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校歌の広場

高校の校歌についていろいろ書き綴っています。
高校野球でも流れたりする、校歌の世界は奥深いですよ~

今年(2023年)もまもなく終わりを迎えようとしていますね。

仕事が多忙で、県外への遠征は年初の横浜再訪と8月の香川県だけとなりました。

今回はその香川県遠征の旅行記、となります。

 

香川県は面積が日本最小で県都・高松市の他は坂出市、丸亀市、観音寺市など瀬戸内海沿岸に小都市が散らばる他、沖合は小豆島や塩飽諸島などの多島美が形成されています。

少し内陸に入ったところには琴平町や善通寺市といった門前町があり、特に琴平は江戸時代頃から金刀比羅宮参詣で栄え、善通寺も弘法大師こと空海誕生の地として知られています。

 

当初は京都と香川で4泊5日を計画、7月には宿泊ホテルなども決めていました。

しかし8月に入ってしばらくすると大型台風が2つ、次々に襲来する事態に。台風6号は沖縄の海上を行ったり来たりして九州南部から直角に曲がり北上するという複雑な進路をとり、かつ進行速度がかなり遅く心許なかったのですが、休み前には朝鮮半島に抜けていきました。

次に来たのが台風7号。当初は関東地方に接近する予想で近畿~四国に影響はそれほど無さそうと思っていたのですが、北上するにつれて予報円がどんどん西に、また上陸時期も旅行期間に近づき始めて焦燥感が大きくなってきました。15日が旅行初日だったのですが、ついに当日和歌山に上陸、しかも神戸方向に向かうとのことで京都観光と調査は断念、新幹線も計画運休で動かないことから岡山のホテルもキャンセルする羽目になりました。台風はその日の夕方から夜には日本海に抜けるとの予報、翌日なら風も弱まって瀬戸大橋は渡れるかも?という希望で3泊4日に変更して早朝から直接高松に行くことにしました。

明けて16日、無事に新幹線も復旧して岡山へ、瀬戸大橋線に乗り換えて瀬戸内海を渡り10時前には高松駅に到着。昼頃に知ったのですが、静岡で線状降水帯が発生して東海道・山陽新幹線が午前中には東京-博多の全区間で運転見合わせとのニュースが。もう少し出発を遅らせていたらまた足止めだったかもしれないと思いましたね。かなりダイヤが乱れて翌日朝まで遅延が解消せず夜中も動いていたそうなので大変でした。

 

(坂出市付近の車窓から見た飯野山・讃岐富士)

 

色々と予定外は重なりましたが、ともかく四国2県目の香川県は高松観光と琴平参詣、観音寺へと足を伸ばしました。

目的の香川県立図書館は2日目に調査を行いました。高松市街からは南外れの林町にあり、ことでん(高松琴平電気鉄道)からも微妙に遠いので、交通手段はほぼバス限定でしょうか。私はことでん伏石駅から路線バスで訪問しましたが、高松駅からもサンメッセ香川経由で20~30分ほどで行けるようです。

30年前に現在地に移転したそうで、外観・館内ともいたって普通です。

 

成果として特記すべきものはありませんが、香川県内の高校では昭和23年の学制改革直後に校歌が作られたところはそれほど多くないこと、代わりとして学生歌や生徒歌が作られた例が相当数あることがわかりました。

あとは尽誠学園高校の校歌が制定当初のものから大幅に改訂されていたことが判明しています。

ただ、コピー不可は痛かったですね…はい。

 

香川県立図書館 (1回訪問)

アクセスのしやすさ… 高松駅からバス、またはことでん伏石駅からバスで県立図書館・文書館前下車。いずれでも高松駅からだと20~40分はかかると思われます。
所蔵本の充実さ… 学校史、要覧とも充実していたと思います。
所蔵形態など… 学校史(最新)と学校要覧は開架、昔の校史は書庫。コピー不可。

 

またも4ヶ月以上間を空けてしまいました…

プライベートでやや落ち着きを取り戻したので、今後ブログにも目を向けていきたいですね。

 

今回は、兵庫県の須磨学園中学・高校です。

https://www.suma.ac.jp/

 

神戸市須磨区は市域の西に位置し、特に白砂青松たる須磨海岸で知られています。古来歌枕としても有名で、百人一首「淡路島かよふ千鳥の鳴く声に幾夜寝ざめぬ須磨の関守」他、万葉集の昔から多く”須磨の浦”や”須磨の藻塩焼き”が歌われています。

