全てを失ってから本当の人生が始まる。

 

 実は、私たちは一度自分の持っているもの全て失わないと、自分が本当に大切にしたいと思うことに気づけないのかもしれません。

 

 誰にでも挫折や大きな失敗の経験があると思います。挫折や大きな失敗はこれまで積み重ねてきたものが壊れて0になります。自分の積み重ねてきたことや自分の持っているものが0になれば、絶望して落ち込んでしまうのは当然のことです。

 

しかし、0になるのは悪いことではないのです。0になるからこそ得られるものがあるのです。0というのは無です。そこには何もない。何もないからこそ、そこに入ってくるものがある、そこから生まれるものがあるのです。

 

人間は全てを失った時に、今までの人生を振り返り、自身のあり方を反省し、自分の気持ちに正直に生きてきたかを問うのです。そしてこれから何を大切にして生きていきたいかを考え始めるのです。つまりは、その人にしかできない、その人だけの人生がそこから始まるのです。

 

 私は昔、自分で自分を縛り、苦しめる生き方をしていました。どんな生き方かというと、「~しなければいけない」や「~すべき」などの言葉を使って、自分を常に律する生き方です。

 

「自分はこうあるべき」という理想に向かって、狂信的なまでに自分を追い込んでいたのです。自分の内からでる「~したい」「~したくない」「好き、嫌い」という自然の感情を無視して、自分に無理を強いて痛めつけました。

 

その姿勢で何か結果を残せたのならまだいいのですが、私の場合はただ無理をして心と身体を壊し、仕事もプライベートの目標も叶えることができず、たくさんの恥をかき、全力で頑張ってきたものが全て失くなってしまいました。残ったのは、鬱状態と希死念慮を抱える何もない私でした。

 

 そこから立ち直るのは大変でしたが、やはり一度全てを失ったことによって、得たものがあったのです。自分の生き方を振り返ることで、何が自分を苦しめていたのかがわかり、前よりも随分と生きやすくなりました。

 

全てに絶望して、幸せになることをあきらめたので、前の自分よりも何かに挑戦することが容易になりました。何も失うものがないからです。自分を過度に律することがなくなったので、自己否定をすることが少なくなりました。

 

他にもたくさん得たものがありますが、なによりも挫折から立ち直った経験から、何が起きても大丈夫、生きていけるという生きていく上での安心感を体感として持てるようになったのです。これは、自分にとって大きな成長だったのです。

 

 今、何かを持っていることを誇っている人は危ない生き方だと思います。それはいずれなくなるからです。逆に今、何も持っていない人は幸いです。人間は0からしか何かを生み出すことができないからです。

 

何かを持っていることが安心だというのは嘘なのです。お金、権威、権力に固執する人は新しい生き方をはじめることができません。それを手放すのが怖いからです。そうしたものに固執しない人は、新しい生き方、新しいものを生み出すことができます。

 

 世間では人から見てわかりやすいものを持っていることが、価値のあることともてはやされますが、世間の価値観というのは実は嘘がほとんどで、私たちを狭い檻に閉じ込めるものなのです。

 

世間の価値観の逆の道を行く方が、人は幸福になれるのです。世間では、全てを失った人は敗残者扱いをされますが、それは逆で、そうした人ほどこれからの時代はチャンスがあるのです。

 

権威や権力、お金による支配が成り立たない時代になりつつあり、そうしたものが本当の幸せではないと多くの人が気づいていく時代だからです。そして、人は誰もが自由であり、自分なりの表現をしていくことが本当の喜びであると理解するようになるからです。

 

 全ては0からはじまります。0であるところにエネルギーは入るのです。何もないということは怖くないのです。そこから生まれるものがあるからです。そこに新しい知恵が入ってくるからです。0から全てが生まれることを理解するのは、死ぬことを受け入れるということです。

 

私たちは何もないところから、つまり0からこの世にやってきます。

何もない無こそが全てを生み出す有であると知った時、私たちは死ぬことを当然の帰結として受け入れ、死というのは、自分が元いた場所に戻るだけのことだと気づくのです。そして、限りあるこの命を全うしようとするのではないかと思っています。よくわからない話だったと思いますが、ここまでお読みいただきありがとうございました。

