あらすじ
終戦直後、占領下の沖縄で、初めて堂々と米軍にモノを言った伝説の男・瀬長亀次郎。全国で唯一、凄惨な地上戦を経て占領され、米軍支配下で息を呑むようにして生活していた沖縄の人々は、亀次郎の演説に快哉を叫んだ。
「一握りの砂も。一滴の水も。ぜーんぶ、私たちのものだ。地球の裏側から来たアメリカは、ぬするれいびんど……泥棒だ!」演説会には10万人を超える人々が集まり、米軍の度重なる妨害にもかかわらず亀次郎の言葉に熱狂する。ついに米軍は微罪で亀次郎を逮捕、宮古島の監獄に送るが、奇跡的に生還を果たし、市民の後押しを得て那覇市長に当選した。妨害の連続で市長の任期はわずか1年で終わったが、70年には衆議院議員に当選。佐藤栄作首相に対し、「沖縄は再び戦場となることを拒否する!」とド迫力の論戦を繰り広げた。
「伝説の男」の骨太な生涯を描いた感涙の映画が、ついに書籍化。
 
ひと言
少し前に読んだ直木賞受賞の「宝島」に瀬長亀次郎さんのことが書かれていたので調べてみました。2017年の夏に「米軍が最も恐れた男~その名は、カメジロー」という映画が公開され、2018年にこの本が出されたということを知り図書館に予約を入れました。この本を読んでもっともっと沖縄のことを知らないといけないなぁと強く思いました。レンタルビデオ屋さんにも映画があるようですが、まだ見つけられず借りれていませんが、映画も観てみたいです。
 
沖縄では子どもが生まれると、隣近所が集まり、お祝いする風習がある。 しかしあるとき、「絶対に来ないでくれ」と来訪を拒否する家があった。生まれてきた赤ん坊が、家族の誰にも似ていない、褐色の肌だったからだ。出産後に初めて、娘が黒人兵に暴行を受けていたことがわかり、父親は大きなショックを受け、かたくなに祝福を拒んだ。「みんな言わないだけで、12名は米軍に襲われた。いつのことだったか、母と話していて、12名と言ったら、13名だと言われた。実は、ってお母さんが言う。あんたのおばさんも米軍に犯されたんだよ、と初めて聞いた」 常に身近に暴行の恐怖がついてまわる。それが、沖縄の戦後の始まりだった。
「米軍はマングースと一緒だ」 と島袋は言う。
マングースとは、沖縄に生息する毒蛇・ハブやネズミを退治するために導入された外来種だが、招いたのは、悲惨な結果だった。ハブ退治より、むしろニワトリ、アヒルなど鳥類の敵となり、国の天然記念物ヤンバルクイナまで食い荒らした。 「良くするといって外から入ってきたが、結果は暴行するわ、ジェット機を落とすわ……マングースと一緒だ」
(第1章 沖縄を魅了した演説)
 
「日本人民との結合。それのみが沖縄人民を貧乏から解放する道である」 亀次郎は、「日本人民と結合せよ」という論文で、そう書いている。 しかし、急を告げ始めた世界情勢が、その道行きを遮った。 1950年6月、朝鮮戦争が勃発。ソ道との冷戦構造がより深刻になったことで、反共の防波堤が必要になったアメリカは、その4ヵ月前、軍事占領している沖縄を恒久基地化すると宣言していた。
翌1951年9月8日には、サンフランシスコ講和条約の締結により、日本の主権回復と、沖縄を日本から切り離し、アメリカの施政権下に置くことが決まった。と同時に日米安保条約が結ばれ、独立国に米軍が駐留することになる。 ここに至るまで、本土と沖縄の分断を図る動きが続いていた。アメリカは太平洋戦争の最中から、戦後ソ連、中国にどう対峙するかという世界秩序を想定し、沖縄を東アジアの要衝として拠点を築く戦略を持っていた。 そのために、本土と沖縄を分断しようと、両者の間にある精神的な亀裂に注目し、それを拡大させようと狙う。沖縄戦では「心理作戦」を展開し、本土と沖縄を切り離そうとした。
(第2章 米軍vs.カメジロー)
 
