「あなたはあなたであるがゆえに愛しい」と言われたら、どんな気持ちがしますか。

その通りだと思う、とてもそうとは思えない、そう思いたいけど思えない、色々な反応があるのではないでしょうか。

 

 私たちは、確かに一人ひとりが愛しい存在であるのですが、生きていく上で色んなものに傷つけられるうちに、自分自身を愛しい存在であると思えなくなってしまうのです。

 

基本的には母親から与えられる無条件の存在の肯定によって、自分を愛しいと思う気持ちや自分を大切に思う気持ちが持てるようになるのですが、母親からその保護や安心感をもらえることができない人もたくさんいます。

 

愛をもらうどころか、親から傷つけられ、心に深い傷を負って、いまなお複雑な気持ちに悩まされている人もいるでしょう。学校教育によって傷つけられ、自己肯定感を持てなくなった人、会社の上司に傷つけられ、自分を大切に思えなくなってしまった人、社会によって傷つけられ、つまはじきにされ、生きる気力を失ってしまった人など、誰もがたくさんのものに傷つけられながら生きているような気がします。

 

 皆さんは、傷ついた時に慰めてくれる、自分の存在を肯定してくれる母親なる存在を持っていますか。親との関係が良好で、どんな時も存在を肯定してもらえる人は幸せです。苦しい時に抱きしめてくれるパートナーがいる人は幸せです。

 

打ちひしがれた時に、自分を包んでくれる自分が好きなものを持っている人は幸せです。それは、小さい頃から持っているぬいぐるみかもしれません。思い出がつまった海かもしれません。誰もいない山の中の静けさかもしれません。森の中にある大きな木の包容力かもしれません。親から愛をもらえなかった人は、それらを母なる存在にしてもいいのです。自分の存在を受け入れてもらえている感覚があれば、その人は幸せです。

 

 自分は親からも愛されず、パートナーもいない、好きなものもないという人はどうすればいいでしょうか。どうか自分で自分を抱きしめてあげてください。「あなたはあなたであるがゆえに愛しい」と口に出しながら、自分の身体に触れてみてください。自分を大切な存在として扱ってみてください。傷つけられてきた自分をなぐさめるように、優しく肩や胸を、できれば全身をさすってみてください。

 

 幼い頃の傷が癒えない人は、傷ついた幼き頃の自分を抱きしめてあげるイメージで、「あなたはあなたであるがゆえに愛しい」と語りかけながら、肌をさすってみてください。

 

そうすることで、私たちは自分が自分の母親なる存在になれるのです。親からもらえなかった愛を自分で自分に与えることができるのです。自分で自分を抱きしめてあげることで、少しずつ自分の存在の愛しさに気づいていけるはずです。

 

誰にも何にもおかされるのことない居場所をつくっていけるのです。自分で自分を大切にできることを知った人は幸せです。それは自分自身への無条件の愛だからです。ここまでお読みいただきありがとうございました。

 

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あなたはあなたであるがゆえに愛しい

 

 人間の成熟とは、自分と他者は同じ命であるという平等感を持てるようになることではないかと思った出来事がありました。

 

 通勤の際に電車の乗り換えで利用している駅があるのですが、その駅の手前の踏切で人身事故があったのです。その電車がそのままいつも利用している駅に走ってきて止まりました。

 

人が電車に飛び込んだようで、駅に救急隊員が駆けつけ、現場は慌ただしい様子で、運転再開見込みがたたないような状況でした。電車が駅に走ってきた時に、歪な音を立てており、駅員が電車の底部を調べていたので、おそらく飛び込んだ人の体が電車の底部に巻き込まれていたのだと思います。

 

 私はその現場に居合わせた時に「飛び込んだ人はどれほど生きることが苦しかったのか」「相談できる人がいなくて、どうしようもないから飛び込んだのか」「苦しみを誰にもわかってもらえず辛かっただろうな」と思いました。

 

