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校歌の広場

高校の校歌についていろいろ書き綴っています。
高校野球でも流れたりする、校歌の世界は奥深いですよ~

現在(3/26)、春の選抜高校野球の真っ最中ですね。今日は雨天中止でしたが…

常連も初出場も等しく校歌が流れる時間は、校歌マニアにとって至福かつある意味緊張する瞬間でしょう。もっとも依然コロナ禍にあることを考慮してか、体を仰け反らせて歌う”全力校歌”は見られず選手も口を開けないか”つぶやく”ような歌い方が多いようですね。

第6波の収束はまだ見えず、引き続き気を引き締めていきたいものです。

 

私事になりますが、「福井県校歌集」を自作してみたので紹介したいと思います。

今まではネット上や図書館などで収集・集成するだけでしたが、実は昨年のゴールデンウィーク頃にノートPCを新規購入してMSオフィスソフトを導入できたので、集大成的な構想だった”校歌集”として残しておこうという試みが端緒に就いたところです。

最初にEXCELで岐阜県を”試作”、続いてそれをたたき台に福井県版を作ってみたというわけです。今はまだまだこのくらいが限界ですが、今後はWordやPowerPointも勉強していろいろと活用できたら…という感じですね。

 

「福井県校歌集」に収録している学校・校歌は次の通り。()内は旧校名や旧校歌です。

・福井高専 ・藤島 ・高志 ・道守 ・羽水 ・足羽 ・福井商(乾徳) ・科学技術(福井工) 

・福井農林 ・北陸 ・啓新(福井女子) ・仁愛女子 ・福井工大福井(福井実) ・福井南

・金津 ・三国 ・丸岡 ・坂井(坂井農、春江工) ・武生 ・武生東

・武生商工(武生商、武生工) ・鯖江 ・丹南 ・丹生 ・大野 

・奥越明成(大野東、大野工、勝山精華、勝山精華讃歌) ・勝山 ・敦賀 ・敦賀工

・敦賀気比 ・敦賀国際令和(昭英) ・美方 ・若狭(小浜水産) ・若狭東(若狭農林)

 

【旧制】

・福井中① ・福井中② ・福井高女① ・福井高女② ・福井商 ・福井市高女

・福井工 ・福井農林 ・北陸中① ・北陸中②  ・婦人仁愛会教園

・福井高等実践女 ・三国中 ・三国高女 ・丸岡高女① ・丸岡高女② ・坂井農

・武生中 ・武生高女 ・今立農① ・今立農② ・鯖江高女 ・丹生実科高女

・大野中 ・大野高女 ・大野農林 ・下庄公民 ・勝山高女 ・敦賀中 ・敦賀高女

・敦賀商 ・小浜中 ・小浜中英語校歌 ・小浜高女 ・小浜水産① ・遠敷農林

 

これをPDF化してプリントアウトしてみたものが下のもの。
全部で9枚です。福井県は現時点判明分で90曲くらいなのでこのくらいかな?と。
 
 

上記の一覧は旧制から継承しているものは重複させていません。(実際のPDFでは重複していますが…)

例えば小浜水産は、大正10年に制定されたものが平成27年に閉校するまで歌われていましたが、それ以前にも「春は紫紺の若狭の海…」で始まるものがあったので①としたわけです。

丸岡高女①は幻の校歌というか、ここに含めても可なる代物なのか迷いましたが、参考までに記載してあります。


と、ここまで順調そうな書き方をしましたが、最近は私生活で仕事量がピークになり平日は校歌どころかPCも開けられない状態が続いています。実は「福井県校歌集」も完成したのは約3週間前で、この記事もやっと余暇ができた合間に投稿できたところです。

今後のブログや校歌活動について、一旦現実と向き合って考え方を変える必要に迫られるかもしれません。ですが30年来続けてきた趣味ですし目標もあるので捨てることは一切考えていません。

閲覧して頂いている方々のためにも、今後ともできる限りブログもやれるところまではやっていきたい所存ですので、ご理解を頂ければと思います。

今回は、栃木県の真岡女子高校です。

http://www.tochigi-edu.ed.jp/mokajoshi/nc2/

 