亀次郎の行動には、法的な根拠があった。ハーグ陸戦条約である。 いわゆる戦時国際法のひとつで、攻撃手段の制限や占領、交戦者の資格、捕虜の取り扱いなどを規定している。その中に、 「占領された市民は、占領軍に忠誠を誓うことを強制されない」 という条文があるのだ。 亀次郎はその行動に、常に法律的な裏づけを意識していた。 この創立式典の前日、立法院から印鑑を持参するよう通知があった。宣誓書に捺印するためというのだ。亀次郎が通知に応じず、出向かずにいると、立法院職員が「立法院議員は、米民政府と琉球住民に対し厳粛に誓います」という宣誓書を持って自宅にやって来た。このとき、亀次郎を除くすべての立法院議員の捺印がすでに済んでいた。 亀次郎は、宣誓文から「米民政府」を削らないと判は押さない、と突っぱねた。 「これはひとり沖縄県民だけの問題ではなく、日本国民に対する民族的侮辱であり、日本復帰と平和に対する挑戦状だ」……。……。再度、亀次郎は捺印を拒否した。ずらりと並ぶ名前の、瀬長亀次郎の下だけが空欄なのである。亀次郎は、三度目にやって来た職員から、式典への参加を確認されると、それには「喜んで参加します」と応じ、臨んだ式典の場で、起立を拒否したのだ。 ポッダム宣言の受諾によって訪れるはずの平和が来ない。しかもそれを阻んでいるのは、宣言を主導し受諾を迫った当のアメリカである。 亀次郎は、ここに大きな矛盾を感じていた。沖縄に対する侮辱は、日本に対する侮辱と同じだ。民主主義に反している。それが亀次郎の思いだった。
(第2章 米軍vs.カメジロー)
 
「私が投獄された、唯一の理由は、祖国復帰運動を徹底的にやったことにある。しかし、私はどこまでも県民のみなさんとともに祖国復帰のためにやっていく決意を固めている。働く全県民のスローガンは民族の完全独立であり、これは沖縄の祖国復帰と結びついていることはいうまでもない。 もし祖国復帰を叫ぶことをやめて基地権力者に迎合するならば、自己栄達の道が開けるかもしれない。また、これ以上祖国復帰を叫ぶならば、再び監獄に入れられるかもしれないが、私は後者の道を選ぶ。投獄もいとわない気持ちである」
次女・千尋は言う。
「アメリカの失敗はね、亀次郎を投獄したことだと思うんです。投獄すれば屈すると思っていたと思うんです。でもますますヒーローになって帰ってきた。出獄のときは、亀次郎が無事に出てきたことが驚きだった。みんな殺されると思っていたらしいんですよ。それに獄中死してもおかしくないような病気もしていたし、奇跡的に回復した。投獄したほうも、獄死してもいいくらいの気持ちで投獄していると思うので、そういう人が無事に出てきたのは、みなさん勇気が出たって言うんですね。亀次郎でもこうやって無事に生きて帰ってこられる。どんなに弾圧されてもがんばろうと、出獄がみんなに勇気を与えたんですよ」
米軍の目論見は外れた。1年半の獄中生活によって、亀次郎の影響力は削がれるどころか、むしろ、強くなり、存在感はより大きくなった。
(第3章 獄中日記)
 
沖縄中部の宜野湾村(現・宜野湾市)では、いまの普天間基地となっている地域をはさんで、北と南で、犠牲になった住民の率が大幅に異なる。北の集落では犠牲となったのは軒並み1割台だが、南では半分近くに及ぶ。南の地域には日本軍の陣地があった。降伏したくとも日本兵の手前、降伏できなかったのだ。「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓によって、多くの民間人が投降を許されず命を落とした。
一方北の地域では、捕虜となった住民らが収容所生活を送っていた。軍隊がそばにいるかいないかが、生死を分ける分岐点になった。日本車司令部があった首里に米軍が迫ると、日本軍は司令部を放棄して南部への撤退を決断した。これによって、さらに多くの民間人が戦闘に巻き込まれ、3ヵ月に及ぶ地上戦で沖縄県民の4人に1人の命が奪われた。歴史的な差別の末、「日本人」になろうと日本のために戦った沖縄県民が捨て石とされた。その結末がこれである。 亀次郎が、日本軍司令官と参謀長の自決(6月23日)を知ったのは、翌24日の夕方のことだった。
(第4章 「抵抗者」の軌跡)
 
