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あらすじ
6歳の少年の詩を、長谷川義史が魂で描いた 2013年、沖縄県「平和の詩」最優秀賞受賞作品。慰霊の日の式典で、6歳の少年が朗読する凛々しい姿が報道され、全国で大きな反響を呼んだ。長谷川 義史が、与那国島の安里有生を訪れて描きあげた絵本
「ああ、ぼくは、へいわなときにうまれてよかったよ。このへいわが、ずっとつづいてほしい。みんなのえがおがずっと、つづいてほしい。」沖縄発、平和へのメッセージ。

 

ひと言
昨年、2013年6月23日の「沖縄 慰霊の日」は日曜日だったので 沖縄全戦没者追悼式をTVで見ることができました。
式の中の「平和の詩」の朗読で与那国町 久部良小学校1年生の安里有生(あさと ゆうき)くんが朗読した「へいわってすてきだね」。
詩の内容もすばらしかったのですが、6歳の子がこんなに感情を込めて、人の心に訴えるような朗読に感動したのを覚えています。
その安里 有生くんの詩が絵本になりました。この絵本が「ぐりとぐら」「はらぺこあおむし」のように多くの子どもたちに読まれる絵本になりますように!

 

 

 

 

 

 

「へいわってすてきだね」 
     
与那国町立久部良小学校1年 安里有生

 

 

 

 

へいわってなにかな
ぼくはかんがえたよ
おともだちとなかよくし
かぞくがげんき
えがおであそぶ
ねこがわらう
おなかがいっぱい
やぎがのんびりあるいてる
けんかしてもすぐなかなおり

 

 

ちょうめいそうがたくさんはえ
よなぐにうまが、ヒヒーンとなく
みなとには、フェリーがとまっていて
うみには、かめやかじきがおよいでいる。
やさしいこころがにじになる。
へいわっていいね。
みんなのこころから、
へいわがうまれるんだね。

 

 

せんそうは、おそろしい
「ドドーン、ドカーン」
ばくだんがおちてくるこわいおと。
おなかがすいて、くるしむこども。
かぞくがしんでしまってなくひとたち。
 
ああ、ぼくは、へいわなときにうまれてよかったよ。
このへいわが、ずっとつづいてほしい。
みんなのえがおが、ずっとつづいてほしい。

 

 

へいわなかぞく
へいわながっこう
へいわなよなぐにじま
へいわなおきなわ
へいわなせかい
へいわってすてきだね。
 
これからも、ずっとへいわがつづくように
ぼくも、ぼくのできることからがんばるよ

 

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あらすじ
10万人の子供たちが涙した。そして、変わった…。沖縄を拠点に、アジアの貧困地域に暮らす子供たちの支援活動を命がけで続けている著者が物質的な豊かさの中で、「本当に大切なもの」を見失ってしまった日本の子供たち・親たちへ真摯に訴えるメッセージ。いま子供に読ませたい本No.1です!

 

ひと言
「見てしまったから。知ってしまったから。」何のためにそのような活動をしているのか?と聞かれたときの、池間さんの答えです。
書店員が売りたい本ではなく、書店員が読ませたい本が本屋大賞になって、こういう本が本屋大賞に選ばれたら…。この本のことを知らない子どもたちや大人たちがこの本を手にすることができるのにと思いました。

 

 

 

 貧しい国の都会に行くと、親のいない子どもたちがシンナーを吸う姿によく出会います。なぜシンナーを吸うかというと、その意味は日本とはまったく違います。快楽を得るためでも、覚醒状態を味わうためでもありません。彼らにとってシンナーは「一番安い食事」。ご飯の代わりなのです。
……。……。
飯を食べるにはお金が足りないけれど、シンナーならばビン一本五円ぐらいで売っています。五円なら彼らにも買える値段です。シンナーを吸うと神経が麻卑して感覚がおかしくなります。お腹の中に何も入ってなくても、空腹感に襲われない。だから、ご飯の代わりにシンナーで空腹をしのごうとするのです。
シンナーを吸うと、まず歯が抜けてボロボロになって、やがて脳が侵されて死んでいきます。周りにそんな人たちがたくさんいるから、この子たちはよくわかっています。でも、ひもじくて苦しくてたまらないから、シンナーを吸ってしまう。これも大変な悲劇です。ご飯が食べられないというのは、こんなにつらいことなのです。
(第二章 親のために売られていく娘たち)

