あらすじ
終戦直後、占領下の沖縄で、初めて堂々と米軍にモノを言った伝説の男・瀬長亀次郎。全国で唯一、凄惨な地上戦を経て占領され、米軍支配下で息を呑むようにして生活していた沖縄の人々は、亀次郎の演説に快哉を叫んだ。
「一握りの砂も。一滴の水も。ぜーんぶ、私たちのものだ。地球の裏側から来たアメリカは、ぬするれいびんど……泥棒だ!」演説会には10万人を超える人々が集まり、米軍の度重なる妨害にもかかわらず亀次郎の言葉に熱狂する。ついに米軍は微罪で亀次郎を逮捕、宮古島の監獄に送るが、奇跡的に生還を果たし、市民の後押しを得て那覇市長に当選した。妨害の連続で市長の任期はわずか1年で終わったが、70年には衆議院議員に当選。佐藤栄作首相に対し、「沖縄は再び戦場となることを拒否する!」とド迫力の論戦を繰り広げた。
「伝説の男」の骨太な生涯を描いた感涙の映画が、ついに書籍化。
 
ひと言
少し前に読んだ直木賞受賞の「宝島」に瀬長亀次郎さんのことが書かれていたので調べてみました。2017年の夏に「米軍が最も恐れた男~その名は、カメジロー」という映画が公開され、2018年にこの本が出されたということを知り図書館に予約を入れました。この本を読んでもっともっと沖縄のことを知らないといけないなぁと強く思いました。レンタルビデオ屋さんにも映画があるようですが、まだ見つけられず借りれていませんが、映画も観てみたいです。
 
沖縄では子どもが生まれると、隣近所が集まり、お祝いする風習がある。 しかしあるとき、「絶対に来ないでくれ」と来訪を拒否する家があった。生まれてきた赤ん坊が、家族の誰にも似ていない、褐色の肌だったからだ。出産後に初めて、娘が黒人兵に暴行を受けていたことがわかり、父親は大きなショックを受け、かたくなに祝福を拒んだ。「みんな言わないだけで、12名は米軍に襲われた。いつのことだったか、母と話していて、12名と言ったら、13名だと言われた。実は、ってお母さんが言う。あんたのおばさんも米軍に犯されたんだよ、と初めて聞いた」 常に身近に暴行の恐怖がついてまわる。それが、沖縄の戦後の始まりだった。
「米軍はマングースと一緒だ」 と島袋は言う。
マングースとは、沖縄に生息する毒蛇・ハブやネズミを退治するために導入された外来種だが、招いたのは、悲惨な結果だった。ハブ退治より、むしろニワトリ、アヒルなど鳥類の敵となり、国の天然記念物ヤンバルクイナまで食い荒らした。 「良くするといって外から入ってきたが、結果は暴行するわ、ジェット機を落とすわ……マングースと一緒だ」
(第1章 沖縄を魅了した演説)
 
「日本人民との結合。それのみが沖縄人民を貧乏から解放する道である」 亀次郎は、「日本人民と結合せよ」という論文で、そう書いている。 しかし、急を告げ始めた世界情勢が、その道行きを遮った。 1950年6月、朝鮮戦争が勃発。ソ道との冷戦構造がより深刻になったことで、反共の防波堤が必要になったアメリカは、その4ヵ月前、軍事占領している沖縄を恒久基地化すると宣言していた。
翌1951年9月8日には、サンフランシスコ講和条約の締結により、日本の主権回復と、沖縄を日本から切り離し、アメリカの施政権下に置くことが決まった。と同時に日米安保条約が結ばれ、独立国に米軍が駐留することになる。 ここに至るまで、本土と沖縄の分断を図る動きが続いていた。アメリカは太平洋戦争の最中から、戦後ソ連、中国にどう対峙するかという世界秩序を想定し、沖縄を東アジアの要衝として拠点を築く戦略を持っていた。 そのために、本土と沖縄を分断しようと、両者の間にある精神的な亀裂に注目し、それを拡大させようと狙う。沖縄戦では「心理作戦」を展開し、本土と沖縄を切り離そうとした。
(第2章 米軍vs.カメジロー)
 