私たちは、自分で自分を否定しがちです。自己否定を繰り返す生き方は苦しいものです。この私たちを苦しめる自己否定は、どのようにして、私たちの心に取り憑くようになったのでしょうか。

 

 人間が自己否定をはじめる理由、自己否定の原型とも言えるものは、幼少期における親との関係によって生まれると考えられます。

 

 幼少期というのは、親の保護がないと生きてはいけない時期です。子供にとって親というのは、自分を保護して、守り育ててくれる絶対的な存在です。親の力無くしては生きていくことができないからです。その親がある時、自分の感情を自分で扱えずに、イライラを子供にぶつけたり、子供に対してそっけない態度や理不尽な応対をすることがあります。

 

この時、子供は親から理不尽な態度をとられた理由を探します。しかし、理由はありません。親が未熟なために、自分の感情を子供にただぶつけているだけだからです。子供には何一つ悪いところはありません。それでも子供は自分にとって絶対的な存在である親が自分に対して間違ったことをするはずはないと思っています。

 

そうして、子供はある一つの答えを見つけます。親が自分に理不尽な態度をとるのは、「自分という存在に問題があるからだ」「自分という存在がいけないからだ」と自分なりの結論を出すのです。

 

これが自己否定の原型です。親との力関係による自分の存在の否定という枠組みがはじめにつくられて、そしてその枠組みが私たちの中に内在することで、私たちは自己否定をはじめるのです。

 

自己否定をする理由があって、自分を否定するのではないのです。自分には何も悪いところがないにも関わらず、はじめに自己否定をつくる枠組みがあるため、それに合うような自己否定につながる理由を後から引っ張ってきているということです。

 

私たちは自分を肯定すること、自分を愛することをどこかで学ぶわけではありません。それは、人間であれば誰に教わるわけでもなく自然にできることなのです。しかし、親との力関係によってつくられた構造が、私たちの中に内在しているため、自己否定をする人生が始まっていくというわけです。

 

 自己否定の原型を知り、その構造を理解したならば、自己否定をする必要はないということがわかるはずです。なぜなら、あなたに悪いところはひとつもないからです。あなたに否定される理由があるわけではなく、自己否定の原型があなたを否定する理由をむやみやたらに探しているだけだからです。

 

 この自身の中に内在する、自己否定の原型に気づいた時、人は自分を愛し、認め、受容することができるようになります。親から精神的な意味で自立することができるのです。あなたは生まれた時から、愛される価値のある人間です。ここまで、お読みいただきありがとうございました。

 

「不幸からしか学べないことがある」

 

 もしそう言われたとしても、信じられないですよね。しかし、不幸というのは、私たちに新しい気づきを与え、新天地へと運んでくれる大変ありがたいギフトなのです。

   

 私たちは不幸を忌み嫌います。誰しもが幸福になることを望んでいるので、それは自然な感情です。しかし、自分に不幸が訪れた時にただ嘆き悲しむのではなく、その不幸に意味や価値を見いだすことが大事なのです。

 

不幸に意味や価値なんかあるわけないと思われるかもしれませんが、不幸というギフトをよく観察してみると、不幸だと思っていたのは、ギフトのラッピング部分で、その中身は宝物であることがわかるのです。

 

 不幸が訪れると今まで順調だった物事の流れが中断されます。だからこそ、私たちは不幸を嫌うわけです。しかし、この流れの中断は今までのやり方や自身のあり方では問題があるので、この先うまくいかなくなることを教えてくれているのです。

 

それは物事を進めていくやり方が自然ではなく、無理があることを教えてくれているかもしれません。その物事に取り組む力のかけ具合に無理があり、そのままでは心と体に無理があることを指摘しているかもしれません。

 

どんな状況にせよ、何かを変化させる必要があることを示唆しているのです。おかしなやり方では物事が長く続かないことを不幸は教えてくれています。

 

 また、不幸は「自分が正しい」という私たちの凝り固まった考えを正してくれます。私たちはどうしても「自分の考えや意見は正しい」と考えがちです。不幸や失敗が自分の元に訪れるとなおさらそう考えてしまいます。

 

