今回は、滋賀県の守山高校です。
http://www.moriyama-h.shiga-ec.ed.jp/
昭和38年開校とそれほど古くはない歴史を持ちながら、滋賀県下ではトップレベルの進学校に位置付けられています。平成15年に県立守山中学校が開校、中高一貫校となっています。
校歌は作詞:安西冬衛 作曲:平井康三郎で昭和40年制定です。
安西氏は大阪の詩人で「てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った」という一行詩が有名ですね。出身は奈良市ですが堺市役所で勤務されていたこともあり堺市など府内の学校を多く手掛けておられます。
守山 (全3番)
嶺ほがらなり 近江富士
耳にあかるき 山彦の
窓ぞ 守山 わが母校
自立のすがた おおらかに
こぞれ 希望の若き眉
いのちさやけし われら われら
「近江富士」は三上山のことで、守山市からは南東方にある富士に似た孤立峰です。その秀麗さから湖南地方のいくつかの学校で歌われています。
2番は琵琶湖岸の風景が歌われます。「魞(えり)」とは魚の習性を利用した伝統的な漁法で、他の地域でも見かけるそうですが、琵琶湖周辺では高度に発達しほぼ年中湖面から突き出た定置網の杭が漣とともに光っている様を表しています。また近江八幡市には”西の海”と呼ばれる内湖があり、そこに群生するヨシ(葦)原は近畿最大級と言われています。「風にすずしき芦笛の」は、そのヨシが涼しく”奏でる”ざわめきが響く岸辺の守山高校、でしょうか。ちなみに琵琶湖発祥の「琵琶湖よし笛」という楽器があるのですが、これは平成になってから考案されたそうで制定時期とは合わないので違います。
3番「明日香のいぶき、すこやかに…」は、守山市にあるいくつかの遺跡に由来するのでしょうか。巨大な環濠集落があった下之郷遺跡、弥生時代後期の大型建物跡が発見された伊勢遺跡、川舟や儀式に使用されたと思われる杖が見つかった下長遺跡など、古代からこのあたりは琵琶湖周辺でも特に栄えた痕跡が見つかっています。こうした古代の息吹を身近に感じる環境を端的に表しているといえましょう。
作詞者が詩人の場合、それぞれの作風が出ていて違う学校の校歌であっても似通るというか特徴的な語彙や文脈を感じ取れることが多いようです。安西氏も同様、地名をあまり多用しないことや学生の学習環境を明るく力強く、あとは形容動詞でしょうか。曲調も詞にふさわしく軽快さわやかなメロディーで歌われてます。
高校野球では開校5年目の昭和42年夏に甲子園に出場していますが、初戦敗退でした。
サッカー部は県の名門校のひとつで選手権、インターハイでも上位進出していました。こちらも次第に”古豪”になりつつありますが、地力はあるので復活が待たれるところですね。
先日、今春(2023年)の選抜高校野球に出場する34校が選出されましたね。
そのひとつ、北陸高校について。
https://ameblo.jp/hakutsuru45/entry-12484078606.html
4年近く前、このブログを始めて割とすぐに紹介したのですが、この時点ではネットや公式HPにもそれほど詳しい情報があったわけでなく、今となっては不正確な部分が見受けられるのが心に引っかかっていました。
そこで今回この機会に、福井県での調査をもとにその後判明した事柄を含めつつ修正したいと思います。
公式HPの「北陸学園140年のあゆみ」によると大正9年に校歌制定とありますが、実はこれ以前の明治41年に初代ともいえる校歌が作られています。この時の校名は第二仏教中学でした。
当初は詞、曲とも中村朝貞氏が作ったと思いましたが、曲の方は不詳としておきます。
旧制 北陸中・初代 (全5番)
臣たり子たる まごころの
緒の一すぢを 国家の
二つにわかつ 片糸の
片より有らで 忠孝の
美を率済さむ これやこの
