神田川の流れの上に、水を通す樋を渡してあったので、これが「水道橋」の名前に関わっているんだとか、聞きかじったことがありますが、この辺りを正しく知りたいと思います。『江戸名所図会(1~20)』は自由に閲覧できます。「国立公文書館デジタルアーカイブ」に感謝します。その(1)より、先ず絵を掲げます。
「御茶の水 水道橋 神田上水懸樋」と記されています。やけに平べったい橋で、その近くの、上流方向にある橋の‘上に凸’形とは様子が違います。では説明文を。
何て書いてありますか。“小川町より小石川への出口神田川の流れに架すこの橋の少し下の方に神田上水の懸樋あり。故に号(な)とす。この下の川ハ万治の頃仙台侯欽命を奉して堀を割らるる所なりといふ。萬治の頃迄駒込の吉祥寺この地にあり。その表門の通りにありしとてこの橋の旧名を吉祥寺橋ともいへり。三崎稲荷ハ同し西の方土堤に傍てあり。この社ある故、南の街を稲荷小路と号く。社記云、当社ハ上古の勧請にて年代不詳。近くハ天文七年小田原北条氏祠の造?たりと。又云、この地は昔三崎村といひけるとそ。因(り)て三崎いなりと古称す”。
神田上水の懸樋がある、その僅か上流方向に、架けられた橋を「水道橋」と呼んでいます。旧名が吉祥寺橋とのことです。江戸名所図会にぴったりですね。『水道橋』(コンサイス地名辞典、三省堂、1975)はこのようです。
導水管が神田川を跨いでいました。何と『江戸切絵図』(by国立国会図書館デジタルコレクション)が描いてくれました。有り難い。
水道橋の直ぐ東に「上水樋」とあります。「上水樋」の右側には「御茶乃水」が見えます。江戸名所図会には「御茶乃水」の説明がないので、確か御茶ノ水橋の南詰に謂れの説明・石碑がありましたが、コンサイス地名辞典を引きます。
地名の由来が書かれています。すると、嘉永6年時点では湧き水(御茶ノ水)が滾々と湧き出ていたのでしょうか。今はどうか。
ここで頭が混乱してきました。神田川の水を使うのが神田上水ですよね。それは家康の時です。秀忠の頃、武蔵野台地を掘削して湯島台と駿河台を分離させて神田川を造った。武蔵野台地の東端を掘り進んで神田川を東へ延伸させた(?)。後に、神田上水も江戸の街へ更に延長させて、それ故神田川を神田上水が跨ぐ羽目になった。そうでないですね、神田上水はとっくに江戸の街を潤していたんだから、秀忠の時、神田川を掘削して東に延びて行くと、神田上水にぶつかってしまうので、神田上水は神田川の上を跨ぐように付け替えた?
コンサイス地名辞典の「神田川」と「神田上水」で、解決の糸口が得られそうか。
神田上水(万年樋)は神田川を跨ぐと、地下に潜って神田・日本橋・京橋方向へ流れて行く。すごいですね。
古くは、飯田橋付近から南に流れていた神田川を、江戸初期に(駿河台を)開削して東に流路を変えた。これが秀忠の時代ですね。神田上水はどこで取水されて、どう流れて、再び上水の元である神田川を跨ぐのか。そのことと家康の入ってくる前の神田川がどう流れていたのか。興味が尽きません。
さて、水道橋辺りで江戸の人たちの飲み水を取水したら簡単じゃないの、と考えると、恐らく神田川の水位が水を流すのに足りないのでしょう。