自分は正しいという考えは、私たちの人生を台無しにしてしまうことがあります。自分は正しいと思っても、そしてそうとしか思えなくても、それは一面的な見方であって、相手の視点から見たらそうではないことは多いものです。そうした偏った考えのバランスを取ることを不幸は指摘しているのです。

 

 忌み嫌われる不幸にも意味や価値があるということに気づけると、この世にある一見必要のないように見えるものにも意味や価値があることがわかります。不幸があるからより幸せになれるように、私たちが嫌い、必要のないように考えてしまうものがあってこそ成り立つものやことがあるということです。

 

つまりは、一部があって全体があるということです。そしてこの世にただ一つだけ大切なものがあるわけではなく、どれもが大切であり、必要であるということです。

 

 嫌いな人がいるという読者の方もいらっしゃるかもしれません。しかし、そうした嫌いな人もこの世界を構成している一人なのです。私たちと同じ必要とされている一人なのです。

 

そして、そうした嫌いな人からしか学べないことがあるのです。「自分のこういうところが嫌い」と思っている部分を自分の嫌いな人に投影して、嫌悪しているということがよくあります。そうした、自分の心の影をその人は教えてくれているかもしれません。自分が嫌いな人やものにも、意味や価値が必ずあるのです。

 

 不幸はただ何の理由もなく、無作為に私たちに降りかかってくると考えてしまえば、それは本当の不幸になります。不幸が来るには理由があって、そこに意味や価値があると考える時、そこに不幸はありません。

 

そして、その考えを持てた時に、不幸は私たちを新天地へと運んでくれるのです。新天地とは、行き詰まった状況を打開する新しいアイデアかもしれません。困難だった人間関係や仕事を発展させてくれる新しい視点かもしれません。自分の人生を豊かにする新しい挑戦かもしれません。

 

何にせよ、不幸は恐れるものではなく、私たちをより良い生き方へと導いてくれるみちしるべだということです。不幸をどう受け止めるかは、私たちの人生において非常に重要な意味を持っていると思っています。ここまで、お読みいただきありがとうございました。

 

素直な心で生きていますか。自分で自分を縛るルールをつくり、苦しんでいませんか。素直な心で生きた時に、人間は自分らしく生きることができるのではないでしょうか。

 

 素直な心とは何なのか。それは、自分の中に起こる気分や感情をありのままに受け止めることです。悲しい時は悲しむ。苦しい時は苦しむ。喜ぶ時は喜ぶ。泣きたい時には泣くのです。決して、悲しんではだめとか辛い時に明るくしなければだめなどと考えずに、自分の感情を否定せずに受け止めるのです。

 

 なぜ、人間の心の苦しみが生まれるのかというと、自分の中に起こる気分や感情に対立する考えを持とうとするからです。悲しいという事実を頭の考えによって否定したり、捻じ曲げようとするからです。自分の中に悲しいという感情が起こったのは事実です。その事実を否定する、悲しんではいけないという考えを持つことで、自分の中に相反する二つの考えが生まれ、心の煩悶が起きて人間は苦しむのです。

 

 ただ自分の中にある悲しみを感じればいいのです。感じる時には言葉を交えないようにします。「あの時の悲しみが苦しい」とか「過去のあの経験の悲しみが癒えない」などの言葉を使わないようにします。言葉を交えると、言葉が悲しみに関連した過去の経験を引っ張ってきたり、あの人より私の方が悲しいなど人との比較がはじまり、問題をややこしくするからです。

 

ただ今感じている、自分の中にある悲しい感情になりきるのです。胸が苦しいかもしれません。頭がしめつけられるかもしれません。それをどうにかしようとしないで、悲しみになりきるのです。そして、悲しいままに、悲しみを持ったまま日常生活のなすべきことをなしていくのです。

 

 感情は時間の経過とともに弱まっていく性質があります。そして、人間は行動をすることで新たな感情が生まれてきます。悲しいままに家の掃除をして、汚れを落とそうとしていると、汚れを落とすことに心が向き、悲しさが薄れていきます。心は外界の環境に従って、転がるように変化していくからです。

 

ふとした時に、同じ悲しみがやってくるかもしれません。そんな時は、またあるがままに悲しめば良いのです。悲しみをどうにかしようとせずに、悲しみになりきり、悲しんだまま、仕事、家事、育児、勉強をしていくのです。悲しみをどうにかしようとするから余計に苦しむのです。これが感情との付き合い方です。あるがままに生きる方法です。

