今日のお昼は、名鉄名古屋駅改札前に今日から出店の「ザラメ」のドーナッツです。覚王山の「ZARAME NAGOYA」が発祥だと思っていましたが、岡崎の「ZARAME CLASSIC」が発祥とのこと。バニラグレース、ヘーゼルモンド、ブラックトリップ (値段は忘れたけどだいたい1つ300円ぐらい)をいただきます。全然あぶらっぽく、生のドーナッツを食べてるようなもっちりふわふわの生地。大きめのドーナッツなので3個も食べるとお腹いっぱいになりますが、もっと食べたいと思えるほどのおいしさです。ごちそうさまでした♪。
 
ZARAME NAGOYA(食べログ)
名古屋市千種区山門町2

11月23日 今年でもう8年、いつもこの時期に伺っている長谷寺へのお礼参りと紅葉狩りに奈良に行ってきました。

 

 

6時40分 近鉄蟹江駅から急行に乗り、9時9分 長谷寺駅に到着。

番外の法起院へお参りして、長谷寺へ。

一年間つけていた五色線のお焚き上げをお願いして、新しい五色線をいただきます。

 

 

今日は暖かくお天気も良くまさに紅葉真っ盛りのとてもいい一日です。

 

 

こんなすてきな一日、奈良まで足を延ばします。

 

 

高速餅つきで有名な「中谷堂」の餅つきを観て(帰りに購入)、売り切れになる前に「萬御菓子誂處 樫舎(かしや)」で先にお菓子を購入します

2店ともスイーツ百名店WESTにも選ばれているお店です。

 

 

すぐ近くの、今まで伺ったことのない元興寺を拝観します。

ほんとうにかえるのような形のかえる石でした。

 

 

手向山神社へ向かう途中、奈良ホテルの中を通らせていただきました。

 

 

一度は泊まってみたいすてきなホテルです。大乗院庭園もすてきでした。

 

 

以前に比べて奈良公園の鹿が大人しくなったように思います。

外人が多いので関係者さんが鹿に国際マナーを身につけさせたのかな?

 

 

ここも穴場と言われている奈良春日野国際フォーラム甍の紅葉です。

 

 

さあ、お目当ての手向山神社の紅葉です

 

 

菅公腰掛石に紅葉をお供えします。

このたびは 幣も取りあへず 手向山 紅葉のにしき 神のまにまに 
菅家

 

このたびは 紅葉手向ける 腰掛石

じゃまさん

 

夏井先生、これは才能ありですか?

 

 

法華堂(三月堂)のすぐ隣にあるのに、あまり日本人には知られていないのか外人の参拝者のほうが多いです。

 

 

もう一つのお目当ては昨年301年ぶりに再建された興福寺中金堂です。

今までは一年に一日だけの10月17日に公開されていた南円堂の四天王立像(もちろん国宝)が、こちらに安置されていつでも拝観できるようになり大満足です。

 

 

南円堂で西国三十三所の御朱印をいただいて、再び中谷堂に立ち寄り、帰りの近鉄特急の中でよもぎ餅をいただきました。

 

 

お天気にも恵まれたすてきな一日になりました♪。

 

 

 

 

 

 

 

 

ネットで青森の煮干しラーメンの名店が名駅の驛麺通りに期間限定で出店というニュースを見て、今日のお昼は「長尾中華そば」へ行きました。20人近くが列を作っていましたが、並んでいる間にメニューを渡され、5分ほどしてオーダーを聞きにくるという手際のよさで、20分ほどで席に、着くとまもなく こく煮干し(880円)と上北丼(350円)が運ばれてきました。まずスープを一口。「にぼしだぁ~!」濃厚なにぼしの香りが口いっぱいに広がります。久しぶりのにぼしラーメンごちそうさまでした♪。
 
長尾中華そば 名古屋驛麺通り店(食べログ)
名古屋市中村区名駅1 名古屋駅構内 名古屋うまいもん通り

 

今日のお昼は久しぶりの外食で、 mozoワンダーシティに10月18日東海地方初出店の「J.S.BURGERS CAFE」へハンバーガーを食べに行きました。けっこう並んでゆっくりと食べている時間がなくなってきたのでお目当てのJ.S.バーガー単品(1331円)をいただきます。アボカド、レッドチェダー、グリルオニオン、トマト、レタス、etc…が入っていて、バーガー単品でもフレンチフライがついてきます。グリルオニオンなどは、もちろんおいしいのですが、アボカドが肉汁たっぷりのパティとマッチしていてとてもおいしいです♪。流石 食べログ ハンバーガー百名店に選ばれるだけのことはあります。今度はランチを避けて夜に伺おうかな?ごちそうさまでした♪。
 
