あらすじ
「妹背山婦女庭訓」や「本朝廿四孝」などを生んだ人形浄瑠璃作者、近松半二の生涯を描いた比類なき名作!。江戸時代、芝居小屋が立ち並ぶ大坂・道頓堀。大阪の儒学者・穂積以貫の次男として生まれた成章(のちの半二)。末楽しみな賢い子供だったが、浄瑠璃好きの父に手をひかれて、竹本座に通い出してから、浄瑠璃の魅力に取り付かれる。父からもらった近松門左衛門の硯に導かれるように物書きの世界に入ったが、弟弟子に先を越され、人形遣いからは何度も書き直しをさせられ、それでも書かずにはおられなかった……。著者の長年のテーマ「物語はどこから生まれてくるのか」が、義太夫の如き「語り」にのって、見事に結晶した奇蹟の芸術小説。
(第161回 直木賞受賞)
「妹背山婦女庭訓」や「本朝廿四孝」などを生んだ人形浄瑠璃作者、近松半二の生涯を描いた比類なき名作!。江戸時代、芝居小屋が立ち並ぶ大坂・道頓堀。大阪の儒学者・穂積以貫の次男として生まれた成章(のちの半二)。末楽しみな賢い子供だったが、浄瑠璃好きの父に手をひかれて、竹本座に通い出してから、浄瑠璃の魅力に取り付かれる。父からもらった近松門左衛門の硯に導かれるように物書きの世界に入ったが、弟弟子に先を越され、人形遣いからは何度も書き直しをさせられ、それでも書かずにはおられなかった……。著者の長年のテーマ「物語はどこから生まれてくるのか」が、義太夫の如き「語り」にのって、見事に結晶した奇蹟の芸術小説。
(第161回 直木賞受賞)
ひと言
人形浄瑠璃の「妹背山婦女庭訓」を知らなかったので、読み終えて調べてみました。「飛鳥時代、大化の改新(646年)のころ。藤原鎌足による蘇我入鹿討伐を描く。史実とは異なり、奈良平城京を都と設定している。」とのこと。それから魂結びも、「魂が肉体から離れるのを結び留めるまじない。」この本のタイトルが「渦」であることはなんとなくわかったのですが、やっぱり「近松半二」や浄瑠璃の「妹背山婦女庭訓」を知らないことが、今一歩この本に入り込めなかった理由かも…。やっぱりいろいろなことに興味を持って、少しだけでも知っている、経験しているということは、とても大切なことなんだとあらためて思いました。
人形浄瑠璃の「妹背山婦女庭訓」を知らなかったので、読み終えて調べてみました。「飛鳥時代、大化の改新(646年)のころ。藤原鎌足による蘇我入鹿討伐を描く。史実とは異なり、奈良平城京を都と設定している。」とのこと。それから魂結びも、「魂が肉体から離れるのを結び留めるまじない。」この本のタイトルが「渦」であることはなんとなくわかったのですが、やっぱり「近松半二」や浄瑠璃の「妹背山婦女庭訓」を知らないことが、今一歩この本に入り込めなかった理由かも…。やっぱりいろいろなことに興味を持って、少しだけでも知っている、経験しているということは、とても大切なことなんだとあらためて思いました。
数日後、京の四条河原の竹本座で、花系図都鑑が華やかに幕を開けた。 幸い、大入りとなった。 京の客だけでなく、大坂や近隣の町や村からも客が詰め掛け、そこには豊竹座の若いのもまじっていたらしい。 おまけに、どういうわけか以貫までもがやって来ていた。少し落ち着いたので、絹の弔いが無事すんだことを半二に知らせるためにわざわざ足を運んでくれたのだという。以貫は少し痩せたようだった。もてなす、というほどではないものの、なじみの芝居茶屋で二人で飯を食う。 お熊が、瀕死の絹の枕元で、適当な作り話をして絹を喜ばせていたというのは、その際にきいた。
絹の目が見えないのをいいことに、お熊は、お佐久の手ぬぐいをそっと嗅がせて、これが半二の嫁からの見舞いの品だとかなんとかいったのだそうだ。な、ええ匂いですやろ、この匂いによう似合う、ええ嫁御がきなさっとよって、もう安心でっせ。お熊は、看病の手を休めず、絹に話しつづけたらしい。わてもいきなりのことですさかい、びっくりしてしもたんですけどな、なんや、ええとこの嬢(いと)さんらしいでっせ。どっからどうみても、もったいないくらいのおなごはんでな、きれいなべべ着てはって。お母上のお加減のよい折に、またあらためてご挨拶にうかがいます、いうてはりましたわ、ほんなら、そうしてくださいますか、いうて帰ってもらいましたけど、それでええですやろ。こんなときに会うたかて、あれやし。そういうこともな、よう心得てはる、気ぃの遣える人や、いうことですわ。はよ、お会いしたいですやろ。せやさかい、はよ、元気にならなあきまへんのやで。
お熊はただひたすら、そんなことを、語りつづけたのだという。 「病人の枕元で、ずっとしゃべっててな。どこまでわかってたんか知らんけども、お絹のやつ、そのうち時折、うっすら笑うよう、なってたわ。心のうちでは、お前が所帯持つの、楽しみにしてたんかもわからんな。お熊な、調子ん乗って、お前が竹本座の立作者になった、ともいうてたで。立作者にならはったんやから、嫁御はんもろたかて、どうにかこうにか、暮らしていけますやろ、とかいうてな、まあ、ええ加減なことを次から次へ、立て板に水としゃべるんや。この世の終いに、あいつもまさかお熊の語りをきかされるとは、思うてへんかったやろけど、ほんでも、顔がな、緩むんや。楽しんできいてんのが、どことのう、わかる。孫らの声きいてるときとおんなし顔やったし、あれで、あいつも、うれしかったんとちがうか。この世のつづきが、心のうちで願うてたようになってくんや。そら、うれしかろう。ええ物語やったで。お熊の拵えた物語は。でまかせにしては、ようでけてた。それに、お熊のやつ、存外、役者でな。あんまりうまいことしゃべりよるんで、わしまで、うっかり信じてしまいそうになったわ。おさく、いうんやてな、お前の嫁御は。気立てのええ、しっかりした嬢さんで、それはそれは器量好しやし、品もええし、いうことなしや、いうて褒めちぎってたで。よう、あないなええおなごが嫁にきてくれはったもんや、上出来、上出来、て。そんで、だれや、おさくて」