 

 心の働きは川の流れのようです。流れては消えていき、流れては消えていく。川の流れに従い、来たものは素直にあるがままに受け止めるだけです。このことがわかると、心が次第に自由闊達になり、楽に生きていけるようになります。今までの、こうあらねばならないという自分をコントロールする苦しい生き方から、より自然体の肩の力が抜けた自分に戻っていきます。

 

心は外界の環境によって、変化していくことがわかった時、私たちは自分の中に起こる気分や感情を恐れることなく扱い、そして辛く、苦しいことがあっても生きていけるということに気づけるのではないでしょうか。素直な心で生きてみませんか。ここまで、お読みいただきありがとうございました。

 

「みんな大嫌い」「みんな消えてしまえ」

そんな思いを持っている人はいないでしょうか。

 

 このような思いを持っている人には、孤独を感じている人が多いような気がします。ここでいう孤独は、親しい家族、友人やパートナーがいない孤独という意味ではなく、自分の感覚が他の大多数の人と異なっていることで感じるものです。

 

他の人と感覚が違うとはどういうことなのか。それは本当のこと、この世の真実を求めているということです。この世の中というのは、どうにも嘘が多い。権力やマスメディアによって嘘がつくられることは日常茶飯事です。

 

そうした世の中でありながらも本当のことを知りたいと、この世の真実を知りたいと考える人たちが、ごく少数ですが存在します。その人たちは、常に本当のことはなんだろうかという視点で物事を見ているので、世の中の嘘に気づきやすいのです。

 

嘘に気づいてしまったら、真実を話したいという気持ちが出てきます。そして、真実を話そうとするのですが、大多数の人は嘘で塗り固められた世の中が健全なものであると錯覚しているので、いくら本当のことを伝えようとしても伝わらない。

 

伝えたいことが伝わらないのは、その人を孤独にします。こうした経験から、真実を見つめようとする人たちは絶望して、孤独な思いを深めてゆくのです。そして「みんな大嫌い」「みんな消えてしまえ」と考えるようになります。そう考えるのは何も悪くなく、自然なことだと思います。

 

 周りからわかってもらえないからこそ、嘘だらけのこの世界で、人から見てわかりやすい社会的な力や地位を、孤独な人は目指そうとすることがあります。そうすることで、自らの正当性を証明できるからです。

 

社会的に成功することは素晴らしいのですが、それでは決して満足できないのが、孤独で真実を見つめようとする人なのです。社会的に成功しても、それは物質的な満足であり、物質は必ず崩壊する運命にあるので、いくら追い求めてもきりがないのです。

 

 真実を見つめようとする人は、本当のことを求めているのです。本当のこととは何なのか。それは、「自分は一体何者なのか」という自己です。決して、物質のように崩壊することのない、精神的な真実です。それを求めているのが孤独な人なのです。

 

そして、これを追い求める必要があるのは、孤独な人だけではありません。これは、全ての人間が忘れてはいけない問いであり、人生の課題でもあるのです。

 

 不思議なことに、孤独をバネにして成功を掴み取った人が、地位や名誉やお金に必要以上に執着すると転がるように失脚することがあります。物事の表面だけを見ると、失脚したことを悔やむかもしれませんが、そうではないのです。

 

こうした失脚は、あなたが求めるのは物質的な満足ではなく、「自分は一体何者なのか」という自己であると、教えてくれているのです。だから、強制的に全てを失うような目に遭わされる。そんな考え方もできるのではないでしょうか。

 

 「自分は一体何者なのか」という自己を獲得することは、何か結果を残すこと、人から称賛されることではありません。人から「あなたは何者ですか」と問われた時に、自分が自信と誇りをもって答えられるもののことです。

 

「私は会社でこういう仕事をしていることに誇りを持っています」「私は主婦・主夫であることに自信を持っています」「私は自分ではじめた事業でお金を稼いでいる者です」など、どんなことであれ、それに誇りを持てれば良いのです。できれば、どこかに所属していることから得られる自己ではなく、自分が何かを一から創造することで獲得できる自己が望ましいです。