J.S.BURGERS CAFE 名古屋mozo店(食べログ)
名古屋市西区二方町 mozoワンダーシティ 1F

 

あらすじ
日本に美術館を創りたい。ただ、その夢ひとつのために生涯を懸けた不世出の実業家・松方幸次郎。戦時下のフランスで絵画コレクションを守り抜いた孤独な飛行機乗り・日置釭三郎。そして、敗戦国・日本にアートとプライドを取り戻した男たち。すべては一枚の絵画(タブロー)から始まった。あのモネが、ルノワールが、ゴッホが!国立西洋美術館の誕生に隠された奇跡の物語。原田マハにしか書けない日本と西洋アートの巡りあいの物語!
 
ひと言
読み終えてこの本の最後のページにある「この物語は史実に基づくフィクションです。」の言葉に、松方幸次郎 共楽美術館 睡蓮、柳の反映 etc ete … といろいろと検索してみました。
この本に出てくる残念ながら返還されず今はオルセー美術館所蔵のゴッホの《アルルの寝室》や、2016年に上半分が欠損した状態で発見されたモネの《睡蓮、柳の反映》がデジタル推定復元されて展示されている松方コレクション展(2019.6.11~9.23)が国立西洋美術館の60周年記念として行われていたことや、原田マハさんが国立西洋美術館の設立60周年の6月10日に間に合うように、餞(はなむけ)として「松方コレクション」を巡る小説の上梓を急いだということを知りました。
本作品は第161回直木賞(2019上半期)候補にもなりましたが、残念ながら今回も受賞とはなりませんでした。是非2020年の本屋大賞は原田マハさんに取って欲しい。まだ原田マハという作家を知らない人に知ってもらい、原田マハさんしか書けないこんなに素敵なアート小説をもっともっと知ってもらいたい。読んでもらいたいです。
 
 
「松方コレクション」を築いた松方幸次郎(慶応元年12月/1866年1月~1950年)は、明治の元勲で総理大臣も務めた松方正義の三男です。神戸の川崎造船所の創業者である川崎正蔵に見込まれ、1896年(明治29)年、同社の初代社長に就任しました。松方幸次郎が美術品の収集を始めたのは、第一次大戦中のロンドン滞在時のことです。大戦により造船で多大な利益を上げた松方は、1916(大正5)年から約10年の間にたびたびヨーロッパを訪れては画廊に足を運び、1万点におよぶと言われる膨大な数の美術品を買い集めました。しかし、松方が美術にこれほどの情熱を傾けたのは、自らの趣味のためではありませんでした。彼は自分の手で日本に美術館をつくり、若い画家たちに本物の西洋美術を見せてやろうという明治人らしい気概をもって、作品の収集にあたっていたのです。松方は購入した作品を持ち帰り、美術館を建てて公開する準備をしていました。その美術館は「共楽美術館」と名づけられましたが、日の目を見ることはありませんでした。1927(昭和2)年の経済恐慌が状況を一変させてしまいました。
パリに残された約400点の作品はレオンス・べネディットに預けられ、彼が館長を兼任したロダン美術館の一角に保管されていました。この作品群は第二次大戦の末期に敵国人財産としてフランス政府の管理下に置かれ、1951(昭和26)年、サンフランシスコ平和条約によってフランスの国有財産となります。しかしその後、フランス政府は日仏友好のためにその大部分を「松方コレクション」として日本に寄贈返還することを決定しました。このコレクションを受け入れて展示するための美術館として、1959(昭和34)年、国立西洋美術館が誕生したのです。
(国立西洋美術館のHPより)
 
