歴史上のある出来事を、「西暦の年」と「和暦の月日」を合体させるという明らかに間違った年月日で、表記している歴史書を見かけることが多いと、警鐘を鳴らしている文章に出会いました。読売新聞の紙面ですが、何年前の全国版だか、切り抜いて取っておいたのですが、難しそうで理解を渋っていました。大変ゆゆしき事態なので、内容をしっかり把握したいと思います。文章全体は一面の1/4くらいです。著者は笠谷和比古(かさやかずひこ)国際日本文化研究センター名誉教授です。表題は『歴史の年月日 正確な記述を;西暦の年と和暦の月日 奇妙な合体』です。
例えば「関ヶ原合戦」は慶長5年9月15日の事件ですが、西暦で1600年10月21日に当たります。それらを一緒くたにして1600年9月15日が事件日となってしまう。この操作を笠谷氏は“疑似西暦”と呼んでいます。端的には「嘘」になります。本をいくつか覗いてみました。『日本史小辞典』(山川出版社、2005年)(Aとする)では、1600年(慶長5)9月15日。この記述は微妙です。疑似西暦の1600年9月15日と正解の慶長5年9月15日が同居しています。『日本史事典』(岩波書店、1999年)(Bとする)は同じようで、1600(慶長5)、9,15となっています。1600年9月15日と書くと、つまり明らかな間違いです。
関ヶ原の戦い』(Wiki.)はしっかりしています。こう記しています。
“関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、安土桃山時代の慶長5年9月15日(1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた合戦。関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われ、関ヶ原の合戦・関ヶ原合戦とも呼ばれる[4]。”
もう一つ、『関ヶ原の戦いをわかりやすく解説!原因・東西両軍の構成・結果まで』(「まぎれなきドットコム」)では、
“・慶長5年9月15日(新暦:1600年10月21日)、岐阜県関ケ原町で起きた日本史上最大規模の合戦(東軍約7万5千 vs 西軍約8万4千)
・豊臣秀吉の死後、石田三成率いる西軍と徳川家康率いる東軍が激突。わずか6時間で東軍が勝利した
・この戦いを機に家康が天下の実権を握り、1603年の江戸幕府開設へとつながる「天下分け目の戦い」”。
一番親切で、この表記ならば間違えないです。
国語辞典はどうしているか。日本国語大辞典では、“慶長五年(一六〇〇)九月一五日”、広辞苑では、“慶長5年(1600)9月15日”、デジタル大辞泉では、“慶長5年(1600)”です。日本大百科全書(ニッポニカ)では、“1600年(慶長5)9月”、ブリタニカ国際大百科事典では、“慶長5(1600)年、”百科事典マイペディアでは、“1600年、”、日本歴史大事典では、“1600年(慶長5)”。
“慶長5年9月15日”と意識しつつ、慶長5年は1600年に当たると語っているのかどうか。和暦年月日と西暦年月日との混同を避けられません。“1600年(慶長5)9月”はいけません。
笠谷氏はこんな例を更に3つ挙げています。
赤穂浪士の討ち入り日は和暦で言うと年の押し詰まった時期であったので、複雑さが増します。元禄15年12月14日は1703年1月30日に当たります。しかしこの事件を1703年12月14日、あるいは1702年(=元禄15)12月14日と記している例があるんだそうです。これはひどいですね。日本史小辞典の「赤穂事件」は、1702年(元禄15)12月14日と記しており、西暦では1703年が正解です。和暦なら12月14日、西暦なら年を越した1月30日です。日本国語大辞典の「赤穂義士」には、“元禄一五年(一七〇二)一二月一四日、江戸本所松坂町に……”。元禄15年12月14日です、と強調し、括弧で和暦を添えていますが、赤穂事件は西暦1703年です。和暦、西暦混淆はいけません。関ヶ原合戦を“1600年(慶長5)9月”とした日本大百科全書(ニッポニカ)は、“…………しかし翌1702年7月に大学は広島の浅野本家にお預けとなって…………。そして12月14日大石以下の浅野家遺臣が江戸本所…………。…………切腹を命じ、1703年2月4日全員が死についた。………………”。文脈から、1702年12月14日と受け取らざるを得ません。
王政復古の大号令はAでは、1867年(慶応3)12月9日。1868年1月3日なので、1867年ではだめです。1867年は慶応3年に当たると言っているだけになります。実際は慶応4年に入ってすぐの出来事です。
鳥羽・伏見の戦いは慶応4年1月3日=1868年1月27日です。Bの記載は“1868(慶応4)、1,3に発生した新政府軍と旧幕府軍との戦闘”。1868年1月3日は間違いであり、このような西暦年と和暦月日を合体させると、3週間強ほど間のある鳥羽伏見の戦いが、王政復古大号令の日(西暦1868年1月3日)と同じ日になってしまうという正にゆゆしき大事です。Wiki。は頼れます(検証が必要で、「バビロン捕囚年」のこともありますが)。今年も寄付しました。『鳥羽・伏見の戦い』(Wiki.)より、
“鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい、慶応4年1月3日〈1868年1月27日〉- 1月6日〈1月30日〉)は、戊辰戦争の初戦となった戦いである[1]。
戦いは京都南郊の上鳥羽(京都市南区)、下鳥羽、竹田、伏見(京都市伏見区)、橋本(京都府八幡市)で行われた”。
さて、私のつたない説明でお開きでは印象が薄くて申し訳ないので、また実際の紙面を全て載せた方が生き生きとはっきりと迫って来るでしょうから、そうさせて下さい。笠谷氏に承諾を願って。
必ず年月日の記されているであろう一例を取り上げます。坂本龍馬が京都の近江屋で命をなくした日です。『坂本龍馬』(Wiki.)によると、
“慶応3年11月15日(1867年12月10日)、龍馬は宿にしていた河原町の蛸薬師で醤油商を営む近江屋新助宅母屋の二階にいた。…………午後8時頃、龍馬と中岡が話していたところ、十津川郷士と名乗る男たち数人が来訪し、面会を求めてきた。…………龍馬たちのいる部屋に押し入った。龍馬達は帯刀しておらず、龍馬はまず額を深く斬られ、その他数か所を斬られ、ほとんど即死に近い形で殺害された[95][96]。享年33(満31歳没)。龍馬が暗殺された日は、奇しくも自身の誕生日であった。”
慶応3年11月15日(1867年12月10日)とちゃんと和暦と西暦を分けて書いています。天保6年11月15日(1836年1月3日)生まれの龍馬にとって、ちょうど誕生日であったと知りました。でも西暦で言えば異なるのが当然です。Aでは、「さかもとりょうま[坂本龍馬]」において、
“1835.11.15?~67.11.15 幕末期の志士。………………新政実現に努力中、11月15日京都の近江屋で暗殺された。”
西暦1867年12月10日ですから、これは全くいただけません。Bでは、「坂本龍馬 さかもとりょうま」にて、
“1835-67(天保6。11.15-慶応3.11.15) 幕末期の土佐藩出身の志士。…………………………”。
こちらは和暦がしっかり書かれているものの、西暦の月日が省かれています。一番新しい出版のA,Bを知りませんが、笠谷和比古氏の「西暦の年と和暦の月日の奇妙な合体(疑似西暦)」状況から、最近の歴史書は脱していることを願っています。