淡路島に向かう明石海峡大橋が望め、風光明媚な土地柄、神戸への移住地としても人気がある町となっているようです。

 

学校は大正11年に神戸市須磨区に須磨裁縫女学校として創立したのが源流です。

昭和13年に須磨女学校、19年に須磨女子商業学校、21年に須磨高等女学校と変遷、阪神大水害や戦中の神戸空襲など数々の災難に遭い戦後の混乱期を生き残ってきました。

旧校歌は作詞:西田正 作曲:徳増春三で昭和15年制定です。

旧制須磨女学校、須磨女子高校 (全3番)

 淡路島根 うちかすむ浦は 通ふ船の 梶の音絶えせず

 古き御世ゆ 優しさ伝へて 今も乙女 文習ふ里ぞ

 

作詞者の西田氏は須磨学園の創始者・西田のぶ女史のご子息で昭和18年に須磨女学校に着任とあるのですが、それ以前から学園に関わっていて校歌を作られたのではと思われます。さらに言えば、西田氏の略歴に神宮皇學館(現在の皇學館大学)卒とあり、実は上記の校歌は神宮皇學館の校歌に酷似しています。

皇學館高校の校歌とは別で、戦前の”館歌”ですね。

 現御神 高知らす国は 天つ日継 神こそ守らせ
 遠つ祖の 雄心伝へて 今も人の 神習ふ国ぞ

 

追記:2番は「須磨の海に底しづく珠は、潜く海女の手にこそ映えすれ…」。これは元の皇學館2番では「伊勢の海に底沈く珠は、潜く海士の手にこそ映えすれ」とほぼ同一です。伊勢市は英虞湾という有名な真珠生産地に近いので”珠(真珠)を取る”という表現は違和感ないのですが、神戸は真珠に関係があるのか?と思われるのですが、これがあるんですね。神戸パールミュージアムという真珠をテーマにした博物館、近代化産業遺産にも登録された日本真珠会館があったのですが今年の春に閉鎖されたようです。神戸は昭和初期から三重県や愛媛・宇和島など日本の真珠の集積、加工、輸出流通の拠点となっていたそうです。

また、5年前から須磨の海で本当に真珠の養殖が始まり、”Kobe SUMA PEARL”をブランドにする試みもあるそうです。作詞者の意図とは違うのかもしれませんが、約70年後に「須磨の海に底しづく珠」は現実のものとなりました。

 

学制改革で須磨女子高校となり、引き続き伝統ある女子校として長らく存在感を示していましたが、平成10年頃に大きな変革を迎えます。

少子化や女性のさらなる社会進出が進むという先見とそれまでの教育理念や信念の変革を痛感し進学校にするという方針のもと、ついに共学化に踏み切りました。それまでも共学化の話は出ていたようですが、阪神大震災で校舎が被害を受け、復興改修の際に男子トイレを設置するなどこの頃から具体的に進んだようです。

そうして平成11年に須磨学園高校に改称、男女共学に移行しました。同時に校歌もリニューアルされ、現在に至っています。

作詞:阿久悠 作曲:都倉俊一です。

須磨学園 (全2番)

 ひたむきな心 持ち寄り 丘の上で 希望語らい
 ひろがるは 明日につながる
 須磨の海 伸びる大橋
 ああ この時を 称えよ 愛せよ
 美しく生きて 
きらめいて過せよ
 須磨学園 ここより永遠に 須磨学園 ここより永遠に

 

部活動としては女子校時代から高校駅伝が有名で、優勝2回、入賞20回以上と優秀な成績を収めています。また水泳部はオリンピック選手も輩出するなど高レベルにあるといえましょう。

 

今回は、大阪府の三国丘高校です。

https://www.osaka-c.ed.jp/mikunigaoka/all-index.html

 

 堺市は大阪市の南隣に位置する府下第二の商工都市です。

仁徳天皇陵に比定される大仙陵古墳は日本最大の前方後円墳として有名な他、堺港は中世には日明貿易の重要港として商人の自治都市として発展・殷賑を極めていました。大阪夏の陣の最中にいわゆる「堺焼き討ち」が起こり焦土と化してからは江戸時代に堺奉行が置かれたりしたものの往年の繁栄を取り戻せませんでした。

明治時代の一時期は堺県という河内国、和泉国、大和国を合併した大県だったこともありますが、現在は大阪府に組み入れられ大阪市のベッドタウン的な要素が強くなっているようです。