自分も電車に飛び込もうとしたことがあるので、少しはその人がどういう精神状態だったかがわかるのです。電車に飛び込むということは、極限まで追い詰められていたのだと思います。飛び込んだ人は言葉では表せられないくらいに、本当に苦しんでいたのでしょう。

 

 駅で電車を待っていた人や人身事故があった電車に乗っていた人の顔を見ていると、みんな迷惑そうな顔をしていて、電車が遅延していることにイライラしている様子でした。もちろん、人それぞれに予定があり、イライラしてしまうことは当然の反応なので、その人たちを責めることはできません。

 

しかし、迷惑そうに駅を去っていく人たちを見て、私は凄く嫌なものを感じたのです。一人の人間が苦しみに苦しんで、自らの命を絶とうと電車に飛び込んでしまったというやりきれない悲しさや寂しさに、思いを寄せるのがまず初めなのではないか、それが人間としてあるべき姿ではないかと思ったのです。

 

 電車に飛び込むなんてことは、普通はできないのです。怖くてできるはずがないのです。それだけ追い込まれていたということです。その苦しみを理解しようとするのが人間なのではないでしょうか。

 

電車に飛び込んだ人が背負っていた苦しみは、私たちも経験することがこの先あるかもしれません。同じ人間なのだから。同じ命なのだから。その人が苦しみを感じていたように、私たちも苦しみを感じるのです。私たちが苦しみを感じるように他者も苦しみを感じるのです。この自分と他者を平等に見る視点が私たちには必要なのです。その視点を持てた時に、初めて私たちは人に優しくできるのです。

 

 一人の人間が生きることに苦しみ命を絶った重大性よりも自分の予定が遅れることへの心配を優先し、イライラしてしまう人たちを見て、何か言葉にできない危うさを感じたのです。人間としてこれではいけないと思ったのです。生きることに苦しんでいる人がいたら、その苦しみを自分のことのように考えられる人間が、本当の意味で成熟しているといえるのではないでしょうか。ここまで、お読みいただきありがとうございました。

 

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命の平等性

 

 

 

「直感は信じるに値する」

そんなことを確信した出来事がありました。

 

 先日、自宅の最寄り駅から自宅まで続く坂道を歩いていたところ、右手に杖、左手に手提げバッグを持ち、息を切らしながら苦しそうに坂を登る、腰の曲がったおばあちゃんを見かけました。その坂道は、かなり急な勾配のため、おじいちゃん、おばあちゃんが苦労しながら、坂を登る光景をよく目にします。

 

 そのおばあちゃんの横を通り過ぎようとした時に、「おばあちゃんの荷物を持ってあげよう」という考えが一瞬の風が吹くように頭の中に浮かび上がったのです。ピーンときたのです。その時、この頭の中にピーンときた考えは、良いものだと私は思ったのです。もちろん、困った人がいれば、そんなことを考えずに手を差し伸べるのが当たり前だと思うのですが、その日はピーンときたことに意味がある、そして何か大切なメッセージが含まれているような気がしたのです。

 

そこで、すぐにおばあちゃんに声をかければいいのですが、私はすぐに実行に移せずに、歩いてきた道を戻ったり、その場に止まったりして、躊躇してしまいました笑。

 

しかし、このピーンときた直感は、良いものだとどこかでわかっていたので、おばあちゃんに「もし、よろしければ荷物を持たせていただけませんか。」と話しかけました。そうすると、おばあちゃんは、少しはにかんで「お願いしてもいいですか」と言ってくださったのです。

 

このおばあちゃんのはにかみというか笑顔を見た時に、なぜかはわかりませんが、心の底から「直感からくるアイデアはあれこれ思考で考えるものより純粋であり、幸せと平和を生み出す力がある」と私は思ったのです。その笑顔をみた時に、心から直感にしたがって良かったと感じたのです。

 

 直感は確かに良いものなのですが、直感からきたアイデアを行動に移す時に、一つだけ気をつけなければいけないことがあります。それは、そのアイデアが世の中を平和にするのか、そして人を幸せにするものなのかということです。

