調和を大切にする生き方

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 昨年の話になってしまい、大変恐縮ですが、自分なりの気づきがありましたので、ここでシェアさせてください。

 

 昨年の12月22日に、東京で開催されたとあるクリスマスディナーの集いに参加しました。120名ほどの参加者がいて、卓上ディナーをいただきながら、プロの歌手の歌声を楽しむ、そのような集まりでした。

 

 催しも終わりに差し掛かる頃に、抽選でクリスマスプレゼントが当たる企画がありました。15名の方が抽選にあたり、プレゼントを受け取って、一人ずつステージの上で来年の抱負を一言話すという流れでした。

 

 主催者の方が司会進行をしていたのですが、ホテルのホールの貸切時間夜9時に催しが終わるかどうか、焦っていたのが遠目から見てよくわかりました。

 

 そんな中、抽選に当たった一人ひとりが来年の抱負を一言話していく中で、60代の男性がプレゼントを受け取りにステージに上がりました。来年の抱負を一言話せばいいものの、突然歌を歌うと言い出したのです。

 

 来年が皆様にとって良い年になるようにみたいなことを言っていたのですが、誰も歌うことを求めていないのです。プロの歌手が来るような場ですので、その男性の歌を誰も聞きたいわけではないのです。

 

そして、パーティー終了の時間が迫っていて、主催者がしきりに一言でお願いしますと言っているにも関わらず、突然、歌いますとその男性は言い出したのです。

 

私は、その時、それはこの場において適切な態度ではないと思ったのです。少し嫌な気持ちを感じたのです。

 

 後でその出来事を振り返ってみて、何に嫌な気持ちを感じたのかを考えてみました。クリスマスディナーという、その場に集まった人々が楽しむ場の空気や調和が、その男性の自己顕示欲を満たしたいだけの行為によって、壊されたことに私は嫌な気持ちを感じたのだと思うのです。

 

 みんなが楽しむ場で必要なのは、お互いに調和や平和、尊重を求める気持ちや意識です。その場にいる全員が心地よく過ごせるようにお互いを大切にする思いが大切なのです。

 

 そうした意識を持った人々が集まる場所は、自ずと心地よいものになります。調和や平和を求める気持ち、それは美しいものを見つめようする意識です。人間は、美しいものに心地よさを感じるのです。人の心を惹く芸術品や音楽には調和があるはずです。だから人はそれらを美しいと感じるのだと思います。

 

 ステージ上で誰にも求められていないのに、勝手に歌い出した男性には、美しいものを見つめようとする意識がなかったと思うのです。みんなが楽しくその時間を過ごせるように、パーティーを運営してくださっている方々に迷惑がかからないようにという、場の調和を大切にする気持ちがその男性には足りないと私は思ったのです。

 

 その場を盛り上げたいという真心からの行為だったら良かったのかもしれませんが、そうは見えなかったのです。その男性とお話しさせてもらう機会がありましたが、どうも自分は知識がある、人よりも物事を知っているという態度があからさまに出ている方でした。

 

誰にも求められていないのに、誰も知らないイタリア語の歌を歌い、どうだ俺はすごいだろというような態度をとっていたのですが、みんな冷めた目でその男性を見ていたのです。

 

 人間関係というのは、「あなたとわたし」というお互いを尊重する意識があってこそ、その関係が喜び多きものになるのだと思います。「あなたとわたし」という関係の中で調和を大切にしようとする気持ちが必要なのです。

 

 私が場の空気を敏感に気にしてしまう人間であるために、パーティーの主催者が何を考えているのか気になり、その焦りを過度に感じ取ってしまうというのもあるのかもしれません。しかし、その男性の行為を見て、これではいけないと思ったのです。自分が60代になった時に、同じ振る舞いをしてはいけないと感じたのです。

 

 美しいものを感じ取り、見つめようとし、自らも美しいものを自分なりの表現方法でつくろうとする意識があれば、豊かな人生を送ることができると思うのです。自然と喜びが多い人生になるはずです。

 

天秤の秤が同じ重さでバランスよくつりあうように、人とのコミュニケーションで調和を心がける、場の調和を意識して振る舞ってみる、そうした意識を持つことも、自分自身が幸せに生きていくために必要なのではないかと思っています。ここまでお読みいただきありがとうございました。

 

 

 「人の悪口を言うことは、自分を傷つけている」

人の悪口を言う人が、皆さんの周りにいるかもしれません。人の悪口を言うことが生きがいのような人もいます。私たち自身も人の悪口を言いたくなってしまうこともあるかもしれません。

 

 人の悪口を言うことは、その場はいい気持ちになるかもしれませんが、実は自分の心と向き合うことから目を背け、人生をないがしろにしてしているのです。

 

 人の悪口を言うと、不思議と同じく人の悪口を言う人が自分の周りに集まってきます。類は類を呼ぶ。類は友を呼ぶという言葉の通りです。

 

もしくは、自分は人の悪口を言わなくても、悪口を言う人のそばにいると、その人の性質を受け取り、自分も悪口を言う人になってしまいます。朱に交われば赤くなる。人間は交際している人の性質を受け取るのです。

 

泥棒の友人がいたとして、その友人と交際をしていると、知らないうちに泥棒の性質を受け取り、自分も泥棒になってしまうのです。

 

 同じ悪口を言う人間が集まり、悪口を言って楽しむ。恐いことは何かと言うと、その悪口を言うグループでしか通用しない態度が、その他の人間関係においても通用すると勘違いしてしまうことです。

 

