前回の続きです。今回は旧制中学校を取り上げてみます。
前回でも触れたとおり、高女(高等女学校)の女生徒で結成された”学徒隊”に対し、旧制中学や実業学校の男子が動員されたのは”鉄血勤皇隊”、また下級生はこちらも”通信隊”と呼ばれました。
高女は”姫百合”や”白梅”など花の名前を取り入れていましたが、中学や実業校は質実剛健や無骨さを出すためか、単に「校名+鉄血勤皇隊」です。「一中鉄血勤皇隊」「開南鉄血勤皇隊」などなどですね。
一中鉄血勤皇隊 (257人落命)
沖縄一中 (全4番)
作詞:山口泰平 作曲:糠塚卯助、宮田啓重
仰げば高し弁が岳 千歳の緑濃きところ
眺めは広し那覇の海 万古の波の寄るところ
これ一千の健児らが 競ひ立つべき聖天地
沖縄一中は1798年、当時の琉球王国の尚温によって設立された国学を嚆矢としています。明治12年の廃藩置県に伴う琉球処分によって琉球藩を廃止、翌年に国学も首里中学と改称しました。明治44年に分校独立で沖縄第一中学校となりましたが、首里城に近かった当校は沖縄戦で猛攻撃を受けて崩壊してしまいました。一中最後の卒業式が挙行された2日後に鉄血勤皇隊が編成されたそうです。
校歌は明治42年の制定で、戦後は4番を部分的に改訂した他はほぼそのまま首里高校に継承されています。
二中鉄血勤皇隊 (115人落命)
沖縄二中 (全4番)
作詞:職員一同 作曲:宮良長包
楚辺原頭に風清く 永遠にゆるがぬ城岳
この秀麗の地をしめて わが学び舎はそびえたつ
沖縄二中は明治44年に沖縄中の分校から独立、嘉手納を経て港町・那覇の現在地に移転しました。その後、昭和19年10月の那覇空襲で校舎が消失し翌年の沖縄戦での戦闘もあり辺りは廃墟化してしまいます。
「城岳」とは首里城ではなく楚辺にある小丘陵で”二中健児之塔”も建立されています。3番「孤島桃源夢破れ、文化の潮うず巻きぬ」は、南海の沖縄島に栄えた琉球王朝を内地とは別世界と捉え、王国が滅亡して日本に組み込まれたのを夢破れ…として、日本や世界の文化が坩堝のごとく渦巻くところということですね。
一中、二中とも空襲や沖縄戦で校舎は壊滅してしまいましたが、戦後いち早く創立された糸満高校の分校として発足し2ヶ月後に独立した首里高校が一中の、さらに首里高校の分校から始まりすぐに独立開校した那覇高校が二中の後継校となりました。
それぞれ元の校地に復帰しているため、一旦廃校となりながらすぐに復活した形となるのでしょうか。
他には商工学校(那覇商)、工業学校(沖縄工)、水産学校(沖縄水産)なども沿革上は継続していて校歌も受け継がれています。沖縄工は一部改訂されていますが…
首里高、那覇高、那覇商、沖縄水産などは甲子園で校歌が流れています。
開南鉄血勤皇隊 (不明・190人落命?)
開南中 (全3番)
作詞:山城正忠 校閲:与謝野晶子 作曲:山田耕筰
聴け霊泉の湧くほとり 仰げ秀麗近き地に
建てる学舎は首里城を のぼる朝日の如く栄ゆ
たたえよ健児等 われらの開南
開南中は戦前の沖縄県で唯一の私立中学で、昭和11年の創立です。
那覇市樋川(当時は真和志村)に位置し、「霊泉の湧くほとり」とは付近を流れる汪樋川(オウヒージャー)の源泉近くにあったことからでしょう。汪樋川は首里で2番目に美味しい水と讃えられ住民の貴重な水源でしたが、現在は水量が激減してしまっているそうです。首里城の西郊でもあり首里城を「のぼる朝日」のように見立てて学校も栄えていくと歌われます。
しかし開校10年も経たず昭和19年には空襲で校舎が消失、翌年の沖縄戦での鉄血勤皇隊は長らく詳細不明のままでしたが、3年前に学徒名簿が見つかり解明が進んでいます。
首里・那覇周辺を中心とする南部の旧制学校のうち、中学や実業学校は校舎壊滅に見舞われながらも戦後は新制高校が後継校となったところがほとんどでしたが、唯一開南中だけは廃校となり復活はなりませんでした。しかし真偽不明ながら現在の興南高校は開南中と直接の後継ではないものの、設立に関してなんらかの関係があるようです。
沖縄はその立地・地勢上、古来から日本だけでなく大陸や南方の影響を強くうけてきましたが、太平洋戦争ではそれが仇となった形です。昭和47年の日本返還以前のアメリカ統治時代を”アメリカ世”と言い、現在も米軍基地は本島だけで15%、日本全体の70%を負っています。
戦争が当時の学生の運命を狂わせてしまい、戦場に送られていった人達の思いを平和祈念公園や平和記念資料館で伝えています。修学旅行や沖縄旅行の定番となっていますが、今一度、鉄血勤皇隊や学徒隊の歴史を知ってみてはいかがでしょうか?
首里城近くの”一中健児之塔”を訪問したときのもの。
短歌は「よどみなく ふるひはげみし 健児らの 若き血潮ぞ 空をそめける」