 
西村の話に、田代も、雨宮も、萩原までも、全身を耳にして聴き入った。雨宮は、まるでいまから吉田=シューマン外相会談が始まるかのように、完全に前のめりになっている。……。 緊迫した場の空気に反して、西村は、ふっと頬を緩めて言った。 「驚くべきことに……総理が話し出したのは、〈松方コレクション〉のことではなかったのです。まったく関係のない話を始めてしまって……」 「えっ?」と雨宮が、目を瞬かせた。 「二十分しかないのに……ですか?」 「ええ。戦前、総理が若かりし頃の思い出話です」 吉田の口から飛び出した思い出話。それは、彼が外務省に勤務する一外交官だった時代のことである。……。ある年、この査察使に任命された吉田は、ソ連の日本大使館視察のためにモスクワを訪れた。滞在中に街なかを見て回ったが、「フランスの美術品をたくさん展示している美術館がある」とのうわさを聞いて、なぜソ連の美術品ではなくてフランスの美術品を展示しているのだろう、と興味が湧き、そこへ行ってみた。
展示室に入ったとたん、吉田は荒々しい美の荒野に足を踏み入れた心地になった。 壁いっぱいに見たこともないような不思議な絵がずらりと並んでいた。あざやかな色彩、自由自在に躍動するかたち。歌い、奏で、踊り、笑い、怒り、泣き、生きる。人も、動物も、風景も、静物も。いっさいがおおらかで、この世界に生きて呼吸している絵画がそこにはあった。―― これはいったい、なんなんだ? もとより、絵画に明るいほうではない。画家の名前も知らなければ、描かれた時代もわからない。 しかし、そんなことは関係ない。いま、自分が目にしている絵に宿る「命」の輝きはどうだ。ぐんぐんと迫りくるこの力強さは。―― このすべてがフランス絵画だと? どれもこれも、圧倒的な「傑作」じゃないか。 何をもって「傑作」というのかわからない『それでも吉田の脳裡には「傑作」のふた文字以外には浮かばなかった。 体がかっかと燃えるほど吉田は興奮した。胸を熱くしたままで、美術館を後にした。―― すごいものを見てしまった。 吉田は胸のうちで賞賛した。これほどまでの傑作を美術館に揃えたソ連を ―― ではない。フランスを賞賛したのである。 ソ連国民を感動させるばかりか、日本人の自分の心までも熱く沸き立たせる、そんな傑作の数々はフランスで生まれたものなのだ。 これほどまでに傑出したフランス絵画の大コレクションがソ連にあるのには驚嘆したが、結果的に、これは、ソ連におけるフランス文化の大いなる宣伝となっている。 これこそが、芸術・文化の底力ではないか。 若き日の吉田は、そう悟りを得た。 その思い出話を、外相会談の冒頭で、切々と語ったのだ。 シューマンは興味深そうに傾聴していた。「ソ連におけるフランス文化の大いなる宣伝」のくだりでは、大きくうなずいた。それを見逃さずに、吉田は畳み掛けた。
――〈松方コレクション〉には、フランス美術が多数含まれていると聞きます。 フランスには当然数え切れないほどの美術品があるわけですから、〈松方コレクション〉がこのさきフランスにあっても、またなくても、ほとんど影響はないはずです。 しかし、それがもし、日本にあったなら、どれほど大きな影響を日本人に与えることでしょう。日本人はフランス美術をこよなく愛しているにもかかわらず、ほとんどの国民がほんものを見たことがないのです。 松方幸次郎氏は、この状況を憂えていました。だからこそ、私財を投じてフランス美術を収集し、いつの日か日本に西洋美術館を創ろうと考えていたのです。が、志を果たすことなく他界してしまいました。 もしもいっそのこと、フランスが〈松方コレクション〉を日本へ贈ってくれたならば、日本国民はどれほど喜び、また励まされることでしょう。そしてフランスに感謝することでしょう。 そしてもし、それを基に美術館を開設することができたならば、わが国におけるフランス文化の有力な宣伝にもなるはずです。 これはフランスにとって損にはならない。否、必ず有益な結果となる。 いかがでしょうか。 この提案、受け入れていただけませんか ――。 「まさしく立て板に水のごとく、総理は一気に話されました。遠い日のモスクワでの思い出話から始めて、最後はきっちりと結んでいた。『〈松方コレクション〉を日本へ戻してほしい』と」
西村が語り終えたとき、全員、テーブルに身を乗り出していた。 「………シューマン外相の答えは……どうだったのですか?」 ごくりと喉を鳴らして、雨宮が訊いた。 西村が、眉をかすかに上げて答えた。
「たったひと言。『ウイ、首相閣下(ムツシユウ・ル・プルミエ・ミニストル)』」
(2 一九五三年六月 パリ 日本大使館)
 
前衛芸術家たちの作品、たとえば印象派や後期印象派と呼ばれる画家たちの一派は、いまでこそ欧米で人気を博しているが、最初のうちは酷評され、フランス人はほとんど見向きもしなかった。「印象派」という呼び名も、モネやドガなどの前衛画家たちが自費で場所を借りてグループ展を聞催したさいに、モネが出展した作品の題名〈印象 日の出〉をもじって評論家がからかい半分でつけたものである。
(2 一九五三年六月 パリ 日本大使館)
 
「美術とは、表現する者と、それを享受する者、この両者がそろって初めて『作品』になるのです。……〈松方コレクション〉を、このまま死蔵させるわけにはいきません」
(2 一九五三年六月 パリ 日本大使館)
 