 人の悪口を言う人は、悪口を言うことで、人との会話が盛り上がると勘違いしています。その態度のまま、悪口を言わない人と関係を築こうとするのですが、悪口を言わない人は嫌なものを感じるのです。

 

 人生を真剣に生きている人は、人の悪口を聞くことを嫌います。そうすると、自然と人間関係をつくることは難しくなり、人から嫌われる人になってしまうのです。しかし、悪口を言う人はなぜ人から嫌われるのか、人間関係がうまくいかないのかがわからない。これが、人の悪口を言う恐さなのです。

 

 人の悪口を言うのは、自分の人生が不満であり、劣等感があり、虚勢を張っているからです。そうした心の中の本当の気持ちを認めたくない抑圧と向き合うことが苦しいため、目を背け、外に吐き出すしかないのです。

 

しかし、人の悪口を言えばいうほど、自分の心の抑圧と向き合うことから離れてしまうのです。人間は心の中にある自分の本心とそれを押さえつけようとする抑圧の戦いがある限り、清々しく生きることはできません。

 

 悪口を言う人は、自分の人生が不満なのです。自分は劣等であると心の奥底では感じているのです。でもそれを認めたくないから、自分のやりたいと思っていることをやっている他者を批判するのです。

 

しかしそうすることで、実は自分を見失っているのです。自分の本当の思いを見つめようとすることから離れてしまうのです。自分の人生を、命をないがしろにしてしまっているのです。これがなによりも恐いことなのです。悪口を言うことの最大のデメリットなのです。

 

そこで、自分の心の中にある、不満や抑圧、劣等感はなんなのか。なぜ人の悪口を言いたくなるのかを考えれば自分の人生を開くことができるのです。

 

 私たちが生きている間にしなければいけないことは、自分の心の抑圧を解消することです。自分の本当の思いを見つけることです。しかし、悪口を言うことで、私たちはその課題から遠のいてしまうのです。

 

 私たちは、悪口を言うことで、実は自分を傷つけているのです。知らずしらずのうちに自分を見失っているのです。悪口を言いたくなった時は、自分の心を見つめる良きタイミングです。自分の本心を知る良い機会です。

 

人に不満を感じた時は、自分の心の不満を他者を通じて見ていないかを観察する必要があると思います。悪口を言うことは、自分を痛めつけることであると知れば、悪口を言いたくなくなるのではないかと思います。ここまで、お読みいただきありがとうございました。

今幸せになろう

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 幸せが人間の生きる目的なのかはわかりませんが、誰しも苦しむことよりかは、幸せになることを望んでいます。

 

 幸せというと、目標達成、結婚、彼氏・彼女をつくること、希望していた職につくこと、お金をたくさん稼ぐこと、仕事で成果を出すこと、趣味を充実させることなどを私たちは考えます。確かにそれらは幸せなのかもしれませんが、もっと先に気づかなければいけないことがあるのではないでしょうか。

 

 上記した幸せの例は、今の自分とは違う自分になったとか、今の自分にはないものを得たという視点から幸せを捉えています。しかし、幸せというものは、心で感じるものですから、今幸せを感じられないと、例え、自分が望む状況やものが手に入っても、その心は変わっていないので、幸せを実感することはできないと思うのです。

 

 時間軸を基準に幸せというものを考えてみると、今幸せでないならば、未来の幸せもないことがよくわかります。過去、現在、未来という時の流れは、断絶されたものではなく、一連の流れとしてつながっています。現在の自分は、過去の自分の積み重ねによってつくられている。未来の自分は、現在の自分の行為の集積として生まれるものです。

 

現在の自分に生きる喜びがないのなら、幸せを感じられないのなら、過去に生きる喜びのない生き方を積み重ねてきたということになるのではないでしょうか。現在、幸せを感じられないのなら、未来においても、その自分は変わっていないことになります。

 

そうすると、私たちのすることは、今幸せになることだと思うのです。今自分の望むものを持っていないことや何者かになれない自分に不満をもったり、そうした自分に不足や欠乏を感じるのではなく、今自分にあるものに喜びを感じることが必要だと思います。

 

新約聖書の中にこんな言葉があります。

 

 「というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまで取り上げられてしまうからです。」(『マタイの福音書』第13章12節)

 

 この言葉は、イエスが神の御言葉を、群衆にたとえをつかって話されている時に出てくる言葉です。イエスがどのような意図を持って、この言葉を話されたのかは私にはわかりませんが、神の御言葉を聞く耳を持つ者は、さらに真理を悟るようになり、その耳を持たない者は、この世の幻想と富の魔力によって、神の御言葉を聞く耳すら、つまり今持っているものまで取り上げられてしまうことを言っているのではないかと私は解釈しています。

 

 自分の持っているものを何にどう使うのかを考えられる人は、生きる喜びが増えて、与えられるものが多くなりさらに豊かになる。今自分の持っているものを数える心、そして幸せを感じる心を持たない者は、今自分にある幸せさえも気づかないようになってしまうと、聖書の言葉と照らし合わせて考えることもできるのではないでしょうか。

 

 何かが足りないから幸せではないというのは幻想だと思うのです。自分には何かが足りないという考えを前提に物事を考えると、人生がその不足を得るための終わりなき忍耐と我慢の連続になってしまいます。

 

それで望むものを手に入れられたらいいのですが、幻想を出発としているので、いつまでたっても望むような結果を得られることはないでしょう。

 

 得られたと思っても、さらにもっともっとという欲望に駆られていくでしょう。人間は何かの行為をしたとき、その背後にある動機を行為によって強めます。自分には何かが足りていないという不安から行動を起こせば、さらに、自分には何かが不足している、それがないと幸せにはなれないという不安を強めるのです。