我が国体の 精華なる
国家は「こっか」ではなく「くにいへ」で、真心という糸を国と家にわけてそれぞれに等しく忠と孝を尽くすのが美徳、国家のあり方という意味でしょうか。明治の世相らしいといえるでしょう。
4番は前半に「国開かししいにしへの、男大迹の皇子の大御稜威」と継体天皇が歌われます。継体天皇は皇子の頃は越前三国に居たとされ、九頭竜川・日野川・足羽川が作る大湖沼の水を排水して灌漑、今の福井平野を作ったという伝説があります。
後半は「御法弘めしそのかみの、宗祖の御流れを、掬べば清し足羽川」と浄土真宗の宗祖・親鸞を取り入れています。1207年、いわゆる”承元の法難”によって法然や親鸞は流罪となり親鸞は配流先の越後に行く途中越前を通ります。その際、鯖江や福井でも教えを広め弟子がいくつかの寺院を建立しています。後世の蓮如も道場の吉崎御坊を開くなど真宗と福井は深い関係があり、御流れ=親鸞上人が開いた浄土真宗の教えを受け継ぐ、足羽川のほとりの学校ということですね。
現在でも福井県は全国一寺院が多く、浄土真宗が盛んな県と言われています。
明治43年に”中学校令”に拠る北陸中学校に改称、第二仏教中の同窓会からの要望で新校歌を制定しました。作詞・作曲:森井春太郎で大正9年制定です。
旧制 北陸中、北陸高校 (全4番)
朝日初めて 昇るとき
紫にほふ 東に
雪の白山 著じるく
千山これに環拱す
窓より仰ぐ度毎に
高き理想ぞ 胸に湧く
この校歌は学制改革で高校になった頃に3番が外されましたが、残りは女子部の開設や完全共学となっても変えられずに連綿と歌われてきました。
しかし大正時代に作られた内容が現代にそぐわなくなっているという意見があり、昭和55年の創立100周年記念事業の一環として校歌制定委員会が設置され、新校歌作成の準備が進められました。
校内に募集をかけたものの応募数は少なく、詞の内容も旧来に代わり得る適当なものは無かったそうで、そこに同窓会の「従来の校歌を残してほしい」との要望もあり詞はそのままで曲だけ野崎幸次氏作曲の新譜にすることで決着、これが現在の校歌です。
ただ1番の白山は旧では「しらやま」、新では「はくさん」と読み替えているようです。
また、記念式典(新校歌制定)のあとに京都・平安高校(現・龍谷大平安高)と親善試合を行っています。ちなみに平安高校は昔は第三仏教中学だったので、北陸高校とはある意味”兄弟校”となります。
北陸高校は今春を含め春夏5回の出場がありますが、初出場は昭和58年夏なので新譜以降ということになりますね。前回の、「旧譜で歌われたことがある」は間違いなので訂正します。
学園関係者並びに訪問頂いている皆様に、改めてお詫び申し上げます。
今回も、まずは勝利の校歌を聞きたいものですね!健闘を祈っております。
今回は、北海道の日高高校と富川高校です。
沙流郡日高町は北海道の南部、苫小牧から襟裳岬に向かって一直線に続く太平洋岸に面した町です。平成18年に日高山脈麓の旧・日高町と太平洋岸の門別町が合併して新・日高町となりましたが、両町は平取町によって分断されいわゆる”飛び地”の状態になっています。
このうち旧・日高町にあるのが日高高校、門別町にあるのが富川高校です。
沙流川流域はアイヌ民族の文化が色濃く残る地域で、特に平取町二風谷(にぶたに)が有名ですね。平取町には二風谷アイヌ文化博物館があり、様々な伝統衣装や住居(チセ)、食器や日常用品、神器などが収められています。
二風谷アイヌ文化博物館 http://www.town.biratori.hokkaido.jp/biratori/nibutani/
まず日高高校から紹介します。
道立ではなく沙流郡日高町立の、今では少なくなった夜間定時制のみの高校です。
http://www.hokkaido-hidaka-hs.jp/nc3/