真岡市は栃木県の南東部にあり、茨城県との県境に接しています。

芳賀郡の中心地域として農工産業が盛んで、特に生産量が多いのがとちおとめスカイベリーなどに代表されるイチゴです。50年連続生産量日本一を誇る栃木県の中でも作付面積・量・品質とも随一の「イチゴの町」です。

https://www.city.moka.lg.jp/citypromotion/nihoniti_itigo/index.html

また有名どころとしては真岡鐵道もあり、”SLもおか”が週末や祝日に運行されて人気を博していますね。真岡駅はSLをモチーフにした駅舎になったり焼き物の町・益子町にも通じており沿線も観光スポットが多いそうです。

 

学校は真岡駅東口に程近い台町にあり、五行川が近くを流れています。

栃木県の公立高校では現状5校しかない女子校のひとつで、さらにこのあたりでは男子校の真岡高校と対になっていて普通科に関してはほぼ完全な男女別学になっている地域です。

明治44年に真岡町立実科高女として設立され、大正3年に芳賀郡立実科高女、大正12年に真岡高女と改称を経て、昭和23年に学制改革で真岡女子高校になった110年ほどの伝統校です。

校歌は作詞:藪光吉 作曲:信時潔で制定年は不明です。追加:昭和3年制定です。

真岡女子 (全2番)

 南の空に とり甲ふ

 筑波の山に 比ふべき

 高き操を 負ひ持ちて

 心も清く 身も爽に

 我等が学ぶ 学び舎は

 真岡の里に 聳えたり

 いざもろともに 学ばなむ

 

栃木の山といえば男体山を主峰とする日光連山が有名ですが、ここではむしろ筑波山がよく眺められるので取り入れたのでしょう。

「操(みさお)」とは元来「御青(みさお)」であったといい、霊妙な青さの常緑樹のような不変の美、周りに影響されない、志操と守ることを意味しているとされて”紫峰”筑波山の不動の姿、美しさを女性の鑑としたものだと思います。

2番「徳に報ゆる二宮の、大人の教をうけつぎて…」は、真岡の偉人・二宮尊徳こと二宮金次郎を指しています。二宮金次郎は神奈川県の小田原で生まれ、若者の頃に洪水のため実家が荒廃してしまい叔父の家に預けられましたが、実家の立て直しのために昼夜いつでも百姓生活のかたわら勉強読書をするようになりました。昔からある学校には槇を背負って読書しながら歩く二宮金次郎像を見かけた人も多いでしょう。

やがて叔父から独立したあと質素倹約と農耕に励んで実家の再興に成功し、小田原藩の家老・服部家の家計の立て直しで藩の名声を得ると藩主の分家があった下野国芳賀郡桜町(のち二宮町→真岡市)に移り、そこでも”報徳仕法”を発揮して知行所を再建しました。

二宮尊徳は”農聖”とも言われ、栃木商業高校・栃木農業高校・旧制真岡農業学校などの校歌にも歌われています。「以徳報徳(徳を以て徳に報いる)」の教えは後年、渋沢栄一や松下幸之助など多くの実業家に多大な影響を与えたそうです。

追加:戦前は3番まであり、うち2番を削除、3番の一部を改訂しています。2番は「女体の宮に神ながら、鎮まりいます女の神の、御稜威たふとび畏みて…」、これは筑波山の片峰・女体山に祀られている筑波女大神(伊弉冊尊イザナミノミコト)のことです。古今夫婦神や子宝の神として崇められ戦前は女性の手本のような見方をされていたのでしょう。戦後、米国軍政部社会教育部長栃木担当司令官フレデリク氏が真岡女子高校を訪問したとあります。フレデリク氏は日本の文化や教育事情などを割合尊重した円満な人柄だったそうで、高校三原則のうち栃木県に男女別学が残されているのはそのおかげと言及しています。他府県、特に中~西日本ではナンバースクールや「女子高校」の校名を認めず方角や地名を入れさせる方針が主だったのと対照的といえましょう。

 