 

 

 

 ボランティアには大事なことが三つあります。そのことをよくわかってほしいと思います。
 一つ目は、「理解する」ということです。わかる、知るということがとても大切なボランティアになります。貧しさが原因で毎日四万人以上の人たちが死んでいく。一年間では一千五百万人が死んでしまう。そのほとんどはなんの罪もない子どもたちです。それをよくわかってください。
 二つ目は、「少しだけ分けてください」ということ。一〇〇パーセントの愛はいりません。一パーセント、いや、〇・一パーセントだけでいいのです。私は餓死した赤ちゃんを抱いたことがあります。一リットルのペットボトルぐらいの大きさになって死んでいました。せっかく生まれてきたのに、すぐに死んでしまったのです。なぜかと言えば、お母さんがご飯を食べていないから、栄養不良でおっぱいが出なかったのです。ミルクを買えばいいと思うかもしれません。一か月で三百円もあればそれも可能でした。でも、それっぽっちのお金もなかったのです。だから、赤ちゃんは死んでしまったのです。
ベトナムではマラリアで死ぬ子がいました。四十度ぐらいの高熱で死んでいきます。薬は百二十円で買えるのに、それが買えない。私のカンボジアの友達は、百円の靴が買えなくて、割れたビンを裸足で踏んでしまって死にました。
私たちにとっては小さなお金でも、それがないために死んでいく命がいっぱいあります。それをよくわかっていただきたいと思います。百円がなくて死んでいく人々がたくさんいるのです。私たちがこのような問題にちょっと心を向けるだけでも、間違いなく多くの命が助かります。優しい心をほんの少しだけでいいから、一生懸命生きようとしている子どもたちに分けていただきたいと思います。
 三つ目は私が最も伝えたいこと。それは、一番大事なボランティアとは、誰かのためとか、人のためとか、世の中のため、社会のために何かをすることではない、ということです。一番大事なボランティアは、自分自身がまず一生懸命に生きること。私はそう思います。
子どもたちの話をして、映像を見せて、かわいそうだから助けてちょうだいと言っているのではないのです。誤解しないでください。そういうことではありません。私が言いたいのは、あの子どもたちは、たとえマンホールの中に暮らそうが、ゴミ捨て場の中で暮らそうが、一生懸命生きているということです。どんな状況であろうとも必死になって生きている。だから大事にしたいと言っているだけなのです。
ありあまるほどの食べ物がある恵まれた環境の中で暮らしている私たちですが、そうした豊かさが私たちに「命の尊さ」や「生きることの大切さ」を見失わせているのではないかと感じています。だからこそ、日本中の子どもたちがアジアの貧しい子どもだちから真剣に生きる大切さを学んでほしい、そして一生懸命生きることの大切さに気づいてほしいと思っているのです。
だから、一番大事なボランティアは自分自身が一生懸命に生きることなのです。一生懸命生きる人じゃないと、本当の命の尊さはわかりません。真剣に生きる人じゃないと、人の痛みや悲しみは伝わってこないと思うのです。
誰かのため、人のためではなく、自分自身が懸命に生きる。それが私たちにできる一番大事なボランティアなのです。

 

 

理解すること、少しだけ分けていただくこと、そして自分自身が一生懸命生きること。この三つのことを心からお願いしたいと思います。
(エピローグ)

 

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あらすじ
離婚したばかりの元美容師・太郎は、世田谷にある取り壊し寸前の古いアパートに引っ越してきた。あるとき、同じアパートに住む女が、塀を乗り越え、隣の家の敷地に侵入しようとしているのを目撃する。注意しようと呼び止めたところ、太郎は女から意外な動機を聞かされる……
(第151回 芥川賞 受賞作)

 

 

ひと言
何が起こるんだろう と思いながら読み進めるが、何も起こらない。いつもと変わらない日常が淡々と進んでいく。ネットの読者の感想で「何も起こらない日常は何かが起きるかもしれない日常でもあるんだね。」という言葉が印象に残った。
最後が「塀の上に腰を下ろして、部屋の奥を覗くと、巨大な冷蔵庫が鈍く銀色に光っていた。冷蔵庫の中にある豆腐を今日中に食べなければならないことを、太郎は思い出した。」で〆られているけど、冷蔵庫の豆腐なんて、今までにそんな伏線あったっけ?読み落としたのかな。でも もう一度読み直そうという気にはならなかった。

