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校歌の広場

高校の校歌についていろいろ書き綴っています。
高校野球でも流れたりする、校歌の世界は奥深いですよ~

佐賀・長崎県調査遠征の続きです。

 

長崎県は九州北西部の南北に細長い県で、五島列島や壱岐島、対馬島など数多くの島嶼も含まれます。長崎市・佐世保市を中心に、あとは諫早、島原、大村、平戸など藩の名残を残す町が点在している県です。

概して山がちでリアス式海岸が多く、逆に言えば風光に優れています。歴史で見ても遣唐使の中継地だったり、鎖国時代にも唯一海外との門戸を開かれたり、幕末でも色々な事柄で登場する非常にメジャーな県と言えましょう。魅力度ランキングでも九州では福岡と並びトップテン入りの常連です。

 

佐賀県は初日で終了、翌日には長崎入りしました。ちなみに初日に乗った特急”かもめ”はこの1ヶ月後に開業(現在開業済み)の西九州新幹線に名前を譲るため、最後の姿を見られたのは良かったです。

佐賀からは”みどり・ハウステンボス”号でハウステンボス周遊へ、そして長崎バイオパークを経て3日目夕刻に長崎市到着。長崎駅直結のホテルだったので駅前を何回か通りましたが、当時は駅舎や駅前広場などあちこち工事中で風情が少なかったのが残念です。

4日目は長崎郷土資料センターで調査。センターは10時開館と遅めだったので、行く前に妻と一緒に平和公園を見学してきました。ここに限らず調査旅行でよく乗るのが路面電車。長崎でも浦上への往復や市内観光は路面電車を使いました。

 

長崎駅に戻って、ここから県立長崎図書館郷土資料センターに向かうにはバスか徒歩でしょうか。私は時間的な余裕があったので徒歩で向かいました。長崎駅から東方への大通りをしばらく行き、途中で左折してグーグルマップで確認しながら歩く感じですね。

近くに長崎歴史文化博物館というのがあるのですが、ここの門からは入れません。この裏手までぐるっと迂回して長崎公園の入口の左手に郷土資料センターがあります。所要はだいたい20分くらいでしたか。

郷土資料センターは県立図書館の分館としてこの春に新規開設されたので、館内はかなり綺麗です。ただ郷土資料に特化しているためか意外とこぢんまりした印象でした。

 

ここでの成果としては猶興館中の創立記念歌が明治22年と”日本最古級”だったこと、情報が殆ど無く見つからないと思っていた佐世保二中の校歌(正確には生徒隊歌)、「思い出の校歌」に載っている大村高女校歌が実際とは少し違っていること、などでしょうか。

佐世保でまだ不明の学校が少し残っていますが、成果は上々かと思います。

 

翌日は長崎市内観光。午前中に行ったグラバー園ではこのような景色が見られます。500mほどしか離れていない海星高校も同じ感じですね。

(中央やや右の山頂にいくつか電波塔がある山が稲佐山、下の海が鶴の港・長崎港)

他にも眼鏡橋出島、名物トルコライスシースクリームも満喫!

前半は九州~東北に張り出した前線の影響で曇りや雨の日が多かったのですが、4日目からは晴れて最後に琴海(大村湾)の夕照が絶景でした。

 

長崎県立図書館郷土資料センター (1回訪問)
アクセスのしやすさ… 長崎駅からバスか徒歩。バスだと歴史文化博物館バス停からが近いようです。
所蔵本の充実さ… 学校史、学校要覧も多く、校歌集では「思い出の校歌」や「長崎の学生の歌」があります。ただ私立は少なめ?
所蔵形態など… 校史はほとんど書架にあり、学校要覧もまとめて置かれています。複写可。

今回は、神奈川県の湯河原高校です。

とりあえず2月から始めた”関東地方集中連載”はこれにて終了です(笑)

現在は統廃合されて閉校しているのでリンクはありません。

 

湯河原町は神奈川県の最西端、静岡県との県境に接する町です。名の通り町内を流れる千歳川の上中流域はところどころ温泉が湧いていて、万葉集にも登場するかなり歴史の古い温泉街・湯治場となっています。