部活動としては卓球部合唱部が全国大会レベルの実績を挙げています。

総じてまずまず文武両道を体現している学校と言えましょう。

三好達治氏シリーズも終わり、さて次は…と考えていました。

なにげなく地方テーマを見ると関東地方は2020年の草加東高校で止まったまま。

休止していた時期があるとはいえ他の地方は昨年の更新があるのに、学校数が多い関東で紹介が少ないのもどうかと思いますので、少し集中して更新することにしました。

 

今回は茨城県の明野高校です。

https://www.akeno-h.ibk.ed.jp/

 

筑西(ちくせい)市は茨城県の中央部から北西寄り、筑波山の西に位置する町で”筑西”の名はそれに因んでいます。平成17年に 下館市・関城町・明野町・協和町が合併して成立しました。中心地域は旧・下館で集落が割合点在している印象の町です。

ひまわりが風物詩で、明野ではなんと100万本のひまわりが植えられ夏にはひまわりフェスも行われています。

 

学校は筑波山と小貝川のちょうど中間の旧・明野町にあり、昭和52年に開校しました。

昭和52年といえば団塊ジュニア世代の誕生直後の頃で、学校も開校からクラス数が増加していき平成初期のピーク時には8クラスもあったそうですが、少子化が進む現在は交通アクセスの影響もあってか2クラスとなっています。

校歌は作詞:奥澤寛一 作曲:中村貞夫で開校直後の制定と思われます。
明野 (全3番)
 幾星霜を へだつとも
 その名とどむる 石田館
 紫匂う 筑波嶺や
 明けゆく空と みどり野に
 若人集ひ 創る日々
 うるはし明野 わが母校

 

幾星霜をへだつとも、その名とどむる石田館」とは、平安時代中期にこの周辺を本拠とした武将・平国香が居住していたとされる石田館を指します。石田館は現在の東石田の長光寺という寺院附近にあったとされますが、他説もあるようです。

平国香は桓武天皇の曾孫で桓武平氏の直系です。甥は「新皇」を名乗り承平・天慶の乱をおこした平将門、後に平氏の最高潮に達した平清盛は子孫に当たります。西暦でいえば935年の平将門の乱によって国香も石田館も失くなりましたが、子の貞盛が将門を討ち取り関東を平定しました。

幾星霜=長い年月、実に一千年以上が経ってもその名残と伝承を留める石田館を近くに控え、東には名峰・筑波山、坂東平野が拡がる地にある明野高校と歌っていますね。

3番「松籟さめく学舎に」を考えてみました。”さめく”は響く、さざめくの意なので学校のすぐ東に林らしきものに関するかと思ったのですが、Googleストリートビューで見ると松ではない感じです。近くに松原という地名と海老ヶ島城址があるので、そこから取り入れたのでしょうか?

 

高校野球では春夏1度ずつ甲子園に出場しています。このうち開校3年目の昭和54年夏に1勝を挙げて校歌が流れました。

現在は志願者、入学数とも大幅に下落していて野球部は連合チーム参加となり、学校も廃校の噂さえあるそうですが2度の甲子園出場を誇りに思っていてほしいものですね。

今回は、静岡県の榛原高校です。

http://www.edu.pref.shizuoka.jp/haibara-h/home.nsf/IndexFormView?OpenView

 

牧之原市は、静岡市の南西方向の太平洋に向かって尖っている御前崎近くにある町です。平成17年に榛原郡榛原町と相良町が合併して成立しました。

このあたりに拡がる牧之原台地は全国有数の緑茶の産地として知られ、近くの川根茶や掛川茶と並んで”牧之原茶”は有名なブランド茶のひとつに数えられています。静岡県は年間3万トンほどの生産量、全国シェアは40%ほどで推移しており統計が取られ始めた昭和30年頃から現在まで常に日本一です。

 

牧之原の茶栽培の歴史は意外と新しく、明治時代からといわれています。

江戸時代末期の明治維新により徳川慶喜は大政奉還を奏上、それに続く王政復古の大号令によって江戸を退去して水戸へ、さらに駿府(静岡)に転居しますがその臣下や警備の者も同行していました。明治政府によって版籍奉還が断行され臣下や警備は職を失い、新たな進路に選んだひとつが茶畑の開墾でした。