 

 

スコットランドが住民投票で独立を否決、iPhone6 が発売された 2014年 9月19日。
子どもが運転免許を取りました。
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これで家族で出かけたとき、娘に運転してもらって 一杯飲むことができそうです♪
くれぐれも事故のないように、安全運転をお願いします。
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あらすじ
大津波の最前線で取材していた24歳の地元紙記者は、なぜ死んだのか。そして、その死は、なぜ仲間たちに負い目とトラウマを残したのか。記者を喪っただけでなく、新聞発行そのものの危機に陥った「福島民友新聞」を舞台に繰り広げられた壮絶な執念と葛藤のドラマ。

 

ひと言
先日、朝日新聞が「9割が所長命令に違反して逃げた」と報じた「吉田調書」報道の間違いを認めて記事を取り消し、門田隆将さんや週刊ポスト、産経新聞社にお詫びの意思を伝えた。
東京電力福島第一原発の当時所長の吉田昌郎さん(2013年7月9日 食道癌のため死去)を実際に取材し「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日」を著した門田さんがブログで疑問を呈し、ネット上での注目が集まりそれが今回の朝日の取り消し問題につながった。

 

 

従軍慰安婦報道、靖国神社公式参拝問題 等々 日本と日本人を貶める報道を続ける朝日の思惑通り、外国のメディアは朝日の報道を受けて、「パニックに陥った原発所員の9割が命令に背いて逃げ去った」「これは、“日本版セウォル号事件”だ」と大々的に報じた。今でも日本人の多くは吉田昌郎所長のことは知らないだろう。たとえ知っていたとしても原発事故を起こした極悪人としてのイメージしか持っていないのかもしれない。吉田所長を始め、命をかけて原発事故の収束に努力し、今も頑張っている作業員の人たちに対して、朝日の「逃げた」という報道は断じて許せない。
この「記者たちは海に向かった」には、現場取材の痕跡がなく、現場取材もしないままあの記事を書いたのではないかといわれる「朝日新聞」とはまったく違う、現場を走りまわり、他の人を助けて自分は津波に呑み込まれた「福島民友新聞」の記者、自分の目の前で津波に呑み込まれる老人と子どもを助けられなかった記者 の苦悩が描かれた、涙なしには読めない1冊でした。

 

 

 

前へ向かっていた木口のチェロキーは、強烈な音を残して、恐ろしい勢いでバックを始めた。その時、老人と目が合った。一瞬、絶望の色が老人の顔に浮かんだように見えた。やられる。津波に呑まれる!ぎりぎりで、木口の車は津波から”脱出”した。車を切り返した時、バックミラーに老人が波に呑まれる瞬間が映った。(!)波に足をとられ、孫を抱いたまま倒れる瞬間の老人の姿を木口はその目で見た。「助けてくれ」 老人の声が聞こえてくるような気がした。(なんてことを……)
なぜ、カメラに手をかけようとしたんだ。なぜ、最初から助けようとしなかったんだ。おまえは、なぜカメラなんかに手を伸ばそうとしたんだ。おまえは、なんで助けなかったんだ……。津波から逃げながら、木口の頭の中を、そんな言葉がぐるぐるとまわっていた。おまえは何だ! おまえはなぜ人を助けないのか! おまえは記者である前に「人間」ではないのか!
死の恐怖にがたがた震えながら、木口はアクセルを踏みつづけた。助けられなかった命の重さが、運転席にいる木口の全身に覆いかぶさっていた。
(第二章 助けられなかった命)

 

 

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あらすじ
「すべての子どもに教育を」と訴え、イスラム武装勢力に銃撃された16歳の少女・マララの手記。本書は、テロリズムによって生活が一変した家族の物語でもあり、女の子が教育を受ける権利を求める戦いの記録でもある。世界24か国で翻訳の話題作!