ちなみに「日高高校」は埼玉県、兵庫県、和歌山県にも同名の学校があります。
学校は昭和24年に静内農業高校の分校として開校し3年後に日高高校として独立して現在に至ります。
校歌は作詞:笹三津彦 作曲:山田光生で昭和27年制定です。
日高 (全3番)
沙流川の源遠く 遡る ああ高原の日高邑
拓き創めし祖先達の 衣鉢を嗣がん いざ吾等
「衣鉢」とは師の僧から弟子に伝える衣と食器、また芸術などの先人から伝えられるその道の奥義や文化を意味し、ここでは祖先(アイヌ)の遺した芸術文化を継いでいこうというわけです。
3番「邑興し国を高めん若き身の…」は小さな村からの立身出世を期したもので、千呂露山の雪のように高く清い心を持つ日高人の誇りをも託したのでしょうか。
次は富川高校です。こちらは道立です。
http://www.tomikawa.hokkaido-c.ed.jp/index.php?page_id=0
太平洋に面する旧・門別町唯一の高校で、こちらも昭和24年に静内農業高校の分校として設置され、2年後に富川高校として独立開校しました。
校歌は作詞:笹三津彦 作曲:山田光男で制定年は不明です。日高高校と作詞者は同じですが作曲者は同一人物なのか違う人なのか気になるところです。
富川 (全2番)
千呂露の嶺の清雪を 溶きて流るる沙流川や
清く豊かに末広く 開けし沃野の只中に
日高文化の鎖やくなす 富川高校 基置く
「鎖やく」とは「鎖鑰」でしょうか。鍵と錠前、また戸締まり、外敵を防ぐ重要な場所の意味があるようで、北海道には「北門の鎖鑰」という言葉がありました。日露戦争を経験している日本にとって北海道はロシアからの守りとして重要視され、また明治天皇が北海道開拓に高い関心を示していたことから明治維新後に開拓が急速に進みました。
日高の由来は日本書紀に「日高見国(大和朝廷の東にある国、また蝦夷)」とあるのを松浦武四郎が当地に当てたから、とのようです。つまり「日高文化」は沙流川流域だけでなく北海道や日高支庁内、やはりアイヌ民族の文化を想起するのですが、平取町と違い門別町では差別を恐れて「ウタリ」で通す人が多かったようです。それを反映したのかどうかはわかりませんが、私見では「日高文化の鎖やくなす富川高校」には言葉以上に重い歴史をさりげなく歌っているのではないかと思います。このあたり推測の域を出ないのでこのくらいにしましょう。
日高高校も富川高校も、千呂露山と沙流川をふるさとの山河のもとに培われてきた日高アイヌの歴史や文化を間接的に表現しています。ちなみに平取町の平取高校はそういった表現は見られません。2番「いにしえの辛苦もしのぶごと…」は開拓使のことかも?
北海道の地名には「ナイ(山)」「ペツ(川)」「コタン(村)」などアイヌ言葉が多い一方、民族としては明治からの開拓以来苦難の道程でしたが、平成31年に「アイヌ新法」が制定されるなど”ダイバーシティ”のひとつとして注目されています。
2023年、明けましておめでとうございます。
「継続は力なり」とはいえ、2ヶ月ぶりの更新。更新頻度が落ちているのは申し訳ないです。
今回は、山形県の日大山形高校です。
https://www.ymgt.hs.nihon-u.ac.jp/
甲子園では山形県勢で夏の初勝利をもたらし、春夏計22回出場してベスト4、ベスト8が各1回ずつの通算17勝を挙げるなど、県の代表校の中でもひときわ存在感を放つ強豪校ですが、更に日大山形を有名たらしめている要素に校歌が一役買っていることは間違いありません。
冒頭からいきなり「ボーイズ・ビー・アンビシャス」と、かの札幌農学校(現・北海道大学)教授でもあったクラーク博士の名言から始まる校歌は、東西古今の歴々の出場校の中でも「ユニーク」「インパクトがある」など必ずと言ってよいほど話題に上るようです。
なぜこの言葉が取り入れられたのか? ”消えかけた”とはどういうことなのか?