牧之原台地は質の良い赤土と温暖な気候と水の確保が困難なため稲作や畑作より茶栽培が推奨されていたからです。しかし農業用水どころか生活用水さえ不足する有様で当初は失敗も多かったそうですが、中條景昭以下開拓団の十数年の粘り強い開拓開墾によって広大な茶畑が作られていきます。元士族は大正期までにほとんどいなくなりましたが、地元の農家によって栽培が続けられ茶葉の改良や昭和の水路完成によって現在の姿になりました。

牧之原茶は”深蒸し茶”に向いたお茶といわれています。深蒸し茶とは茶摘みのあとに高温で比較的長く蒸す製法で、日当たりの良い産地に多いそうです。

 

そうしたお茶の町にある学校は、まず明治33年隣町の吉田村(現・吉田町)に堰南学校が開校し、翌年に郡立榛原中学校が設置されると堰南学校は吸収統合されました。

別途で明治44年に榛原女学校が開校してこれも高等女学校に移行、学制改革で中学と高女がそれぞれ榛原第一高校第二高校になったあと翌年に統合して榛原高校になり現在に至ります。

ちなみに校地の隣は牧之原市役所榛原庁舎(旧榛原町役場)です。

旧・志榛学区の中では進学校に位置付けられ、静岡大学などの国公立や常葉大学や東海大学などの私立に進学する傾向が多いようです。

 

旧制から紹介します。榛原中は3曲もあったそうです。

初代は作詞:村松勇助 作曲:萩原寅蔵で開校初期頃とされていますが年月は不明です。

旧制・榛原中 初代 (全4番)

 滾々舎まぬ大井川 霞の奥を出でてより
 千尋の海に到るべく 淵瀬幾変 紆余百曲
 自ら路を開きてぞ 進める様を見よや友

 

二代目は作詞:下村炗 作曲:田村虎蔵で大正10年制定です。炗の字は機種によっては表示されないかもしれません…。創立20周年を機に制定されたそうです。

旧制・榛原中 二代目 (全2番)

 見よ富士の神山 その妙高は吾人の理想
 高鳴るかな 自治同情 勇敢のをしへ
 この校訓をふりかざし

 進め進め 富士の高嶺のいや高く

 

三代目は作詞:福田正夫 作曲:小松清で昭和10年制定です。

旧制・榛原中 三代目 (全3番)

 芙蓉の峰に精あり 護れ 真剣至誠の校訓を
 ここ榛中 教育の道場
 招く時代の黎明に 炳たり炳たり 希望の光
 聞けや 岸うつ黒潮に 榛中健児の栄を

 

高等女学校は作詞:高野辰之 作曲:下総皖一で昭和15年制定です。

旧制・榛原高女 (全3番)

 勝間田川を背にをひて 松は緑に波白き
 駿河の湾を前にする 我が榛原の女学校

 

 このうち榛原中の三代目校歌は「榛中健児の歌」として戦後もしばらく歌われていたそうです。

 

榛原高校となってからは代用の愛誦歌というものが15年ほど歌われていました。

作詞:小山一重 作曲:山本不二彦で昭和26年頃の作成です。1番は男子、2番は女子、3番は若人全体を歌った内容です。

榛原高校 愛誦歌 (全3番)

 七彩燃ゆる 虹霓か

 芙蓉にかゝる 朝雲を
 雄飛の翼の 文として

 心きたへむ 男の子われ
 さはれ壺中に 憑むなく

 俊秀 こゝに集ふとき
 あゝ 警世の鐘は鳴り

 真理の花は かほるかな

 

やがて正式な校歌がほしいとの機運が高まり、昭和35年か36年頃に校歌制定委員会が発足しました。詞は三好氏に決定、浜名高校と同じつてを通したかで依頼したと思われます。

学校は三好氏を榛原に招き、浜名高校と同じく周辺を案内された折に「茶の花十里」という詩を編んでいます。「大阿蘇(艸千里)」に似て、こちらは牧之原の春頃?のお茶畑を叙情的に歌っています。しかし校歌のほうは引き受けはしたもののかなりの遅筆だったようで、3年経っても未完成のまま昭和39年4月、心臓発作で急逝しました。