 

ひと言
パキスタンやイスラムのことを、少しは解っていると思っていた自分が恥ずかしい。
この本は多くの人に読んで欲しい本だ。
巻末に掲載されてあった国連でのマララのスピーチの一部を以下に引用しましたが、
YouTube のマララの素晴らしいスピーチ(17分42秒)も見てください。

 

 

 

 

国連本部でのスピーチ (二〇一三年七月一二日、マララ・デー)

 

 

……。……。
親愛なる兄弟姉妹のみなさん、ひとつ覚えていてほしいことかあります。マララ・デーはわたしの日ではありません。権利を求めて声をあげたすべての女性、すべての少年少女の日です。何百人もの人権活動家やソーシャルワーカーが、人間の権利を言葉で主張するだけでなく、平和、教育、平等という目標を達成しようと、日々闘っています。これまでに何千人もの人々がテロリストに命を奪われ、何百万人もの人々が傷を負いました。わたしはそのうちのひとりにすぎません。ですから、わたしは今日、たくさんの少女のうちのひとりとして、ここに立っているのです。これはわたしの声ではありません。声をあげることのできない人々の声――権利を求めて闘う人々みんなの声なのです。平和に生きる権利、人間としての尊厳を認められる権利、均等な機会を得る権利、教育を受ける権利を、わたしたちは求めます。

 

 

親愛なるみなさん、二〇一二年十月九日、わたしは左の側頭部をタリバンに撃たれました。わたしの友だちも撃たれました。タリバンは、ピストルでわたしたちを撃てば、わたしたちを黙らせることができると考えたのでしょう。でも、そうはいきませんでした。わたしたちが声をあげられなくなったとき、何千人もの人々が声をあげたのです。
 テロリストたちは、わたしの目的を変えさせてやろう、目標をあきらめさせてやろう、と考えたのでしょう。でも、わたしのなかで変わったことなど、なにひとつありません。あるとすれば、ひとつだけ。弱さと恐怖と絶望が消え、強さと力と勇気が生まれたのです。わたしはそれまでと同じマララです。目標に向かっていく気持ちも変わっていません。希望も、夢も、前と同じです。
……。……。
親愛なる兄弟姉妹のみなさん、光の大切さがわかるのは、暗闇のなかにいるときです。声の大切さがわかるのは、声をあげるなといわれたときです。それと同じように、パキスタン北部のスワートが銃だらけになったとき、わたしたちは、ペンと本の大切さに気づきました。「ペンは剣よりも強し」ということわざがあります。まさにそのとおりです。過激派は、本とペンを恐れていました。そしていまも恐れています。教育の力が怖いのです。彼らはまた、女性を恐れています。女性の声が持つ力が怖いのです。だから、彼らは人を殺すのです。最近では、クエッタの罪のない学生を一四人も殺しました。女性教師や、ポリオ撲滅をめざす活動家を何人も殺しました。毎日学校を爆破するのも、同じ理由です。昔もいまも、彼らは変化を恐れているのです。わたしたちの活動によって、平等な社会が生まれたら困ると思っているのです。
わたしの学校の男の子が、ジャーナリストから「タリバンはなぜ教育に反対しているのか」と質問されたことがあります。男の子はとてもシンプルに答えました。本を指さして、「タリバンはこの本に何が書いてあるか知らないからです」といったのです。テロリストは、神様のことを、学校に通っている女の子をただそれだけの理由で地獄に落とすような、心の狭い保守主義者だと思っているのです。
……。……。
言葉には力があります。わたしたちの言葉で世界を変えることができます。みんなが団結して教育を求めれば、世界は変えられます。でもそのためには、強くならなければなりません。知識という武器を待ちましょう。連帯と絆という盾を待ちましょう。親愛なる兄弟姉妹のみなさん、忘れてはなりません。何百万もの人が貧困、不正、無知に苦しんでいます。何百万もの子どもたちが学校に通えずにいます。わたしたちの兄弟姉妹が、明るく平和な未来を待ち望んでいます。
そのために、世界の無学、貧困、テロに立ち向かいましょう。本とペンを待って闘いましょう。それこそが、わたしたちのもっとも強力な武器なのです。ひとりの子ども、ひとりの教師、一冊の本、そして一本のペンが、世界を変えるのです。
教育こそ、唯一の解決策です。まず、教育を。

 

 