 

これを人間の知性を使って判断しなければいけないのです。もし、その直感から来たアイデアが世の中を平和にして、人を幸せにするものならば、その直感は行動に移すべきです。もし、そのアイデアが世の中や人を傷つけたり、自分だけが得をすることを目的としたものならば、それは悪魔のささやきです。この点だけは気をつけなければいけないと思います。

 

 これは私の勝手な考えであり、今回の体験から感じたことなのですが、直感というのは何か私たちよりも大きな存在というか大きな力から来ているような気がするのです。その大きな存在や力は、この世が良い方向へ発展、成長することを目的としている。だからこそ、そこからやってくる直感もこの世とそこで暮らす生命が発展することを願い、祈りながら、使われることが自然の道なのではないかと感じています。

 

 大きな存在や力は、ある人にとっては神であり、仏であり、ハイヤーセルフと呼ばれるものかもしれません。ある人にとっては、自然の力、命のプログラム、ただの直感、ただの偶然かもしれません。捉え方はなんでも良いのですが、私の場合は何か大きな力が働いているような気がしたのです。おおげさに考えすぎているだけかもしれませんが笑

 

 大事なのは、実体験があったということなのです。直感の9割は正しいと本に書いてあるとか、論文ではこんなデータがあるとかではなく、自分の体験を通して、直感は正しいと心の底から理解できたかどうかが何よりも大事なことです。そして、自分の中に訪れるピーンという感覚を見逃さないように、日頃から自分の内側と対話する姿勢が必要であると思ったのです。

 

 そんな目に見えない直感など信じないという人もいるかもしれませんが、直感には人をその人らしい人生に導いてくれる力があるのではないかと私は考えています。そして、直感を活用していくことで自分も周りの人も幸せになれる人生をつくっていけるのではないかと思わせてくれるほど、今回の体験は深い実感があったのです。皆さんも、直感に意識を向けてみてはいかがでしょうか。何を書いているのかわからなくなってしまいましたが、ここまでお読みいただきありがとうございました。

 

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直感を信じてみる

 

 

「豊かな心」「豊かな生活」「豊かな感性」

私たちに与えられている豊かさとは、一体何なのでしょうか。

 

 豊かさというと、現代社会に生きる私たちは、お金をたくさん持っていることを思い浮かべます。確かに、お金をたくさん持っていることは、豊かさの一つです。たくさんあるに越したことはありません。お金があることで、様々な選択肢を得ることができるのは事実です。

 

しかし、本当の豊かさとはお金のことではないのです。私たちは、お金に絶対的な価値があるように勘違いをしていますが、お金は実体がないものです。ただの紙切れにみんなが価値があると思っているから、今の貨幣システムが成り立っているわけであり、お金はただものやサービスを交換する際の手段でしかないわけです。一夜にして、その価値がなくなってしまうこともある、幻想と偽りの産物なのです。それを果てしなく追い求め、幸せになれると思っているのが私たちなのです。

 

 本当の豊かさとは自然の恵みのことです。豊満な果実を実らせる木々、生きとしいけるものに生命力を与える太陽、道端に咲く一輪の花、雨水を受けとめ、優しく抱き、その流れを見守る山々と清流、実り多き稲、自然の恵みは与える一方で、その見返りを求めません。そして自然の恵みは、人間が考える1+1のような世界ではなく、どこまでも成長して、増えていく世界です。

 

これが本当の豊かさであり、この豊かさは生まれた時から私たちに与えられているのです。豊かさが与えられているからこそ、私たちは今日まで生きて来れたのです。この自然の恵みを豊かだと感じ、味わい、楽しもうとする感性が大切であり、それによって豊かな生活を送ることができるのです。

 

 この自然の恵みを豊かだと感じる感性を土台として、この世にある他の豊かさを人間が持つ五感を通して味わい、楽しんでいくのが現代人には必要なのではないでしょうか。耳に心地よい音楽を聴く、肌触りのよい服を着る、おいしいお茶やお菓子を楽しむ、綺麗な景色を見る、これらは私たち人間に与えられた豊かさです。

