「これは,けっこう珍しい資料も豊富、読み物としてもおもしろいね」
観光協会が発行した初めてのガイドブック”三州足助”の中心執筆者もちろん
”足助町史”の指揮をとられたこの町の圧倒的郷土史家、故S先生評、。おかげで
’足助町教育委員会’’足助の町並みを守る会’の推薦もいただきました

[付 録] 英文入りマップ、藩札2種(ブログ既報)
江戸時代の商品券、上納金の覚え書きレプリカ
みち 谷川俊太郎(上記、裏表紙に記載)
めのすみにうつった おかのうえのふるいおてら
とおりすぎる
やなみのむこうがわにのぞく そらよりもあおいうみ
とおりすぎる
ほしもののてをやすめてふりむいた なつかしいえがお
とおりすぎる
しずむひにおいつくつもりですか
ちきゅうをおいこすつもりですか
[本文内、その他の引用作品] 伊藤左千夫 野菊の墓の一部
茨木のりこ 6月、中原中也 一つのメルヘン 他
※ 谷川先生と茨木先生は当時ご存命、掲載許可をお願いしました
茨木先生からはお葉書をいただきました

[P.19役行者] 足助村の西の入り口に祀られている役小角の像、今も道を隔てて
願掛けの幟が何本も立ち香華も絶えることがなく手向けられています。
厳冬の未明でさえ、小さなろうそくの灯りは瞬き、
夜明けとともにその輝きも朧となり、
朝の光と同化し人々の祈りを携えて、日輪とともに天に帰るのでしょう。
一条の炎に人々は熱い願いを今も託しています

[P.19 馬頭観音から望む香嵐渓の絶景] 役行者から20M程で馬頭観音があります。
頻出しているので画像は省きました。
ここに故郷の俳人板倉塞馬が慶応3年に建立した芭蕉の句碑があります
”馬をさへ ながむる雪の 朝(あした)かな”
※ この写真は師走の香嵐渓ですが残念ながら雪はありません
雪景色をイメージで重ねて下さい
「P.27.28,29 愛を育む2つの祠 庚申堂、夫恋薬師]

[p27,28 庚申堂 ] 万延元年の記録によれば、高浜の観音寺まで続く参河国准秩父
三十四箇所の二番目の札所となっており御詠歌も残っています。
そして写真前方の石は八幡の陽石と呼ばれ三河屈指の逞しさとのこと。
馬も’コウシン’否’コウサン’したとか、ーほんのブレイクタイムー
十一面観音の興味深い言い伝えも残っています

[p.28 夫恋薬師] これは登り口、もう一つの石段を登った所に大銀杏と共に
お薬師さんの祠はあります。大銀杏はコブが沢山あるからでしょうか、
母乳の願掛けもできるといわれています。こんなふうにも歌われていました
「夫が欲しけりゃ落部へおいで、落部薬師は夫恋薬師」

[p.36,37 黍生城址] 鎌倉時代、足助氏の祖、山田長政最初がに城を構えたところ
山谷から望む早朝の遠景と、地元の年例祭。
子どものころは、この辺りまでトリモチを仕掛け野鳥を追いかけもしました。
青空はあかね色に染まり、此処で迎えるオレンジ色の大きな落日
伊藤左千夫の”野菊の墓”の一節に相応しい夕闇が迫ります
ー「まあ民さん、御覧なさい、入り日のりっぱなこと」民子はいつしか笊を下へ
置き、両手を鼻の先に合わせて太陽を拝んでいる。
西の方の空は一体に薄紫をぼかした様な色になった。ひた赤く赤いばかりで
光線の出ない太陽が、今その半分を山に埋めかけたところ、僕は民子が一心
入日を拝むしおらしい姿が長く眼に残っているー
※ ここまでストーリイがあって余り紹介さっれなかったところから
ピックアップしました。
<香嵐渓と重伝建の町 もう一つの道しるべ>
◎そして昭和55年に香嵐渓な内にできた三州足助屋敷が大ブレイクすると
町当局は、江戸時代の町並みを残す眠れる資源と一体化させた
グローバルな観光化による産業化を目指します
そこから国の予算もとりいれた圧倒的規模の3つの施設(+足助城)が誕生します