2007年9月29日、沖縄戦の強制集団死に関する記述をめぐる教科書検定で、日本軍の関与が削除されたことに抗議する県民大会には11万6000人が集まり、会場の宜野湾海浜公園を埋めた。 沖縄の人々にとって、歴史の改竄はアイデンティティーの否定にほかならない。絶対に受け入れられるものではない。
2009年、のちに首相となる民主党の鳩山由紀夫代表が普天間基地について「最低でも県外移設」とぶち上げたことから、沖縄には期待が高まっていた。しかし、政権交代から2ヵ月もしないうちに、鳩山は公約をめぐって「時間というファクターによって変化する可能性は私は否定しない」と述べ、疑念が深まっていく。そして2010年4月25日、読谷村運動広場に、9万人が集結し、普天間基地の県外・国外への移設を訴えた。
2012年、安全性に疑問符がついた輸送機オスプレイの沖縄配備が公表された。配備は1996年に決まっていて、日本政府にも伝えられていたが、当時の自民党政権は公表せず、「聞いていない」の一点張りだった。
同年9月9日、宜野湾市の海浜公園に10万1000人が集まり、炎天下で声をあげたが、3週間後にオスプレイは次々と飛来した。 大会を引っ張ったのは、当時那覇市長の翁長だった。翁長はこの日、沖縄は1つになろうと訴えた。保守政治家を自認する翁長が赤い鉢巻をしめ、横には、沖縄の名だたる革新政治家が並んでいた。
2013年12月25日、首相官邸を訪れた、当時の県知事・仲井眞弘多に、安倍首相は毎年3000億円台という沖縄振興予算を提示した。仲井眞は「有史以来」と高く評価。 「これはいい正月になるな、というのが私の実感」 という言葉を残して沖縄に帰る。振興策は基地とリンクしないはずだったが、2日後、辺野古の埋め立て承認を表明した。
2010年の知事選での「普天間基地の県外移設」という公約放棄の批判を免れないもので、この選挙で選対本部長を務めた翁長への相談もないまま仲井眞の心変わりで、二人は訣別する。
2014年11月16日投票の知事選で、翁長は仲井眞に挑み、圧倒的な票差で勝利した。事務所内に、1年前の仲井眞の言葉を皮肉った「これでいい正月が迎えられます」という声が響いた。

米軍関係者による犯罪は止まるところを知らない。
2016年4月、20歳の女性が、元海兵隊員で軍属の男に暴行され殺された。6月19日に行われた、被害者を追悼する県民大会では「怒りは限界を超えた」「海兵隊は撤退を」というメッセージが掲げられた。
7月22日、北部訓練場の一部返還に伴い、東村高江の集落の周囲にヘリパッドを新設することに抗議する住民が強制排除された。
10月には、警備にあたる機動隊員から、工事に抗議する作家・目取真俊さんに「土人」という言葉が浴びせられた。
9月16日、翁長知事の辺野古埋め立て承認取り消しは違法という判決が福岡高裁那覇支部でくだる。
12月13日、政府が「安全」だと強調したオスプレイが、名護市の海に墜落し大破。機体はまっ二つになっていた。政府は、これを墜落ではなく、不時着だと強弁し、沖縄県警の警察官が現場を「守って」、地元の名護市長や知事さえ現場に寄せ付けなかった。
12月22日、北部訓練場の返遺式が名護市で行われた。 政府からは菅義偉官房長官、稲田朋美防衛相(当時)、米政府からもケネディ駐日大使(当時)が出席したが、翁長知事は欠席し、同じ名護市内で行われた「欠陥機オスプレイ撤去を求める緊急抗議集会」に参加した。政府のイペントを蹴って県民との場に姿を見せた知事を迎える拍手は、なかなか止まなかった。
2017年3月25日、辺野古での埋め立て工事の即時中止を求める集会で掲げられたプラカードにあったのは、亀次郎が残した言葉だった。
「弾圧は抵抗を呼ぶ 抵抗は友を呼ぶ」「不屈」
〈民衆の憎しみに包囲された軍事基地の価値は0に等しい〉
亀次郎は、日記にそう書き残している。 まるで、いまの沖縄の姿を予見したかのように。
沖縄は、自らの手で民主主義を勝ちとり、今日なお、真の民主主義を求める闘いのなかにある。そして、その闘いを通して、強くなった。原点は、瀬長亀次郎。「むしろのあやのようにまっすぐ生きなさい」という母の教えを地で行ったその人生は、大地に根を張るガジュマルの木のように強靭だった。
(エピロー グ 亀次郎の遺したもの)

 