 

」は摂津・河内・和泉の3国が接する「境」と同義で、校名「三国丘」もこれに由来しています。

学校は明治28年に大阪府下で2番目に開校した大阪府第二尋常中学校を源流とする、130年近い歴史を持つ伝統校です。明治34年に堺中学校に改称し学制改革で三国丘高校になりました。比較的近くにJR阪和線・南海高野線の接続駅である三国ヶ丘駅がありますが、南海の最寄り駅は堺東駅になります。

 

旧制堺中の開校は明治28年と相当に古いものの、なぜか校歌は長らく作られませんでした。明治29年の開校記念式・校舎新築落成式の際に”唱歌”が歌われた、という記録があるようですが、その後は昭和に入るまでなんらかの言及もありません。

ようやく校歌らしきものが現れるのは、堺中”学生歌”が最初と思われます。昭和9年春に野球部が選抜野球大会で甲子園出場した際に作られ、甲子園で歌われたそうです。原文はカタカナひらがなで書かれているようなのでここでも原文ママとします。カッコ内は漢字を充ててみました。

旧制堺中・学生歌 (全2番)

 アヲナミヨスル チヌノウミ (青波寄する茅渟の海)

 レキシハナガシ ホガラケク (歴史は長し朗らけく)

 ミクニガヲカニ ネザシタツ (三国ヶ丘に根ざし立つ)

 ノゾミハアラタ ワガボコウ (望みは新た我が母校)

 ワレラ ワレラ (我等 我等)

 ミガケキタヘヤ サンキューケンジ (磨け鍛えや三丘健児)

 

これ以前にも校歌作成の機運はあり、校友会の「校歌が無い事は心淋しい」ことから昭和7年の新校舎落成記念の一つとして募集したものの応募が少なかったことから打ち切られましたが、5年後ついに正式な校歌が制定されました。

作詞:河井酔茗 作曲:永井幸次で昭和12年制定です。

旧制堺中 (全2番)

 朝夕見馴れし 緑の杜も

 思へば畏し 三帝陵

 三国ヶ丘の 高台に

 展望すぐれし 我等の校舎

 山は連なり 海は展け

 教の精神は 天地に通ふ

 

1番「三帝陵」とは、世界遺産に指定された百舌鳥・古市古墳群の中でも特に規模の大きい三帝陵(仁徳天皇陵・履中天皇陵・応神天皇陵)を指すと思われます。仁徳天皇陵古墳(大仙陵)は世界三大墳墓(他はクフ王のピラミッド・秦の始皇帝陵)のひとつでもあります。

2番前半には「記念の芝生は何をか語る、嘗てぞ得難き御臨幸、玉歩の址は本校に、永く伝ふる我等の栄誉」。これは昭和7年11月に昭和天皇が陸軍特別大演習で堺に御行幸された際に堺中が「御講評場」となり臨幸された記念を歌ったもので、現在も記念碑「駐蹕之趾」が立っています。

 

昭和23年の学制改革で新制高校となったとき、堺中・県堺高女(現・泉陽高校)とも「堺」の校名を希望して譲らず、結局双方ともこれを避けた校名として堺中側は三国ヶ丘高校となりました。正式名称は「三国ヶ丘」ながら「三国丘」表記が多用され、後年甲子園出場した際も「三国丘」でしたが、平成13年に正式名称も「三国丘高等学校」となっています。

校歌は作詞:吉武愛 作曲:宅孝二で昭和24年制定です。

三国丘 (全3番)

 空は晴れたり 金剛の

 山なみ遠く 輝きて
 若き命を たたえつつ

 自由の鐘を 打ち鳴らす
 理想は高し 三丘生

 

三国丘高校の生徒は古くから「三丘生」と呼び習わされているそうで、全体的に新時代の洋々たる希望を山の明るさや海の和みになぞらえた内容になっています。自由や平和、愛といった言葉が出てくるのも戦後を象徴していますね。

 

学校は大阪府下でもトップクラスの公立進学校としての地位を保っています。進路もほとんどが阪大・京大・神戸大、また関関同立を中心とした上位大学に進学する傾向にあります。

高校野球では甲子園には2回、昭和9年と昭和59年の春に出場していますがいずれも初戦敗退です。昭和59年の出場時は終盤までリードしていましたが逆転サヨナラ負け、惜しくも校歌は流れませんでした。

今回は、私が校歌に興味を持つようになったきっかけ=甲子園の校歌のお話です。

 