 

 自分に誇りを持つという思いが大切なのです。私たちが死ぬ時にあの世に持って還ることができるのは、この思い、情感だけです。「ああ、よかった」という情感です。

 

自分の人生を満足して終える情感を得るには、自分は一体何者なのかという自己がないといけないのです。自己を得たなら、それは自分の命を輝かせたと同義であるので、私たちは満足して死んでいけるのです。皆さんは、自分に誇りを持っていますか。ここまでお読みいただきありがとうございました。

 

 皆さんは、人の幸せを願うことができますか。自分が辛い状況にいながらも、人の幸せを願うことができる人は、少ないのではないでしょうか。

 

人の幸せを願うことができても、できなくてもどちらでもいいのですが、もし自分が欲しいと思っている結果を得ている人を妬んでしまう場合は、その人の幸せを喜んだり、願ったりすることが自分にとって良い影響を生むということを私たちは知っておく必要があると思います。

 

 私たちが生きているこの世界は、まずはじめに意識があって、物事や物質が生まれるという順序になっています。決して、はじめに物質があるわけではないのです。例えば、人間が座るイスが作られた経緯をたどると、はじめに座る時にこんなものがあったらいいなという意識、考えがあって、それを元にイスが作られたのです。この世に存在するものは全て同じです。物質だけでなく、自分の身に起こる出来事も同じです。

 

この意識→物質・物事という順序を考慮すると、自分が得たい結果がある場合、先にそれを意識すれば自然とその結果は起こることになります。

 

 自分が欲しいと思っている結果をすでに得ている人を、妬んだり、批判したりすることは、自分がその結果を得ることを喜べない、願えないという意識を持つことと同じであるため、永遠に自分が望む結果を得ることはできないのです。

 

もし、自分もその人と同じ結果を得たいならば、その人の幸せを喜んだり、願う必要があるのです。しかし、嫉妬の感情は悪いものではありません。人間であればだれでも持つ感情です。それを抑圧する必要はなく、嫉妬の感情を持ったままでいいので、人の幸せを願ってあげるのです。

 

 結婚相手、彼氏、彼女が欲しい、人生を共に歩んでいくパートナーが欲しい人がいたとします。自分にはそうしたパートナーがいないけれど、周りの友人はそうした出会いに恵まれていて、嫉妬してしまうということがあると思います。友人の幸せを願いたいけど、複雑な気持ちになって苦しいかもしれません。そういう時は、その気持ちはそのままでいいので、心の中で友人の幸せを願い、祈るのです。

 

「あなたがパートナーと幸せに過ごせますように」「あなたたちがずっと一緒にいられますように」と願ってあげるのです。本当にそう思ってなくてもいいのです。そうしようと思い、実際にそう願い、祈ることに意味があるのです。

 

街で仲良く歩くカップルを見て、自分も彼氏、彼女をつくってそうしたいけど、現実はそうできなくて、複雑な気持ちになってしまう人がいたら、そのカップルの幸せを願ってあげるのです。「あなたたちがずっと愛し合えますように」「あなたたちが二人で幸せに暮らせますように」と願うのです。

 

そうすることが苦しい人もいるかもしれませんが、もしそれができたなら、その人はすでにパートナーがいる喜びを享受したと同じことなのです。なぜなら、心というのは、自他の区別をつけないからです。

 

人の幸せを願えたなら、自分の幸せを願えたと同じことなのです。それは、自分にもパートナーがいて、幸せだという意識を持っていることになるのです。そして、その人にもきっと良い出会いがやってくるのです。なぜなら、パートナーがいて幸せだという意識が先につくられているからです。意識にくっついて現実がやってくるからです。

 

 たとえ自分の望む結果が得られなかったとしても、人の幸せを願えたなら、その人の人生は良いものであったと言えるのではないでしょうか。その人は人として、成長したと言えるのではないでしょうか。人の幸せを願うことにどんな意味があるのかを意識という観点から書かせていただきました。今日から、人の幸せを願うことをはじめてみませんか。ここまで、お読みいただきありがとうございました。

 

 人の長所を見つけることは、私たちに多角的な視点を持つこと、相手の立場になって物事を考えること、自分と他者とのバランスをとることを教えてくれます。

 