亀次郎の行動には、法的な根拠があった。ハーグ陸戦条約である。 いわゆる戦時国際法のひとつで、攻撃手段の制限や占領、交戦者の資格、捕虜の取り扱いなどを規定している。その中に、 「占領された市民は、占領軍に忠誠を誓うことを強制されない」 という条文があるのだ。 亀次郎はその行動に、常に法律的な裏づけを意識していた。 この創立式典の前日、立法院から印鑑を持参するよう通知があった。宣誓書に捺印するためというのだ。亀次郎が通知に応じず、出向かずにいると、立法院職員が「立法院議員は、米民政府と琉球住民に対し厳粛に誓います」という宣誓書を持って自宅にやって来た。このとき、亀次郎を除くすべての立法院議員の捺印がすでに済んでいた。 亀次郎は、宣誓文から「米民政府」を削らないと判は押さない、と突っぱねた。 「これはひとり沖縄県民だけの問題ではなく、日本国民に対する民族的侮辱であり、日本復帰と平和に対する挑戦状だ」……。……。再度、亀次郎は捺印を拒否した。ずらりと並ぶ名前の、瀬長亀次郎の下だけが空欄なのである。亀次郎は、三度目にやって来た職員から、式典への参加を確認されると、それには「喜んで参加します」と応じ、臨んだ式典の場で、起立を拒否したのだ。 ポッダム宣言の受諾によって訪れるはずの平和が来ない。しかもそれを阻んでいるのは、宣言を主導し受諾を迫った当のアメリカである。 亀次郎は、ここに大きな矛盾を感じていた。沖縄に対する侮辱は、日本に対する侮辱と同じだ。民主主義に反している。それが亀次郎の思いだった。
(第2章 米軍vs.カメジロー)
 
「私が投獄された、唯一の理由は、祖国復帰運動を徹底的にやったことにある。しかし、私はどこまでも県民のみなさんとともに祖国復帰のためにやっていく決意を固めている。働く全県民のスローガンは民族の完全独立であり、これは沖縄の祖国復帰と結びついていることはいうまでもない。 もし祖国復帰を叫ぶことをやめて基地権力者に迎合するならば、自己栄達の道が開けるかもしれない。また、これ以上祖国復帰を叫ぶならば、再び監獄に入れられるかもしれないが、私は後者の道を選ぶ。投獄もいとわない気持ちである」
次女・千尋は言う。
「アメリカの失敗はね、亀次郎を投獄したことだと思うんです。投獄すれば屈すると思っていたと思うんです。でもますますヒーローになって帰ってきた。出獄のときは、亀次郎が無事に出てきたことが驚きだった。みんな殺されると思っていたらしいんですよ。それに獄中死してもおかしくないような病気もしていたし、奇跡的に回復した。投獄したほうも、獄死してもいいくらいの気持ちで投獄していると思うので、そういう人が無事に出てきたのは、みなさん勇気が出たって言うんですね。亀次郎でもこうやって無事に生きて帰ってこられる。どんなに弾圧されてもがんばろうと、出獄がみんなに勇気を与えたんですよ」
米軍の目論見は外れた。1年半の獄中生活によって、亀次郎の影響力は削がれるどころか、むしろ、強くなり、存在感はより大きくなった。
(第3章 獄中日記)
 
沖縄中部の宜野湾村(現・宜野湾市)では、いまの普天間基地となっている地域をはさんで、北と南で、犠牲になった住民の率が大幅に異なる。北の集落では犠牲となったのは軒並み1割台だが、南では半分近くに及ぶ。南の地域には日本軍の陣地があった。降伏したくとも日本兵の手前、降伏できなかったのだ。「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓によって、多くの民間人が投降を許されず命を落とした。
一方北の地域では、捕虜となった住民らが収容所生活を送っていた。軍隊がそばにいるかいないかが、生死を分ける分岐点になった。日本車司令部があった首里に米軍が迫ると、日本軍は司令部を放棄して南部への撤退を決断した。これによって、さらに多くの民間人が戦闘に巻き込まれ、3ヵ月に及ぶ地上戦で沖縄県民の4人に1人の命が奪われた。歴史的な差別の末、「日本人」になろうと日本のために戦った沖縄県民が捨て石とされた。その結末がこれである。 亀次郎が、日本軍司令官と参謀長の自決(6月23日)を知ったのは、翌24日の夕方のことだった。
(第4章 「抵抗者」の軌跡)
 