高校野球といえば誰もが思い浮かべるのは甲子園。

私自身は甲子園球場で観戦したことはなく、テレビ中継でいつ頃から見ていたのかは曖昧な記憶しかありません。父が毎年夏になるとNHKで観戦をしていたので一緒に見るようになったのが最初だったはずです。

一番古い記憶は1985年夏、PL学園-東海大山形のあの試合です。30点行くか!?みたいな期待感で見ていたのを覚えていますね。しかし小学3年生のことで清原・桑田のKKコンビがいたことやPLの校歌は知りませんでした。
初めて校歌に注目したのは、おそらく1987年夏の中京高校だったと思います。試合終了後に勝利校の校歌が流れることは知っていたので、画面の字幕とともに流れる「ここ八事山、東海の…」を追っているうちに、ちゃんと覚えて歌ってみたいという気持ちが漫然と芽生えた感じですね。

初めて校歌を録画したのは1989年春の東邦高校(別府羽室台戦)。地元であり、またこの大会で優勝したことも相まって何度も何度も聴いたものです。この大会中は他に京都西、仙台育英も収録していました。

この年初めに平成に改元されたので、私の校歌歴はまさに平成とともに始まったのです。

ただ中学に上がったので、勉強や部活動などに追われてなかなかテレビの前にいることができず、姉や両親に頼んで録画してもらうような状態が続きました。それでも録り逃しは避けられず、1990夏の丸亀高校は平安戦が延長でなかなか決着がつかず目を離しているうちに試合が終わっていた…という悲劇もあったりします。

 

タイトルの「甲子園で初めて覚えた校歌(都道府県別)」は以下のようになります。

北北海道 砂川北(1994夏)、南北海道 東海大四(1993夏)

青森県 弘前工(1989夏)、岩手県 専修大北上(1997夏)

宮城県 仙台育英(1989春)、秋田県 秋田経法大附(1989夏)

山形県 日大山形(1993夏)、福島県 日大東北(1990夏)

茨城県 竜ヶ崎一(1990夏)、栃木県 佐野日大(1989夏)

群馬県 東京農大二(1989夏)、埼玉県 春日部共栄(1991春)

千葉県 我孫子(1991夏)、東東京 帝京(1989夏)

西東京 東亜学園(1989夏)、神奈川県 横浜商(1990夏)

新潟県 中越(1994夏)、富山県 富山商(1998夏)

石川県 金沢(1990春)、福井県 大野(1991春)

山梨県 東海大甲府(1990春)、長野県 松商学園(1991春)

岐阜県 県岐阜商(1996夏)、静岡県 浜松商(1990春)

愛知県 東邦(1989春)、三重県 三重(1990春)

滋賀県 八幡商(1989夏)、京都府 京都西(1989春)

大阪府 北陽(1990春)、兵庫県 育英(1992春)

奈良県 天理(1990春)、和歌山県 星林(1990夏)

鳥取県 (1990夏)、島根県 浜田(1998夏)

岡山県 玉野光南(1990春)、広島県 山陽(1990夏)

山口県 宇部商(1990夏)、徳島県 徳島商(1990夏)

香川県 尽誠学園(1989夏)、愛媛県 宇和島東(1989夏)

高知県 高知商(1990夏)、福岡県 西日本短大附(1990夏)

佐賀県 佐賀学園(1991夏)、長崎県 長崎日大(1993春)

熊本県 済々黌(1990夏)、大分県 柳ヶ浦(1990春)

宮崎県 小林西(1993夏)、鹿児島県 鹿児島実(1990春)

沖縄県 沖縄水産(1990夏)

 

こうしてずらっと並べてみましたが、この頃は当然勝利校しか流れないので、砂川北は統合されて聞けませんし、現状この時が最後になったところ(弘前工、我孫子、東亜学園、Y校、大野、星林、山陽、小林西)もあります。

この一覧は私にとって思い入れがある校歌とはまた別ものにはなりますが、やはり初期(1990年~1994年頃)に覚えた校歌は愛着が湧きますね。

 

しかし、上記の収録校歌はもはや存在していません。原因はビデオデッキがβ(ベータ)だったので、デッキが故障してからはテープの再生手段が無くなってしまったからです。それでも後年購入したVHSのテープと共にかなり後々まで手元にあったのですが、いつのまにかテープ自体紛失してしまいました…