どのくらい作詞を進めていたのかは不明ですが、作者を失ってしまっては白紙にせざるをえず改めて作詞者から選び直しになりました。

白羽の矢が立ったのは丸山薫氏。愛知県在住の詩人で主に東海地方で多くの校歌を作詞し、静岡県では他に新居高校の校歌も作っています。当初、他にも作詞依頼が積み重なっているため多忙を理由に断ろうとしていたそうです。

しかし前に作ろうとしていたのが三好氏だったことを知ると、「三好君は私の親友です。三好君が成し遂げられなかった仕事は私がやらなければならない、それが私の使命でもあると思います」と言って快諾されたとあります。

そして平井康三郎氏の作曲を経て昭和41年にようやく完成、翌年に制定されました。いわば三好氏と丸山薫氏の友情が生んだ校歌なのですね。

榛原高校 (全3番)

 秀麗富士に 理想を仰ぎ

 悠久大井の 語るを聴かん
 山河明媚を 誇れる国に

 花さく園は われらがつどい
 六棟窓に はげみあり

 まなびは高く 真理を拓く

 

ここでも榛原の自然の象徴として富士と大井川が歌われています。また三好達治氏は校名を入れることはありませんでしたが、丸山薫氏はほぼ全校に取り入れています。

2番「長汀白砂未来に映えて、洋々みなぎる駿河の望み…静波ここにきそいあり」はこのあたりの海岸”釘ヶ浦”の静波海岸のことです。釘ヶ浦はサーフィングと初日の出のスポットともなっています。

 

三好達治氏の校歌作詞紹介は以上とさせていただきます。神奈川の横須賀高校は補作のみだったようですのでまたの機会があれば紹介しようかと思います。最後の榛原高校は途中で”絶筆”になってしまいましたが、もし完成していればどんな詞になっていたのか気になるところですね。

氏の作風は、他の校歌とは一線を画するものだったと思うのです。巧く言い表せられないのですが、直接的な言い回しよりは比喩や暗喩に長けていて学生の前途を情感あふれたものにしていると感じさせるところではないかと思っています。校歌作詞に消極的だったのが惜しい稀代の才能の詩人でした。

今回は、福井県の大野高校です。

https://www.daiko.ed.jp/

 

大野市は福井県の東南部、”奥越”と呼ばれる山間部の町です。日本でも有数の豪雪地帯でにあり、冬季はスキーヤーやボーダーが集まるスポーツのメッカです。

長らく大野藩の城下町として栄え、「越前の小京都」とも言われているようですが現在全国京都会議には加盟していません。

戦国時代頃に越前一向一揆に対する討伐で金森長近が大野亀山に城を築き、一揆を平定したあとは城下を整備して今の大野市の基盤となりました。福井藩主・結城秀康(徳川家康の次男)の三男・松平直政によって大野藩が立藩、その後に入封した土井家によって幕末まで続いています。

何度かの飢饉によって財政が逼迫する中、7代藩主土井利忠により藩政改革”更始の令”が断行されました。利忠は銅山開発、藩校創立、北前船の交易、地場物産取次店の大野屋経営、藩営病院の開設、西洋の学問を取り入れて立て直した稀代の名君とされています。校歌に取り入れられて良いような人物ですが…

越前大野城は亀山城とも言われ、近年は”天空の城”として和田山・竹田城と並び有名な観光スポットとなっています。大野盆地が雲海に包まれ城山が浮かぶ情景は美しいものです。

 

学校は通称「大高(だいこう)」、大野市域の旧制中学校、高等女学校、農学校の3校を前身としています。学制改革で総合制の大野高校となりましたが、他地域で見られた後年の分離独立は無く現在に至ります。

校歌は作詞:三好達治 作曲:清水脩で昭和31年制定です。

大野高校 (全3番)

 古志の奥 大野が原は

 風清ら 水清ら 山も清らに

 おのづから 通ひて子らが

 萌えいづる 心ごころに

 ふふむらむ 夢さへ清ら

 額高く 誇りかに さやけ 清ら

 