バーミキュラのパンを買った帰り、この10月に池下にオープンした「ダグズ・バーガー 名古屋店」へ遅いお昼を食べに行きました。沖縄の宮古島の本店は百名店にも選ばれているお店で、そのお店が名古屋に上陸です。ダグスチーズバーガー+LAVA(溶岩)チーズ(1419円)とシークワーサージュース(539円)をいただきます。多良間牛のパティは確かに美味しいのですが、バンズがいまいち…。全体的にも、これでほんとうに3年連続百名店に選ばれてるの?という味です。飲み物も高いし(これが一番安い飲み物です)。この味で1958円はないだろ。
期待が大きかっただけに少し残念なハンバーガーでした。
 

 

 

 

今日は、いつもの大垣に水を汲みに行った帰り、「オムライス専門店 イーグル」へ夕食を食べに行きました。以前に行った「オムライス専門店 エグロン」とは姉妹店とのこと。シーフードトマトソースオムライス タマゴはオープンタイプ(1421円)と 特製ハヤシソースオムライス タマゴはオムレツタイプ(1263円)をシェアしていただきます。ハヤシソースはトマトの酸味が効いて少しビターな大人の味でそれがバターライスと合っておいしいです。玉子の味とフワトロ感もグッド。おいしいオムライスでした。ごちそうさまでした♪

 

あらすじ
真冬に集う男女8人の運命は? あの東野圭吾が“恋愛”という永遠のミステリーに真っ向から挑む。衝撃の結末から目を逸らすな! この恋の行方は、天国か地獄か。怒濤の連続どんでん返し!
 
ひと言
久しぶりの東野圭吾さん。ひと昔前よりずいぶんと借りやすくなりましたね。7つの短編がうまくつながって登場人物のキャラもわかりやすく、昔の映画「私をスキーに連れてって」を思い浮かべながら楽しくあっという間に読了。最初の「ゴンドラ」もハラハラドキドキするので、ある意味サスペンスなのかもしれませんが……。でも東野さんの本としては、やっぱり「容疑者Xの献身」のような本を読みたいなぁ。
 
今回、このスキー場でのサプライズ・プロポーズを考えた時、水城の頭に浮かんだのが、この林道だった。作戦はこうだ。秋葉が月村夫妻と共謀し、この林道に向かう。そして途中、一人二人とコース脇に姿を隠すのだ。やがて一人きりになった橋本さんは焦るだろう。はぐれてしまったと思うに違いない。止まっているわけにはいかないから、とにかく進むしかない。やがてこの「魔のだらだら林道」に入ってしまうわけだ。間もなく今の水城たちと同様に止まってしまった彼女は、後ろ足のバインディングを外してスケーティングをしようとするだろう。ところがこの深雪だ。ボードが沈んでうまく進めない。そんな超緩斜面が、延々と続く。やがては疲れ果て、誰か助けて、私を引っ張って、となる。そこへ見知らぬ二人のスノーボーダーが現れる。バックカントリー・ツアーにでも行ってきたのか、ボードを取り付けたバックパックを背負い、ポールを手にし、足にはスノーシューを付けてサクサクと歩いている。雪の中で立ち往生している橋本さんを見て、彼等の一人が立ち止まる。そして、どうぞ、とばかりにポールを差し出してくれるのだ。疲れて足が動かなくなった彼女には、それが神の助けに見えるだろう。彼女がポールを摑むと、男性は力強く歩きだす。おかげで彼女は深雪での移動の苦労から解放され、すいすいと滑っていける。間もなく、「魔のだらだら林道」もゴールを迎える。そこからは滑走が可能だ。彼女は自分を引っ張ってくれた謎の人物に礼をいう。すると相手はここで初めて声を発する。
「これからも俺についてきてくれるかな」 聞き覚えのある声に、橋本さんは戸惑いの表情を浮かべるに違いない。だが考える暇を与えてはならない。このタイミングで即座にゴーグルとフェイスマスクを外し、正体を明かすのだ。 彼女は驚くだろう。見知らぬ男性だと思っていた相手が、じつは付き合っている恋人、日田栄介だったのだ。何がどうなっているのか、すぐには理解できないに違いない。混乱している彼女に、日田はすかさず懐から出した指輪を見せる。 「俺が引っ張るから、ついてきてほしい。永遠に」 それでようやく橋本さんは理解するはずだ。すべてが仕組まれたことだと。運命の瞬間に、今自分はいるのだと。 これほど凝った演出をされて、心を動かされない女性はいないだろう。彼女は迷わず指輪を受け取るはずだ。その劇的なシーンを撮影するため、水城のヘルメットにはカメラを装着してある。 我ながらいいアイデアだ、と水城は自画自賛する。定食屋のテレビで月光仮面の映像を見て思いついたわけだが――。
(プロポーズ大作戦)

