兵庫県立 姫路工業高等学校(詩人の最後の校歌シリーズ・その1) | 校歌の広場

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高校の校歌についていろいろ書き綴っています。
高校野球でも流れたりする、校歌の世界は奥深いですよ~

校歌は誰が作るのか。

それは学校によって様々ですが、ポピュラーなものとしては有名人に依頼して詞や曲を付けてもらうことでしょう。

現在でも名あるシンガーソングライターやミュージシャンに作ってもらいましたという宣伝を打ち出しているところも多く見かけますね。

そうした傾向は昔からあり、例えば皆さんも幼少時に聞いたり歌ったりした歌(童謡など)を作った人が校歌も手掛けていることもざらにあります。そういった人々の多くはこの世を去ってしまわれましたが、学校史にも時折ドラマ性を持って紹介されているのを見かけます。

今回からしばらく、その幾人かの晩年の作として野口雨情、北原白秋、折口信夫、穂積忠、佐佐木信綱を取り上げてみます。

 

1回目は茨城県出身の詩人、野口雨情です。

野口雨情は明治15年に現在の北茨城市で誕生、大正期から詩壇で注目されるようになり童謡も多く手掛けています。「シャボン玉」「七つの子」「証城寺の狸囃子」あたりが有名所でしょうか。その後昭和10年頃からは作品が減少し昭和20年に終戦を待たず病没しました。

北茨城市にある歴史民俗資料館・野口雨情記念館様の調査によれば、校歌は国内外で30数校ほど作られたようです。主な学校は豊川夜間中学(現・豊川高)谷村高女(現・都留興譲館高)などで、その最後の作とされるのは姫路工業学校。

追記:上の野口雨情記念館様の資料にはありませんが、私の調査では広島県の増川高等女学校(後の増川高校、現・福山明王台高校)も作詞しています。作曲者は藤井清水氏で「歳の流れも増川の…」で始まるものです。

今回は、兵庫県の姫路工業高校です。

https://www.hyogo-c.ed.jp/~himeji-ths/

 

通称は”姫工”で工都・姫路市にふさわしい高校といえるのではないでしょうか。

その歴史は意外と新しく昭和11年に姫路工業学校として創立、昭和23年の学制改革で姫路工業高校に、昭和25年から40年までは姫路工業大学附属高校、大学から分離して再び姫路工業高校に戻っています。ちなみに平成前半期にも県立姫路工業大学附属高校がありましたが別物で、現在は兵庫県立大学中学・高校となっています。

姫路城のやや北に位置し約90年の伝統を誇る学校の、戦前の校歌は作詞:野口雨情 作曲:駒井一陽で昭和18年制定です。

旧制・姫路工 (全4番)

 嘶く駒に 明けそめて

 朝日輝く 白鷺城

 五彩の雲も うちなびき

 御稜威の光 隈もなし

 

学校史によれば、この年の5月に駒井氏とともに山陰旅行の途中で姫路に立ち寄られたとき「わざわざ姫工への来校をお願いし、親しく本校の生活を見て頂き、力強く典雅なる校歌を作詞して頂いた」とあり、その時の座談会で姫路の印象は「15年前に初めて参ったときと同じく大変結構な所だと思います」という言葉を残しています。しかし一方で「姫路に来られたときはすでに体調を崩され、校歌の中では本校が最後のものとなってしまった」とも付け加えられています。昭和15年から全国の地方への講演や童謡小唄を作るうちに無理がたたったのでしょうか。

嘶く駒に」部分の意図はよく分かりませんが、私見としては姫路城には日本陸軍の師団(軍隊の編成部隊)が置かれていたことがあり、その観兵式で騎兵隊や軍馬が集まって嘶いていた…という情景かなとは思っています。あるいは姫路城の馬場に関係あるかもしれませんが今のところ場所は知りません。この歌い出しは同じく雨情作の熊本県天草市に所在した城河原小学校の校歌と同じです。

 

終戦後から改訂についての検討が始まり、野口雨情方の許可を得て国語科の教師陣によって書き改められたのが現在のものです。時期は確実な記録が無いものの昭和23年頃ではないかと推測しているとあり、高校になってからと思われます。

姫路工業高校 (全4番)

 うすむらさきに 明けそめて

 朝日輝く 白鷺城

 五彩の雲も うちなびき

 平和の光 隈もなし

 

 改訂でも「御稜威」など軍国調の廃止と共学化をうけて大部分変わっていますが、割合歌いやすい部類の校歌だと思います。

 

高校野球では、平成6年春の初出場を始め5度の甲子園出場があり、最初の春に2勝をあげベスト8入りしました。

平成17年夏以後20年ほど遠ざかっていますが、激戦区兵庫県、チャンスはまだあると思いますね。

他にもバレーボール部などが全国大会進出するなど活躍しているようです。