パリ五輪卓球女子シングルスで銅、団体で銀メダルに輝いた早田ひな選手(24)が、13日の帰国記者会見で「いまやりたいことは」と聞かれると、「アンパンマンミュージアムに…。

 

さらに、「あとは、鹿児島の特攻資料館に行って、生きていること、そして自分が卓球がこうやって当たり前にできていることというのが、当たり前じゃないというのを感じてみたいなと思って、行ってみたいなと思っています」と、特攻に関する資料が展示される知覧特攻平和会館を行きたい場所として挙げた。

 

私は、それを聴いて、若いのによく言ってくれたと感動いたしました。

 

 

16年前の平成20年5月末、石川県神社総代会研修旅行に参加し、宮崎神宮、霧島神宮の正式参拝を主目的に、宮崎県、鹿児島県を旅したのですが、最終日に訪れたのは、知覧特攻平和会館でした。

 

 

知覧(ちらん)町は、平成の大合併により南九州市となりましたが、日本有数の緑茶の生産地として有名で、また城下町としても知られ、武家屋敷が連なるさまは、薩摩の小京都といわれるゆえんです。

 

 

知覧は、江戸期に薩摩藩が自領に配した外城のひとつで、知覧郷の領主佐多氏の御仮屋(居館)とその家臣団の集落があったところです。

 

それぞれの武家屋敷は枯山水庭園をもち、道沿いには石垣と槇の生垣がつづく町並みはとても美しい風景です。

 

 

昭和16年に完成した知覧陸軍飛行場は、大東亜戦争末期の沖縄戦で、本土最南端の特別攻撃隊の出撃地となりました。

 

特攻隊員1035名がここから飛び立ち、若き尊き命を散華(さんげ)されたのです。

 

 

知覧の城下町より、この特攻平和会館へと続く道には、散華された1035柱の御霊と同じ数の石灯篭が、御遺族や関係者からの献納で建立された由、バスガイドさんから聴かされ、早くも涙腺がゆるんだのでした。

 

 

知覧特攻平和会館は、爆装した飛行機もろとも敵艦に体当たりした特攻隊員の遺影、遺品、記録等、貴重な資料が、収集・保存・展示されておりました。

 

遺品のほとんどは、知覧特攻平和会館初代館長・板津忠正氏(元特攻隊員)が集めたものです。

 

なお、館内の展示品は全て撮影禁止となっていたので、これらの画像はすべて、ネットから拝借したものを使わせていただきました。

 

 

御遺影を拝しながら、父や母、妻や子、家族等に宛てた手紙や遺書をいくつか拝読させていただきましたが、祖国を護るため、郷土のため、家族のために、死を覚悟して出撃した、その崇高なる精神を思う時、涙せずにはいられませんでした。

 

 

遺書のほとんどが、家族愛に満ちた、感謝の心がつづられており、現代の若者では考えられない、しっかりした文章です。

 

 

明治天皇の思し召し(おぼしめし)によって建立された靖国神社に併設する遊就館とともに、この知覧特攻平和会館もぜひ中高生の修学旅行の見学コースに入れて欲しいものです!。

 

 

その多くの遺書の中で、石川県金沢市出身の、牧野少尉の『人生二十年』と題する遺書を見つけたので、メモに残しておいたものを最後に紹介させていただきます。

 

人生二十年

神風特別攻撃隊 第六神剣隊 牧野

 

出撃の前日

御父上様 御母上様、人生わずか五十年とは昔の人の言う言葉。今の世の我等二十年にしてすでに一生と言ひ、それ以上をオツリと言ふ。

 

まして有三年も永生きせしはゼイタクの限りなり。いささかも惜しまず笑って南冥の果てに散る。また楽しからずや。

 

金沢備中町、材木町小学校の頃、一月おきぐらいに病気をして弱かった頃、また千葉の家の前のグミの実など、潮干狩のこと、新潟の永き思ひ出、明大に於ける生活下宿、岐阜のこと、寺の娘、釣りのこと、いろいろと断片的に思ひ出されなつかしく、目を閉ずれば眼前に浮かび上ります。ただ御両親様の御健康を祈るのみ。

 

お父様の例の御病気(何でもこわす短気病)は今後お慎み下されたく、御母上様の御心痛察するあまりあり。

 

一緒に死ぬのは斉藤幸雄一等飛行兵曹とて二十一才の少年?、かわいい男です。何故か私をしたって大部前から一緒に飛んでいますが死ぬのも一緒です。

 

出撃の朝

散歩に行くような、小学校の頃遠足に行くような気持ちなり。

 

〇三〇〇朝めし、すしを食った。あと三時間か四時間で死ぬとは思へぬ、皆元気なり。

 

牧野少尉の遺筆(知覧特攻平和会館蔵)

 

〔石川県二十二歳 明治大学から予備学生〕

 

昭和二十年五月十四日出撃 種子島東方海上で戦死

 

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