◎リフォーム後の三州足助屋敷、一枚の写真では納まり切れません

◎足助公民館・トレーニングセンター 昭和60(1985)竣工
300人収容のホールがあり、そのために先生の給与に上乗せしていた
へき地手当が廃止 そんなエピソードもありました

◎ ホテル百年草 平成2年(1990) 竣工
ハムとパンの製造販売をする、ジジ工房、バーバラハウスが
あり、社協も隣接しています
※ 散在するこれらの施設は、後に地元の部会で決めた重伝建エリアと
中之御所地区を経て繋がります、当時、日本中で語られた”町おこし”の
モデルともなる試みのひとつでしょう
一方町並みにも注力します、
郷土史家S氏の史的裏付けを根拠とし、総てのプロジェクトを主導したのは
町役場の一職員故O氏でした
ブレイクタイム ☕

きかは繪持子(←こちらから読む)
明治天皇 大喪の礼の仕掛け絵葉書、葬列も葉書ももっと長いです
<足助物語のものがたりとその背景>
O氏これらの施設を活用し、講演に限らずマルチな活動を展開し
メディアはO氏の活動を負い続けます。O氏の言葉は足助の言葉と
して報道されました。当然、点を面にすべく町並みにも着手します。
[P20.21 マンリン小路・マンリン書店] 足助には街道から山側と川側に多くの
小路があります、川側を代表するのは海老屋小路
(小路に隣接する建物で命名されています)
とりわけ足助山宗恩寺道の塔の立つマンリン小路は日本の小路100選に
指名される程の、両側を白壁、下見板が連なる垂直性の強い空間です
書店主は小原和紙の芸術家でもあり、店内にギャラリーとカフェを併殺され、
O氏の企画に屡々片腕として登場されます
三州足助屋敷と百年草の売店には関連書籍のコーナーも設置されました
◎ ”晴れた日足助”岡崎の画家からさわさんが町並みのマップを描き、
それを販売することになった時、当然の如くマンリン書店発行
ーたしか朝日新聞は、田舎の書店がマップを発行!ー
紙面の半分ほどをさいて報道した記憶です
◎ 足助物語 それから1.2年後でしたでしょうか、S先生の冒頭の評価も
あり、人脈の無いメディア関係ですが、密かに期待したのでしたが
報道は中日新聞三河版 最下段に三行の掲載、反響は殆どなし
1000冊近い部数を販売してくれたのは名古屋の小取次でした
ブレイクタイム ☕

◎ 作曲家山田耕筰から当時の白久の当主宛の手紙2通
明治45年1月1日付 台湾アミ族の家族
豊田市博物館で伊能忠敬展(令和8年)があり、白久で宿泊されたという
お知らせをいただき、調べましたが旅館の営業らしきものは何も見つからず、
代わりに発見しました。耕作君と仰ったのを微かに記憶しています。
付録の上納金の覚書もあるように、とても羽振りが良かったようで、
そんな関係でお泊りいただいたのかもしれません。
◎ 建築家上杉氏 3大施設、マンリン書店の設計はアイビースクエア倉敷にも
関わった上杉氏でした。 白久は運良く3大施設の家具備品の納品業務を入札
で取得しました。親しくなった上杉氏に白久の店舗設計をお願いしたところ
暫くして、理由は申し上げられないが、今はできないと断られ、
株式会社船場にお願いしました

