314)洞ヶ峠を決め込んでいない | 峠を越えたい

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戻るより未だ見ぬ向こうへ

 京都から大坂へ流れ下る淀川に両側から山々が迫る狭い場所で、意図的にか、偶然にか

明智光秀軍と羽柴秀吉軍の激突が起こったと聞いています(「山崎の戦い」)。この辺りがどんな地形なのか知りたいところ、『やまざき 山崎』(コンサイス地名辞典、三省堂、1975)が詳しく語ってくれます。

 「山崎」は淀川の北岸で、天王山の南麓にあると位置が分りました。『新選中学校社会科地図』(帝国書院、1961)より地図を使います。

 天王山の南の麓で、「大山崎村」と書かれているところです。「山崎狭隘部」とは石清水八幡宮を乗せた丘陵部と天王山に挟まれた地域です。有り難いことに有名な「洞ヶ峠」の場所が分かります。さらに詳しい地図は国土地理院より、

 そこで、上の地図に於いて天王山(上端の僅か上、270m)から鳩ヶ峰(142m)の直線で断面を作ります。

 

 淀川河川公園が標高12mです。本当に狭い所ですね。次に「洞ヶ峠を決め込む」に入りたいと思いますが、『新詳日本史図説』(浜島書店、2000)より、「山崎の合戦関係図」を見ます。

 ここにも「洞ヶ峠」の位置が示されています。『ほらがとうげ 洞ヶ峠』(コンサイス地名辞典、三省堂、1975)より、

 戦況が定まるまで傍観してたという話は信憑性がそれ程なさそうなんです。広辞苑の『ほらがとうげ【洞ヶ峠】』はこう言っています。

 “(京都府八幡市と大阪府枚方市の境にある峠。天王山の南約7キロメートル。1582年(天正10)の山崎の戦に明智光秀がここに来て、筒井順慶の去就を問うた事実が誤伝され、順慶がここに陣して形勢を観望したとされたことによる)両方を比べ、有利な方につこうとして形勢を観望することを。日和見。”

 筒井順慶はどんな人となりなんでしょう。『つついじゅんけい 【筒井順慶】』(日本史小辞典、山川出版社、2005)より、

 

 明智光秀の誘いに応じず、郡山城から出て来なかったとのことです。『筒井順慶』(Wiki.)の中の「本能寺の変の後」では、

 “光秀は与力で親密な関係にあった順慶の加勢を期待して、河内国を抑えるため洞ヶ峠に布陣し、順慶の動静を見守ったが、順慶は静観の態度を貫徹した。洞ヶ峠への布陣は、順慶への牽制、威嚇であったとも解釈されている[32]。なお順慶が洞ヶ峠に布陣したということについては、良質の史料では全く確認することができない[33]。『太閤記』のような俗書でも光秀が布陣して順慶を待ったと書かれている。『増補筒井家記』には、順慶は島左近の勧めで洞ヶ峠に布陣したと書かれているが[33]、この本は誤謬充満の悪本であり、この説は誤りである[34]。ただ日和見順慶という言葉は相当古くからあったようで、それはこの際における順慶の態度を表現している[34]。”

 洞ヶ峠に陣取って日和見をした事実は無いようですが、日和見的性格を有する順慶とは噂されていたのかどうか。“火のない所に煙は立たない”のか、日和見などしたことのない人なのか。戦国時代ですからどっちの有力者に味方するかに悩むことは日常茶飯事でしょう。歴史の「本当」は分かりません。諺だけ受け取っておきます。

 さて徒然草第五十二段が再び登場するのは、山城狭隘部を作る南側丘陵地に石清水八幡宮を見付けたからです。途中の寺や明神様を参拝して下山してしまい、山上にある石清水を拝んできたつもりになって、念願が叶ったと人に語るという内容で、“先達はあらまほしき事”という兼好法師の気持ちでした。

 明智光秀の敗死した、名前だけは覚えている「小栗栖」はこんなところにありました。京都市伏見区小栗栖(おぐるす、おぐりす)だそうで、石碑が立っています。