ちなみに万葉集に収められている約4,500首のうち温泉を詠ったものは次の一首のみで、これが湯河原温泉に掛けた恋の歌、だそうです。

足柄(あしがり)の、土肥の河内(かふち)にいづる湯の、世にもたよらに子ろが言はなくに
「世にもたよらに」は中空に揺れるように、「子ろ」は古語で女の子の意味らしいです。
訳すれば、足柄国の土肥川(現在の千歳川)のほとりに湧き出てくる温泉の湯煙が空に上って搖れて消えゆくように、あの娘と私の恋の行方もどうなるか心配だ…というような意味だということです。

このように古くから知られた湯河原には国木田独歩などの文豪や芸術家が居を構えたり湯治場や別荘地として逗留するようになり、不動の滝や万葉公園などの観光スポットや数多くの温泉宿を擁して県内でも一大観光地となっています。

 

学校は相模湾に面し、湯河原海浜公園の隣に神奈川百校計画のひとつとして昭和55年に開校しました。

湯河原・真鶴・箱根町の足柄下郡の生徒の主な進学先でしたが少子化の影響は避けられず、平成20年に小田原城東高校と統合、小田原総合ビジネス高校となり閉校となってしまいました。その小田原総合ビジネス高校も現在は小田原東高校に改称しています。

校歌は作詞:佐藤千晶 作曲:牛島友則で制定年は不明です。

湯河原 (全3番)

 伊豆の山端 川面に映し
 せせらぎさやけき 千歳川
 ゆかし流れは 万葉の
 遠い昔を 伝えしや
 ああ湯河原 湯河原高校 わが母校

 

万葉集の昔から現在まで流れ変わらぬ姿として千歳川を讃えていますね。千歳川は中流あたりから県境の川となっていて対岸は静岡県となっています。

2番冒頭に出てくる椿は桜とともに湯河原町の町花です。湯河原地区には椿寺という寺社があって約1,000本の椿が植えられているそうです。3番は学校があった環境を端的に表しています。眼前に広がる海原から雄飛の理想を持って翔り上がれ、ということでしょう。

 

閉校後は湯河原中学校が移転してきましたが、東日本大震災直後は津波災害を危惧して再移転要望が出されていたことがあります。

前回の続きです。

佐賀県立図書館での調査を終え、鹿島から戻って来た妻と合流して図書館を出たのは17時半前。佐賀城址に寄ってからホテルに行くことになりました。

 

佐賀城址の開門は18時までなので、早足で本丸歴史館を見学したあと大手門だった鯱の門から出てきました。そこで目に入ったのがこの石碑。

佐賀県立佐賀商業学校跡

なお画像では晴れているように見えますが、この後雨が通り過ぎていきました。

佐賀は古くは佐嘉と書き、「さか」と清音で発音されていたそうです。由来は『肥前国風土記』に出てくる日本武尊の”樟の”からというのが有名ですが、伝説の域を出ないながら佐賀城の別名『栄城』はそこから来ています。

新政府軍と士族反乱軍が激突した佐賀の乱では最初の戦場となりましたが焼失を免れ、その後鯱の門(大手門)は昭和32年に国の重要文化財(建造物)に指定されています。

 

ということで、今回は佐賀県の佐賀商業高校です。

https://www.education.saga.jp/hp/sagashougyoukoukou/

 

明治40年に佐賀城内の一角に開校した、佐賀県下では最古の商業高校です。

つまり佐賀城鯱の門は移転前の佐賀商業高校の校門でもありシンボルだったのですね。

昭和19年に「教育ニ関スル戦時非常措置方策」によって栄城工業学校に転換されましたが終戦に伴い佐賀商に復帰し、学制改革で佐賀商業高校となり、昭和35年に高木瀬町の新校舎に移転…とありますがここが現在地なのでしょうか?現校地の住所は神野東でかなり離れているようにみえます。