 

 

イスラム法では、法廷における女性の証言には、男性の証言の二分の一しか価値がないとされる。そのうち、国じゅうの刑務所が、女性の囚人でいっぱいになった。レイプされて妊娠した十三歳の少女が、レイプだったと証言してくれる男性の証人が四人いないばかりに、姦通罪で投獄される――そんなひどいケースばかりだった。
(第一部 タリバン以前)

 

 

 

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あらすじ
海沿いの町で、なぜか高い杉の木のてっぺんに引っかかっているというDJ(ディスク・ジョッキー)アークがパーソナリティをつとめる番組「想像ラジオ」。彼は「想像」という電波を使って、「あなたの想像力の中」だけで聞こえるラジオ放送を続けている。リスナーから次々に届くメールを読み上げ、饒舌におしゃべりを続けるアークだったが、彼にはどうしても聞きたい、ひとつの〈声〉があった。
(2014年本屋大賞 8位)

 

ひと言
「魂魄(こんぱく)この世にとどまりて」突然の地震と津波で命を失い、思い残すことがあってこの世にとどまる魂を表した言葉です。その魂が いかにしてあの世へ向かうことが出来るのでしょうか? 今、私たちが亡くなった人々にできることとは何でしょうか? そのことを問いかけてくる本です。
ただ、この本の作者の感性に合う人もいれば、合わない人もいる本のように思いました。
東日本大震災だけにとどまらず、いろいろな死に向かいあったときに 私たちにできること、それは亡くなった人々のことを忘れないようにすることです。そうすれば亡くなった人はその人の心の中にずっと生き続けることができるのですから。

 

 

父が入院してからのニケ月、私はそれまでほとんど帰ることのなかった郷里を出来る限り頻繁に訪れ、父を見舞った。怒濤の、と言いたい早さと勢いで癌は父の体中に散り、脊髄に沿って点々と飛び火し、絶え間なく行軍し、おかげで父は歩けなくなった。
女性看護師と私や母が抱いて車椅子に乗せて、トイレに連れていった。帰りに、父は車椅子から自力でベッドに戻りたがった。一ケ月ほどするうちに、父は両手を肘かけに突っ張って思い切り 力を入れても うまく立ち上がることが出来なくなった。父は顔をしかめてぶるぶる震えたが、尻がほんの少し椅子から離れるばかりだった。助けようとすると首を横に振った。
ある日、父はとうとう顎を肘かけにつけ、歯を食いしばった。顎の力で椅子から離れようとしたのだった。悲鳴のようなものが父の喉から出た。私は助けたかったが、手を貸せば父のプライドに傷がつくと思った。しかし、いつまでもそのままにしておけば、父は自分の無力を私の前で認めざるを得なかった。ぎりぎりの瞬間、私は無意識に手を出して父の背中を抱いていた。いつの間にそばに来ていたのか、
若い女性看護師はその私より一瞬早く、肩を父の左脇に入れていた。そして徹底的に職業的な素振りで父を立たせ、はい、ベッドに移ってくださーいと、まるで父が自分の意志で移動しているかのように言った。
私はその人に黙って頭を下げた。(第二章)

 

8月28日 有給を取り青春18きっぷで 京都の西国三十三所を巡ってきました。

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名古屋駅 6:10発の電車に乗り、途中 大垣、米原で乗り換えて 石山駅 8:13着。
京阪石山駅で地下鉄・京阪大津線1dayチケット(1000円)を買い、先ずは 13番 石山寺へ

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雨にもかかわらず、駅から石山寺までの参道にボランティアのお年寄りの方々が清掃や自転車の駐輪の整列をされており、駅から西国三十三所の輪袈裟をつけて歩いている私に、「おはようございます」と気持ちよく声をかけていただいたのがとてもうれしかったです。

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石山寺駅 9:20の電車に乗り、次は 14番 三井寺へ、駅の向こうには琵琶湖が見え、駅のすぐ横に琵琶湖疏水があり、この水が蹴上のインクラインや南禅寺の水路閣、一部は哲学の道にも流れ、鴨川へ達しています。この疏水べりの桜が満開に咲き誇る景色を想像しながら三井寺へ向かいます。