つい二、三十年まえまでは「タブローのなんたるかを知らぬ愚かものたちの落書き」などと批評家に手厳しく揶揄された画家たち ―― マネ、モネ、ルノワール、ピサロ、シニャック、ドガ、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン、スーラなどを、時代の最先端に立ち、保守的な画壇の様式と考え方に果敢に切り込む「前衛(アヴアンギャルド)」の画家と目し、彼らを売り出した画商たちがいた。アンブロワーズ・ヴォラール、ポール・デュラン=リュエル、ダニエル・ヘンリー・カーンワイラー、ベルネーム・ジュヌ兄弟。前衛画家たちの作品をあえて取り扱うことは、彼らにとっては大きな賭けであった。
(3 一九五三年六月 パリ ルーヴル美術館)
 
〈アルルの寝室〉は、縦約五十七センチ・横約七十四センチの油彩画、一八八九年制作、ゴッホ晩年の作品である。……。田代は、一瞬、口ごもって、自分の片頬を平手でぴしゃりと叩いた。 「……なんて言うか……私は……いや、何を言っても追いつかない。私は、感電した。フィンセント・ファン・ゴッホという名の雷(いかずち)に」 初めて目にしたゴッホの絵。―― ぐうの音も出ないほどやられてしまった。それは、まさしく芸術の神の打擲(ちょうちゃく)であった。
南仏の町アルルで、ゴッホが晩年に暮らしたつましい一室。灰色がかった青い壁、ライラック色の床。ペッドと二脚の椅子、脇机がひとつ。かすかに開きかけた窓には、まぶしい緑の照り返しが映っている。窓の横に掛けられた鏡は、南仏の強い光を弾いて白く見える。ベッドに載せられた白い枕も、ほのかに戸外の照り返しを映しているのがわかる。毛布の赤が画面全体をぴりりと引き締めて、強いアクセントになっている。 ベッドが接している二方向の壁には、額入りの小振りの絵が脇に四枚、枕の上に一枚。男女の肖像画と風景画は、いちばんお気に入りの自作の絵に違いない。 部屋は画面全体が歪んで見えるほど極端にデフォルメされている。まるで奥にある窓が空間全体をぐぐっと力強く引っ張っているかのようだ。無人の部屋は、それ自体が呼吸し、脈打って、躍動感が満ち溢れている。 
動きのある画面と同じくらい田代が驚かされたのは、陰影がいっさい描き込まれていないことだった。床に置かれたベッドにも、脇机にも、椅子にも、壁の額にも影がない。それぞれのオブジェが画面にぺたりと貼り付けられたように平面的である。それでいて、そのすべてに、ふうっと浮かび上がってしまいそうな浮遊感があった。 極めて平面的、つまり正しく「絵画」的な絵。それなのに、映画の一コマが飛び出してきたような動きのある絵。具象的なのに、抽象的。にごりのない色彩と大らかな色面。まるで、彼が愛したという日本の浮世絵のような ――。―― 奇跡の一枚であった。
(3 一九五三年六月 パリ ルーヴル美術館)
 
 
松方と田代がルノワールの傑作〈アルジェリア風のパリの女たち〉を目にしたのは、ポール・デュラン=リュエル画廊であった。 ルノワールが描いたのは、当時、画家であれば一度は取り入れてみたかったであろう魅力的な題材、ハーレムの女たちである。ただし、そこは写実を重んじたルノワールである、行ったことも見たこともないイスラム世界の女性を空想で描きはしない。あくまでも「アルジェリア風」の装いをしたパリの女たちをモデルに描いたものである。 あたたかみのある褐色を基本色に据えて、アラブ風の絨毯の上に憩う三人の女たち。中央の金髪の女性は白いやわ肌をさらして鏡を眺めている。両脇の黒髪の女たちは彼女の化粧を手伝う召使い役だ。エキゾチックな衣装や装飾品、オリエント世界への憧れが色濃く漂い、画面全体に蠱惑的な空気を醸し出している。 「ハーレムの女たちに扮したパリジェンヌは、ほのかな色香をまとっていて、いつまでも飽かず眺めていたい気持ちが込み上げてくる……そんな一作だった。
(3 一九五三年六月 パリ ルーヴル美術館)
 