 

 大切なのは、今幸せになることです。今生きる喜びを感じることです。今あるものを大切にすることです。そうすれば、自分なりの生き方、自己表現の仕方、人生の楽しみが少しずつ見えてきます。命があるから、この命をどう使っていくのかを考えられるようになります。

 

 喜びというのは、増えていく性質があります。今喜びを感じられれば、それは自ずと未来において増えていきます。物質的にも精神的にも豊かな生活につながっていくはずです。何かがあるから幸せなのではないのです。何もなくても幸せなのです。今幸せになることで、その幸せもきっと未来において増えていくはずです。ここまで、お読みいただきありがとうございました。

年末に孤独で淋しい人へ

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 年末になると、クリスマス、大晦日の年越しなどの催しがあり、世の中はにぎやかになりますよね。年の暮れを誰と過ごすのかを気にする方もいらっしゃると思います。

 

そうした、世の中のにぎやかさとは別に、どこか孤独で淋しさを抱えている方もいらっしゃるのではないでしょうか。年の暮れを誰かと過ごしたいけれど、心が通い合うパートナー、家族や友人がいない。

 

パートナーや家族がいても、冷めている関係で喜びを分かち合うような状況ではないという方もいるかもしれません。冬の寒さが人肌を恋しくさせるため、余計に孤独を感じてしまうのかもしれません。

 

 孤独と聞くと、私たちはまず初めにそれは淋しいものであると考えがちです。しかし、それは孤独は淋しいという固定観念を持っているから、そう捉えてしまうのです。

 

だから自分の周りに人がいなければそれは淋しいことであり、何か不足や欠乏を表しているかのように感じてしまうのです。孤独は淋しいことではありません。人間は根源的に孤独な存在であり、孤独であるがゆえに、人と結ばれる喜びを感じることができるのです。

 

 人は生まれる時も死ぬ時も一人です。一人淋しく生まれ、一人淋しく死んでいくのです。全ての人間が個として存在しているということです。死ぬ時にたくさんの人に囲まれていたとしても、死ぬことを肩代わりしてもらうことはできません。

 

生きる経験も死ぬ経験もその人だけの世界で起こっていることです。そうした意味でも全ての人間は根源的に孤独な存在なのです。

 

 家族や恋人、友人と年越しをしたり、一緒にクリスマスを祝ったりするのは、感情を共有しているから孤独ではないだろうと思われるかもしれません。確かに人と一緒にいることで温かさを感じることは事実です。

 

しかし、盛り上がって祝い事をしても、その祝い事を体験しているのは、その人だけの感覚によるものです。人と何かを一緒にしていても、何を感じるかはその人だけのものです。

 

 恋人と一緒に映画を見たとしても、その映画を見るという行為は、一人ひとりが個別にしているのです。恋人の感覚を通して、映画を見ることはできないのです。映画を見終わった後に、感想を言い合うことはできますが、一緒にいても同じ行為を同じ感覚を通して行なっていたわけではないのです。

 

 そうした意味でも、人間は孤独なのです。自分の行為は自分だけのものであるという根源的な孤独がそこにあるのです。だから、一人の孤独の時間を充実したものにすることが何よりも大事なことなのです。だれかと一緒にいなければ淋しいわけではなく、楽しめないわけでもないのです。

 

 人は淋しいから誰かと一緒にいたくなる。しかし、それは本当に他者を尊重して、愛している態度なのでしょうか。孤独が淋しくて嫌だから、よりかかれる、もたれかかれる相手を探す。それは依存関係です。

 

 自分の欲求を満たすために他者を道具として使う態度なのです。依存関係は、初めは甘えてくる相手を可愛いと感じたり、見せかけの安心があるので、落ち着いたりしますが、時間が経てば相手を鬱陶しく感じるようになります。

 

人間は自分の足で立つ力しか生まれつき持たされていないからです。肩にもたれかかってきた人を引きずって、遠い道を行くことはできないのです。

 

 孤独であることを忌み嫌い、よりかかれる相手を探す人が、同じく孤独を忌み嫌う人と出会ったら、どうなるのか。なお淋しくなるのです。より淋しくなるのです。そこに愛がないからです。孤独である時間を充実したものにできない人間が、二人くっついても、そこに生まれるのは、依存、支配、性欲、強制、偽善の関係です。

 

 孤独で淋しくて嫌だから隣に誰かいてほしい。確かにその通りなのですが、でも違うのです。人間は孤独だから人と結ばれるのです。孤独は淋しいものではなく、孤独はにぎやかで楽しいものであることを知っている自立した二人の人間が、孤独という引力によって引きつけ合い、結ばれるのです。

 

 人間はみんな孤独であるという背景を理解し、人に依存することなく、孤独を楽しんでいる二人の人間が出会う。「孤独だったからこそ出会えた。こんなに嬉しいことはないね」というのが、人との出会いであり、愛が生まれる瞬間なのです。

 

 孤独であるからこそ、人はお互いを探して、引きつけ合うのです。孤独であるからこそ、人は他者を大切に思えるのです。自分も孤独であるように、他者も孤独であると理解することが人と良い関係を築く、出発点なのです。

 

人に依存する人は、自分が淋しいただそれだけなのです。自分なりの孤独の世界がない。ただ人と一緒にいるだけ、相手に淋しさを埋めてもらおうとするだけなのです。しかし、お互いが自分なりの孤独の世界を持っていないと、相手に魅力を感じ続けることは難しいのです。