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三井寺駅 10:58の電車で御陵駅(みささぎ)へ、次は 番外の元慶寺です。
御陵駅まで戻り 12:18の地下鉄で醍醐駅へ、次は 11番 醍醐寺です。

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醍醐駅 14:04の地下鉄で山科まで行き、そこからJRで京都、奈良線に乗り換えて東福寺駅へ、
次は 15番 今熊野観音寺です。観音寺まではずっと登りで、朝からずっと歩いてきて、さすがにもう足もガクガクです。

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東福寺駅 15:43の京阪電車で神宮丸太町駅まで行きます(別途 270円)。
次は寺町通りの 19番 行願寺です。

寺町通りを南に歩き、一保堂の前を通ったとき、嘉木で休憩しようかと悩みましたが、この前読んだ森見 登美彦の本に出てきたイノダコーヒ 本店に向かいます。

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何十年ぶりのイノダコーヒ。懐かしいジャンボシュークリームを食べようと思ったのですが 売り切れで、ラムロックとブレンド(アラビアの真珠)のケーキセット(900円)を頼みました。

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休憩も終わり、次は姉三六角蛸錦…(あねさんろっかくたこにしき)♪と通り名にもなっている 18番 六角堂へ向かいます。六角堂に着いたのが、ちょうど17:00。お寺の鐘が撞かれ、お寺の方が入り口を鎖で入れないようにしているところでした。先に六角堂へ行ってからイノダに行けばよかったと思っても後の祭りです。

この後、17番 六波羅蜜寺、16番 清水寺へ行く予定でしたが、疲れて足もパンパンなので、今日の三十三所巡りはこれで終わりです。

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お昼も食べずに歩きっぱなしだったので、錦市場の「麩嘉」の店先でお茶を出してもらって麩まんじゅう(226円)をいただきます。私のお気に入りの「魚力」の はもかつ、はも天ぷらはもう売り切れでした。祇園四条の本店までもう歩く元気がないので、高島屋B1の「壹銭洋食」の壹銭洋食(680円)をいただきました。

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歩き疲れて、おみやげを見る元気もなく、京都駅 18:22発の米原行きの普通で座って帰りました。

青春18きっぷ 一回あたり 2370円、地下鉄・京阪大津線1dayチケット1000円、京阪 東福寺~神宮丸太町 270円 全交通費 3640円 とても安く旅することができましたが、とにかくよく歩いた西国三十三所巡りの旅でした。

青春18きっぷ 9月10日までなのに、あと4回も残って大丈夫?と心配されてる方がみえるかもしれませんが、残りは子どもが、明日30日 京都に下宿している友だちのところへ遊びに行き、31日友だちとUSJへ行ったりするのに使いますので、ご心配なく (^0^)
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名古屋の栄に用事で行った帰り、職場の人に教えてもらった はらドーナッツに立ち寄りました。
一番人気のはらドーナッツ(120円)。
チョコやクリームなどでコーティングされた甘めのドーナツではなく、オカラと豆乳たっぷり、ヘルシーでモッチリした どこかなつかしい味のドーナツです。
今のドーナツを食べ慣れている人にとっては、どこがおいしいの?という人もいると思いますが、このドーナツも後味がすごくいいです。もう一口食べたい。そんな気分にしてくれます。
このシンプルなドーナツが人気 No.1 だというのも頷けます。

 

トースターで30秒から1分 温めるとよりいっそう美味しくいただけます。
 
はらドーナッツ 名古屋栄店
名古屋市中区栄3

 

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あらすじ
太平洋戦争末期、退勢を挽回するために最後の手段として敢行された百死零生の「特攻作戦」―投じられた海軍特攻兵7898名、陸軍特攻兵1707名、計9605名。知覧基地を飛び立ち、開聞岳を越えて自ら肉弾となって散った若き特攻隊員たちの素顔を、証言者・新資料で捉えた感動の物語。(始末記)

 

ひと言
今年の広島平和記念式典は43年ぶりの雨の中の式典となった。
長崎平和祈念式典では永井隆博士が作詞した「あの子」を今年も山里小学校の6年生が合唱した。
そして8月15日、310万人の戦没者を慰霊する全国戦没者追悼式が日本武道館で行われた。
占領下では行うことができなかった追悼式。1952年(昭和27年)4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効し日本の独立が回復。その4日後の5月2日に新宿御苑で第1回 全国戦没者追悼式が行なわれ、来年は終戦から70年という節目の年を迎える。

