校歌の広場 -14ページ目

校歌の広場

高校の校歌についていろいろ書き綴っています。
高校野球でも流れたりする、校歌の世界は奥深いですよ~

今回は、千葉県の流山北高校です。

https://cms2.chiba-c.ed.jp/nagareyamakita-h/

 

流山市は千葉県の北西部、利根川から分流する江戸川左岸に位置する町です。

江戸川は江戸時代までは利根川の本流となっていて現在の東京湾に注いでいました。しかし水害が度々発生したこと、多くの流路が入り乱れていては水運に不便なことが要因となって江戸幕府は利根川を更に東の銚子に向かう流路に付け替える工事を始めました。

いわゆる「利根川東遷事業」と呼ばれている一連の河川改修によって江戸川の水運は大幅に向上し、流山にも河岸が設置されてここからみりん等を江戸に積み出していたようです。流山は白みりんの製造に適した環境(うるち米やもち米、醸造水)にあり、現在もみりんのトップブランドに数えられています。

 

その町の一角、東武アーバンパークライン江戸川台駅の西2kmほどに流山北高校があります。開校は昭和60年と比較的新しい学校です。

千葉県が推進している「地域連携アクティブスクール」、要は”学び直し”の充実や実践的な教育、職場体験、ボランティア活動を行っていて、将来の進学や就職を厚くサポートすることが特色となっています。進学率はそう高くないですが専門学校進学が半分ほどを占めているようです。

校歌は作詞:軍司貞則 作曲:小貫幸男で昭和60年制定、「集え若き血」というタイトルがあるようです。

流山北・校歌 (全3番)

 Go For Broke

 ゴーフォーブローク! 当って砕けろ!
 ゴーフォーブローク! 当って砕けろ!

 何にもなくてよい 若さだけでよい
 ごまかさず挫けず それでいて思いやりあればよい

 忘れちゃいないか そんなことを
 江戸川がキミを見てる

 集え若き血 流山北高 集え若き血 流山北高

 

当たって砕けろ」という言葉を校歌に取り入れるなど先進的な表現豊かな歌詞ですね。3番「こぼれ落ちてよい、はいあがればよい、こころ強く燃えて、それでいて若き肉体あればよい…」は、こうした北高の生徒の”学び直し”を励ましているのでしょう。

この校歌は開校当時、流山市文化会館で校旗とともに制定式典が行われたほどに学校側もそれなりの熱意を持っていたはずですが、現在は下記の讃歌のほうが一般的に歌われているそうです。

 

その讃歌ですが、第二校歌ともされていて作詞:大久保文吾 作曲:別部明子です。

流山北・讃歌 (全4番)

 常盤の森に 風薫り

 緑目にしむ 山脈よ

 青春ここに 集い来て

 創業の道 拓きゆく
 希望あふれる 学びの舎

 

2番「光さやけき北斗星」、3番「はろばろ続く黄金田の、実りの穂波わが教訓」は校章を表しているなど、こちらのほうが”普通の校歌”らしく感じます。

 

前回の続きです。今回は旧制中学校を取り上げてみます。

 

前回でも触れたとおり、高女(高等女学校)の女生徒で結成された”学徒隊”に対し、旧制中学や実業学校の男子が動員されたのは”鉄血勤皇隊”、また下級生はこちらも”通信隊”と呼ばれました。

高女は”姫百合”や”白梅”など花の名前を取り入れていましたが、中学や実業校は質実剛健や無骨さを出すためか、単に「校名+鉄血勤皇隊」です。「一中鉄血勤皇隊」「開南鉄血勤皇隊」などなどですね。

 

一中鉄血勤皇隊 (257人落命)

沖縄一中 (全4番)

作詞:山口泰平 作曲:糠塚卯助、宮田啓重

 仰げば高し弁が岳 千歳の緑濃きところ
 眺めは広し那覇の海  万古の波の寄るところ
 これ一千の健児らが 競ひ立つべき聖天地

 

沖縄一中は1798年、当時の琉球王国の尚温によって設立された国学を嚆矢としています。明治12年の廃藩置県に伴う琉球処分によって琉球藩を廃止、翌年に国学も首里中学と改称しました。明治44年に分校独立で沖縄第一中学校となりましたが、首里城に近かった当校は沖縄戦で猛攻撃を受けて崩壊してしまいました。一中最後の卒業式が挙行された2日後に鉄血勤皇隊が編成されたそうです。

