あらすじ
太平洋戦争末期、退勢を挽回するために最後の手段として敢行された百死零生の「特攻作戦」―投じられた海軍特攻兵7898名、陸軍特攻兵1707名、計9605名。知覧基地を飛び立ち、開聞岳を越えて自ら肉弾となって散った若き特攻隊員たちの素顔を、証言者・新資料で捉えた感動の物語。(始末記)
太平洋戦争末期、退勢を挽回するために最後の手段として敢行された百死零生の「特攻作戦」―投じられた海軍特攻兵7898名、陸軍特攻兵1707名、計9605名。知覧基地を飛び立ち、開聞岳を越えて自ら肉弾となって散った若き特攻隊員たちの素顔を、証言者・新資料で捉えた感動の物語。(始末記)
ひと言
今年の広島平和記念式典は43年ぶりの雨の中の式典となった。
長崎平和祈念式典では永井隆博士が作詞した「あの子」を今年も山里小学校の6年生が合唱した。
そして8月15日、310万人の戦没者を慰霊する全国戦没者追悼式が日本武道館で行われた。
占領下では行うことができなかった追悼式。1952年(昭和27年)4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効し日本の独立が回復。その4日後の5月2日に新宿御苑で第1回 全国戦没者追悼式が行なわれ、来年は終戦から70年という節目の年を迎える。
今年の広島平和記念式典は43年ぶりの雨の中の式典となった。
長崎平和祈念式典では永井隆博士が作詞した「あの子」を今年も山里小学校の6年生が合唱した。
そして8月15日、310万人の戦没者を慰霊する全国戦没者追悼式が日本武道館で行われた。
占領下では行うことができなかった追悼式。1952年(昭和27年)4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効し日本の独立が回復。その4日後の5月2日に新宿御苑で第1回 全国戦没者追悼式が行なわれ、来年は終戦から70年という節目の年を迎える。
もうすぐ平成26年の8月も終わろうとしている。今年の夏も知覧を訪れることはできなかった。
「特攻」の話になると、いつも特攻は命令だったのか志願だったのか、本心では行きたくなかったはずではないかということが話題になる。
この本で佐藤早苗さんも書いているように
この本で佐藤早苗さんも書いているように
わざわざ敵艦に爆弾抱えて突っ込みたいと思うはずがない と考えている人を、説得することの難しさと、無益さを実感している。本を読んでくれれば何よりの回答だと思うのだが、そういう人ほど本は読まない。自分の考えを変えたくないからだろう(P97)
天皇陛下や国や肉親のために自分の命をかけて敵艦に突っ込むなど、絶対に出来ない現代人が、自分の能力で憶測し、作り上げたフィクション。(P226)
私が十一年前に書いた「特攻の町知覧」で取材したときの特攻隊員たちは、すべてが「靖国で会おう」と固い約束を結んで乾杯し、飛び立って行った。…。だからこそ、それを確信している生還者たちは、戦後六十年たって八十を過ぎても、時間を作っては靖国神社に向かう。約束が守れなかった詫びと懐かしさと慰霊のためである
(P131)
(P131)
また、特攻隊として出撃しながら、不運にも成就できずに生き残った特攻兵たちを主体に書いた
「特攻の町知覧 最前線基地を彩った日本人の生と死」には
「特攻の町知覧 最前線基地を彩った日本人の生と死」には
「いまでも腹が立つのは、特攻が志願だったというのなら、なぜ引き返してはならないかということです。絶対に帰ってはならなかったのは、それが命令だったからです。そうでしょう。私は「希望する」とは書きましたが、「熱望する」とは書きませんでした」(P161)
いろいろな思いを持って多くの人が飛び立って行った。特攻を命令か志願かのどちらかに分けることはできる訳がない。特攻は十死零生、人間ならば 本心では行きたくないと思うのは当たり前のことだ。
ただみんな 自分の命と引き換えにしてでも守りたいもののために旅立っていった。
ただみんな 自分の命と引き換えにしてでも守りたいもののために旅立っていった。
ただ1つ、私は絶対に確かだと思うことがある。特攻や沖縄戦などの戦闘で戦う兵士たちは、間違いなく仲間に「靖国で会おう」と約束して突撃していっただろうということだ。
出撃日が決まったとき、荒木隊長は六人を集めて来世での重要な約束をした。
「俺たちが死んでからの集合場所は、靖国神社の神門を入って右側の二本目の桜の下だ。誰が先に行っても、かならずそこで待ち、全員揃ったところで一緒に神社に入る。いいな」と命じた。…。つぎの集合地を約束することは、隊員同士に一体感を持たせ、強い意志を抱かせる(P50)
「俺たちが死んでからの集合場所は、靖国神社の神門を入って右側の二本目の桜の下だ。誰が先に行っても、かならずそこで待ち、全員揃ったところで一緒に神社に入る。いいな」と命じた。…。つぎの集合地を約束することは、隊員同士に一体感を持たせ、強い意志を抱かせる(P50)
仕事の関係で名古屋に住んでもう30年になるが、心はいつまでも堺市出身の大阪人だから、東京へ行くことはまあまあ あっても、行きたいなと思う所はあまりない。ただ高輪の泉岳寺と靖国神社だけは例外で、靖国神社は時間が取れるものなら参拝するように心がけている。
今年8月15日に参拝した閣僚は3名、超党派の「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」は80名、昨年12月に参拝しアメリカに「失望した」とまで言われた安倍首相は参拝を見送った。
昭和27年(1952年)日本が独立を回復した年から首相の靖国公式参拝は当たり前のように続けられてきた。昭和50年(1975年)に三木武夫首相が8月15日に参拝したとき、マスコミの記者団が例のくだらない質問をした。「公人としてか? それとも私人としてか?」(馬鹿げたことに三木首相はこのとき「私人として」と答えている)。
こいつは日本人なのかと疑いたくなるような記者(上から言われたことをそのまま聞いているだけの下っ端記者)がこの質問を40年も続けている国、日本。
昭和27年(1952年)日本が独立を回復した年から首相の靖国公式参拝は当たり前のように続けられてきた。昭和50年(1975年)に三木武夫首相が8月15日に参拝したとき、マスコミの記者団が例のくだらない質問をした。「公人としてか? それとも私人としてか?」(馬鹿げたことに三木首相はこのとき「私人として」と答えている)。
こいつは日本人なのかと疑いたくなるような記者(上から言われたことをそのまま聞いているだけの下っ端記者)がこの質問を40年も続けている国、日本。
自分の命と引き換えにしてでも、この国を守りたいと思って戦ってくれたすべての英霊に只々申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
平成26年 8月22日
1944年 沖縄からの学童疎開船「対馬丸」が米潜水艦に撃沈され、児童ら1485人が犠牲となって
70年目の日 。ご冥福をお祈りして
70年目の日 。ご冥福をお祈りして