2000年に社会人になってからはテレビの時間が取れなくなったため調査の方向にシフトという形になっています。甲子園の校歌は正味10年ちょっとしか続きませんでしたが、最初のきっかけとして人生の意味を見出だせた事は間違いありません。

最近(半年前くらい?)YouTubeで昔の甲子園校歌を上げていた方がおられましたが、今は削除されてしまっています。この中では上記の丸亀の校歌を見られたことが嬉しかったですね。33年越しの雪辱を果たせた気がしました。

 

現在はハードディスク録画が主流になり、全試合の最初から最後まで録れたり校歌シーンを抜き出して簡単な編集するだけで立派な「大会集」ができたりできるので、テープメディア時代よりは格段に便利になりました。

その技術の進歩に感心する反面、こういったことが半世紀以上前から実現できていたらなぁ…とも思ったりします。

今回は、京都府の峰山高校です。

http://www.kyoto-be.ne.jp/mineyama-hs/mt/

 

京丹後市は京都府北部、丹後半島の大部分を占める奥丹後地域の町です。市域は天橋立や国定公園に指定されている若狭湾ではなく北の日本海に面し、平成18年に峰山町や網野町など6町が合併して成立しました。

市の中心は峰山地区にあり、戦国大名の京極高知の婿養子・高通が興し幕末まで続いた峰山藩の城下町といった様相です。また丹後ちりめんの産地としても名高く、その歴史は紆余曲折ありましたが現在まで次代への試行錯誤が続けられながら存続しています。

 

学校は大正3年創立の峰山女学校と大正11年創立の京都府立工業学校を源流としています。

峰山女学校は峰山実科高女→峰山高女に、府立工業学校は峰山工業学校に改称したあと戦後の学制改革で統合されて峰山高校となり、昨年(令和4年)に創立100周年を迎えた丹後地方屈指の伝統校です。

旧制では峰山高女の歌詞のみ判明していて、峰山工業学校の校歌は有無不明です。今一度調査したいところですが…

旧制・峰山高女 (全3番)
 桜尾山に匂ふ花 紅葉ヶ丘に織る錦
 来る年毎の友として 集ふも楽し学びの舎

 

追記:峰山工業学校は作者不明、制定年不明。

旧制・峰山工 (全3番)

 北丹連山 翠巒映えて

 与謝の海原 静かに眠る

 ここぞ名に負ふ 葦城が丘に

 吾等が母校は 巍然と立てり

 歌へよ京工 吾等の誇り

 

峰山高校の校歌は作詞:考現学部 作曲:牧野由多可で制定年は不明です。
峰山高校 (全2番)

 いさなごの山なみ 遠くひく 葦城が丘
 曙の光を浴びて 新しき道を求めつ
 つどいよる我ら若人 かがやかに たたえん
 楽しきまなびや 峰山高校
 ああ瞳さやかに 形もきよく 希望をひめて
 求めてやまじ 高き理想を!

 

いさなごの山なみ」とは峰山地区からは南方に聳える磯砂山(いさなごさん)を指し、丹後国風土記に現れる”天女の羽衣伝説”の地と謂われています。羽衣伝説は天女が天に帰るものとその地で暮らしていくものに大別されるようですが、ここの場合は後者に相当します。

その稜線が裾を引くように峰山盆地の北西部にある権現山・吉原山城(葦城)あたりまで続いているということでしょうか。植物のアシ、ヨシは”葦”と書き吉原のヨシを葦に掛けているものと思われます。学校はこの山城の麓に位置し、近くではありませんが2番に竹野川も歌われます。

 

ところで作詞が考現学部という耳慣れない言葉ですが、当時の民俗学研究?か文芸部のようなクラブの部員で作った、ということかもしれないですね。

また後半部は綾部高校の校歌とかなり似通っているのも印象的です。更にいえば綾部高校も旧制東舞鶴高女(現・東舞鶴高校)の校歌を参考にしたと思われます。(綾部高「四尾峰の朝のかぎろひ、い照りあかる、新しき代に生れいでし学びの園に…」 東舞鶴高女「青葉嶺の朝の陽炎、い照リ明る、天地の栄ゆる御代に、生れ出でし学びの苑に…」 作者は別人)

 

高校野球では平成11年春に甲子園出場しました。京都北部の高校では初、また名将・野村克也氏の母校ということで大いに話題になりましたが惜しくも延長戦で敗れています。

この大会から2回の表裏に試合をする両校の校歌が流れるようになったので、峰山高校も校歌は流れたはずです(私は中継を見られませんでした)。