 

 人間は生まれながらに孤独であると理解し、孤独の世界は決して淋しいものではないという信頼が大切なのです。一人で太陽の日差しを浴びること、一人で好きな音楽を聴くこと、一人で本を読むこと、一人で人生の喜び、悲しみを感じること。これほど豊かな時間はありません。孤独の精神世界は百花繚乱の美しさがあるのです。孤独はにぎやかなのです。

 

次に出会う人は、今どこにいるのかもわからないけれど、自分と同じく孤独な存在であること、孤独な時間を充実したものにしようとしている人であることの期待を抱き、私たちは生きていくのです。

 

孤独は冷たく、淋しいものではないのです。なぜなら、孤独は必ず愛にたどり着くからです。この広い宇宙で私と同じように孤独を感じている人がいて、その人と孤独を介していつかきっと出会うという期待と予感を持つことで、今まで持っていた孤独の価値観が変わってくるのではないでしょうか。

 

孤独は運命の赤い糸です。それは、まだ会ったことのない愛する人との出会いに私たちを導いてくれるからです。ここまで、お読みいただきありがとうございました。

自分なりの尺度を持とう

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「自分なりの考えをもって、主張をする」というのは、私たちが生きていく上で、とても大切なことです。

 

 自然にそれができる人はいいのですが、自分なりの考えをもつことができない、難しいという方もいらっしゃるはずです。そうした時は、自分なりの尺度をもつといいのではないでしょうか。

 

 自分なりの尺度とは何か。それは自分なりのものの見方です。その尺度をもって、人や社会を見れば、自分なりの考えがもてると思うのです。

 

 自分なりの尺度とは、自分が持っている専門分野の知識、学んだ知恵、信頼できる感覚などです。大事なのは、それらに対して信頼があるかどうかです。自分はこの知識を信頼している、自分はこう感じるという感覚を大事にするのです。

 

 私の場合なのですが、私は人がどういう人なのかを観察するときに、その人の人相と声を尺度として使います。それは、人の人格は人相と声に表れるという尺度を信頼しているからです。人の人相を見て、この人は優しい人、いじわるな人、と感じるその自分の感覚を大事にしているのです。

 

 声も人相と同じくその人の人格を表していると思います。先日、70代の作家の女性の声を聞いていて、人を見下しているような思いがその声に含まれているように感じました。ラジオでその方の声を聞いたのですが、後で写真を拝見してみると、やはりいじわるな顔をしているなと感じました。

 

おじいさん、おばあさんの人相や声を聞いていると、やはり人間の人格は歳を重ねるとともに顔と声に表れるという自分なりの尺度は間違っていないと思います。そんなのは主観的な判断だと思われるかもしれないのですが、主観的なものでいいのです。

 

 自分なりに信頼できる尺度をもって、人や社会を見つめていくと、その尺度が本当に信じられるものなのかがわかってきます。そして、それを続けていくと、その尺度や人や社会を判断する視点は鋭くなっていき、より本質を見抜くものになっていきます。さらにその尺度を信頼できるようになるのです。

 

 自分がもつ尺度は何でもいいのです。ある人は、人を知ろうとする時に、その人の話し方、言葉の使い方や話の構成を見るかもしれません。

 

ある人は、心理学の知識を使って、人や社会を理解しようとするかもしれません。占いの知識を使ってもいいですし、第六感や霊感を使ってもいい。

 

なんだかわからないけど、そう感じるという自分の直感を信じてもいい。学んだ学問の知識を尺度にしてもいい。自分の人生哲学や信念でもいいです。自分の信じる神様を自らの中心においてもいい。

 

 自分なりの尺度をもつというのは、自分の中にブレない軸をひとつ持つということです。現代は情報の波が毎日、毎瞬、私たちを飲み込んでいるような社会です。

 

そして、その情報のほとんどが私たちの不安をあおり、恐怖へと駆り立てるものです。そうした状況の中、自分の中に信頼できる軸をもつというのは大事なことなのです。

 

そうした、不安に満ちている情報社会の中でも、自分の中に軸があれば不安や恐怖に流されることはないのです。軸があるということは、主体性があるということだからです。

 

自分なりの考えをもつことが苦手という場合は、考えるのではなく、感じることから始めてみるのがいいのではないかと思います。この人の態度はなんか嫌だな、この社会の空気、風潮は嫌だななど、自分なりに感じるものがあるはずです。

 

その感覚を大事にしていくと、自分が信頼できる尺度をもてるようになり、そこから自分の考えを持って、主張できるようになるのではないかと思います。話の趣旨がなんだかブレてしまったような気がしますが、ここまでお読みいただきありがとうございました。

 

YouTube 自分なりの尺度を持とう

 

 

 先日、家の掃除をして一息ついた時に、「生きているなぁ」と感じました。ふとそう思ったのです。それは、部屋が片づいて、気持ちが軽くなったからなのかはわかりませんが、生きているという実感があったのです。

 

 その思いをもう少し細かく観察してみると、それは自分で自分の暮らしをつくっているという喜びを実感したのではないかと思いました。

 

 自分のできることをできる範囲でやり終えたという安心とも言えるものがそこにあったのです。その安心は、自分は大丈夫なんだという自信につながっている気がしました。日常生活の小さなことで、人間は幸せを感じられるのではないかと思ったのです。

 

 私たちは、幸せになる、自信をもつというと、それらがどこか遠くにあって、苦労しなければ手に入らないと考えがちです。

 