校歌は作詞:石橋達三 作曲:永井幸次で昭和2年の開校20周年を機に制定されたそうです。

佐賀商 (全3番)

 星は星のみ相通ふ 奇しき言葉のありと聞く
 学舎同じき友輩に 通ふ奇すしき思念あり

 佐賀商業 なつかしその名
 栄えよ われらが母校

 

作詞者の石橋氏はキリスト教の洗礼を受けた詩人だったそうで、独特な出だしから始まるのはその影響からでしょうか。最後の2行はいわゆる反歌と呼ばれる形式で、他の学校でも福井商や池田高校などちらほら見られるものです。

現在まで上記の校歌が連綿と歌われ続けているのですが、実は一時期改訂されたことがあります。

戦中頃、『葉隠』研究者の栗原荒野氏が2番「城趾はいつか朽ちるとも」部分を「佐賀城が朽ちることがあるか!」と批判したのです。殊更佐賀を愛していた栗原氏にとって看過できなかったようで、当時の軍国主義の中で大きな指導力を持っていただけに急遽次のように改訂されました。

 佐賀の城趾は古りたれど 学徒は若く意気高し

 栄城趾に名にし負ふ 学舎は日々に栄ゆかむ

 

なんとなく重言(頭痛が痛いのようなニュアンス)を感じます…。学校史によると終戦後ただちに元に戻されたとありますが、奇妙なことに『新郷土』(昭和39年版)でも「栄城趾に名にし負う」と紹介されています。新郷土側の誤記かとも思ったのですが、当時の学校関係者に尋ねてみたいものです。

ちなみに後日談では佐商と栗原氏は後年”和解”?したそうです。

 

高校野球では、佐賀県内でもダントツの戦績を誇る強豪で夏16回・春6回の計22回の甲子園出場があります。最も注目されたのは平成6年夏で佐賀県初の優勝を勝ち取りました。

他にサッカー部、水泳部、バレーボール部や文化系も全国大会出場する名門校といえます。

進路でも佐賀県内での就職に有利な面を持ち、大学や専門学校に進学する生徒も多い傾向にあります。

 

もうかれこれ2年半は続いているコロナ禍ですが、現在は感染力は強いものの重症化しにくいらしいオミクロン株が優勢であること、ワクチン接種が進んだこともあり今年の夏は久しぶりに行動制限のない長期休暇となりました。各地の駅や空港では数年ぶりの帰省や旅行に出かける人々で賑わっていたようですね。

私自身は、今回は佐賀県と長崎県を調査することにしました。初の九州上陸です!

 

さすがに(沖縄を除けば)最長距離の遠征になるため4泊5日で計画、ハウステンボスや長崎観光も詰め込むという結構なハードスケジュールとなりましたが。

↓ このような調査用の簡易版を作成し、いざ出発。

 

初日は佐賀県。佐賀県は県都・佐賀市をはじめ西に鹿島や武雄、北に伊万里や唐津など観光地が散らばる風光明媚な地のイメージがあります。

人口に比例して学校もそれほど多くないのですが、近年はさらに統合が進められて2022年現在は公私立合わせて43校となっています。ちなみに前回の福井は33校です。

 

早朝に地元を出て新幹線で名古屋から博多へ、特急かもめに乗り換えて佐賀市へ。妻は友人の勧めでさらに先の鹿島市・祐徳稲荷神社に行くことになっていたのでここで一旦別行動です。

11時半頃に佐賀駅に到着、バスターミナルからバスで県庁前バス停で降りると佐賀城址が目の前です。城址は濠がよく整備されていて”佐賀城のお堀”は蓮で有名だそうです。図書館のある北辺の濠は蓮があったかどうか記憶が薄いのですが、けっこう幅広の堀だなと思いましたね。

 

さて、図書館は本丸通りを濠を渡ってすぐ左にあり、開館時間は平日・休日とも9時~20時と長時間の部類です。しかも休館日は整理期間と年末年始を除きほぼ月1日と公共施設にしては頑張りすぎ?な感じです。