昭和33年に母体として私立の山形学園が創設され、男子校の山形第一高校として開校したのが始まりです。ちなみに現在の県立山形東高校は学制改革期の短期間、「山形第一高校」だったことがありますが特に関連性はないと思われます。
昭和30~40年代は団塊世代が進学する時代で、急増する生徒の入学を”当て込んで”高校の新設が相次いでいますが、とりわけ経営の難易度が高い私学では開校したものの生徒が集まらず数年から10年程度で休校・廃校した学校も多く出ました。
山形一高も産みの苦しみがつきまとい、特に財政面では当初から赤字続きだったといいます。県都とはいえ当時の山形市の人口は20万人弱、そこに既存の高校が10校もあってはよほど特色がないと生徒を集めにくく、集まらないことには入学金や授業料などで経営資金を賄うこともままならないわけです。
開校当初、まだ新校舎やグラウンド整備など学校の形作りが途上だった頃から校歌作成は学校の悲願のひとつでした。開校翌年には学生歌が作られています。
待望の校歌は作詞:神保光太郎 作曲:清水脩で昭和35年制定です。
山形第一 (全3番)
ボーイズ ビー アンビシャス
わかものよ 高き理想を
涯りなきもの 蔵王の姿
われら行く この道を
永遠の 真実の道よ
一高 一高 山形一高 花咲く母校
作詞者の神保光太郎氏は山形市の出身で、山形県内の他に活動拠点の埼玉県など関東地方の学校の校歌を多く手掛けておられます。作風としては自然との調和、新しい世紀への若者の希望を表現した明るい言葉を多用しているのが特徴でしょうか。
作詞のために何度か来形し、半年後に手紙を添えて詞が送られてきました。「全く苦労しました。各節第一行目は思いきって、英文のあの有名な言葉をいれてみました。異色のものと信じます。苦心しましたが、それだけできあがって晴れ晴れとした気持です…」
私見ですが、おそらく神保氏はこの「ボーイズ・ビー・アンビシャス」を”温めていた”のではないかと思います。男子校だったこの学校から作詞を依頼されたとき、この言葉を入れるチャンスだと思ったのではないかと…まあ確証は全然ありませんが。
現在は現代音楽的な校歌が登場するようになってインパクトが薄れた感もありますが、昭和時代はそれこそ異色、斬新なものだったと思います。なお上記の歌詞はその神保氏の原作で、最後が「花咲く学園」になったのは何時からなのかははっきりしません。
校歌はできたものの学校の経営は依然苦しく、”自転車操業”さながらに借金返済は綱渡りの状態だったそうです。後述する合併が無ければこのまま廃校の危機に陥り、わずか数年歌われただけで学校ごと消えていたかもしれません。
学校側もこの状態を放置するわけにはゆかず、早くも昭和36年には大学との合併を模索し始めています。中央大学も候補にあったそうですが、最終的に生徒の進学方向の多様性に鑑みて総合大学の日本大学との合併に落ち着き、まずは準付属校(日大は「附属」ではなく「付属」の表記)として提携しました。ここで事態が好転していたらいずれ山形日大高校となっていたかもしれませんね。
しかし「準付属」では多少生徒が増えたところで学校法人は変わらず財政難が解消することはないため、理事長は学校経営の全てを日本大学に任せる「完全合併」が学園の存続に最良という決断を下しました。日大側は地方の経営難の私立高校を付属にするメリットがあるのかと難色を示しましたが、当時の日大副会頭が山形県出身だったことと同じく山形出身の代議士による仲介もあって日大トップ陣が学校を視察し、意見交換や協議の末に正付属化が決定しました。
こうして昭和37年に日本大学山形高校に改称、校歌も同時に校名部分だけを変えた形で継承されました。
日大山形 旧校歌 (全3番)
ボーイズ ビー アンビシャス
わかものよ 高き理想を
涯りなきもの 蔵王の姿
われら行く この道を
永遠の 真実の道よ
日本大学山形高校 花咲く学園
日大付属となった効果はすぐに表れ、翌年夏に甲子園初出場を果たしたことも相まって生徒の入学が倍増し、教室が手狭になりすぐに新校舎を建設するほどの人気校に変わっていきました。
その後、女子部の創設、男女共学実施を経て平成元年に日大山形中学校が開校して併設型中高一貫教育を開始しました。校歌も平成3年に学園歌に位置付け、「日本大学山形高校」から「日本大学山形学園」に変更しています。
日大山形 現校歌 (全3番)
ボーイズ ビー アンビシャス
わかものよ 高き理想を
涯りなきもの 蔵王の姿
われら行く この道を
永遠の 真実の道よ
日本大学山形学園 花咲く学園