そうしたものもあるのかもしれませんが、本当に幸せを感じるとか、自信をもつというのは、何か自分の外にあるものを得るのではなく、自分の内側から湧き上がってくるものではないのでしょうか。

 

そして、それらは実は自分の足元にあると私は思うのです。家の掃除ができた。洗濯物を洗えた。ご飯をつくれた。こうしたことはやって当たり前と誰もが思うのですが、そんな小さなことをしっかりとできたということが、私たちに生きているという実感を与えてくれる気がするのです。

 

そんな小さなことが、「自分は自分の生活を形つくっている」「自分はこの先も自分の力で生活していける」という深い自信と生きていくことの安心を与えてくれると思うのです。そして、それが私たちの足元にある幸せなのではないでしょうか。

 

 私は昔、現在住んでいる神奈川県から宮崎県への県外移住を検討して、宮崎の田舎に滞在していたことがありました。人口約4000人ほどの町で、地元の人が何もないというほど、何もないところです。

 

しかし、私はその町を訪れて現地の人と触れ合ってみて、その田舎町に住む人々には、豊かな暮らしがあると思ったのです。

 

田舎には都会のようにおしゃれなお店はないかもしれませんが、そこには、都会とは異なる豊かな暮らしがあると感じたのです。田舎には、自分で自分の生活を形つくっているという満足感があったのです。あるものに満足して、満ち足りた気持ちで生きていくという豊かさがあったのです。

 

 田舎では、規模の大小はあるものの、自分で畑を耕すというのが当たり前のこととして行われています。自分で食べるものを自分でつくるというのは、まさに自分の生活をつくる喜びそのものです。

 

 お話をさせていただいた旅館の女将さんや一人暮らしのおばあちゃんは、野菜を育てる喜びや苦労を楽しく語っていました。80代の女将さんでしたが、旅館で出す料理のために魚釣りをされる方でした。

 

お話しをしていると、自分の生活に満足していることが伝わってきたのです。自分のできる範囲のことをして生活していく喜びがあるのだなと感じられたのです。その生活には命があると思いました。

 

 東京の新宿に行った時に、人は溢れるほどいるし、若者も多いけれど、どこか人も町も活気がなく、空虚に満ちているなと感じた事があります。そこに命がない気がしたのです。神奈川の横浜駅にもたまに行く機会がありますが、同じことを感じます。

 

 おしゃれなお店は都会にはたくさんあります。そうした豊かさを楽しむことも素晴らしいことです。ですが、何かそうしたお店に行けることや綺麗な服を着ること、人が羨むお金、権力、肩書き、地位、学歴を持っていることが、幸せの本質だというような空気に満ちているような気がするのです。

 

そうしたものがないと幸せではない。だから、人や町から欠乏を嘆き、自分の生活に喜びを感じ取れない空虚さを感じ取ったのかもしれせん。

 

 確かに、そうしたものを持っているに越したことはありません。それも幸せなのかもしれません。そして、ここで都会と田舎のどちらがいいという話をしたいのでもありません。しかし、私たちはもっと身近なもので幸せを感じられるのではないでしょうか。自信を持てるのではないのでしょうか。

 

 当たり前のことと思われるかもしれませんが、日常の何気ない掃除、洗濯、炊事、家事が、人間が生きていく上での土台ともいえる「私は大丈夫、生きていける」という自信を与えてくれ、そして生きている喜びさえも与えてくれるのではないかと私は思っています。

 

 幸せを感じている人ほど、そうした日常の小さなことを大切にしているのかもしれません。都会に住んでいる人は、田舎のように自分の畑を持ち、食べるものを育てることは難しいですが、日常の掃除などを「自分の暮らしをつくっているんだ」という意識で行うことで、そこに何ともいえない喜びを感じ取れるはずです。

 

 幸せという宝物は、山の地中深くに埋まっているわけではなく、海を越えた遠い島にあるわけでもない。自信という安心感は、人が羨むものを手にいれることで得られるのではない。

 

 それらは、自分が気づかないだけで実は足元にあって、日常生活の小さなことを自分のできる範囲で行うことで得られるのではないかと思っています。そして、それこそが幸せの本質なのではないかと思っています。ここまで、お読みいただきありがとうございました。

人それぞれの偉業がある

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 人間一人ひとりに偉業がある。そんなことはないと思われるかもしれませんが、あなたが生きてきたということは、偉業を成し遂げているのだと、私は思っています。

 

 偉業とは、すぐれた業績、とても大きな仕事や成果のことです。私たちがイメージするのは、大きな企業をつくった、科学の分野で未知の発見、発明をした、前人未到の記録を樹立したというものです。

 

もちろん、それは偉業なのですが、それとは別に心の偉業、生き方の偉業というものがあるのではないかと思うのです。

 

 私たちは、生まれてから今日に至るまで、様々な困難に遭遇してきています。親に虐待された人もいる、親が子供を搾取する家庭で育った人もいる、夢を追いかけながらも挫折してしまった人、失敗をして心に傷を負ってしまった人、学校でいじめられてしまった人、会社でうまく働くことができず、自分に失望してしまった人、、、、、。

 

一人ひとりの人間が、たくさんの傷を負って生きています。傷つきながら、苦しみながら生きている。特に、子供時代に親から愛されず、傷つけられた人などは、生きていくだけでも大変な境遇におかれます。

 

 家庭環境が複雑でなくても、子供の時の傷がずっと残って、辛い人もいるでしょう。大人になったとしても、その傷は残り続けるのです。

 