学校史には校歌作成についてあまり語られていないのですが、三国高校と同じく”第二の故郷”福井県の人々からの依頼として受け入れたのだと思います。

追記:校歌作成委員の一人と大野中OBで民間放送連盟部長の20回ほどの折衝仲介を経て三好氏は大野を訪問、素朴な山里や人々と触れ合い学校で生徒と接して「清らさ」を強調した詞が完成したそうです。昭和30年の創立50周年記念行事の一環として始まったので足掛け2年はかかったと思われ、これも三好氏らしいなと思いますね。

「ふふむ」は含むの古語、「らむ」が続くので、大意としては「古志の奥=奥越の大野盆地は、風も水も山も清らかな所よ、ここに住み学校に通う生徒ひとりひとりの心中に自然と湧き出てくる夢も清らかだろう。大野の子らよ、頭を上げて、誇らしく、さやかにあれ」かと。

3番は1,2番と違い少し短めです。福井大野藩が所有していた帆船・大野丸が取り入れられています。

二帆前」とは二本マストの帆前船の意味でしょうか。帆前船とは西洋型帆船、いわゆるスクーナーで大野藩はこの船を「大野丸」と命名、”北前船”として大坂から日本海や樺太にも航路を拡げ、各地との交易と大野屋という物産取次店を経営して利益をあげました。

戦前サハリンを南北に分けて北緯50度以南が日本領”南樺太”だったのは、大野藩の開拓がこのあたりまで及んでいたからだそうです。大野丸は後に根室近海で座礁沈没してしまいましたが、数々の新事業と樺太開拓など多大な功績に関わった栄光の船だったことを後世に伝えたい気持ちがあったのでしょうか。

大野丸、波のりゆきし…後の子もおくれじものを」は、こうした歴史の上に生きる学生たちも先人に続いてほしいと啓しているのでしょう。

大野丸→https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/zusetsu/C34/C341.htm

 

旧制大野中は明治14年に藩校・明倫館を受け継ぐ大野町立明倫中学校を前史としています。明治19年の中学校令(原則1府県1中学校)で一旦廃校となりましたが、明治34年に旧制福井中学校大野分校が開校、4年後に大野中学校となりました。

校歌は作詞:平泉澄 校閲:幸田露伴 作曲:水野康孝で昭和3年制定です。大野中開校から20年くらい校歌は無かったようです。

旧制・大野中 (全3番)

 山白峯と天そゝり 川九頭龍とたぎりゆく
 自然の霊気身に受けし 我等大野の健男児

 

2番「智は洋学に率先し、勇開拓に振ひたる、父祖の勇心身にぞしむ…」は幕末の大野藩政、上記の歴史を端的に表したものですね。

 

大野高女は明治44年創立の大野郡立実業女学校を創始とし、大野実科高等女学校大野高等女学校と変遷しました。

校歌は作詞:廣瀬吉弥 作曲:益山謙吾で明治44年制定です。

旧制・大野高女 (全4番)

 大野の郷に新しく 立てる学舎いやひろき
 恵の露にうるほひて 物学ぶ身は幸なりや

 

大野農学校は大正7年の下庄農業補習学校を創始とし、昭和17年に大野農学校となりました。

校歌は作詞:瀧波与六 校閲:相馬御風 作曲:弘田龍太郎で昭和17年制定です。

旧制・大野農 (全3番)

 高嶺のみ雪解けゆきて 九頭龍真名の水澄めば
 空に漲る陽の光り 地に栄光の生命みつ
 ああ秀麗のこの郷土 ああ明朗の学園に
 萌ゆる若草 吾等のつどひ

 

高校野球では、平成2年夏と翌春に連続出場しました。うち平成3年春に初戦突破して校歌が流れています。私が校歌に興味を持ち始めた頃で、福井県勢ではこの時の校歌が好きですね。

奥越の進学校として地元の福井大や金沢大などの国公立や私大への進学者が多い傾向です。部活動ではスキー部陸上部などがインターハイ出場もある強豪です。