リニューアルオープンは2001.12.1
畏れ多けれど愛子内親王のお誕生日と同日でした
※ 車社会の黎明期まで人々の移動は限られ、足助町も在郷町として
地域の中心でした。当時、田町に藤屋という大きな薬店があり
父はその番頭として年季が明け独立すべく物件を探していたところ
白久が売りに出ます。そこで薬屋をやらずにそのまま事業を引き継ぎました。
「結果として文化12年から続く足助で最も古い店となりました」
<グリフィンの祈り>
アメリカの病院の壁に一人のベトナム戦争の帰還兵が書きつけたもの
(小林正観著 神様に好かれる話 より)
「大きなことを成し遂げるために力を与えてほしいと神に求めたのに
謙虚さを学ぶように弱さを授かった」
・・・略・・・ ・・・略・・・
「世の人の称賛を得ようとして成功を求めたのに
得意にならないようにと失敗を授かった」
・・・略・・・
「求めたものは、ひとつとして与えられなかったが
願いはすべて聞きとどけられた」
・・・略・・・
”1500年前に、釈迦は「求める」ことを「執着」という言葉で表現しました。
「執着」があると叶わないのです”
◎ 書店と商店の葛藤
地方紙の雄中日新聞は時々本屋をテーマとした報道をします。
本好きを自認する僕は2点の書籍を出版し、書店としての存在感に拘った
のですがメディアのアプローチは無く、授かったのは創業以来の商店と
しての役割でした(ただ、数字は冷静に書店もサポートしてくれています)

※ 本屋の歴史と証 S20旺文社銃剣術指導掛図、T8終身掛図
手塚治虫没年の雑誌少年の付録、鉄腕アトムのカレンダー
左下 中1コース年間予約景品ピンクレディの万年筆etc.
宮西達也先生の色紙も掲げてあります
(小学校と連携し多くの絵本作家さんをお招きしました)
◎ 「求める 」と 「執着」 競争社会に促されて悩みの中から掴んだ事
① 煩悩即菩提 この言葉に随分励まされました。
○私小説も書きました、タイトルは”町おこし心おこし(208枚)”
コスモス文学に応募し佳作のレベル、177号に一応掲載
② 神様のプレゼント (贈り物)はプレゼント (今) 人生はいつも今、
今を大切にする(ウオルシュ著 神との対話)
=誰でもできる2つのこと=
◎エピローグ 一昨年SANJU(実は傘寿)でリタイア 、事業承継の困難な時代
ですが譲渡も叶い、暫くはお手伝いとして残ることとなりました
天職は英語でcallingだとか(夢をかなえるゾウ0)神様は、やはり
こちらの仕事にお声をかけて下さったのでしょうか
運とこ゚縁にも恵まれて、地元豊田市の卒園児が受け取る記念品、
小学生中学生が学習をする机、椅子などをお届けする仕事もできています
悩み続けた人生と思っていましたがこ゚縁はすべて神様のお手紙であり
お慈悲、僕にとって大切で必要なものばかりでした。
未だ長男が家業を継げた時代、生涯を誠実に働き通した両親でしたが
僕が帰省したときは家も土地も借金の担保、
マイナスからの苦しいスタートでしたが、それも含めて。
”グリフィンの祈り”は、このように結んでいます
「私はもっとも豊かで祝福されたのだ」
<少女スジャータにあやかって>
※ 厳しい修行に疲れ果てた釈迦にスジャータは乳粥を差しだし
お釈迦様の悟りのきっかけとなったそうです
※ 店内から俯瞰できる江戸時代から利用する立派な井戸があります、
周辺の井戸は既に枯渇か汚染、水神様のいわれのある我が家の水質は
パーフェクト(足助町時代に1度、直近R4 7/5検査済)
町並み散策でお疲れの方には無料で提供します。
ペットボトルをご持参下さい、店頭にも表示します。
災害時地域のお役にたてればと、発電機とカセット燃料も準備しました
水神様もお喜びいただけるでしょう。
(尚、水神様についてはブログで既報)

※ リフォームによって生まれた店内からのロケーション
土蔵の先は足助川
某TV局の住宅番組でついた名称”足助川の家”
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