 
〈睡蓮、柳の反映〉。一九一六年に完成して、モネが手元に置いていた大作である。縦二メートル近く、横四メートル以上。赤や白の睡蓮がほころぶ池に薔薇色がかった青空が溶けて広がり、柳の枝がしんと静まり返ってさかさまに映り込んでいる。初めてアトリエを訪問したときに、そこにある何点かの作品の購入を許された松方だったが、この一点は許されなかった。が、今回の再訪で松方は粘った。この作品こそ「共楽美術館」に展示したいいちばんの作品である。日本の国民のために、どうか譲ってほしい。ジヴェルニーを日本に連れ帰らせてほしい――と。 松方の熱意に、巨匠は打たれたようだった。そして、もう少し考えさせてほしいと言った。お待ちしています、と松方は言った。あなたがこの絵を日本へ送り出してくださることを――。……。……。
ふと、隣の松方がつぶやいた。 「君の言う通りだ、あの色はおかしい」 田代は松方のほうを向いた。松方は、ふっと笑い声を立てた。 「でも、わかったかい、田代君? あの絵は、傑作だ。色がどうとか、理屈じゃない。モネが、あの大画家が、もうよく見えんのに、必死に絵筆を動かしている様子を見ていると、わしはなんだか、わけもなく泣けてくる。そうやって、画家がおのれの全部をぶつけて描いた絵を、傑作と言うんじゃないのか?」 そのとき、田代は初めて耳にした。万感の思いを込めて松方が「傑作」の一語を口にしたのを。そして、知らされた。自分が心ではなく頭でタブローを見ていたことを。
(7 一九二一年七月 パリ チュイルリー公園)
 
 
あらすじ
いまも聞こえる君の声に励まされ、勇気をもらって、僕はこうして生きている――京都大学iPS研究所所長・山中伸弥氏の言葉です。山中氏をはじめとする15人の友が、天才ラガーマン・平尾誠二と過ごした人生の宝物のような日々、そして、いま平尾が語りかけてくることを綴ります。平尾誠二は、いまも人々の心の中で生きているのです。涙なしには読めない、喪失と再生の15の物語――なぜ君といると、あんなに楽しかったのだろう。そして、平尾誠二とワールドカップを見たかった‥‥。
 
ひと言
たくさんの感動を与えてくれたラグビー ワールドカップ2019も大成功のうちに昨日終了しました。もっともっとこの素敵な時間が続けばいいのにと多くの人が思っていることでしょう。この大会に関わった世界中の、すべての選手、関係者、ラグビーファンの人々に心から感謝します。こんなすばらしい心に残る大会にしてくれてほんとうにありがとう。
 
 
西濱先生は、突然ぼくに訊きました。 「山中君、レジリエンスっていう言葉を知っているか?」 恥ずかしながら当時のぼくはこの言葉を知らず、「何ですか?」と尋ねると、 「レジリエンスというのは、つらい出来事があったときでも、しなやかに適応して生き延びる力のことだ。たとえば、神戸や東北の震災で家族も家も失くした人が大勢いた。落ち込んで立ち直ることができなかった人がいる一方で、希望を失わず気丈に立ち直り、前向きに生きている人もいる。その強さがレジリエンスだ」 そのように説明してくださったあと、西濱先生はこうおっしゃったのです。 「山中君、レジリエンスは生まれつき人間に備わっているものではないとぼくは思う。柔道と一緒で、鍛えれば身につけることができるんだよ。その秘訣は、感謝することだ。まわりに対する感謝の気持ちがあればこそ、レジリエンスを発揮して、しっかり自分を保つことができるんだ」 ぼくは「これは恩師から受ける最後の授業だ」と思いながら、西濱先生の話を聞いていました。そして、余命いくばくもないことをご存じの先生が気丈にしていられるのは、ご家族や友人や教え子らが自分を支えてくれているという感謝の気持ちがあるからなのだと、気づかされました。
(はじめに 山中伸弥)
 
平尾は死ぬまでラグビーの話をしていました。「楽愚美会」で会ったときには、しきりにこう言っていたのを憶えています。 「おれたちの年代が、もっともラグビーに世話になった。ワールドカップが日本で開催されることが決まったし、もっとラグビーのために貢献していこう。おれたちはそれができる年代になったのだから、さまざまなかたちでラグビーを応援していこう」 ラグビーは、彼の人生そのものだったのでしょう。 ラグビーという場でいろいろな人と出会い、ラグビーから学び、ラグビーに教えられ、ラグビーによって育てられた。 それだけに、ラグビー界のためにもっともっと力を発揮してほしかったと、かえすがえすも残念に思います。
(第1章 同志としで、友として 土田雅人)
 
不思議なことに、誠二が亡くなったら、死に対する恐怖がだいぶなくなりました。人間、いずれは死ぬのだけれど、親友が待っていてくれると思ったら、それほど苦しくはないかなと感じるようになったのです。
(第1章 同志として、友として 大本博立)
 
