私はある時期に「普通になりたい」と思っていたことがあります。

 

 それは、自分の感覚が周りの人と違う苦しみから来ていたのかもしれません。また、新卒で就職した会社を1年で辞めてしまった情けなさからそう考えていた気もします。今振り返ってみると、この「普通になりたい」という考えはとても寂しいものだと思います。

 

 人間は一人ひとりが違う存在であることに価値があります。その唯一無二の存在である自分を「普通」という枠の中に押し込めてしまうのは、本当に悲しいことです。今ある社会システムに馴染めないから、周りの人と同じようになりたいと考えている人がいるかもしれません。その考えはよく理解できます。私もそう考えていたからです。

 

 私たちは、小さい頃からひたすら社会にうまく適応できるように教えられ、そうした生き方しか教えてもらっていないので、それができないとなると、自分にダメ人間のレッテルを貼ってしまいます。「普通の人間になりたい」と願い、「普通の人間でない自分はダメだ」と深く悩み、自分を傷つけてしまうのです。そして、幸せから遠ざかってしまうのです。なぜなら、幸せとは普通とは離れたところにあるからです。普通でないことに幸せはあるからです。それは、自分にしかできない生き方をするということです。

 

 普通であろうとすることに苦しむ人に必要なのは、普通とは一体なんなのか、普通という言葉は一体何を意味しているのかをもう一度考えてみることです。なぜそれが必要かというと、「普通」という言葉にまとわりついている価値観やイメージが私たちの思考に影響を与えてしまい、その言葉によって自由な考えを持てなくなるからです。

 

 例えば、周りと自分の考え方や物事の捉え方の違いに悩んでいる人が、「普通になりたい」と考えた時、その人が使っている「普通」という言葉には、「普通であることはいいことだ」「普通でないといけない」という価値観が染み付いています。

 

「普通」というただの言葉にこうした価値観をくっつけてしまうと、物事を考える際に、純粋な思考ができずに、その価値観に引っ張られた思考をすることになってしまうのです。この普通になりたいと悩んでいる人の場合は、普通であることはいいという価値観を前提にしているので、おのずとそこから逸脱している自分は普通でないからダメという結論に至ってしまうのです。

 

ですから、私たちは普段自分が使っている言葉にどんな価値観やイメージをくっつけているのかをしっかりと考える必要があるのです。普段何気なく使っている「普通」という言葉にくっついている価値観を捉え直した時に、それが何の根拠もない、知らない誰かが勝手につくりあげた、あいまいで信じるに値しないものだと気づくと思います。そして、普通なものなどこの世に存在しないとわかれば、普通になろうとする苦しみからも解放されるはずです。

 

 このように、言葉に染み付いている価値観やイメージを再考することで、私たちはもっと建設的に物事を考え、自由な発想ができるはずです。そしてその自由な発想は、生きづらさから抜け出す、考え方や価値観を与えてくれるのではないかと思っています。普通であることは寂しいです。なぜなら、普通になることは人間本来の生き方ではないからです。ここまで読んでいただきありがとうございました。