2007年9月29日、沖縄戦の強制集団死に関する記述をめぐる教科書検定で、日本軍の関与が削除されたことに抗議する県民大会には11万6000人が集まり、会場の宜野湾海浜公園を埋めた。 沖縄の人々にとって、歴史の改竄はアイデンティティーの否定にほかならない。絶対に受け入れられるものではない。
2009年、のちに首相となる民主党の鳩山由紀夫代表が普天間基地について「最低でも県外移設」とぶち上げたことから、沖縄には期待が高まっていた。しかし、政権交代から2ヵ月もしないうちに、鳩山は公約をめぐって「時間というファクターによって変化する可能性は私は否定しない」と述べ、疑念が深まっていく。そして2010年4月25日、読谷村運動広場に、9万人が集結し、普天間基地の県外・国外への移設を訴えた。
2012年、安全性に疑問符がついた輸送機オスプレイの沖縄配備が公表された。配備は1996年に決まっていて、日本政府にも伝えられていたが、当時の自民党政権は公表せず、「聞いていない」の一点張りだった。
同年9月9日、宜野湾市の海浜公園に10万1000人が集まり、炎天下で声をあげたが、3週間後にオスプレイは次々と飛来した。 大会を引っ張ったのは、当時那覇市長の翁長だった。翁長はこの日、沖縄は1つになろうと訴えた。保守政治家を自認する翁長が赤い鉢巻をしめ、横には、沖縄の名だたる革新政治家が並んでいた。
2013年12月25日、首相官邸を訪れた、当時の県知事・仲井眞弘多に、安倍首相は毎年3000億円台という沖縄振興予算を提示した。仲井眞は「有史以来」と高く評価。 「これはいい正月になるな、というのが私の実感」 という言葉を残して沖縄に帰る。振興策は基地とリンクしないはずだったが、2日後、辺野古の埋め立て承認を表明した。
2010年の知事選での「普天間基地の県外移設」という公約放棄の批判を免れないもので、この選挙で選対本部長を務めた翁長への相談もないまま仲井眞の心変わりで、二人は訣別する。
2014年11月16日投票の知事選で、翁長は仲井眞に挑み、圧倒的な票差で勝利した。事務所内に、1年前の仲井眞の言葉を皮肉った「これでいい正月が迎えられます」という声が響いた。

米軍関係者による犯罪は止まるところを知らない。
2016年4月、20歳の女性が、元海兵隊員で軍属の男に暴行され殺された。6月19日に行われた、被害者を追悼する県民大会では「怒りは限界を超えた」「海兵隊は撤退を」というメッセージが掲げられた。
7月22日、北部訓練場の一部返還に伴い、東村高江の集落の周囲にヘリパッドを新設することに抗議する住民が強制排除された。
10月には、警備にあたる機動隊員から、工事に抗議する作家・目取真俊さんに「土人」という言葉が浴びせられた。
9月16日、翁長知事の辺野古埋め立て承認取り消しは違法という判決が福岡高裁那覇支部でくだる。
12月13日、政府が「安全」だと強調したオスプレイが、名護市の海に墜落し大破。機体はまっ二つになっていた。政府は、これを墜落ではなく、不時着だと強弁し、沖縄県警の警察官が現場を「守って」、地元の名護市長や知事さえ現場に寄せ付けなかった。
12月22日、北部訓練場の返遺式が名護市で行われた。 政府からは菅義偉官房長官、稲田朋美防衛相(当時)、米政府からもケネディ駐日大使(当時)が出席したが、翁長知事は欠席し、同じ名護市内で行われた「欠陥機オスプレイ撤去を求める緊急抗議集会」に参加した。政府のイペントを蹴って県民との場に姿を見せた知事を迎える拍手は、なかなか止まなかった。
2017年3月25日、辺野古での埋め立て工事の即時中止を求める集会で掲げられたプラカードにあったのは、亀次郎が残した言葉だった。
「弾圧は抵抗を呼ぶ 抵抗は友を呼ぶ」「不屈」
〈民衆の憎しみに包囲された軍事基地の価値は0に等しい〉
亀次郎は、日記にそう書き残している。 まるで、いまの沖縄の姿を予見したかのように。
沖縄は、自らの手で民主主義を勝ちとり、今日なお、真の民主主義を求める闘いのなかにある。そして、その闘いを通して、強くなった。原点は、瀬長亀次郎。「むしろのあやのようにまっすぐ生きなさい」という母の教えを地で行ったその人生は、大地に根を張るガジュマルの木のように強靭だった。
(エピロー グ 亀次郎の遺したもの)