 

ただそれらを楽しむのも良いのですが、本当の意味でそうした豊かさを享受するには、私たちには生まれた時からこの世の豊かさが与えられているのだという意識を持つことが必要なのです。はじめに豊かさを喜ぶ感性、与えられている豊かさに気づく意識があり、その次に具体的な行為があるのです。

 

 そのことに気づけた人は幸せです。その人は沈む夕日を眺めて、生まれた意味や生きる意味を悟ることができるでしょう。その人は風に揺れる若葉を見て、命の純粋性と美しさに気づくことができるでしょう。お金を求めるにしても、はじめに自然の恵みに感謝する豊かな心を持つことが必要なのです。そうでないと自然な営みではなくなってしまうのです。自然でないことは、そこに命がないので続かないのです。大金を一時的に持てたとしても、すぐに出ていってしまうのです。

 

 私たちには、生まれた時から豊かさが与えられていると気づけたならば、生きていくことの不安は少なくなっていくでしょう。なぜなら、その豊かさの中で今まで生かされてきたからです。これからもその中で生かされていくからです。

 

この意識を持てた時に、より多くの豊かさが寄ってくるのです。それは、お金、人との出会い、新たな学びとの出会い、芸術、音楽、新しい趣味との出会いなど色々とあると思います。

 

なぜ豊かさが寄ってくるかというと、はじめに意識があるからです。人間は意識の存在なので、具体的な出来事や事象の前には、必ず意識があります。だからこそ、はじめに豊かな意識を持つことが必要なのです。自然に触れ、この世の豊かさを感じることから、自分の人生を改めて考えてみませんか。ここまで、お読みいただきありがとうございました。

 

 

 

 

 コミュニケーションにおいて最も大事なことは、「ただ伝えたい、ただ教わりたい」という純粋な思いなのではないでしょうか。

 

他者とのコミュニケーションの中に純粋な思いがないのなら、それは単なる言葉という記号と音のやりとりでしかなく、そこに喜びはなくなってしまいます。だからこそ、何を伝えたいのかという思いが大事なのです。

 

 子供の頃の私たちは、純粋なコミュニケーションを誰に教わるわけでもなくできていました。自分の知っていることを周りの人にただ伝えたい、友達の知っていることを教えて欲しいからただただ聞く。これがコミュニケーションの原型なのです。

 

子供なので、伝える表現や教えてほしいと頼む方法は上手ではないかもしれません。しかし、それでいいのです。それがいいのです。コミュニケーションの初めの段階というのは、相手にどう伝えるかとか相手がどう受け取るかということは、必要ないのです。それらは、次の段階で学ぶことであって、初めの段階で自分の感情や相手の感情を間に入れてしまうと、一体何を伝えたいのかがわからなくなってしまうのです。

 

この一体何を伝えたいのかがわからないというのが、相手との距離の取り方や話すことがわからないというコミュニケーションにおける悩みの本質なのです。そして、何を伝えたいかということがないまま、相手の受け取り方や自分がどう伝えれば相手によく伝わるかということを考えてしまうので、相手とのコミュニケーションを難しくしてしまうのです。

 

そうしたことも大切なのですが、二の次なのです。相手の受け取り方は相手の問題なので、こちらが立ち入ることはできません。相手にどう伝えるかに関しては、色々な手法や技術が世の中に出回っていますが、それらが正しいと私は思えないのです。なぜなら、私たちが相手とコミュニケーションをする際に喜びを感じるのは、純な思いをやりとりできた時だからです。

 

決して、相手の話す技術に魅力を感じるわけではないのです。相手の伝えたいという思いを感じた時に、その思いが私たちの心の琴線に触れ、相手の言っていることがよくわかるという理解をもたらしてくれるからです。

 

子供が私たちに何かを伝えようとする時、言葉の使い方や伝え方は稚拙だったとしても、その話はよくわかるのです。何を伝えたいかがはっきりしているからです。ただ伝えたいという思いのまま話しているからです。