日大山形中は定員割れが続いたこと、少子化で維持が見込めないことから平成26年に廃止されて現在は元の高校のみに戻っています。
山形県の私立ではトップクラスにあり、約7割の生徒が日本大学を始め東北の国公立、私立大学などに進学しています。また部活動も非常に盛んで、野球部の他にもサッカー、バスケット、スキー部など多くの部が全国大会で活躍している、名実ともに「かちどきの歌、とどろきわたる」山形の名門校となっています。
今回は、長崎県の佐世保実業高校です。
佐世保市は長崎県北部に位置し、北松浦半島の先端の小佐々町神崎鼻は九州のみならず日本本土の最西端に認定されました。
その沖合には”九十九島(つくもじま)”と呼ばれる大小208もの島々と、リアス式海岸の複雑に入り組んだ海岸からなる景勝地は大部分が西海国立公園となっていて、長崎県有数の観光スポットでもあります。
その一方、佐世保港は戦前から軍港として有名ですね。別名を”葉港”とも言うのは、湾の形状がヤツデの葉のようだとか、佐世保の字を分割してサセホを上下に並べると「葉」という漢字になるからとか諸説あるようです。
明治時代より前は農漁業で生計を立てるような寒村だったようですが、明治22年に日本で4ヶ所に置かれた海軍本拠地(鎮守府)のひとつ、佐世保鎮守府が開庁すると以降は急激に発展し、鉄道は急ピッチで佐世保への延伸建設、上水道や電気などの生活インフラも他に優先して整えられていきます。当時最先端の工業技術や造船技術が投入されて軍都の性格が強くなったため連合軍に目を付けられたのか、太平洋戦争末期の昭和20年6月末の佐世保空襲により市内の2/3がほぼ灰燼に帰してしまいました。
戦後は米軍に接収されて佐世保基地となり、一部は日本海上自衛隊と共同使用されています。そうした施設を海上から廻る”軍港クルーズ”が運行されているので立ち寄った際には乗船してみてはいかがでしょうか。
日本遺産ポータルサイト https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/stories/story035/
学校はその西海国立公園を近くに控える日野地区の高台にあります。最寄り駅は松浦鉄道・大学駅ですが、この駅は長崎県立大学佐世保校にほぼ隣接して設置されています。
通称は「佐実」、学校公式HPも”SAJITSU”を強調していますね。長崎県下では唯一の自動車工学科を有し、自動車整備士の養成校にもなっています。
昭和27年に前史として佐世保駅の東方に佐世保経理専門学校(佐世保経専)が開校しました。経理専門学校を起源とする高校は他に、鶴岡東(鶴岡経専)、浜松啓陽(浜松経専)、大阪商大堺(堺経専)などがあります。
佐世保経専時代の校歌は作詞:中川龍一 作曲:富永定で昭和39年制定です。なお作詞者はここでは本名ですが、詩人としては中川龍名義で北原白秋派に属し北原氏の高弟・中村正爾とともに歌誌も出していたそうです。
佐世保経専 (全3番)
雲青き 烏帽子岳に
風通う 山祇の丘
おゝ吾ら 佐世保経専
向学の 希望に燃えて
颯爽と 若き友 こゝに集えり
佐世保経専は佐世保駅東方の山祇町に所在しているので「山祇の丘」と歌われています。北東には烏帽子岳が聳えているので、「風通う」に山麓の環境を暗示したものと思われます。位置的に佐世保港にも近いので、2番に「西海の星と輝き、百船の出で入る港」と港を見下ろすような情景を取り入れたのでしょう。
現在も経専の校舎はある(残っている?)のですが、Wikipediaによると平成15年から休校しているようです…
この校歌が制定された2年後の昭和41年、学校法人佐世保実業学園を設立して同年に佐世保実業高校が開校しました。昭和55年に現在地に移転したそうですが開校当初の旧校地はどこにあったのか判然しません。日野町のどこかではあるようです。
校歌の作者陣は経専と同じで昭和41年制定です。曲は経専を流用していますが、詞のほうは学園創立を前に中川氏に依頼し改めて再編されたものだそうです。
佐世保実 (全2番)
雲青き 烏帽子岳に
吹きとよむ 汐の香高し
おお 佐世保実業学園
向学の 希望に燃えて
颯爽と 若き友 ここに集えり
冒頭の烏帽子岳は佐世保の象徴としてそのまま残し、沿岸近くにあることから”海風”が響き潮の香りが寄せてくるところ、と変えています。なお2番は旧校歌の2,3番を折衷した感じにまとめられています。
高校野球では長崎県有数の強豪校で、甲子園には昭和59年春を皮切りに春夏計6回出場して3勝を挙げています。長崎県も私学が優勢にあって最近は長崎商や大崎などの公立が気を吐いていますが、佐実にも奮起してもらいたいですね。