校歌は明治42年の制定で、戦後は4番を部分的に改訂した他はほぼそのまま首里高校に継承されています。

 

二中鉄血勤皇隊 (115人落命)

沖縄二中 (全4番)

作詞:職員一同 作曲:宮良長包
 楚辺原頭に風清く 永遠にゆるがぬ城岳
 この秀麗の地をしめて わが学び舎はそびえたつ

 

沖縄二中は明治44年に沖縄中の分校から独立、嘉手納を経て港町・那覇の現在地に移転しました。その後、昭和19年10月の那覇空襲で校舎が消失し翌年の沖縄戦での戦闘もあり辺りは廃墟化してしまいます。

城岳」とは首里城ではなく楚辺にある小丘陵で”二中健児之塔”も建立されています。3番「孤島桃源夢破れ、文化の潮うず巻きぬ」は、南海の沖縄島に栄えた琉球王朝を内地とは別世界と捉え、王国が滅亡して日本に組み込まれたのを夢破れ…として、日本や世界の文化が坩堝のごとく渦巻くところということですね。

 

一中、二中とも空襲や沖縄戦で校舎は壊滅してしまいましたが、戦後いち早く創立された糸満高校の分校として発足し2ヶ月後に独立した首里高校が一中の、さらに首里高校の分校から始まりすぐに独立開校した那覇高校が二中の後継校となりました。

それぞれ元の校地に復帰しているため、一旦廃校となりながらすぐに復活した形となるのでしょうか。

他には商工学校(那覇商)工業学校(沖縄工)水産学校(沖縄水産)なども沿革上は継続していて校歌も受け継がれています。沖縄工は一部改訂されていますが…

首里高、那覇高、那覇商、沖縄水産などは甲子園で校歌が流れています。

 

開南鉄血勤皇隊 (不明・190人落命?)

開南中 (全3番) 

作詞:山城正忠 校閲:与謝野晶子 作曲:山田耕筰
 聴け霊泉の湧くほとり 仰げ秀麗近き地に
 建てる学舎は首里城を のぼる朝日の如く栄ゆ
 たたえよ健児等 われらの開南

 

開南中は戦前の沖縄県で唯一の私立中学で、昭和11年の創立です。

那覇市樋川(当時は真和志村)に位置し、「霊泉の湧くほとり」とは付近を流れる汪樋川(オウヒージャー)の源泉近くにあったことからでしょう。汪樋川は首里で2番目に美味しい水と讃えられ住民の貴重な水源でしたが、現在は水量が激減してしまっているそうです。首里城の西郊でもあり首里城を「のぼる朝日」のように見立てて学校も栄えていくと歌われます。

しかし開校10年も経たず昭和19年には空襲で校舎が消失、翌年の沖縄戦での鉄血勤皇隊は長らく詳細不明のままでしたが、3年前に学徒名簿が見つかり解明が進んでいます。

首里・那覇周辺を中心とする南部の旧制学校のうち、中学や実業学校は校舎壊滅に見舞われながらも戦後は新制高校が後継校となったところがほとんどでしたが、唯一開南中だけは廃校となり復活はなりませんでした。しかし真偽不明ながら現在の興南高校は開南中と直接の後継ではないものの、設立に関してなんらかの関係があるようです。

 

沖縄はその立地・地勢上、古来から日本だけでなく大陸や南方の影響を強くうけてきましたが、太平洋戦争ではそれが仇となった形です。昭和47年の日本返還以前のアメリカ統治時代を”アメリカ世”と言い、現在も米軍基地は本島だけで15%、日本全体の70%を負っています。

戦争が当時の学生の運命を狂わせてしまい、戦場に送られていった人達の思いを平和祈念公園平和記念資料館で伝えています。修学旅行や沖縄旅行の定番となっていますが、今一度、鉄血勤皇隊や学徒隊の歴史を知ってみてはいかがでしょうか?