 

あらすじ
舞台は文政13年(1830年)の京都。年若くして活花の名手と評判の高い少年僧・胤舜(いんしゅん)は、ある理由から父母と別れ、大覚寺で修行に励む。「昔を忘れる花を活けてほしい」「亡くなった弟のような花を」「闇の中で花を活けよ」……次から次へと出される難題に、胤舜は、少年のまっすぐな心で挑んでいく。歴史、能、和歌にまつわる、あるいは生まれたままの、さまざまな花の姿を追い求め、繊細な感受性を持つ少年僧が、母を想い、父と対決していくうちに成長をとげていく、美しい物語。
 
ひと言
京都 嵯峨野の風景を思い出しながら読みました。なかでも祇王寺 なつかしいなぁ。大学生のときに行ったきりで、もうかれこれ40年前になります。苔と青もみじがとても感動的に美しかったのを思い出しました。おばあさんが平家物語を語ってくれてたことも…。直指庵にも行ったなぁ。この本を読みながら、もう心は嵯峨野に飛んで行ってしまって、今度 そうだ、嵯峨野行こう。

広甫は厳しい目で胤舜を見つめた。 「花を活けるおりには、無念無想であるにこしたことはないが、ひとが無になるとは、何もないということではない。ただひとつ、無くしてはならぬ思いを胸に抱くがゆえに、ほかのものが無くなる。生きておる無とはそのようなものだ。そなたのは形の美しさばかりがあって心が無いという無だ」
(忘れ花)
 
「これが昔を忘れる花なのですね」 萩尾が訊いた。 胤舜は手をつかえ、頭を下げて答えた。 「ひとは忘れようとすればするほど、思い出してしまうものではないかと思います。それよりもただひとつのよき思い出を胸に抱いているほうが、思い出さずにすむのではないでしょうか。忘れるとはそのようなことではないか、とわたしは思います」 「昔の思い出を大切にせよと」 萩尾は涙ぐみ、手で瞼を抑えた。
(忘れ花)
 
願はくは花の下にて春死なむその如月の望月の頃
如月の望月の頃とは二月十五日(新暦で三月半ば過ぎ)のことだ。 この日は釈迦の入寂の日でもあるとされるから、願わくば、お釈迦様と仏縁を得て、桜が咲き誇るころに西方浄土に旅立ちたいと読める。だが、桜の時期としては、やや早いのだ。 このため、この花とは梅なのではないかという見方もあるが、西行は桜の和歌を多く作っており、そもそも和歌で花と言えば、桜のことなのだ。だとすると、西行は桜の盛りではない時期をなぜ、わざわざ選んだのだろう。しかも建久元年(一一九〇)、河内の弘川寺で亡くなる。享年七十三歳だった。奇しくも没したのは二月十六日、和歌に詠んだ二月十五日と一日違いであり、――望月の頃を十五日ごろとするならば、まさに和歌通りに生を終えたことになる。……。……。
翌日、胤舜は大覚寺の本堂で桜を活けた。 広甫が前に座り、立甫や祐甫、楼甫ら兄弟子たちも居並んでいる。本堂の隅に源助もひかえていた。 胤舜は白磁の壷に桜の一枝だけを活けた。桜はまだ花弁が開いていない、―― 蕾 だった。広甫はじっくりと桜の蕾を見てから、 「これが西行法師の桜だと言うのだな」 「さようでございます。二月の望月のころ、まだ桜は満開ではございません。西行さまが見たかったのは、これから開こうとする桜のいのちではなかったかと思います。そのもとでならば、安心して旅立つことができると思われたのではないでしょうか」 胤舜は静かに言った。
(西行桜)
 

 