 

例え、ある人が話すのが上手ではなかったとしても、その人が伝えることに関して、「ただ伝えたい」という純粋な思いを持っていたなら、人にはそれがわかるのです。人にはその思いが伝わるのです。純な思いが人の心と心を結ぶ、これが本当のコミュニケーションなのです。

 

 大事なのは、子供のように相手に対してまっすぐにぶつかっていくことです。純粋な思いを持って「私はこう思っているんだよ」「その話面白いね。もっと聞かせて」と歩み寄ることです。そうすると、大人になるにつれて忘れてしまった、コミュニケーションの喜びを感じられると思います。そして、コミュニケーションについて思い悩むことは少なくなっていくのではないでしょうか。ここまで、読んでいただきありがとうございました。

 

神奈川県 丹沢大滝

 

 

 

 

自己肯定とは、自分を暖かい目で見つめ、育てていくことではないでしょうか。

 

 自己肯定というと、何かポジティブであることは良いとかネガティブであることはだめといった感情についての話になりがちです。また、ありのままの自分を認めるといった抽象的な表現が使われてしまい、その本質に辿り着けずにモヤモヤとして気持ちになります。

 

もちろん、人それぞれ自己肯定をどう捉えるかというのは違うのですが、私の場合は、自己肯定とは、自身が思い描く「将来こういう自分でありたいという」発展的なイメージを具象化するために、長い時間をかけて自分をおおらかに大切に育てていく意識であると考えています。

 

 現在は、至らない、未熟な点(それは悪い意味でなく、成長する余地があるということ)がたくさんあったとしても、そうした自分を卑下せず、何があっても大丈夫という安心感を持った人間に成長していこうとする気持ちが自己肯定だと思います。

 

 今の時代は、物事を長い目でゆっくり育ててゆくことよりも、すぐに役立つ、すぐに結果を出す、わかりやすい、実用的である、ということが重視されてしまいます。何事も早く、効率的に、量をこなすことが価値あると判断されることが多いのですが、こうした考えは、私たち自身にも影響を与えます。

 

そうした社会では、自身に長い時間をかけて育てていくことに意識を向けずらいのです。そうしたことよりも速いスピードで変わりゆく社会や環境に素早く適応できることが求められるため、生き方としては苦しいものになります。自分が望んではいないものを要求され、望んではいない自分になることを求められるからです。

 

 社会の一員として生きている状況では、そうしたことは避けられないのかもしれませんが、自分を育てていくという視点がない、ただ社会の求めることを飲み込んでいく生き方というのは、砂上の楼閣のようなもので、人間を本質的な幸せに導かないと思うのです。若い頃からこうした価値観を持っていると、根無草のような、頼りなく人として重みのない人間が形成されてしまうような気がします。大地にしっかりとした根を張っていないと大きな成長と発展は望めないからです。

 

 人間は歳を重ねるごとに、自分という存在をどう育ててきたのかが問われるような気がします。目先の消費活動や流行に翻弄されて人生を終えてしまうのではなく、自分はどういう人間になりたいのかということをイメージしてその自分に向かって自分を育てていく。それはどんな分野でもいいのです。こういう人格を持った人になりたい。こういう趣味や遊びを楽しむ人間になりたい。こういう家や環境で暮らす人になりたいなど。人それぞれ、未来においてこうありたいと願う気持ちがあると思います。その気持ちを大事にするのです。

 

母親が子を見守り、保護して、育てていくように。自分や物事を育てていくという意識が何よりも大事なのです。この意識を持つことができれば、私たちは自分に優しくできるのです。人を寛大な目で見つめ、朗らかにおおらかに接することができるのです。自分も他者も成長の過程にあるのだと思えるからです。

 

何よりもその意識を持ち続ければ、未来において、必ず自分の人生に発展、成長、成功をもたらしてくれます。育てる意識を持つことは、そこに命があるということです。私たちには、自分の命を育てていくという意識が必要なのかもしれません。ここまで、読んでいただきありがとうございました。


