現・四国学院大香川西高校)にもあり、校歌には無いものの別途学生歌に出てくるところも(坂出商業高校や志度商業高校)。

 

なぜ「眉」がこれほど多く使用されているのかは大きく分けて2つの理由がありそうです。

1つは作者。他県でも、ある作者が県内の多くの校歌を作ったために作風の似た校歌が多い場合がありますが、香川県では主に脇太一氏と河西新太郎氏がそれに当たります。旧制では堀澤周安氏が代表格ですね。曲のほうは大川かづゆき氏が多いです。

脇氏、河西氏とも「眉」が好きだったのでしょうか?(笑) 脇氏は岐阜・阿木高校や三重・尾鷲高校でも「眉」を入れています。両人と関係ない学校であっても少なからず影響を受けたと見ていいのかもしれません。

2つはほとんどが昭和20~30年代の制定ということ。戦後いくばくもない頃、また学制改革で新制「高校」となり旧弊からの脱却、新しい日本を担っていくであろう学生が、下を向かずに「眉」を高く上げ、未来への希望を持って進めという意義を強く表した形なのだろうと思われます。

こうした県ごとの”特徴”、またいずれ検証する機会があればやってみたいですね。