313)名前の由来をたまたま知った「両津」 | 峠を越えたい

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 佐渡の「両津」ですが、「両津湊」と書かれているのを見たのは、何の書き物だったか、テレビだったか。両津港とするのが普通だろうに、思うところあって「湊」を使い始めたのでしょうか。そこで昔の地図とか古い時刻表とかを眺めてみました。

伊能中図は『伊能図大全第5巻 伊能中図・伊能小図』(河出書房新社、渡辺一郎監修、2013)から引用します。

 湊町、原黒村、住吉村、城腰村、下久知村などと読めます。「湊」の字が使われています。

1934年12月号『汽車時間表』(日本旅行協会)の路線図からです。

 「佐渡夷」とは何でしょう。1956年12月号『時刻表』(日本交通公社)では、

 「佐渡夷(両津)」と記されているので、同じ場所ですね。1961年10月号『時刻表』(日本交通公社)では、

 「佐渡両津港」と記されています。次は1950年だから2番目の路線図の6年前で、『中学校社会科地図帳』(帝国書院、昭和25年9月)より、

 「両津(湊夷)」と書かれていますか。ここで『コンサイス地名辞典』(三省堂、1975)は助っ人になってくれるでしょうか。

 有り難いです。「夷」港と「湊」港の2つを一緒にした命名で、「両津」としたんでした。1950年の地図では「湊夷」(みなとえびす)と両者を立て、「佐渡夷」では片方の地名です。やっと分かったところで、伊能中図を見返すと、「夷」に「まだれ」を被せたような漢字が恐らく同じ字なんでしょう。この街と「湊町」が一緒になって両津と呼ばれるようになったんです。よく目を凝らすと『両津市』(Wiki.)にも書かれています。しかし今は両津市では無いんですね。平成の大合併により佐渡島全部が佐渡市です。

 『両津市』(Wiki.)に興味深いことを見付けました。その「地理」のところに、

 “平野の海岸近くに、加茂湖がある。もとは淡水湖であったが、1903年 (明治36年) に海につなげて汽水湖とした。市街地は加茂湖と両津湾の間にある細い砂州の上にあった”。

 元々汽水湖であったものが長い年月の経過で淡水湖になっていたところ、汽水湖に戻してしまった。なんて想像は許されるでしょうか。汽水湖の有利な点は。アサリがいっぱい採れるとか。汽水湖沿岸の港は波静かで浚渫すれば良港ですね。でも加茂湖には大きさどの位の船までは入れるのでしょうか。牡蠣の養殖が盛んなようです。

 佐渡には職員団体旅行で渡ったことがあり、勿論佐渡金山は訪ねますが、バラ園に入った記憶があります。予算の関係だか、ジェットフォイルではなくカーフェリーで、すごい勢いで途中抜かされました。ジェットフォイルの雄姿が目に焼き付いています。

 『寅さん』のロケ地になりました。佐渡のどの港か、土産物屋2階の食堂でビール飲みながらの食事、相手は都はるみ。たらい舟のシーンもありました。一度乗ってみたいです。