 何を言っているのかと思われるかもしれませんが、人の長所を見つけることは、私たちが人間として成熟し、そして社会で生きていく上で本当に大切なことなのです。

 

それは、世界にいるのはわたしだけでない。あなたという存在がいて、あなたの中にはこんないいところがあるという、あなたとわたしという視点をもつことです。自分と他者を平等に見ることであり、わたしという一つの視点ではなく、二つ以上の視点から物事を考えることの必要性を私たちに気づかせてくれます。

 

 普段、私たちは多くの人と関わり生きていますが、その人の長所を見つけようと意識することはあまりないと思います。なぜ人の長所を見つけようとする視点が必要なのか。それは、あなたとわたし、あなたがあって、わたしがあるという、人間関係において相手の立場に立って物事を考える視座を与えてくれるからです。

 

 人間関係において、私たちはつい他者の存在を忘れ、自分の自我を押し通そうとしてしまいます。本当に自我を押し通すことが必要な場面であれば、それは何の問題もありません。しかし、その必要のない場面で、相手の事情や状況を考慮しないで、自分の意思や主張を強引に認めさせようとするのは、賢い判断とはいえません。

 

相手との人間関係をお互いの成長の機会とするには、やはり、あなたとわたしという視点が必要です。その視点を得る方法が、相手の長所を見つけようとすることです。ただ、無理やり長所を見つけようとするのではなく、自然な人間関係の中で、お互いを知っていく中で、長所を発見して、それを相手に伝えてあげることが大切です。

 

 相手の長所を発見するのは世界には自分だけでなく、あなたという存在がいる事実を認めることです。それは、わたしだけの視点で物事を見るのではなく、わたしとあなたという二つの存在を天秤にかけて、その二つを平等に見る知的コミュニケーションの方法を教えてくれるのです。

 

わたしとあなたを平等に見ることは、自分と他者のバランスをとるということです。この自分と他者とのバランスをとることが、相手の立場になって物事を考えるという意味です。「自分がこう話したら、相手はどう受け取るだろうか」「相手は何を伝えようとしているのだろうか」という視点です。これが、私たちが人と共に生きていく上で持つことが求められているものなのです。

 

相手の立場になって、物事を考えるのは、自分という一つの視点で物事を見るのではない、二つ以上の視点で物事を見ることです。この物事を二つ以上の視点で見ること、多角的な見方を身につけることは、社会で生きていく上で必要なことなのです。この考えは、物事の答えが一つでないこと、常にあらゆる角度から、物事を見なければ答えを導き出すことはできない、そしてあらゆる選択肢があることを教えてくれているのです。

 

もっと大きな話では、平和な世の中をつくっていくために、必要な考え方なのです。あなたとわたしのバランスが取れている。バランスが取れていることは、調和があるということです。調和があるところには、争いは生まれません。

 

戦争というのは、正義はわたしたちにある、それは言い換えれば、正しい答えは一つであり、それを持っているのはわたしたちという、あなたとわたしのバランスが欠如した考えから生まれるのです。天秤の秤のバランスが崩れ、一方に傾いている状態です。そこには、わたしに考えがあるように、あなたにも考えがあるという視点がないのです。

 

 相手の立場になって物事を考えるというと、そんなことは当たり前で言われるまでもないと思われるかもしれませんが、細やかに自分の生活を観察してみるとできていないと感じることが多いように思います。意識していないとわたしという視点だけで物事を見てしまうのです。

 

しかし、相手の長所を見つけようとすることで、私たちはあなたとわたしという二つ以上の視点を持つことができるのです。これが社会生活を営む上ではじめに持っておかなければいけない基本的な考え方なのです。

 

ぜひ、相手の長所を見つけた時は、それを素直に伝えてあげてください。それができた時、あなたは相手の命を、存在を尊重できたのです。相手とわたしは平等な存在であると理解できたのです。

 

相手とわたしは同じ存在であると体感できたなら、それはこの世に一つの平和を築いたと同じことだと思います。本当はみんな、平和な世の中を望んでいるような気がしています。人の長所を見つけてみませんか。ここまで、お読みいただきありがとうございました。