 

首里城近くの”一中健児之塔”を訪問したときのもの。

短歌は「よどみなく ふるひはげみし 健児らの 若き血潮ぞ 空をそめける」

今年は「沖縄復帰50周年」、そして6月23日は沖縄慰霊の日です。

いわゆる”沖縄戦”などの戦没者を追悼する日と定められ、県内の公共機関は休日となっているそうです。

かの太平洋戦争末期、1945年はいよいよ米軍による本土爆撃・空襲が激しくなってきた時期です。マリアナ、フィリピン陥落で南方の基地を取られて米軍の航空部隊が頻繁に日本に来襲、東京をはじめ名古屋、大阪、神戸などが次々と爆撃されていきます。
そして本土の最終防衛線とされた沖縄にはあらゆる部隊が集結、3月頃からいわゆる”沖縄戦”が始まりました。一般人も防戦に駆り出され、中等学校レベルの学生も”学徒隊”として動員されました。
現在の高校生に相当する上級生は”鉄血勤皇隊”、中学生相当の下級生は”通信隊”、女生徒は軍医局の看護助手として従軍配属されました。旧制中学校、高等女学校、実業学校など合わせて沖縄本島内外21の学校からそれぞれの校名や通称を用いた学徒隊が結成されています。
これらの学徒隊や在籍していた学校も「鉄の暴風」沖縄戦の惨禍によって多くが亡失、現在に至るまで沖縄の歴史に暗い影を落とし続けています。

今回から2回、沖縄戦で壊滅廃校した学校を偲ぶ意味でもこれらの校歌をいくつか紹介したいと思います。
まだ来たりくる暗雲も見えない比較的平和な時代だった頃の校歌。あるいは米軍が迫りくる中でガマ(洞穴)や防空壕で最期に生徒が静かに歌い自決したとも伝わる校歌。人生なかばで散華していった少年少女の束の間の青春の象徴だった校歌…

今回は高等女学校、ひめゆりの塔で有名なひめゆり学徒隊の他にも知名度は低いものの同じような境遇にあった学校も合わせて紹介します。沖縄第三高女(なごらん学徒隊)や離島にあって被害が比較的軽微だった宮古八重山高女は心苦しくも割愛します。

ひめゆり学徒隊(ひめゆり資料館調べ・227人落命)
旧制・沖縄師範学校女子部・沖縄県第一高女 (全2番) 
作詞:近藤鉄太郎 作曲:名嘉真武輝
 首里城の丘かすむこなた 松風清き大道に
 沿ひていらかの棟高し これぞ我等が学びの舎
 友よいとしの我が友よ 色香ゆかしき白百合の
 心の花と咲き出でて 世にかぐはしく香らなむ

 

ひめゆり”の由来は、沖縄師範学校女子部と沖縄第一高女の校友会誌がそれぞれ「白百合」と「乙姫」と名付けられていたこと、この両校が大正4年に併置されたとき校友会誌もひとつになり「姫百合」となったことからだそうです。ひらがな表記になったのは戦後からとのこと。
この関係は校歌にも表れ、1番に「色香ゆかしき白百合の」、2番に「玉とかがよふ乙姫の」と歌われています。当時の所在地である安里村大道(現在の那覇市安里)からは首里城を見ることができたのでしょう。2番「波の上のほこらおごぞかに」は、那覇市の海岸にある沖縄八社のひとつ波上宮のことです。私も参拝したことがあります。

白梅学徒隊(17人落命)
旧制・沖縄県第二高女 (全4番)
作詞:山城正忠 作曲:宮良長包
 日出づる國のみんなみの 御空も海もか青なる
 島に名だたる松尾山
 松の緑のいや深み 永久に栄ゆく学び舎ぞ


白梅”は校章からの命名のようですが、ここでも4番に「かほるや梅の旗じるし」と歌われます。大正12年に松山(松尾山)に移転した頃の制定でしょうか。

瑞泉学徒隊(33人落命)
旧制・首里高女 初期校歌 (全3番)
作詞:我那覇朝義 作曲:尚琳
 わが沖縄のその昔を 語るもゆかし首里城を
 今はわれらが学び舎と いそしむことのうれしさよ


旧制・首里高女 後期校歌 (全3番)
作詞:勝連盛英 作曲:宮良長包
 朝日さし出づる虎頭山 入日に映ゆる慶良間沖
 いらかは高き百浦添 常盤木茂る西森と
 自然のさとし豊かなる われらが学び舎の気高さよ


瑞泉”は首里城の瑞泉門に由来するとのことです。

戦前は国宝に、現在は世界文化遺産にも登録されている首里城ですが、明治の琉球処分で明け渡された後、明治41年に首里区立女子工芸学校(のち首里高女)が入りました。初期の校歌はそれを表しています。
後期に「いらかは高き百浦添」とありますが、首里城御殿の別名は”百浦添(もんだそえ)”だったのです。北東の虎頭山、那覇沖に見える慶良間諸島、首里城、西森拝殿と自然に恵まれた学校というわけですね。

