沖縄県復帰50年、沖縄戦で消えた学校のこと 上 | 校歌の広場

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高校の校歌についていろいろ書き綴っています。
高校野球でも流れたりする、校歌の世界は奥深いですよ~

今年は「沖縄復帰50周年」、そして6月23日は沖縄慰霊の日です。

いわゆる”沖縄戦”などの戦没者を追悼する日と定められ、県内の公共機関は休日となっているそうです。

かの太平洋戦争末期、1945年はいよいよ米軍による本土爆撃・空襲が激しくなってきた時期です。マリアナ、フィリピン陥落で南方の基地を取られて米軍の航空部隊が頻繁に日本に来襲、東京をはじめ名古屋、大阪、神戸などが次々と爆撃されていきます。
そして本土の最終防衛線とされた沖縄にはあらゆる部隊が集結、3月頃からいわゆる”沖縄戦”が始まりました。一般人も防戦に駆り出され、中等学校レベルの学生も”学徒隊”として動員されました。
現在の高校生に相当する上級生は”鉄血勤皇隊”、中学生相当の下級生は”通信隊”、女生徒は軍医局の看護助手として従軍配属されました。旧制中学校、高等女学校、実業学校など合わせて沖縄本島内外21の学校からそれぞれの校名や通称を用いた学徒隊が結成されています。
これらの学徒隊や在籍していた学校も「鉄の暴風」沖縄戦の惨禍によって多くが亡失、現在に至るまで沖縄の歴史に暗い影を落とし続けています。

今回から2回、沖縄戦で壊滅廃校した学校を偲ぶ意味でもこれらの校歌をいくつか紹介したいと思います。
まだ来たりくる暗雲も見えない比較的平和な時代だった頃の校歌。あるいは米軍が迫りくる中でガマ(洞穴)や防空壕で最期に生徒が静かに歌い自決したとも伝わる校歌。人生なかばで散華していった少年少女の束の間の青春の象徴だった校歌…

今回は高等女学校、ひめゆりの塔で有名なひめゆり学徒隊の他にも知名度は低いものの同じような境遇にあった学校も合わせて紹介します。沖縄第三高女(なごらん学徒隊)や離島にあって被害が比較的軽微だった宮古八重山高女は心苦しくも割愛します。

ひめゆり学徒隊(ひめゆり資料館調べ・227人落命)
旧制・沖縄師範学校女子部・沖縄県第一高女 (全2番) 
作詞:近藤鉄太郎 作曲:名嘉真武輝
 首里城の丘かすむこなた 松風清き大道に
 沿ひていらかの棟高し これぞ我等が学びの舎
 友よいとしの我が友よ 色香ゆかしき白百合の
 心の花と咲き出でて 世にかぐはしく香らなむ

 

ひめゆり”の由来は、沖縄師範学校女子部と沖縄第一高女の校友会誌がそれぞれ「白百合」と「乙姫」と名付けられていたこと、この両校が大正4年に併置されたとき校友会誌もひとつになり「姫百合」となったことからだそうです。ひらがな表記になったのは戦後からとのこと。
この関係は校歌にも表れ、1番に「色香ゆかしき白百合の」、2番に「玉とかがよふ乙姫の」と歌われています。当時の所在地である安里村大道(現在の那覇市安里)からは首里城を見ることができたのでしょう。2番「波の上のほこらおごぞかに」は、那覇市の海岸にある沖縄八社のひとつ波上宮のことです。私も参拝したことがあります。

白梅学徒隊(17人落命)
旧制・沖縄県第二高女 (全4番)
作詞:山城正忠 作曲:宮良長包
 日出づる國のみんなみの 御空も海もか青なる
 島に名だたる松尾山
 松の緑のいや深み 永久に栄ゆく学び舎ぞ


白梅”は校章からの命名のようですが、ここでも4番に「かほるや梅の旗じるし」と歌われます。大正12年に松山(松尾山)に移転した頃の制定でしょうか。

瑞泉学徒隊(33人落命)
旧制・首里高女 初期校歌 (全3番)
作詞:我那覇朝義 作曲:尚琳
 わが沖縄のその昔を 語るもゆかし首里城を
 今はわれらが学び舎と いそしむことのうれしさよ


旧制・首里高女 後期校歌 (全3番)
作詞:勝連盛英 作曲:宮良長包
 朝日さし出づる虎頭山 入日に映ゆる慶良間沖
 いらかは高き百浦添 常盤木茂る西森と
 自然のさとし豊かなる われらが学び舎の気高さよ


瑞泉”は首里城の瑞泉門に由来するとのことです。

戦前は国宝に、現在は世界文化遺産にも登録されている首里城ですが、明治の琉球処分で明け渡された後、明治41年に首里区立女子工芸学校(のち首里高女)が入りました。初期の校歌はそれを表しています。
後期に「いらかは高き百浦添」とありますが、首里城御殿の別名は”百浦添(もんだそえ)”だったのです。北東の虎頭山、那覇沖に見える慶良間諸島、首里城、西森拝殿と自然に恵まれた学校というわけですね。

積徳学徒隊(3人落命)
旧制・積徳高女 (全4番)
作詞:外間良儀 作曲:備瀬知範
 その名もゆかし美栄の原 氣はすみわたる空高く
 和める光あまねくも 風さはやかにわたるとき
 長江堤にほどちかく たちて定まる我が校舎


3番「みがけ婦徳の鏡をば」、4番「螢の光窓の雪 積める功に…」あたりに校名”積徳”が取り入れられていると思われます。

梯梧学徒隊(9人落命)
旧制・昭和高女 (全3番)
作詞:城しずか 作曲:松山芳野里
 入江の水のかげ清く 崇元寺とつつましく
 世のかがみとし照りそふる 我がまなびやぞいやたかし


梯梧”とは沖縄県の県花・デイゴのことで、学校の隣にあった崇元寺にデイゴ並木があったそうです。崇元寺は沖縄戦で堂宇や霊廟などが徹底的に破壊されて今は公園となり、礎石か柱跡しか残っていません。

以上の5校は全て米軍の地上攻撃によって壊滅し跡形もなくなってしまい、戦後の再建もなされないまま廃校となってしまいました。よって後身校といえるものはありません。無事に戦火をくぐり抜けて戦後を迎えられた人も学ぶ場がないまま”卒業”、社会に出ていったことになるのでしょうか。


ひめゆり平和記念資料館には師範・第一高女の校歌CDが売られていました。その場では購入しませんでしたが、また行く機会があれば買ってみようかと思っています。

 

次回は旧制中学校などを取り上げてみます。