今日は娘夫婦と岐阜羽島のコストコへ行った帰り、「空天丼ありがとう本舗」へ晩御飯を食べに行きました。ミニ丼が2つ選べるよくばり御膳(1180円)をいただきます。私は空天丼とネギトロ丼をチョイス、ごま味かなめし味が選べるご飯はごま味を、塩味か特製しょうゆ味が選べる天ぷらは塩をお願いしました。空天丼とはつゆがかかっていない天丼のことらしく、天つゆがかかっていない分、てんぷらがさくさくで、ご飯がごま、なめしの味がついており、塩が効いているのでとてもおいしい天丼です。マグロ丼が品切れなのでネギトロ丼にしましたが、こちらも美味しく、丼ぶり2つなのでけっこうお腹いっぱいになりました。美味しかったです。ごちそうさまでした♪

 

 

 

 

 

あらすじ
「妹背山婦女庭訓」や「本朝廿四孝」などを生んだ人形浄瑠璃作者、近松半二の生涯を描いた比類なき名作!。江戸時代、芝居小屋が立ち並ぶ大坂・道頓堀。大阪の儒学者・穂積以貫の次男として生まれた成章(のちの半二)。末楽しみな賢い子供だったが、浄瑠璃好きの父に手をひかれて、竹本座に通い出してから、浄瑠璃の魅力に取り付かれる。父からもらった近松門左衛門の硯に導かれるように物書きの世界に入ったが、弟弟子に先を越され、人形遣いからは何度も書き直しをさせられ、それでも書かずにはおられなかった……。著者の長年のテーマ「物語はどこから生まれてくるのか」が、義太夫の如き「語り」にのって、見事に結晶した奇蹟の芸術小説。
(第161回 直木賞受賞)
 
ひと言
人形浄瑠璃の「妹背山婦女庭訓」を知らなかったので、読み終えて調べてみました。「飛鳥時代、大化の改新(646年)のころ。藤原鎌足による蘇我入鹿討伐を描く。史実とは異なり、奈良平城京を都と設定している。」とのこと。それから魂結びも、「魂が肉体から離れるのを結び留めるまじない。」この本のタイトルが「渦」であることはなんとなくわかったのですが、やっぱり「近松半二」や浄瑠璃の「妹背山婦女庭訓」を知らないことが、今一歩この本に入り込めなかった理由かも…。やっぱりいろいろなことに興味を持って、少しだけでも知っている、経験しているということは、とても大切なことなんだとあらためて思いました。
 
 
数日後、京の四条河原の竹本座で、花系図都鑑が華やかに幕を開けた。 幸い、大入りとなった。 京の客だけでなく、大坂や近隣の町や村からも客が詰め掛け、そこには豊竹座の若いのもまじっていたらしい。 おまけに、どういうわけか以貫までもがやって来ていた。少し落ち着いたので、絹の弔いが無事すんだことを半二に知らせるためにわざわざ足を運んでくれたのだという。以貫は少し痩せたようだった。もてなす、というほどではないものの、なじみの芝居茶屋で二人で飯を食う。 お熊が、瀕死の絹の枕元で、適当な作り話をして絹を喜ばせていたというのは、その際にきいた。
絹の目が見えないのをいいことに、お熊は、お佐久の手ぬぐいをそっと嗅がせて、これが半二の嫁からの見舞いの品だとかなんとかいったのだそうだ。な、ええ匂いですやろ、この匂いによう似合う、ええ嫁御がきなさっとよって、もう安心でっせ。お熊は、看病の手を休めず、絹に話しつづけたらしい。わてもいきなりのことですさかい、びっくりしてしもたんですけどな、なんや、ええとこの嬢(いと)さんらしいでっせ。どっからどうみても、もったいないくらいのおなごはんでな、きれいなべべ着てはって。お母上のお加減のよい折に、またあらためてご挨拶にうかがいます、いうてはりましたわ、ほんなら、そうしてくださいますか、いうて帰ってもらいましたけど、それでええですやろ。こんなときに会うたかて、あれやし。そういうこともな、よう心得てはる、気ぃの遣える人や、いうことですわ。はよ、お会いしたいですやろ。せやさかい、はよ、元気にならなあきまへんのやで。
お熊はただひたすら、そんなことを、語りつづけたのだという。 「病人の枕元で、ずっとしゃべっててな。どこまでわかってたんか知らんけども、お絹のやつ、そのうち時折、うっすら笑うよう、なってたわ。心のうちでは、お前が所帯持つの、楽しみにしてたんかもわからんな。お熊な、調子ん乗って、お前が竹本座の立作者になった、ともいうてたで。立作者にならはったんやから、嫁御はんもろたかて、どうにかこうにか、暮らしていけますやろ、とかいうてな、まあ、ええ加減なことを次から次へ、立て板に水としゃべるんや。この世の終いに、あいつもまさかお熊の語りをきかされるとは、思うてへんかったやろけど、ほんでも、顔がな、緩むんや。楽しんできいてんのが、どことのう、わかる。孫らの声きいてるときとおんなし顔やったし、あれで、あいつも、うれしかったんとちがうか。この世のつづきが、心のうちで願うてたようになってくんや。そら、うれしかろう。ええ物語やったで。お熊の拵えた物語は。でまかせにしては、ようでけてた。それに、お熊のやつ、存外、役者でな。あんまりうまいことしゃべりよるんで、わしまで、うっかり信じてしまいそうになったわ。おさく、いうんやてな、お前の嫁御は。気立てのええ、しっかりした嬢さんで、それはそれは器量好しやし、品もええし、いうことなしや、いうて褒めちぎってたで。よう、あないなええおなごが嫁にきてくれはったもんや、上出来、上出来、て。そんで、だれや、おさくて」
半二がお佐久と所帯を持ったのは、それからざっと三ヶ月後、花系図都鑑が大入りのうちに幕を閉じ、この勢いのまま京を引き上げると、決まったときだった。
(雪月花)
 