 個性というと、何か一芸に秀でた人や稀有な生き方をしている人を指すことが多いです。そして、私たちもそうした人が個性的な人だと思っています。確かに、そうした人たちを個性的ということもできるのですが、個性というのは本来そうした意味合いのものではないと思うのです。なぜなら、私たちは生まれながらに全員が個性的だからです。

 

 生まれながらに全員が個性的というのは、どういう意味なのか。例えば、絵を描くのが好きな人が5人いるとします。その5人に今あるこの大空を題材にして絵を描いてくださいと言います。そうすると、同じような作品は一つもできません。なぜなら、5人が見ている、感じているものがそれぞれ異なっているからです。

 

ある人は、大空に大きな希望を感じ取っているかもしれません。ある人は、恋人と別れた日の空はこんな大空だったなと思い出し、その切なさを表現するかもしれません。

 

5人それぞれの大空があるということです。5人それぞれの表現があるということです。これは当たり前のように感じるかもしれませんが、素晴らしいことなのです。自分にしかできない表現があるということなのですから。これが個性なのです。

 

何も個性というのは、獲得していくわけではなく、そのままのあなたで既に個性的な存在なのです。あなたにしか感じ取れないものがある。あなたにしか話せない言葉がある。あなたにしかできない生き方があるのです。

 

 そうは思えないと考えてしまっているなら、それは世の中の薄っぺらい価値観にだまされているだけです。何か結果を残した人が個性的だとか、お金をたくさん稼いだ人が個性的だとか、そうした嘘の情報を流す、メディアや社会に惑わされてはいけないのです。

 

あなたはそのままのあなたで個性的であり、その自分を表現していくことに価値があるのです。そのままの自分を出すことは初めは怖いのですが、表現していくことを続けていくと、あなたの表現に共感を示してくれる人が出てきます。

 

もし、たった一人でもあなたに共感を持ってくれる人がいたならば、もし、あなたが表現をすることで、一人の人の意識を変えて、その人を幸せにできたなら、あなたの人生は素晴らしいものであったと言えるのではないでしょうか。それは、あなたが存在したから、一人の人が幸せになったということだからです。

 

 自分にしかできない表現があるのです。あなたにしかない経験が、あなたにしか歩めない人生があるから、そこから生み出される表現は、あなた独自のもの、あなたにしかないものに自然となっていくのです。自分はすでに個性的な存在であるという視点がこれからの私たちの生き方に必ず必要になっていくと思っています。ここまで、お読みいただきありがとうございました。

 

YouTube あなたにしかできない表現がある

 

 

「あなたはあなたであるがゆえに愛しい」と言われたら、どんな気持ちがしますか。

その通りだと思う、とてもそうとは思えない、そう思いたいけど思えない、色々な反応があるのではないでしょうか。

 

 私たちは、確かに一人ひとりが愛しい存在であるのですが、生きていく上で色んなものに傷つけられるうちに、自分自身を愛しい存在であると思えなくなってしまうのです。

 

基本的には母親から与えられる無条件の存在の肯定によって、自分を愛しいと思う気持ちや自分を大切に思う気持ちが持てるようになるのですが、母親からその保護や安心感をもらえることができない人もたくさんいます。

 

愛をもらうどころか、親から傷つけられ、心に深い傷を負って、いまなお複雑な気持ちに悩まされている人もいるでしょう。学校教育によって傷つけられ、自己肯定感を持てなくなった人、会社の上司に傷つけられ、自分を大切に思えなくなってしまった人、社会によって傷つけられ、つまはじきにされ、生きる気力を失ってしまった人など、誰もがたくさんのものに傷つけられながら生きているような気がします。

 

 皆さんは、傷ついた時に慰めてくれる、自分の存在を肯定してくれる母親なる存在を持っていますか。親との関係が良好で、どんな時も存在を肯定してもらえる人は幸せです。苦しい時に抱きしめてくれるパートナーがいる人は幸せです。

 

打ちひしがれた時に、自分を包んでくれる自分が好きなものを持っている人は幸せです。それは、小さい頃から持っているぬいぐるみかもしれません。思い出がつまった海かもしれません。誰もいない山の中の静けさかもしれません。森の中にある大きな木の包容力かもしれません。親から愛をもらえなかった人は、それらを母なる存在にしてもいいのです。自分の存在を受け入れてもらえている感覚があれば、その人は幸せです。