積徳学徒隊(3人落命)
旧制・積徳高女 (全4番)
作詞:外間良儀 作曲:備瀬知範
 その名もゆかし美栄の原 氣はすみわたる空高く
 和める光あまねくも 風さはやかにわたるとき
 長江堤にほどちかく たちて定まる我が校舎


3番「みがけ婦徳の鏡をば」、4番「螢の光窓の雪 積める功に…」あたりに校名”積徳”が取り入れられていると思われます。

梯梧学徒隊(9人落命)
旧制・昭和高女 (全3番)
作詞:城しずか 作曲:松山芳野里
 入江の水のかげ清く 崇元寺とつつましく
 世のかがみとし照りそふる 我がまなびやぞいやたかし


梯梧”とは沖縄県の県花・デイゴのことで、学校の隣にあった崇元寺にデイゴ並木があったそうです。崇元寺は沖縄戦で堂宇や霊廟などが徹底的に破壊されて今は公園となり、礎石か柱跡しか残っていません。

以上の5校は全て米軍の地上攻撃によって壊滅し跡形もなくなってしまい、戦後の再建もなされないまま廃校となってしまいました。よって後身校といえるものはありません。無事に戦火をくぐり抜けて戦後を迎えられた人も学ぶ場がないまま”卒業”、社会に出ていったことになるのでしょうか。


ひめゆり平和記念資料館には師範・第一高女の校歌CDが売られていました。その場では購入しませんでしたが、また行く機会があれば買ってみようかと思っています。

 

次回は旧制中学校などを取り上げてみます。

今回は、埼玉県の越生高校です。

https://ogose-h.spec.ed.jp/

 

越生(おごせ)町は埼玉県のほぼ中央部、入間郡に属する歴史のある町です。

町内の越生梅林は”関東三梅林”の一つとされ、水戸の偕楽園などと並ぶ梅の名所で越辺川岸の園内で約1000本、周辺も含めると2万本ほどの梅が早春にかけて咲き乱れます。

他にも山吹の里歴史公園のヤマブキや五大尊つつじ公園のツツジやサクラ、アジサイといった四季折々の花が多く植えられている観光スポットですね。

また前回紹介した富岡製糸場ですが、そこから絹の生産地・物流中継地でもあった八王子に向かう途中の越生にも裏絹の生産や越生絹市場があり、大変賑わっていたそうです。

 

学校はJR八高線・越生駅の北東に昭和47年に開校しました。

南の毛呂山町との町境近くに武蔵越生高校がありますが、こちらは私立で昔はこちらも越生高校でした。そのため区別するときは県立を「おごけん」、私立を「おごし・おごしり」と呼ぶような感じだったそうです。混同が多かったようで私立の方は平成5年に武蔵越生高校に改称しました。

普通科と高校では珍しい美術科があり、美術大学などの芸術系の大学進学もそこそこあるようです。

校歌は作詞:轟義雄 補作:内田義 作曲:馬場志津子で昭和48年制定です。

越生 (全3番)

 入間野の 入野のきはみ
 梅香る 白き学舎
 礼節の 道を求めて
 若きいのち ここに集へる
 ああ青春の 越生高校

 

学校のあたりは入間野と呼ばれる平地の最北、ゴルフ場のある山の麓にあるので「入野のきはみ(果て)」と歌われているのでしょうか。町の象徴の梅も取り入れられていますね。

3番の冒頭「山吹の一枝によする、ゆかしさのかぎりなきもの、親切の心を清く…」は、室町時代の武将・太田道灌の故事を取り入れています。参謀役や築城の名人で知られ、江戸城や川越城など多くの名城を作りました。

「七重八重、花は咲けども山吹の、実の一つだになきぞかなしき」という和歌に掛けて、雨具の蓑を貸せなかった少女の気持ちに気付けなかったのを恥じて歌道に励んだ…というものです。伝説の地がどこだったのか、また史実だったのかは諸説あるようなのですが、当地は有力候補のひとつと伝わっているようです。

越生町・山吹の里→山吹の里歴史公園 | 越生町観光サイト -梅を向いて歩こう

 

今回は、群馬県の富岡東高校です。

110年ほどの歴史を持つ伝統女子校でしたが、現在は富岡高校と統合して、新・富岡高校となっています。

http://www.tomihi-hs.gsn.ed.jp/

 