わしはわしのためだけに浄瑠璃を書いてんのやない、とふいに半二は思う。たとえばわしは、治蔵を背負って書いとんのや。いや、それだけやない。それをいうなら、治蔵だけやのうて、筆を握ったまま死んでった大勢の者らの念をすべて背負って書いとんのやないか。 ひょっとして浄瑠璃を書くとは、そういうことなのではないだろうか、と半二は思う。
この世もあの世も渾然となった渦のなかで、この人の世の凄まじさを詞章にしていく。治蔵、と半二は心の中で呼びかける。 お前、まだ書きたかったんやろ。そやろ。そやな。そんなら、治蔵、わしの手ェつかって書け。わかってる。お前はまだまだ書ける。もっとええもん、書きたかったはずや。そんなら書いたらええ。ここにあるわしの指、つこうて書いたらええ。お前はまだ道半ばや。書かしたる。書きたいもん、いっくらでも書かしたる。書いたらええ。そしてな、わしもわしで書かしてもらう。そういうことや。ここで書く、いうのはつまりそういうことなんや。わしの手ェつこうて、指つこうてわしはわしで書いていく。この渦んなかで。
(渦)

 

今日は、私のグルメの師匠おすすめの「喫茶 赤いサニー」へお昼を食べに行きました。師匠一押し、お店の自慢のエビクリームコロッケと迷ったのですが、お店のもう一つのおすすめのハンバーグも味わってみたくて、欲張りに2つともを味わえる国産ハンバーグ&エビクリームコロッケ(1210円)をいただきます。ハンバーグももちろん美味しいのですが、個人的にはエビクリームコロッケの美味しさは特筆ものです。
タルタル、デミグラスのソースもよく合ってグッド。強いて言えば、もう少し大きかったらよかったのにと思ってしまいました。ごちそうさまでした♪
 
喫茶 赤いサニー(食べログ)
名古屋市中川区万場5

 

 

あらすじ
希望を祈るな。立ち上がり、掴み取れ。愛は囁くな。大声で叫び、歌い上げろ。信じよう。仲間との絆を、美しい海を、熱を、人間の力を。英雄を失った島に新たな魂が立ち上がる。固い絆で結ばれた三人の幼馴染み ―― グスク、レイ、ヤマコ。生きるとは走ること、抗うこと、そして想い続けることだった。少年少女は警官になり、教師になり、テロリストになり、同じ夢に向かった。
(第160回直木賞受賞)
 
ひと言
ドキュメンタリー映画『米軍(アメリカ)が最も恐れた男 カメジロー不屈の生涯』の瀬長亀次郎のことや、1959年6月30日の死者17人(小学生11人、一般住民6人)、重軽傷者210人を出した宮森小学校米軍機墜落事故。1970年12月20日アメリカ軍人が沖縄人をひいた交通事故に端を発するコザ暴動、1969年7月 致死性のVXガスが漏れる事故が起き、米軍人ら24人が中毒症で病院に収容。米軍は、コザ市に隣接する美里村の知花弾薬庫(レッドハットエリア)などに致死性の毒ガス(サリン・VXガスなど)を秘密裏に備蓄していた事実。などなど、サンフランシスコ講和条約から沖縄本土復帰までの沖縄の歴史やウチナンチュの苦悩が描かれています。命どぅ宝(ぬちどぅたから)という沖縄の言葉があり、その命どぅ宝を大切にしてきた島、沖縄。私を含めてもっと多くの人が沖縄のことをもっと考える一助になって欲しいと思う本でした。