 

 

もうすぐ平成26年の8月も終わろうとしている。今年の夏も知覧を訪れることはできなかった。

 

 

 

 

「特攻」の話になると、いつも特攻は命令だったのか志願だったのか、本心では行きたくなかったはずではないかということが話題になる。
この本で佐藤早苗さんも書いているように

 

 

わざわざ敵艦に爆弾抱えて突っ込みたいと思うはずがない と考えている人を、説得することの難しさと、無益さを実感している。本を読んでくれれば何よりの回答だと思うのだが、そういう人ほど本は読まない。自分の考えを変えたくないからだろう(P97)

 

 

天皇陛下や国や肉親のために自分の命をかけて敵艦に突っ込むなど、絶対に出来ない現代人が、自分の能力で憶測し、作り上げたフィクション。(P226)

 

 

私が十一年前に書いた「特攻の町知覧」で取材したときの特攻隊員たちは、すべてが「靖国で会おう」と固い約束を結んで乾杯し、飛び立って行った。…。だからこそ、それを確信している生還者たちは、戦後六十年たって八十を過ぎても、時間を作っては靖国神社に向かう。約束が守れなかった詫びと懐かしさと慰霊のためである
(P131)

 

 

また、特攻隊として出撃しながら、不運にも成就できずに生き残った特攻兵たちを主体に書いた
「特攻の町知覧 最前線基地を彩った日本人の生と死」には

 

 

「いまでも腹が立つのは、特攻が志願だったというのなら、なぜ引き返してはならないかということです。絶対に帰ってはならなかったのは、それが命令だったからです。そうでしょう。私は「希望する」とは書きましたが、「熱望する」とは書きませんでした」(P161)

 

 

いろいろな思いを持って多くの人が飛び立って行った。特攻を命令か志願かのどちらかに分けることはできる訳がない。特攻は十死零生、人間ならば 本心では行きたくないと思うのは当たり前のことだ。
ただみんな 自分の命と引き換えにしてでも守りたいもののために旅立っていった。

 

 

ただ1つ、私は絶対に確かだと思うことがある。特攻や沖縄戦などの戦闘で戦う兵士たちは、間違いなく仲間に「靖国で会おう」と約束して突撃していっただろうということだ。

 

 

出撃日が決まったとき、荒木隊長は六人を集めて来世での重要な約束をした。
「俺たちが死んでからの集合場所は、靖国神社の神門を入って右側の二本目の桜の下だ。誰が先に行っても、かならずそこで待ち、全員揃ったところで一緒に神社に入る。いいな」と命じた。…。つぎの集合地を約束することは、隊員同士に一体感を持たせ、強い意志を抱かせる(P50)

 

 

仕事の関係で名古屋に住んでもう30年になるが、心はいつまでも堺市出身の大阪人だから、東京へ行くことはまあまあ あっても、行きたいなと思う所はあまりない。ただ高輪の泉岳寺と靖国神社だけは例外で、靖国神社は時間が取れるものなら参拝するように心がけている。

 

 

今年8月15日に参拝した閣僚は3名、超党派の「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」は80名、昨年12月に参拝しアメリカに「失望した」とまで言われた安倍首相は参拝を見送った。
昭和27年(1952年)日本が独立を回復した年から首相の靖国公式参拝は当たり前のように続けられてきた。昭和50年(1975年)に三木武夫首相が8月15日に参拝したとき、マスコミの記者団が例のくだらない質問をした。「公人としてか? それとも私人としてか?」(馬鹿げたことに三木首相はこのとき「私人として」と答えている)。
こいつは日本人なのかと疑いたくなるような記者(上から言われたことをそのまま聞いているだけの下っ端記者)がこの質問を40年も続けている国、日本。

 

 

自分の命と引き換えにしてでも、この国を守りたいと思って戦ってくれたすべての英霊に只々申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

 

 

 
平成26年 8月22日

 

 

1944年 沖縄からの学童疎開船「対馬丸」が米潜水艦に撃沈され、児童ら1485人が犠牲となって
70年目の日 。ご冥福をお祈りして