そうした人が、その家庭環境や過去の不満を言わずに、苦しみながらも生きていたとしたら、それは恵まれた家庭環境に育って、100億円稼いだ人よりも、偉業を成し遂げているのでないかと私は思います。それほど、幼少期の心の発達というものは人の人生に影響を与えているのです。

 

全ての人間がもう立ち直れないと思うほど辛いことを経験して生きている、それを乗り越えて生きてきた、それは偉業だと思うのです。

 

 悲しいことに、幼少期の心の発達環境、過去の辛い挫折、経験などは、社会に出た時に考慮されないのです。そんなことは当たり前と多くの方が思われるかもしれませんが、それが辛いことなのです。

 

 親に愛されて育った人と親に虐待されて育った人は、社会に出れば同じように働くことを求められるのです。人間としての基本的欲求である、幼児期の自分の存在を認めてほしい、愛されたいという思いが満たされずに社会にでることは、たくさんの困難がその人に降りかかることを意味します。

 

それでもその欲求を満たしてもらえた人と、満たしてもらえなかった人は同じ人として扱われるのです。これほど辛いことはありません。

 

抑うつの傾向を持ち、生きているだけで辛い人と精神的に元気な人は、同じように働くことを求められ、評価されるのです。過去にいじめに遭って、対人関係が怖くなってしまった人とコミュニケーションするのが好きな人は、同じではないにも関わらず、同じ人として見られるのです。

 

人の心理的な成長過程や発達度は、当たり前のことながら社会人の生活では考慮されないのです。それでも、精神的に苦しみを持ちながらも生きている人を、私は立派だと思うのです。それは生き方の偉業を成し遂げていると思うのです。

 

 みんな頑張っているのです。自分ではどうしようもない、生まれや育ちや心の問題に苦しみながらも生きてきているのです。それは凄いことなのです。しかし、多くの人が自分は大した人間ではないと自分自身で思っているのです。

 

 世間というものさしで自分を測ってしまい、自分を卑下してしまうのです。そうではなくて、自分を評価するものさしで自分を測って欲しいのです。失敗や挫折があったけど、よく生きてきたというものさしで自分を測ってほしいのです。

 

 特に抑うつの傾向がある人は、自分を低く評価しがちです。他人から見たら、自殺してもおかしくないような辛い経験があっても生きてきた強さがあるのに、自分を評価できない人がたくさんいるのです。

 

 うつ病や抑うつ状態を抱えて生きるというのは、本当に大変なことです。しかし、はじめに低い自己評価のものさしを持っているから、自分を貶めてしまうのです。そういう人ほど、自分は死んでもおかしくなかったのに、よく生きてきたなと、自分を褒めてあげてほしいのです。あなたは偉業を持っているのです。

 

 自分を低く評価する生き方は長くは続きません。必ずどこかで破綻します。あなたが今まで生きてきたこと、それだけで偉業なのです。

 

自分を評価するものさしを持ってください。自分にやさしく生きるものさしを持ってください。そうすれば、私たちはもう少し、自分を労り愛す生き方にシフトしていけるのではないでしょうか。ここまで、お読みいただきありがとうございました。

 

 

 

  ありのままの自分に自信がない。人と関わる時に身構えてしまい、疲れてリラックスできない。そんな思いをもっている方はいないでしょうか。私もそんな思いをもっている一人です。

 

 ありのままの自分に自信がない人は、人と会う時に自分を実際の自分よりも良く見せようとします。そして、何よりも自分はこういう人間であるべきだという、要求水準や期待が非現実的ともいえるほど高いのです。

 

そのため、絶えずもっとこうあるべきという力が働いて、緊張と不安を抱えるようになり、対人関係においてリラックスできずに疲れてしまうのです。

 

なぜ、自分に対する要求水準や期待が高くなってしまうのか。なぜ、自分を実際以上に見せようとするのか。それは、心の底でばく然と、ありのままの自分は価値がないと思っているからです。そして、ありのままの自分に失望しているのです。

 

 それは、ばく然とした思いなので、無意識の領域で感じていることです。そして、そうは思いたくないので、その思いを抑圧するのです。自分には価値がないという感じ方の抑圧が、意識の領域での自分への過度な期待を生み出しているのです。

 

自分には価値がないと感じたくないので、今の自分とは違う自分を人前で見せようとしているのです。そのため、人と接する時に不安と緊張がなくならないのです。

 

 ありのままの自分でいられずに人に対して身構えてしまう人は、ばく然と心の底で感じている、ありのままの自分は価値がないという思いを、はっきりと意識する事が大切です。

 

その思いを嘘をつかずに意識する必要があります。もし嘘をつけば、その人は人前で虚勢の態度をとるようになります。虚勢とは、自信を喪失した人や、恐怖を抑圧している人にあらわれる態度です。本当は自分に自信がないからこそ、虚勢的態度を取らなければいけないのです。

 

相手はそのことを確かに感じとります。この人は何かを隠していると、その態度の不自然さに気づくのです。自分の気持ちに嘘をつくことで、私たちは、良好な人間関係を築けなくなっているのです。

 

 「私は、ありのままの自分に価値がないと思っている」と自分に正直になった場合は、ありのままの自分で人と向き合うことができるようになります。それは自分の宿命を受け入れたことになるのです。

 

自分はこのままの人間なんだ、これっきりの人間なんだ、本当は自信がなくて、人に自分の弱点を見つけられることを恐れていたんだ、と自分をさらけ出せるようになるのです。

 

自分をさらけだせるのが、人を恐れていない人の態度です。人は自分に弱点があると、人から受け入れてもらえないと考えがちですが、そんなことはないのです。弱点があるからこそ、弱点をさらけだすからこそ、人から愛されるのです。