半二がお佐久と所帯を持ったのは、それからざっと三ヶ月後、花系図都鑑が大入りのうちに幕を閉じ、この勢いのまま京を引き上げると、決まったときだった。
(雪月花)
絹の目が見えないのをいいことに、お熊は、お佐久の手ぬぐいをそっと嗅がせて、これが半二の嫁からの見舞いの品だとかなんとかいったのだそうだ。な、ええ匂いですやろ、この匂いによう似合う、ええ嫁御がきなさっとよって、もう安心でっせ。お熊は、看病の手を休めず、絹に話しつづけたらしい。わてもいきなりのことですさかい、びっくりしてしもたんですけどな、なんや、ええとこの嬢(いと)さんらしいでっせ。どっからどうみても、もったいないくらいのおなごはんでな、きれいなべべ着てはって。お母上のお加減のよい折に、またあらためてご挨拶にうかがいます、いうてはりましたわ、ほんなら、そうしてくださいますか、いうて帰ってもらいましたけど、それでええですやろ。こんなときに会うたかて、あれやし。そういうこともな、よう心得てはる、気ぃの遣える人や、いうことですわ。はよ、お会いしたいですやろ。せやさかい、はよ、元気にならなあきまへんのやで。
お熊はただひたすら、そんなことを、語りつづけたのだという。 「病人の枕元で、ずっとしゃべっててな。どこまでわかってたんか知らんけども、お絹のやつ、そのうち時折、うっすら笑うよう、なってたわ。心のうちでは、お前が所帯持つの、楽しみにしてたんかもわからんな。お熊な、調子ん乗って、お前が竹本座の立作者になった、ともいうてたで。立作者にならはったんやから、嫁御はんもろたかて、どうにかこうにか、暮らしていけますやろ、とかいうてな、まあ、ええ加減なことを次から次へ、立て板に水としゃべるんや。この世の終いに、あいつもまさかお熊の語りをきかされるとは、思うてへんかったやろけど、ほんでも、顔がな、緩むんや。楽しんできいてんのが、どことのう、わかる。孫らの声きいてるときとおんなし顔やったし、あれで、あいつも、うれしかったんとちがうか。この世のつづきが、心のうちで願うてたようになってくんや。そら、うれしかろう。ええ物語やったで。お熊の拵えた物語は。でまかせにしては、ようでけてた。それに、お熊のやつ、存外、役者でな。あんまりうまいことしゃべりよるんで、わしまで、うっかり信じてしまいそうになったわ。おさく、いうんやてな、お前の嫁御は。気立てのええ、しっかりした嬢さんで、それはそれは器量好しやし、品もええし、いうことなしや、いうて褒めちぎってたで。よう、あないなええおなごが嫁にきてくれはったもんや、上出来、上出来、て。そんで、だれや、おさくて」
半二がお佐久と所帯を持ったのは、それからざっと三ヶ月後、花系図都鑑が大入りのうちに幕を閉じ、この勢いのまま京を引き上げると、決まったときだった。
(雪月花)
わしはわしのためだけに浄瑠璃を書いてんのやない、とふいに半二は思う。たとえばわしは、治蔵を背負って書いとんのや。いや、それだけやない。それをいうなら、治蔵だけやのうて、筆を握ったまま死んでった大勢の者らの念をすべて背負って書いとんのやないか。 ひょっとして浄瑠璃を書くとは、そういうことなのではないだろうか、と半二は思う。
この世もあの世も渾然となった渦のなかで、この人の世の凄まじさを詞章にしていく。治蔵、と半二は心の中で呼びかける。 お前、まだ書きたかったんやろ。そやろ。そやな。そんなら、治蔵、わしの手ェつかって書け。わかってる。お前はまだまだ書ける。もっとええもん、書きたかったはずや。そんなら書いたらええ。ここにあるわしの指、つこうて書いたらええ。お前はまだ道半ばや。書かしたる。書きたいもん、いっくらでも書かしたる。書いたらええ。そしてな、わしもわしで書かしてもらう。そういうことや。ここで書く、いうのはつまりそういうことなんや。わしの手ェつこうて、指つこうてわしはわしで書いていく。この渦んなかで。
(渦)
この世もあの世も渾然となった渦のなかで、この人の世の凄まじさを詞章にしていく。治蔵、と半二は心の中で呼びかける。 お前、まだ書きたかったんやろ。そやろ。そやな。そんなら、治蔵、わしの手ェつかって書け。わかってる。お前はまだまだ書ける。もっとええもん、書きたかったはずや。そんなら書いたらええ。ここにあるわしの指、つこうて書いたらええ。お前はまだ道半ばや。書かしたる。書きたいもん、いっくらでも書かしたる。書いたらええ。そしてな、わしもわしで書かしてもらう。そういうことや。ここで書く、いうのはつまりそういうことなんや。わしの手ェつこうて、指つこうてわしはわしで書いていく。この渦んなかで。
(渦)