富岡市は群馬県のやや南西部、高崎市の西隣にある甘楽郡の中心地です。

世界遺産にも登録された富岡製糸場があり、昔から生糸の生産が盛んだった群馬県の中でも製糸工場としては最大規模を誇ったこの工場によって明治初期の日本の産業を支えていたと言っても過言ではありません。

 

上州生糸の歴史としては江戸時代頃から桑園や養蚕が発展し、真綿・絹・糸などが商品化されて生産されていたようです。

安政年間にアメリカやイギリスなどの要求もあって幕府は開国に踏み切り、横浜港が開港してからは生糸の輸出が盛んになっていきます。その影響は北関東にも及び、特に品質に優れているとされた上州生糸が主力でしたが、従来の個々のやり方に依るのでは品質やシステムがバラバラで安定せず、粗製濫造も横行していきました。結果として品質や評価の低下を招き、明治初期頃には価格下落に転じて輸出額に陰りが出てきていました。

このような事態を重く見ていた時の明治政府によって、明治5年に国内初の本格的な官営の器械製糸場として富岡製糸場が設立されました。西洋式の器械繰糸機を取り入れ、衣食住などの生活費や医療費も会社持ち、休暇を多めに取れるなど工員の労働環境にも配慮したそうです。

やがてヨーロッパだけでなくアメリカにも輸出が始まる頃には生糸の品質評価が高まり、大正~昭和初期の減産のたびに新型の繰糸器を導入して盛り返すといった時期が続きます。戦争後も糸の生産は続き、昭和49年には史上最高の生産高を挙げましたが、その後は服飾スタイルの変化や安価な中国産生糸の増産に押されて減少の一途をたどり、昭和62年に操業を停止、閉所されました。

明治の創業時からの工場の保存状態が良く保たれていることから平成17年に国の史跡として登録され、平成25年には「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成資産として世界遺産に登録されました。

 

学校はその富岡製糸場から真東700mほどに位置していました。

明治42年に北甘楽郡女子実業講習所として開設され、富岡実科高等女学校富岡高等女学校と変遷して昭和23年の学制改革で富岡女子高校に、翌年に富岡東高校と改称しました。かつて存在していた定時制や商業科は男女共学だったようです。

校歌は作詞:佐藤春夫 作曲:芥川也寸志で昭和27年制定です。

富岡東 (全3番)

 門べは近し 鏑川

 若鮎のぼる 清き瀬の

 心を おのが心にて

 道の妙義に 立ち向う

 富岡東高校生!

 

学校の近くを流れる鏑川、上流の西牧川周辺は天然鮎やヤマメなどの遡上が見られる清流として有名な河川のひとつで、鮎友釣りの解禁になると渓流釣りの人々で賑わうレジャースポットです。

道の妙義に立ち向う…」は窓から仰ぐ妙義山と素晴らしい技=妙技を掛けたものでしょうか。先人の培ってきた上州工芸の遺産を目の当たりにすることを強調した感じですね。

3番に「上毛びとは昔より、質実にして剛健に、人品すぐれ雅致あり」は、作詞者が実際に富岡に赴いて学校やその周辺を視察した折に見かけた学校の校訓額から取り入れたのだそうです。群馬県人の性格は伝統的に裏表がなく実直などと表現されているのがここにも現れている形でしょうか。

 

旧制富岡高等女学校は作詞:本田亀三 作曲:弘田龍太郎で制定年は不明です。

旧制・富岡高女 (全4番)

 神代ゆかしき 抜鉾の

 杜の緑に 色映えて

 妙義の高嶺 雲を突き

 鏑の流れ 玉砕く

 

抜鉾の杜」は上野国一宮に列せられた一之宮貫前神社の別名のようですが、江戸時代は抜鉾(ぬきさき)の表記だったとされています。全国でもあまり例を見ない”下り宮”のひとつで、まず石段を登り、大鳥居から総門を抜けると今度は石段を下りて社殿に行くという形式となっています。

香取神社の祭神でもある経津主命を祭っており、創建は飛鳥時代の直前といわれ重要文化財も多い由緒ある神社です。

2番「見渡すかぎり桑の原、広きほまれの糸繭に…」が上州生糸の産地の風景や富岡製糸場の風景を歌っているのでしょう。

 

陸上競技の名門校で高校総体やインターハイ出場の実績がある他、音楽部など文化部も活躍していました。