神奈川県 丹沢

 

 

 皆さんは還る場所を持っていますか。好きなこと。好きな場所。還る場所とは、自分が原点に戻ることを助けてくれる。失っていた自分らしさを再び認識させてくれる場です。元気を失った時、好きなことをしていると元気が湧いてくる。日々の忙しさから自分というものがわからなくなった時、好きな場所にいくと自分らしい感性を取り戻せる。そうした自分の原点とも言えるものが私たちには必要なのではないでしょうか。

 

 還ることのできる原点を持っている人は強いです。それは、お金をたくさん持っていることや権力や肩書きがあることよりも価値があることなのです。なぜかというと、原点を持つというのは、自分という個性が決して失われないことを意味するからです。どれだけお金を稼いだとしても、どれだけ権力を持ったとしても、自分が自分であることの喜びを忘れてしまうのなら、それらに一体どんな価値があるというのでしょうか。自分らしい感性を忘れて、世間が称賛する価値を追い求めることに一体何の価値があるというのでしょうか。

 

 私たちの生きている社会は嘘によって塗り固められています。本当は価値がないものを、さも価値があるかのように見せて、それを得ることができれば幸せになれると騙してきます。しかし、これが大きな嘘で、社会や世間が称賛するものを追いかけると幸せにはなれないのです。逆に自分の気持ちを押し込めて、他人からの評価を気にするだけのつまらない人生になってしまうのです。このような状況の中にいるからこそ、自分の幸せを見失わないためにも、自分の還る場所、原点を持つことは大切なのです。

 

 私の還る場所は、山の中を流れる水の綺麗な川です。私は、自分でも笑ってしまうほど何もない人間なのですが、そんな私でも山の中の川を見ていると、生きていて良かったと思えるのです。人間としての情感が希薄な私でも、川の近くに身を置くと、何かを好きと思う気持ちや何かを美しいと思う感性をとり戻すことができるのです。お金、肩書き、経歴、パートナーの有無、どんな職業についているかなどの、この世的な価値観を全て度外視して、最後に残る「自分はこれをしている時に自分らしくいられるんだ」というものが、自分の原点です。これが人生で一番大切なものではないでしょうか。この原点を失わない限り、人はどんな状況にあろうと人生を創造していけるからです。皆さんはどんな原点を持っていますか。

 

7月29日から8月1日まで宮崎県に行ってきました。地方移住を考えており、宮崎県にある空き家の見学をするためです。空いている時間で川遊びをしました。子供のときのような、夢中で何かに取り組む、何かに熱中する原点を忘れたくないなと思いました。ここまでお読みいただきありがとうございました。

 

尾迫川

 

拝水の滝

 

恋人の丘

 

恋人の丘2

 

恋人の丘3

恋人の丘4

 

人間は誰しも自分の中に太陽を持っていると私は思います。

 

太陽とは何か。それは私たちの命を生かす力、生きようとする力、失意の底にあっても希望を失わない力、自分が自分であることに誇りを持つ力、自分の存在を喜ぶ力など。私たちが生きていく上で最も影響を受けている力であり、太陽の力は全てを善なる方向へ導いてくれます。

 

 私たちは生きている間に数々の困難に遭遇します。時にはもう立ち直れないと思い、絶望の淵に打ちひしがれることもたくさんあると思います。しかし、そんな時にも太陽は失われないのです。太陽は私たちがこの世に誕生した時から与えられ、内在しているものなので、なくなることはありません。驚嘆すべき点は、全ての人間に太陽が与えられていることです。誰もが持っているのです。それは何を意味するかというと、生きる希望は失われないということです。

 

 どんな状況にあっても、どんな辛いことがあっても、太陽の存在である私たちは良い方向へ向かっているのです。もちろん辛い状況にいる時は、そんな楽観的には考えられないのですが、振り返ってみると、そこから学んだことや気づいたことがあったはずです。それは、自分の考えの幅が広がった、物事を見つめる新しい視座を獲得したということなので、やはり良い方向へ成長しているのです。