「われら沖縄人(ウチナンチュ)はみんな、いまのわたしやおまえとおなじ。呼吸もできずに青ざめている。だがもっとたちが悪いのは、われわれが慣れる生き物ということでな。選択の自由のなさにも、海の底のように息苦しい生活にも慣らされて、地上に顔を出せばうまい酸素があふれていることも忘れてしまう。大切なのは、なにも疑問を持たない状態におちいらんことさ」
(第一部 リュウキュウの青 1952-1954)
 
それから、大事なことがもうひとつ。 基地の周辺を歩いていると、金網の外にうずくまっている土地の女をよく見かける。 お酒や米などをひろげて、基地のなかに向かって掌を擦りあわせている。 この島では、先祖伝来の墓がある土地を、軍用地に奪われたものが少なくなかった。 キャンプ・カデナのような要衝にもなると、立ち入りは許されず、春と秋の彼岸のたびに金網の外から墓の方角へと祈るしかない。ああ、そうか。そうだよね。 うずくまる背中を見ていて、ヤマコは自明のことに気がついたのさ。 この島にかぎっては、みんながみんなそうなんだよね。 自分だけやあらん。だれにでも大事な人を奪われた過去がある。 消えかけた希望を、離散や死別を、失った過去をひきずりながら。 それでもたいていの島民が、きちんきちんと日々の暮らしを営んでいる。 現実と向きあって、明るく、強く、生活や仕事に根を張っている。 それが大事なことだと知っているから。さもなければ過去の亡霊にとらわれて、死んだように生きることになると知っているから。
(第二部 悪霊の踊るシマ 1958-1963)
 
ユタとノロ、どちらも宗教上の女性の役割なのでごっちゃになりがちだけど、ユタがいわば在野の易者なのに対してノロは土地の祭祀をつかさどる神職者。素質をもった女性があるとき病気や心身の異常を体験したのちに目覚めるのがユタで、かたやノロは血縁で継承される。豊饒祈願や厄払いといった宗教儀礼を執りおこなう女シャーマンといったところだった。
(第二部 悪霊の踊るシマ 1958-1963)

われらが沖縄の信仰には、ふたつの神の国があって、それぞれが垂直方向と水平方向に表象される。雲の上にあるという”オボツカグラ”が琉球王朝の権威づけに喧伝されたのに対して、海の彼方にあるという”ニライカナイ”は広く庶民の信心を集めてきた。生者の魂はニライカナイより来たりて母胎に宿り、死んでまたニライカナイに還るのさ。豊饒と命の根源にして、祖霊たちが守護神へと生まれ変わるところヘ――
(第三部 センカアギヤーの帰還 1965-1972)
 
ヤマコのように一途な復帰派でも、このさきに期待しよう、とは言わなかった。アメリカの統治が終わっても基地はなくならない。”核ぬき・本土なみ”は果たされない。だったらなんのために日本に戻るのか? この島の人たちがなにを復帰に望んでいるのかを佐藤政権は、日本人はわかっていなかった。いや、わかっていて知らんぷりを決めこんだ。二国の関係強化のため、アメリカとのいっそうの一体化のために、この島に基地を残しておきたいのはほかでもない日本人だ、
(第三部 センカアギヤーの帰還 1965-1972)
 
 

 

今日のお昼は前から気になっていた「BIG BEN DINER」へハンバーガーを食べに行きました。2018までは、食べログ ハンバーガー百名店に選ばれていなかったのですが 2019に百名店に選ばれたお店(愛知県では6店)です。お店の名前を冠したBIG BENバーガーと迷ったのですが一番人気のウエスタンチーズバーガー(1155円)をいただきます。肉々しいパティにベーコンまで乗ってチーズの味が負けてしまいますが、これはこれで十分ありでとてもおいしいです♪。他ではない味のバンズもカリッとしておいしいです。半分ほど食べてテーブルのマスタードをかけるとまた味が締まってグッド!さすが百名店に選ばれるだけのことはあるハンバーガーでした。ごちそうさまでした♪