 

 自信がないのは、あなたのせいではないのです。子供時代からの人間関係でそう思わされてしまったのです。それはとても言葉にならないくらい辛いことです。それでも、その自信のなさを正直に受け入れた時に、自分の今までの人生を肯定することができるのです。

 

それは、辛いことがありながらも、それはそれで仕方がなかったんだ、それでも私は生きてきたという宿命を受け入れたことを意味します。

 

 そのような低い自己評価とあなたの存在は何の関係もありません。低い自己評価を持っていたとしても、あなたの存在は変わらずに価値があるのです。

 

今までの人生で周囲の人間が、あなたを無価値に扱ったから、自分でもそう思っているだけなのです。

 

 低い自己評価の原因は親との関係でつくられることが多いです。親との真の心の交流、心の対話がなかった子供は、低い自己評価を持ちやすいのです。

 

子供を固有の存在として認めずに、自分に従順であったら、自分の称賛者であるなら、自分の言うことを聞く良い子であれば、その存在を認めるという態度をとる親がいます。

 

それは見かけだけの交流です。「世界でただ一人のこの子の価値」というものを認めてあげるのが親です。しかし、ありのままの自分に自信がない人は、そうした親に育ててもらうことができなかったのです。

 

そうした環境で育てられて、自分に価値を感じろと言われても、無理な話なのです。

 

 

人と接する時に、自分はこうあるべきという要求水準が高いのは、自分は対人関係において価値がないという不快な感情を抑圧しているからです。その感情を抑圧してはいけないのです。

 

あなたが自信を持てない、人から愛されないと思っているのは、あなたに愛される値打ちがないからではなく、子供時代から今に至るまでに、周囲にいた人間が、あなたを愛する力を持っていなかったからです。

 

 あなたはありのままのあなたで、人から愛される価値があるのです。ありのままのあなたで人から認められ、受け入れてもらえるのです。

 

自分を良く見せようとしなくていいのです。自分に自信がないなら、そのままでいいのです。そのまま自信のないことを隠さず、人と接していけばいいのです。そんなあなたを嫌う人はいません。

 

子供時代にありのままの自分を認めてもらえなかった人は、自分で自分を認めてあげてください。夜、お布団の中に入った時に、両手を握って祈ってください。

 

私は、ありのままの自分を認めます。私は、ありのままの自分を愛します。私は、ありのままの自分で、愛される価値がありますと祈るのです。

 

何度も何度も自分に言い聞かせるのです。死ぬまでその祈りを持ち続けるのです。きっと少しずつ、ありのままの自分を許せるようになり、人と会った時の不安と緊張がなくなっていくはずです。

 

自分に嘘をつかないことです。自分の本当の思いに嘘をついて、抑圧することで問題が起きてきます。人の心の問題は、そして心の苦しみは自分に嘘をつくことからはじまるのではないかと思っています。ここまで、お読みいただきありがとうございました。

幸せを選び取る力

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 幸せとは、幸せを選び取る力なのではないでしょうか。

 

幸せ、不幸せというと、私たちは何か幸せなことがあったから幸せ、何か不幸せなことがあったから不幸せと考えがちです。しかし、幸不幸というのは、自分の外にある物事によって、決まるのではなく、自分がその物事をどう受け取るか、解釈するかという自分の内側の問題だと思うのです。

 

 ある人が交通事故で自動車にはねられ、怪我をしたとします。他人から見たら不幸としかいいようがない出来事です。しかし、その人は「事故に遭ったけど命があって良かった。こんな小さな怪我で済んだということは、私はついてる、幸運だ」と考える。そして、命があることが当たり前ではないことに気づき、日常の当たり前と思えることを愛おしく思えるようになる。

 

逆に、交通事故に遭って、小さな怪我で済んだとしても、「なんで私だけこんな目に遭わなければいけないのか」とその事故をずっと後まで引きずってしまい、自分はついていないと考え、自分の人生があたかも終わってしまったかのように落ち込んでしまう人もいます。

 

 確かに、事故に遭うというのは、落ち込んで当たり前の出来事なのですが、人によってその受け止め方が異なるのです。人間の幸不幸は外側で起こる物事によって決まるのではなく、人間の選択によって決まるということなのです。

 

 何か失敗をしてしまったとしても、もっと大きな失敗をする前に事が起きて良かったと考え、成功への過程だと考えるのか。それともその失敗で自分の評価や立ち位置がなくなってしまうと過度に恐れて、自分を責めてしまうのか。どちらを選び取るかは、私たちの選択次第なのです。

 

 幸せであることが良い、不幸が悪い、物事をポジティブに考えようという話ではなく、一見、不幸に見える出来事さえも、自分自身の糧にできる強さが人間にはあり、その道を選択する自由が与えられているということなのです。

 

 生きていると過去の後悔や自分の未熟さゆえに起きた失敗に、打ちひしがれてしまうことがあります。過去の失敗を思い出して、胸が締め付けられることもあると思います。しかし、そうしたことからも学んだ事がたくさんあったはずです。

 

その過ちがなければ、今の自分はないといえることもあったはずです。そう考えられたなら、すでに幸せを選択しているのです。過去に引きずられていないからです。変えられないものを受け入れ、変えられるものを変えていく勇気を持てているからです。

 

過去の後悔や失敗を受け入れることは、自分の人生を肯定することと同義です。幸せを選択するというのは、未熟な自分であっても、どんな失敗をしても、自分を許すことでもあるのです。

 