 

 人間は太陽の力、つまり生きようとし、どこまでも自分という存在を生かそうとする力を持っているのですが、この力は意識的に使っていくことで、その力が増していきます。初めはとてもそうは思えないのですが、もしそうした力が自分にもあると思えたなら、信じられたなら、その人は幸せな人だと思います。その純粋な思いは、何があっても大丈夫というこの世への信頼と自分が自分であっていいという安心感をもたらしてくれるからです。

 

 純な思いを持ち、生きる安心感を持った人は、「自分には生きる力があるんだ」との自己肯定を土台として、自分が望む生き方を実現するための挑戦を続けていき、自分らしさを獲得して太陽の存在となっていきます。これが、太陽の力を意識して使っていくということです。

 

 私自身は、太陽の存在となることはできていないのですが、人間にはどんなことがあっても生きようとする力があると信じています。そうするとこんな弱い自分でも生きていていいんだと力が湧いてくる、そんな気がします。皆さんは、自分自身の太陽を輝かせていますか。ここまで読んでいただきありがとうございました。

 

神奈川県三浦市 小網代の森と小網代湾

 

みなさんは、自然の中に身を置くと優しい気持ちになりませんか。

 

これは、多くの人間が自然から離れた環境で暮らしているから、その反動で自然の素晴らしさをより感じるということもあるかもしれません。しかし、そこにはもっと本質的な意味があると思います。

 

 自然を感じるというのは、自然とつながっているということ。自然とつながりを感じられるのは、人間存在は自然と同じ「命」を持つものであり、自然とともに生きることを許されている存在だからではないでしょうか。

 

そして、人間は自然から離れては生きられない。自然な生き方をしていないと、間違いが起こるということを教えてくれていると思います。

 

 私たちが生きているこの現代社会は、人間に非自然的な無理を強いてきます。例えば、朝起きることにしても、人間は季節、気候、気圧の変化で睡眠時間や起きた時の状態が変わってきます。雨が降っている日は、起きた時に身体が重くて、もう少し寝ていたいと思ったことがある人もいると思います。

 

このもう少し寝ていたいというのは、身体と心の自然な反応であり、大切にしなければいけないのですが、社会の中で生きていると、何時に出社しなければいけないとか、何時に予定があるからだるくても起きなければいけないというように、自分の心と身体よりも時間に縛られた生活のほうが優先されてしまいます。

 

そんなことは当たり前と思う人もいるかもしれませんが、ここまで人間が時間に縛られて生きることになった時代は長くはないと思います。もっと時間に余裕があった時代もあったのではないでしょうか。労働時間に関しても、1日4時間くらい働けば、暮らしが成り立っていた時代もあったはずです。

 

知らずしらずのうちに、人間の心と身体の声よりも社会の規範や常識が優先されることを当たり前と思ってしまうのは、とても怖いことです。それは、誰にとっても優しくない社会となるからです。

 

 そうした環境の中で生きていかなければいけない私たちは、自分の心と体に無理をかけているという認識を持つこと、そして心と身体に「不自然な無理をかけてごめんね」と語りかけ、労わる気持ちを持つことが大切だと思います。

 

そうすると、徐々に心と身体の声を聞き取ろうとする意識が芽生え、頭(理性)を中心として自分に負担ばかりかけていた非自然的な生活から心と身体、そして自分を大切にする自然な生活へと変えていけると思います。

 

今生きている環境をすぐに変えることはできないけれど、そして、人間にあらゆる無理を強いてくる社会であるけれども、そうした環境に生きているからこそ、自分の心と身体を労わることが私たちに求められているのではないでしょうか。

 

 自分を労る意識を持つのが一番大事ですが、やはり定期的に自然の中に身を置くということが自然な自分に還る方法や自然な自分のあり方を教えてくれる気がします。自然であるか自然でないかというのは、この世のあらゆる事象に貫徹する真理だと思います。

