私自身はうそをつかないこどもでした。


1.うそをついても、現実は変わらない。


2.うそをついてまで現実を隠そうとしない。


3.うそをつく可能性のある相手が、現実を受け止める許容量が、大きい。


4.うそをつくところに脳みそを使うより、変わらなかった現実をどうするかを考える。


5.現実をどうするか、自分で何とかなるときには誰にも聞かず、何とかする。


  自分の力では何とか出来そうにないときには、相手の力を借りるために、


  現実の情報を共有して、何とかしようとする。


6.よって、うそはついてる暇がない。


という思考回路を持つように教育されたからです。


そのメインの人は、祖母でした。


昨日の記事の、ジャガイモ畑の、おばあちゃんです。


彼女は、仕事をしながら、私の話を聞いてくれる人でした。


基本的に、座ってする作業のときです。


床の拭き掃除とか、目線をどこに持っていかなければらないかが


はっきりしているときにしゃべると、びしりとしかられました。


二人でする、座ってする作業。


洗濯物をたたむとき。


もやしの根っこを取るとき。


いりこのわたをとるとき。


大豆小豆類の虫食いの選別のとき。


そういうときに、私の状況をひたすら聞きだすわけです。


そんな意識はなかったけれど、


学校でどんな勉強をしてきたか。


クラスの中での人間関係(私は喧嘩の行商人だったので、ここは念入りに)。


学校の行事は次はなにがあるか。


彼女自身の話は一緒に住んでいる間はほとんど訊いたこともなく、


祖母は私の状況についての情報共有に


命を懸けていたような気がします。


そうすると、私は現実を全て握られているから、


うそをつく余地は基本的にない。


でも、自分を受容してくれていることがよくよくわかっているので、


そこに不満を持つことはなかったのでした。



さて、祖母も亡くなり、私は家庭教師になりました。


私は教え子のうそに乗っかります。


どこまでも。


見え透いていても、見え透いていなくても。


ひたすら、その話を前提として話を進めます。


すると、疲れてきた教え子が、


うそであることを暴露してしまいます。


「おつかれ」


と私はいいます。


私は大丈夫だよ。


大人だし、君の家族じゃないんだから、


なにがあったって驚かない。


大体のことはね。


でも、驚いたとしても怒らない。


怒れないよ。


もっと本当のことを言っちゃいなさい。


もしご家族のかたに話を通す必要があれば、


うまく通してあげる。


もし君が私と話をすることで、自分で何とか出来るなら、


いわないから大丈夫。


ほかの人に話すときにはあらかじめ君にも言うからね。


とにかく大事なのは、


うそをつかなくても済む状態にすることだから。


そのための協力体制を敷きたいんだ。


私はね。


だって、うそって、疲れるし。


ね?


そう、言うかな?


そんなときに、どこかにいるかもしれないしいないかもしれない、


祖母のことをふわーと思うのです。


おばあちゃんの教育のDNAは、こんなところにも息づいてたねえと。

実は、楽天広場で、


「習ってません」というお子さんの話


沸騰しています。


この記事を発端にして、かなりの数の塾の先生が記事を書かれているのですが。


それに乗っかった、記事です。


100パーセント知らないことというのは、


100パーセントありえない。


100パーセント知っていることも、


100パーセントありえない。


100パーセント教え込むことは、


100パーセント子どもの心をこわす。


100パーセントの思いをぶつけても、


100パーセント心を閉じた子どもには響かない。


100パーセントの信頼を得る。


100パーセント不可能だろうか。


一つの、心にヒットする言葉で、


相手の心をうちぬけばいい。


自信をもっていう言葉ではない。


むしろものすごくおずおずとしかいえないけれど。


私はあなたがあなた自身の中にあって


その存在に気づいていないことを、


あなたより先に気がついちゃったけど、


口にしていいかなあ。


自分が知っていることを知っているといっていい。


自分が知らないということを知らないといっていい。


あなたが思っていることをどんなに口にしても、


全力で受け止めるよ。


だから君の知らないところへ、


一緒に乗り出そうよ。


習ってないなんて、教えてないんだもん。


これから、一緒に知ろうとしていることだから、


いい?


まねるだけで終わる段階じゃなくなったんだから、


君は大人の階段をまたのぼってしまったんだよ。


めんどくさいこと、だらけかい?


めんどくさいのは、まだやってないから。


じゃあ、一緒に君の心をならそうか。


そしたら、ここに種もあるし、種芋もあるよ。


芽を出さないものなんて何もない。


私の手の力を信じてごらん。


種を植えるには、土も必要、水も必要、あたたかさも必要。


君の心のかたい石を崩して、


涙を流す心も取り戻して、


私の手でじっとあたためたよ。


それまでには時間がかかったよ。


その時間の中で、


一つ一つ君は有機肥料とか無機肥料とか。


君の心のなかに鋤きこんでいったんだよ。


きづいてた?きづいてないから、


知らないから出来ないなんていうんだな。


これから種を植えて、


しっかり心の中で芽がでることを、


すくすくと心の中で根を張ることを、


イメージしてごらん。


できることをできなくするのは、


君の心のブレーキだけだ。


私はそこを踏ませたくないよ。


だいすきだから。


私と一緒に、


飛ぼう。


ごめんなさい。


私が教えていることは、


常に相手の知らないことだから、


こうした会話は架空のものです。


でももしそんなこといわれたら、


こういうだろうと思いながら打っていて、


なんだか泣きそうになりました。

私のオフィシャルなテーマが国語だからといって、


他の科目は余禄ではありません。


私は国語を専門としないと思っている


方も多いのです。


そんなわけで、ゴッドグランマのお話。


私の祖母の家はステキに田舎にあります。


で、春になるとジャガイモを植えます。


まずは。


前年に取れた芋から保管しておいた種芋を、


畑に運ぶのですが、


ここで彼女から難問が出されます。


「種芋を何個切ればいいか、考えてね?