過去の失敗を学びに変える、つまり幸せを志向する選択ができたとしたら、今の生き方が変わっていきます。今の生き方が変われば、新しい未来を創ることができます。

 

自分が自分らしく生きていく選択を重ねていくことで、自分の幸せを追い求めていく選択を続けていくことで、私たちは、最終的に自分の人生を愛せるようになるのではないかと思っています。ここまで、お読みいただきありがとうございました。

 

 

 

自分を好きになろう

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 人間は自分の好きなことをしていると、自分を好きになることができます。自分を好きにならなくてもいいじゃないかと思われるかもしれませんが、自分を好きになるのはとても大事なことなのです。

 

 自分を好きになるとは、自分を認めるということです。自分を認めることは、自分に自信をもつことにつながります。自分に自信をもつとは、自分の命と存在を信じる、つまり自分が自分であっていいんだと思えるということです。

 

 自分が自分であっていいという存在の肯定は、人生の最重要課題といえるほど、大切なことです。自分に自信がない、つまり自分がない自己不在の状態だと、どうしても人間は生きることが苦しくなっていきます。

 

自分がないので、その不安と苦しさを埋めようとして、人から見てわかりやすいものを得られれば、自分を獲得できると考えます。人から見てわかりやすいものとは何か。それはお金、肩書き、権力、高級品などです。しかし、これらは本質的なものではないので、いくら手に入れても自分を満たすことはありません。

 

そして、自分がない人は、人からの評価、人からどう見られるか、人が自分をどう思っているかを過度に気にします。自分がないからこそ、その空虚さを人からの評価で埋めようとするのです。

 

人間は、人からの評価やお金や肩書きがなくても、そうしたものを果てしなく追い求める苦しい生き方をしなくても、自分の好きなことをすれば、自分の存在を肯定できるのです。

 

 人それぞれ好きなことがあると思います。それは小さなことでいいのです。実用性があるとか、人から評価されるとか、そんなことはどうでもいいのです。ただそれをしていると、自分が元気になる、楽しいと思うことをすればいいのです。

 

ある人は整理整頓をすることが好き。ある人は裁縫でぬいぐるみをつくるのが楽しい。好き、楽しいというのは、この世にある豊かさの享受でもあるわけです。

 

 自分の五感を使い、この世にある豊かさを味わうというのは、肉体があるゆえにできることです。この世の豊かさを味わうというのは、人間として非常に大切なことであり、人間であるがゆえに受け取れるものでもあります。

 

 不思議なもので、人間は自分の好きなことをしていると、人生が整っていきます。人生が整うとはわかりにくい表現かもしれませんが、人生の流れが良くなっていくのです。

 

 自分の好きなことを楽しんでいる人というのは、幸せな人なのです。幸せな人は、自分にあるもの、もっているものをありがたいと大切にできます。小さな幸せを数えられるのです。

 

 人間は、何かをもっているから、結果を残したから幸せなのではないのです。幸せだから、そのままの何もない自分でも満足しているから、小さな幸せを見つけ喜べるのです。先に、自分の存在に満足していることで、自分の周りにある与えられているものに感謝できるのです。

 

そうした人は今ある豊かさを喜べるので、豊かさを受け入れる幅が大きくなっていき、自然とまた違う喜びを見つけるという流れができて、人生の流れが良くなっていくのです。

 

 お金持ちでも不幸な人がいて、貧乏でも幸せな人がいる。仕事があっても不幸な人がいて、仕事がなくても幸せな人がいる。結婚していても不幸な人がいて、結婚していなくても幸せな人がいる。

 

 その違いは一体なんなのか。それは、自分を認めているかどうかの違いです。自分を認めている人は、ただ今あるものにありがたいと思えるのです。コップに水が半分入っていれば、まだ半分もあると思えるのです。

 

自分を認められない人は、自己不在の不安と劣等感から自分にないものばかりが気になってしまうのです。コップに水が半分入っていれば、あと半分しかないと思うのです。

 

 自分を認められるか認められないかは、人生における重要な問題ですが、たとえ、今自分を認められなかったとしても、それはあなたの責任ではないのです。自分を認められるかは、子供時代における親や周囲の大人との関係に関わっています。

 

 親や周りにいた大人が、子供をただその存在が愛しいがゆえに愛してくれていたならば、愛された子供は自然と自分に自信を持てるようになるのです。しかし、そうした親や大人ばかりではないので、人を愛する能力のない大人によって、あるがままの存在を傷つけられた子供がたくさんいるのです。

 

傷つけられた子供は、あるがままの自分ではいけなくて、人から評価されなければ、親の言うとおりにできなければ、親の希望を叶えられなければ、自分は価値がないと思ってしまうのです。

 

 幼少期の心の傷を温める方法は様々ものがあると思いますが、複雑でわかりにくいものも多いです。自分の好きなことをするというのは、簡単に取り組める方法です。

 

そして、徐々に心の傷がある自分をなぐさめ、そうした心の傷や、つらい経験をしながらも、今日まで生きてきた自分を愛することができるものなのです。

 

 私たちは、非常に慌ただしく、何かに急かされるような社会に生きていて、自分の心の奥と向き合う時間を取りづらいことが多いと思います。

 

少しずつでもいいので、自分の好きなことをする時間をもつことで、自分を認め、愛し、自分の命と存在を信じることができるようになっていくのではないかと思います。

 

 そして、子供の時のような楽しいことは楽しい、悲しいことは悲しいという純粋な気持ちを取り戻して、より自然で自分らしい生き方ができるようになるのではないかと思っています。ここまで、お読みいただきありがとうございました。