現在の図書館は1963年開館だそうで、約60年経過しているため見た目にも老朽化が否めないです。郷土資料室は2階、学校史はほとんどが書庫でした。

 

閉館時間は20時のところを旅程の都合上17時半で切り上げるつもりだったのでそれほど余裕は無かったのですが、割合順調に調査を進められたと思います。

成果としては旧制小城中に明治38年制定の旧校歌があったこと、佐賀商は歌詞が変更されていた時期があったこと、「新郷土」の存在ですね。

「新郷土」は佐賀県の色々な文化や事柄についての情報をまとめている雑誌で、昭和39年、40年刊行の各月に当時の小中高大の校歌が、全校ではありませんが制定年やエピソード付きで載っているのです。佐賀高校が西・東・北に分離した頃で、この時点では佐賀高校「楠の青葉」しか載っていません。

ただ、各校からの提供にしては誤植や誤記もちらほらあるようで完全に信頼できるとは言い難いのが難点かと。佐賀実業高校(後の佐賀学園高校)の制定が昭和25年12月14日となっているのですが佐賀実の創立は昭和33年です。昭和35年なら辻褄は合うのですが…

 

佐賀県立図書館 (1回訪問)

アクセスのしやすさ… 佐賀駅南口からバスで8分ほど、徒歩でも本丸通りに沿って20分あれば着けるでしょう。

所蔵本の充実さ… 学校史は一通りありますが、いくつかの学校は所蔵されていません。

所蔵形態など… ほとんどの学校史、新郷土とも書庫。複写可。

 

調査後は図書館まで来てくれた妻と合流し、佐賀城址を見学しました。

佐賀編、次回に続きます…

今回は、東京都の堀越高校です。

https://www.horikoshigakuen.ed.jp/

 

JR中央線・中野駅から南東に1km強、また地下鉄の中野坂上駅から北西に700mほどの中野区中央町に位置し、周辺はほぼ住宅地となっています。

裁縫教育の先覚で和洋女子大学の創設者・堀越千代によって大正12年に堀越高等女学校として創立し、昭和23年の学制改革で堀越高校となりました。

来年(2023年)には創立100周年を迎える歴史のある学校です。

基本的は全日制普通科の学校ですが、特色として3つのコースが設置され、トレイトコースは芸能人が多く在籍していることで有名です。これは昭和48年の創立50年を機に新設された「体育・進学コース」と「芸能活動コース」を受け継いでいるそうです。

トレイトコースは提携している芸能事務所に所属している高校生に限られ、教室は他コースとは隔離されていて授業や体育は勿論、昇降口さえ別々となっていて、一般コースに入学しても文化祭など一部のイベント以外は芸能人と会うことはほとんど無いと言われています。

他には登下校の際に校舎に一礼することで”挨拶は人の基本”を徹底するなど、「堀越精神」を通して人としての成長や夢の実現を目指す学校を自負しています。

 

校歌は作詞:小島政吉 作曲:島崎赤太郎で昭和2年制定です。

堀越 (全3番)

 紫匂う 武蔵の広野
 富士の高嶺は 軒端に近く
 野川の音は 枕に通う
 ああうるわし 我が中野

 

戦前は2番「我が大君の宮居の真西、教育の流れ源清く…」や3番「…ながく尽くさん御國に家に…」と当時の風潮を反映した歌詞でしたが、終戦後の昭和21年に現在に近いものに改訂されました。

更に昭和32年に当時の校長・堀越克明氏によって男子部が創設され「乙女等」の部分が「若人」に、平成に改元した同年に2番冒頭が「歳経る蔦菱も新な平成ぞ…」と時代変化によって変わっています。令和になった現在、平成部分が令和になっているのかはわかりませんが…

1番は現在に至るまで約100年間変わっていません。

 

高校野球では、春夏5回ずつの甲子園出場があり10勝を挙げています。このうち春だけで9勝、初出場の昭和44年には準優勝しています。

平成9年夏以降遠ざかっていますが優美な校歌をまた聞きたいものですね。

他にもサッカー部やゴルフ部等が都の強豪として全国大会でも活躍しています。