亡くなってから、衝撃を受けたことがあります。 はじめて彼の家に線香をあげに行ったときのことです。恵ちゃんから、「実は」と言って、こういう話を打ち明けられたのです。 ぼくは一九八八年の六月十一日に結婚式をあげたのですが、なんと誠二もその日に結婚式をする予定だったというのです。 当時のぼくはそのことをまったく知らなかったから、「式に出席してくれよ」と誠二に頼みました。おそらく彼は内心、びっくりしたと思います。でも、表情ひとつ変えることなく、了解してくれた。そして、家に帰ってから恵ちゃんに言ったそうです。「その日、大本も結婚式や。変えよう」 そうして、ほんとうに自分の式を、前日の土曜日に変更してくれた。おかげでぼくは彼の式に出られたし、平尾夫妻もぼくの式に来てくれました。「大本くんとはラグビーはあまりしたことはありませんが、お酒はいっぱい呑みました」 誠二がしてくれたスピーチは、いまも忘れていません。 誠二は最後まで、式の日を変更したことを、ぼくに明かしませんでした。だから、恵ちゃんからその話を聞いたときは、思わず号泣してしまった。
(第1章 同志として、友として 大本博立)
 
仏教では、人は二度死ぬとされているそうです。 一度目は肉体が死んだとき。二度目は人に忘れ去られたとき。法事をして故人をしのぶのは、記憶から消えないようにするためだそうです。 わたしたち家族は毎日父の話をし、泣いたり笑ったりしています。父は二度死ぬことはないのだと思うと、気持ちが穏やかになりました。……。……。
わたしたち家族だけでなく、父の友人をはじめとする多くの人たちが、平尾誠二を忘れていないということを。 世の中が変わらなくても、同じ生活を続けていても、みなさんそれぞれのなかで、父は生き続けているのです。 父の返事はわかっています。 「ほんま、ありがたいな」 そんなふうに言いながら、いつものように大きく笑う姿が、わたしには容易に想像できるのです。思えば、父は感謝の人でしたから。
(第3章 父と子の友愛 大塚早紀)
 
「岡先生って、ほんとすばらしい方なんだよ。ぼくが再起不能って言われるほどのケガを負ったとき、新聞に岡先生のコメントが載っていて、『平尾はシーズンに間に合うかもしれない』って。もちろん大ケガだから無理なんやけど、『そうか、岡先生がそうおっしゃるんだから、間に合うかもしれん』と思って、必死にリハビリしたのを憶えてるわ」 平尾いわく、岡先生のコメントはおそらく本心ではなく、「これを見て、平尾はどう思うか」というところから発せられているというのです。 それ以来、平尾は誰かに対してコメントをするとき、それを読んだ当人の気持ちを重んじて言葉を選ぶようになったのでした。
(おわりに 平尾恵子)

2019年10月26日 もう34回目になる今回の3人旅は

奈良の山の辺の道(櫻井駅~柳本駅間)を歩いてきました。

 

 

天理駅前に車を停め、9時55分発のJRで櫻井駅へ。

 

 

駅で配布されている山の辺の道美化促進協議会が発行している

地図(上)がとても見やすく裏には歌碑の地図もありおすすめです。

 

随所に案内板が設置されていてとてもわかりやすいです。

 

 

太古の昔、初瀬川(大和川)を船で上ってきた人々が、この場所で

船を降り、山の辺の道を北へと歩きだしました。ここが山の辺の道

の始まりであり、ここから船に乗って大陸へと旅立っていった場所

です。

 

 

歌垣(歌を通じで男女が出会う場所)で有名な海石榴市観音堂です。

案内板に

紫草(むらさき)は灰さすものぞ海石榴市の

 八十のちまたにあへる子や誰

 

たらちねの母がよぶ名を申さめど

 道ゆく人を誰と知りてか

 

一緒のSさんの話では、昔の男女の出会いにおいては、自分の

名前を相手に教えることが誘いを受け入れることだった。という

話が印象的でした。

 

 

 

明治の廃仏毀釈の折、村人が持ち出し守ったという金屋の石仏

が安置されています。

 

 

山の辺の道沿いにある、趣のある素敵な陶芸品屋さんです。

 

 

こんな素敵な道が続きます。石標の揮毫はあの小林秀雄です。

 

 

立派に朱く実った柿の木です。

 

 

三輪山を御神体とする日本最古の神社、大神(おおみわ)神社

に到着。

 

 

お昼は敷地内の茶店で梅にゅうめんといなりずしのセットを

いただきます。梅ととろろ昆布のシンプルなにゅうめんですが

お出汁がとても美味しかったです♪

 

 

大神神社の摂社である狭井(さい)神社内にある、三輪山登山口

です。また訪れることがあればお山に登ってみたいと思いました。

 

 

同じく狭井神社にある薬井戸で、万病に効くという薬水が湧き

出る井戸です。

 