  包丁がでんぷんだらけになるから

 

 一気に切ってほしいけれど、
 
 お芋があまったらもったいないから、計算してね?」


計算の手順


1.一畝に何個植えられるか考える。


 種芋を植える間隔は大人用の長靴の前後に


 ○←30cm→○←30cm→○←30cm→○←30cm→○


 と植えていく。ただし畝の両端には植える。


 この一畝だけは、はじめに試してよい。


2.一畝に植えられる個数と畝数を、畑の土の上で、木の枝を使って、


 筆算でかけて畑一反あたりの種芋の芽の数を出す。


3.種芋を芽の数にあわせて切り分ける。


 芽を真っ二つにもししようものなら、たぶんとてもこわいことになっただろう。


 しなかったけど。切った芋は乾かないように、断面を土の上に置く。


4.一畝ずつ、祖母と種芋を植えていく。

  彼女が一足先に植えるべき場所に肥料をまいていき、その一歩後に続いて、

 

私が種芋を植え、土を掛けながら追いかけていく。


5.計算どおりであったことを確認し、ほめてもらう。


 そして畝の両端に植えないと、一畝あたり2個ずつのロスが出ることを


 講義されながら、刃物や鍬を、川で洗う。


だから、学校で植木算がでてきたとき、


あーあれかー


植えるから植木算なんだなー


と思いながら、授業を受けていた記憶があります。



一度ジャガイモを植えてしまうと、


種芋を家からいくつくらい持っていくかの計算も、


することになります。


一反あたりの畝数から考え、一個あたりの芋の芽の数が


男爵とメイクイーンで微妙に違うことも踏まえつつ、


一個あたりの平均の芽の数を考えて、


若干多めに種芋を持っていけるように、


掛け算して、割り算して、


種芋の数をよみます。


こういうことばかり子供のころはしていたので、


だから成績は算数とか数学のほうが良かったんですね。


だからこそ、国語に走ったのかもしれませんが。



ここまで打ってみて、気がつきました。


うちのグランマは、総合学習の天才なのね。

入試国語。


私の心のテーマであり


オフィシャルなテーマでもある。


入試国語のなにが難しいって、


必ずしも問題を解く世代を向いているわけではない作者の思いを、


自分の読ませたい読みにひきつけながら、


問題を解くお子さん方へと中継しなければならない


先生のご苦労を思いつつも、


その意図を読みきって、


その読みのスタイルに合った子をその学校に送り込む、


もしくはその読みのスタイルに合わせてお子さんをその学校に送り込む、


その精度をあげなければならないという、


要請にこたえることだ。


預かったお子さんはなにが何でも、


そのお子さんが幸せになれると


現時点で考えられる最善の道へと


送り出さなければならない。


いつかは別れていくことを、


いつかは手を離すことを、


常に意識するからこそ、


自分にできる最高の仕事で


送り出すしかないと思っている。


だからいつも研究は続けているが、


とりあえずいえることはある。


学校の体制がぶれているとき、


国語の問題もぶれる。


学校の体制が磐石だと、


国語の問題は安定する。


予告なしで大幅に出題傾向が変わるとき、


それは志望校の中で、



なにか


があったと思っていい。


それだけは、いえる。


その学校に通っている教え子たちが


不穏な話をするとき、


国語の問題は無意味に受験者平均を下げる。


そして、十分に実力のあるお子さんが


解いても解いても過去問の点数が安定しないとき、


それは志望校の先生の


読ませ方が異なっていて、


それぞれの先生に読みのスタイルが任されているか、


形式だけ同じものを作っていても、


中身はそろっていないか、の



どちらか




である。


過去問を解く時には、


そうした面も


気づいてあげてほしい。

クレームはなぜつけるのだろう。


それは


当事者同士が直接対決することを避けて、


当事者が当事者を傷つけたり


傷つけられたりを


避けるために


被害をこうむった人が


その被害を与えた人よりも


より客観的に物事を見られる人に


自分の意見をわかってもらおうとするもので、


それを過去に


恋の告白にたとえたことがあります。


でもお子さんの成績についての


クレームを


お子さん自身に


するというのは、


当事者が当事者を傷つけ、


被害者ではない人が


自業自得である加害者を


直接裁くという意味で、


何重にも辛いのです。


だから、


塾の成績が悪かったら、


塾の先生を、


徹底的に責めればいいのです。


それが正しいクレームのあり方です。


でも心ある塾の先生は、


そのクレームの真意を汲んで、


きちんと対応します。


泣きませんし、逆切れもしません。


だから、お子さんは、


あなたのクレームの相手ではないのだと思います。


そう思っても、むずかしいですか?


大人を、責めませんか。


お子さんじゃなくて。