 

自然であることは発展していき、自然でないことは一つ残らず崩れ去っていきます。私たちの生き方にもそれが言えると思います。何かに迷った時は、それが自然であるかを考えれば、判断を誤ることはないでしょう。

 

今、時代は権力や権威を持った人間が大衆を奴隷支配する非自然的なあり方から、人間が人間らしさを取り戻し、自由や個性を獲得して、同じ価値観を持った仲間とつながり、生きていくという自然なあり方を求めている気がします。


富を持った資本家が大衆を奴隷のように働かせていた時代は間違っていたということです。いたるところで崩壊の兆しが見えます。人間の心が耐えられなくなっているように感じます。今一度、私たちは自然から命のあり方、活かし方、自然な生き方を学ぶ必要があると思っています。ここまで、読んでいただきありがとうございました。

 

神奈川県三浦市 小網代の森

 

私はある時期に「普通になりたい」と思っていたことがあります。

 

 それは、自分の感覚が周りの人と違う苦しみから来ていたのかもしれません。また、新卒で就職した会社を1年で辞めてしまった情けなさからそう考えていた気もします。今振り返ってみると、この「普通になりたい」という考えはとても寂しいものだと思います。

 

 人間は一人ひとりが違う存在であることに価値があります。その唯一無二の存在である自分を「普通」という枠の中に押し込めてしまうのは、本当に悲しいことです。今ある社会システムに馴染めないから、周りの人と同じようになりたいと考えている人がいるかもしれません。その考えはよく理解できます。私もそう考えていたからです。

 

 私たちは、小さい頃からひたすら社会にうまく適応できるように教えられ、そうした生き方しか教えてもらっていないので、それができないとなると、自分にダメ人間のレッテルを貼ってしまいます。「普通の人間になりたい」と願い、「普通の人間でない自分はダメだ」と深く悩み、自分を傷つけてしまうのです。そして、幸せから遠ざかってしまうのです。なぜなら、幸せとは普通とは離れたところにあるからです。普通でないことに幸せはあるからです。それは、自分にしかできない生き方をするということです。

 

 普通であろうとすることに苦しむ人に必要なのは、普通とは一体なんなのか、普通という言葉は一体何を意味しているのかをもう一度考えてみることです。なぜそれが必要かというと、「普通」という言葉にまとわりついている価値観やイメージが私たちの思考に影響を与えてしまい、その言葉によって自由な考えを持てなくなるからです。

 

 例えば、周りと自分の考え方や物事の捉え方の違いに悩んでいる人が、「普通になりたい」と考えた時、その人が使っている「普通」という言葉には、「普通であることはいいことだ」「普通でないといけない」という価値観が染み付いています。

 

「普通」というただの言葉にこうした価値観をくっつけてしまうと、物事を考える際に、純粋な思考ができずに、その価値観に引っ張られた思考をすることになってしまうのです。この普通になりたいと悩んでいる人の場合は、普通であることはいいという価値観を前提にしているので、おのずとそこから逸脱している自分は普通でないからダメという結論に至ってしまうのです。

 

ですから、私たちは普段自分が使っている言葉にどんな価値観やイメージをくっつけているのかをしっかりと考える必要があるのです。普段何気なく使っている「普通」という言葉にくっついている価値観を捉え直した時に、それが何の根拠もない、知らない誰かが勝手につくりあげた、あいまいで信じるに値しないものだと気づくと思います。そして、普通なものなどこの世に存在しないとわかれば、普通になろうとする苦しみからも解放されるはずです。

 

 このように、言葉に染み付いている価値観やイメージを再考することで、私たちはもっと建設的に物事を考え、自由な発想ができるはずです。そしてその自由な発想は、生きづらさから抜け出す、考え方や価値観を与えてくれるのではないかと思っています。普通であることは寂しいです。なぜなら、普通になることは人間本来の生き方ではないからです。ここまで読んでいただきありがとうございました。