 

1本100円の「ご神水」をいただきました。

 

 

ほんとうに言葉通りの山の辺の道です。

 

 

玄賓(げんぴん)庵で一休み。ご住職のありがたい逸話を聞か

せていただくことができました。西の方角には二上山が見えます。

 

 

とても素敵な山の辺の道です。また是非機会があれば歩いて

みたいです。

 

 

伊勢神宮が現在の場所に遷る前の「元伊勢」と呼ばれる

天照大御神をお祀りする桧原(ひばら)神社です。

真西に二上山が見えます。

 

 

道の途中に何軒ものみかんや柿などを販売している無人販売所

です。

 

 

大和青垣国定公園の大和の青垣の案内板です。

大和は国のまほろば たたなづく青垣

  山ごもれる大和し 美(うる)わし

 

このすばらしい風景をこれからの世にもずっとずっと残さないと

いけないなぁと強く思いました。

 

 

珍しい大福餅の無人販売です。歩き疲れてちょうど甘いものが

食べたかったのでとてもありがたかったです。

 

 

纏向(まきむく)遺跡(卑弥呼の邪馬台国があったとされる遺跡)

を望む、相撲神社近くの案内板です。

 

 

神籬(ひもろぎ)という神霊の降臨する依代(よりしろ)が

みかん畑の中にぽつんとありました。

 

 

山の辺の道をこよなく愛し守っていこうとされている団体の方々

が植えられた綿の花です。初めて綿の花を見ました。

 

 

よかったらどうぞと開花した綿の花とこれから綿になる花を

いただきました。ありがとうございました。

 

 

崇神天皇陵です。もう疲れもピークで拝所へ廻らずにこちらから

拝ませていただきました。

 

 

とてものどかで景色のいい場所にベンチが…。とても優しく

ほっこりとした気分にさせてくれます。

この山の辺の道周辺に住む方々が、どれだけ山の辺の道を誇りにし

大切に守っているか。この道を訪れる人々へのこころ尽くしのおもて

なしを感じる風景です。

ほんとうに、大和は国のまほろば ですね

 

 

天理市トレイルセンターで休ませてもらい、ケーキセットをいた

だきました。

 

 

今回の山の辺の道はここまで。柳本駅から電車に乗り天理へ。

夕食は四日市ICから湯の山方面に向かう途中の「茶茶」で

とろろ御膳をいただきます。ごはんはおかわり自由なので

4杯もいただきました。ごちそうさまでした。

 

 

今回の無人販売所でいただいたみかんと柿です。

どれも一つ100円で、どれも美味しかったです。

 

 

今回の3人旅は一緒のKさんの万歩計の計測で25700歩。

みかんや柿や御神水の詰まったリュックを背負ってよく歩いたなぁ。

とても疲れましたが、とても楽しい山の辺の道でした。

次回の3人旅もこの続きの山の辺の道を歩くことに決定。

次回も楽しみにしています♪。お疲れさまでした。

 

あらすじ
一九三三年。次なる旗艦の建造計画をめぐり、海軍上層部は対立していた。巨大戦艦建造を標榜する戦艦派の計画案に、数字上の虚偽を疑う空母派は、ある数学の天才に不正を見破らせようとする。数学の真理は、巨大戦艦―大和―の建造を阻止できるのか? 大日本帝国海軍が歩んだ激動の時代を、美しき若き天才数学者・櫂直の生き様を通して描く感動作。
 
ひと言
映画の予告編を見て、こんな映画が出来たんだとその原作本を図書館に予約を入れました。この本は櫂が子供のころから大和沈没の2025日前(もちろん3年8カ月間の大東亜戦争が始まる前)までが描かれており戦闘シーンはもちろん全くないが、映画では大和が撃沈されるシーンが入れられるのだろう。これは実話ではないということだが、それならもっとひとひねりした脚本でもよかったのでは。えっ!?それだけ……の感が否めませんでした。またDVDがレンタルされるようになったら映画も観てみたいと思います。
 
父と少年が体を流しているときのことだった。 少年は大柄な男が豪快に風呂に入るのを目にした。浴槽の縁から湯がたっぷりと溢れ、音を立てて排水溝へ流れ出ていく。「あああ……!」 何の変哲もないその光景に少年は目を見開き、風呂桶を放り出して立ち上がった。 「お父さん、分かった……!」  周囲の客たちが驚いて少年と父の方を向いた。 「水です! 水をいっぱいに入れた器にネックレスを沈めればいいんです。溢れた水を測れば、それがネックレスの体積になります!」  父は秘かに胸を熱くしながら、息子の濡れた頭をなでて囁いた。 「ヘウレーカ……!」 王冠の体積を測るよう求められた古代ギリシャの数学者アルキメデスは、何日も悩み続けた末、入浴中に風呂から溢れ出る湯を見てその方法を思いついた。アルキメデスは裸のまま外に飛び出して「ヘウレーカ!(分かった!)」と叫んだという。父はある本から知ったその言葉を、来るべき時が来たら息子にかけてやろうと温めていた。 やはりこの子は数学の天才になるかもしれない。興奮して風呂場から脱衣所に走り出ていった息子の姿を追いながら、父はその思いを深くした。
(1916年 夏 あと10448日)
 