 

 自分は親からも愛されず、パートナーもいない、好きなものもないという人はどうすればいいでしょうか。どうか自分で自分を抱きしめてあげてください。「あなたはあなたであるがゆえに愛しい」と口に出しながら、自分の身体に触れてみてください。自分を大切な存在として扱ってみてください。傷つけられてきた自分をなぐさめるように、優しく肩や胸を、できれば全身をさすってみてください。

 

 幼い頃の傷が癒えない人は、傷ついた幼き頃の自分を抱きしめてあげるイメージで、「あなたはあなたであるがゆえに愛しい」と語りかけながら、肌をさすってみてください。

 

そうすることで、私たちは自分が自分の母親なる存在になれるのです。親からもらえなかった愛を自分で自分に与えることができるのです。自分で自分を抱きしめてあげることで、少しずつ自分の存在の愛しさに気づいていけるはずです。

 

誰にも何にもおかされるのことない居場所をつくっていけるのです。自分で自分を大切にできることを知った人は幸せです。それは自分自身への無条件の愛だからです。ここまでお読みいただきありがとうございました。

 

YouTube

あなたはあなたであるがゆえに愛しい

 

 人間の成熟とは、自分と他者は同じ命であるという平等感を持てるようになることではないかと思った出来事がありました。

 

 通勤の際に電車の乗り換えで利用している駅があるのですが、その駅の手前の踏切で人身事故があったのです。その電車がそのままいつも利用している駅に走ってきて止まりました。

 

人が電車に飛び込んだようで、駅に救急隊員が駆けつけ、現場は慌ただしい様子で、運転再開見込みがたたないような状況でした。電車が駅に走ってきた時に、歪な音を立てており、駅員が電車の底部を調べていたので、おそらく飛び込んだ人の体が電車の底部に巻き込まれていたのだと思います。

 

 私はその現場に居合わせた時に「飛び込んだ人はどれほど生きることが苦しかったのか」「相談できる人がいなくて、どうしようもないから飛び込んだのか」「苦しみを誰にもわかってもらえず辛かっただろうな」と思いました。

 

自分も電車に飛び込もうとしたことがあるので、少しはその人がどういう精神状態だったかがわかるのです。電車に飛び込むということは、極限まで追い詰められていたのだと思います。飛び込んだ人は言葉では表せられないくらいに、本当に苦しんでいたのでしょう。

 

 駅で電車を待っていた人や人身事故があった電車に乗っていた人の顔を見ていると、みんな迷惑そうな顔をしていて、電車が遅延していることにイライラしている様子でした。もちろん、人それぞれに予定があり、イライラしてしまうことは当然の反応なので、その人たちを責めることはできません。

 

しかし、迷惑そうに駅を去っていく人たちを見て、私は凄く嫌なものを感じたのです。一人の人間が苦しみに苦しんで、自らの命を絶とうと電車に飛び込んでしまったというやりきれない悲しさや寂しさに、思いを寄せるのがまず初めなのではないか、それが人間としてあるべき姿ではないかと思ったのです。

 

 電車に飛び込むなんてことは、普通はできないのです。怖くてできるはずがないのです。それだけ追い込まれていたということです。その苦しみを理解しようとするのが人間なのではないでしょうか。

 

電車に飛び込んだ人が背負っていた苦しみは、私たちも経験することがこの先あるかもしれません。同じ人間なのだから。同じ命なのだから。その人が苦しみを感じていたように、私たちも苦しみを感じるのです。私たちが苦しみを感じるように他者も苦しみを感じるのです。この自分と他者を平等に見る視点が私たちには必要なのです。その視点を持てた時に、初めて私たちは人に優しくできるのです。

 

 一人の人間が生きることに苦しみ命を絶った重大性よりも自分の予定が遅れることへの心配を優先し、イライラしてしまう人たちを見て、何か言葉にできない危うさを感じたのです。人間としてこれではいけないと思ったのです。生きることに苦しんでいる人がいたら、その苦しみを自分のことのように考えられる人間が、本当の意味で成熟しているといえるのではないでしょうか。ここまで、お読みいただきありがとうございました。

 

YouTube

命の平等性