平山は薄く嘲笑した。櫂の信念を見透かしたように。「真実……? そんなものになんの意味がある」「………!!」 「真実に、数学に、意味がないだと――!?」 「まだまだ君は若い、櫂少佐。確かに君の数学力には驚くべきところがある。ただな、一面的な正義感だけで大局は語れないのだ。実社会というのは君の想像が及ばないほど複雑だ。けっして曲線や数式で表せるものではない。その複雑怪奇なこの世の中における真実の正義というのは、また別にあるのだ」 平山は静かに立ち上がって一同に視線を向けた。 「確かに私は尾崎造船に協力を仰ぎ、建造費を総合的に捻出することで、見積もりを予想されるより大幅に低く提案することができた」 永野が口を挟む。  「平山造船中将。計画案の不正を認めるということだな?」 平山は小さく首を振って苦渋を湛えた顔を歪めた。 「こうでもしなければ……超巨大戦艦の機密は守れないからです」 「機密?」 永野が問いかけた。 「『大日本帝国海軍が二億円をかけて新型巨大戦艦を造るらしい』、この情報を他の列強が摑んだとしたら、どのような反応を示すでしょうか」 出席者の中に発言する者がいなかったので平山は続ける。 「前代未聞となる巨額の予算ですから、すぐさま我々の動きを分析し、戦艦の規模と性能を予測してくるに違いない。それが世界一の戦艦建造計画だったと知れた 時、敵は大いなる脅威と判断し、直ちにそれに対抗できる巨大戦艦を新造してくるでしょう。せっかく英米ら大国に先んじて完成させても、我が国の艦はすぐに凌駕され優位性を失ってしまいます」 ハッとして大角が手を打った。 「そうか! つまり敵を欺くにはまず味方からというわけか。建造予算は国会の予算審議の場で必ず公開せねばならぬ。それを逆手にとって敵を油断させる……」 「仰せの通りでございます」  「なんという策士! いや、これは見事な深謀遠慮」 大角が平山に畏怖の目を向けると、平山は恭しくこうべを垂れた。「………」 目の前の光景に唖然としながら、櫂はもはや為す術もなくうなだれた。自分に課せられた使命は、真実を求めることであったはずだ。しかし歯を食いしばって求めた真の解には価値がないというのか? これまで受けたことのない衝撃に櫂は頭が真っ白になった。
(あと4331日 ―戦艦大和の沈没まで))

 

師匠ともう一軒ドイツパンのお店「マイスターズ バックシュトゥーベ カキヌマ」へ。えっこんな住宅街にお店が!?というような立地でびっくりしましたが、星が丘山手にあったお店がこちらへ移転してきたとのこと。みなさんよくご存じで5、6席のテーブルは満席で、しばらく待って店内で クロワッサン きのこのフォカッチャ と梅ジャムのカトルカールをいただきます。クロワッサンも今まであまり食べたことのない味で、小麦ってこんなにいい香りなんだというぐらい 小麦のおいしさと後味のよさをすごく感じるパンでした。

さすが師匠。素敵なお店を紹介してもらえてすてきなひとときを過ごすことができました♪。ランチもあるみたいなので是非そちらもいただきたいです。ごちそうさまでした♪
 

 

今日は朝から人間ドック。お昼は私のグルメの師匠と待ち合わせて星が丘テラスにある「ホエイ パスタ&カフェ 4658」へ。松阪牛ミート(500円 師匠が持っていた割引券利用)のパスタをいただきます。ホエイ(チーズ製造の際の副産物で乳清とも言う。牛乳中のたんぱく質を凝固させ、水分と分離させてチーズを製造するが、その水分の部分のこと)で作ったパスタはモチモチの食感で今まで食べたことのないパスタです。松阪牛のミートソースもグッド!。すぐ横で生の持ち帰り用のホエイパスタも販売されているので、今度は家でもこの食感を楽しみたいです。ごちそうさまでした♪
 

ホエイ パスタ&カフェ 4658(食べログ)
名古屋市千種区星が丘元町 星が丘テラス THE KITCHEN