革命より維新を | 自分の人生の舵を取れ! ⭐︎武井義勇(kammy)のブログ

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僕は、公立小学校の教員をしています。

その中で大切にしたいことや、自分の生き方を考えてきました。それをシェアしていきます。

自分の人生の主役は自分自身です。いかに生きればもっと幸せになれるのかを追究しています。

いつもお読みいただきありがとうございます😊本質の追究者の武井義勇(たけいきゆう)です。

最近、Facebookでシェアされていた記事を読んで、メディアの情報操作にまた踊らされた自分を反省しました。

それは千代田区立麹町中学校についての記事でした。工藤勇一校長の改革によって一躍脚光を浴びた中学校。5年前に工藤先生の著書を拝読し、僕は胸を躍らせた一人です。


工藤先生の取り組みはどれも理に適っていて、かつセンセーショナルで、「こんな学校を作りたい」と強く感じたものでした。そしてそれは今もさほど変わっていません。


ただ変わったところがあるとすれば、「革命には反動が来る」ということを知り、「極端に走るのは危険」だと認識したことです。

工藤校長とも仲の良い一人に、元広島県教育長の平川理恵さんがいらっしゃいます。この方は広島県の教育を大きく変えた功労者です。

今年の3月に退任されたので、まだ何かのメディアで特に見たわけではないのですが、僕は今後必ず反動が来ると感じています。


急激な変化や極端な改革には、それに対応しきれずに残った力が、大きな反作用として発動します。より具体的に言えば、カリスマが起こした変革は、その人がいなくなった後はそれを好ましく思っていない人たちによって揺り戻されます。


麹町中は正にその最中にあります。工藤校長が行ったセンセーショナルな改革のほとんどは元に戻されたそうです。

工藤校長の次に校長になった方は、工藤イズムを踏襲されたようですが、昨年度から校長になられた方はその多くを元に戻したとのことでした。


僕は「さもありなん」と思いました。それと同時に、「工藤校長に妬みをもった連中が、頭をすげかえたな。」とも思いました。全国的に有名な工藤校長への当てつけ人事だと思ったのです。


しかしFBの記事を読んで、その意識が変わりました。その記事は、中学のPTAの方が校長インタビューをされていたものでした。それを読んでいくうちに、堀越校長先生にも哲学があると感じたのです。


「自由と好き勝手を履き違えている子どもへの対応」「高校入学以降の生徒の気持ち等を思い計った措置」

など納得のできる内容でした。

以下に引用文を添付します。

〜引用始め〜

「新入生保護者説明会でも、麹町中学校は「自由」の学校ではない、私たちの目指しているのは「自律」です、とお話ししました。

自由には責任やモラルが伴わなければならないはずですが、その理解がなく、ただ好き勝手に振る舞い楽しければ良いと思ってしまうと、かつての渋谷のハロウィンパーティーのように、他者に危害を加える人が現れ、弱い人たちにとって居づらい集団になってしまいます。学校を決してこのような場にしてはなりません。

「自律」を誤ってそういう「自由」にしてしまうと、多様な人が存在しお互いを認め合う「尊重」も成り立ちません。自律と尊重は強く結びついているのです。

「自律」とは自分個人を律するだけではありません。学校という集団生活では一定の集団規律が必要不可欠です。そんなに厳格なものではなく、「今は話を聞く時」とか、「ちゃんと並ぼう」とか。そういう規律の分かる子供に育てなければ、社会に出て困ることになります。」


〜引用終わり〜

読んでいただくとお分かりになると思いますが、この内容は決して工藤校長の指針を否定したものではありません。そして非常に真っ当なことをおっしゃっています。

「工藤先生が行った改革をほとんどゼロに戻した」というところだけを見ると、何と非情な校長かと思われますが、そんなことはないことが分かります。


この記事を読んで僕が考えたことは、「やはり極端に走るべきではない」ということです。一方の意見や考え方に突っ走ると、もう一方の意見や考えを否定するようになります。それは相手を攻撃することと同じです。


攻撃されれば当然反撃に出ます。一方を気に食わない人は、反撃することによって力をもつようになります。そしてこちらの方が力をもつことによって、最初に力をもっていた人たちが弱い立場になるのです。

弱い立場になればその恨みによって、また権力者を攻撃します。こうして永遠に続いていくのが闘争です。


革命というのはこの「極端な考えをもった者同士の闘争」によって起こるものです。革命は、武器をもって相手を制圧する方法をとります。どちらも多くの血を流すことになります。そしてどちらが政権をとったとしても、極端同士の闘争は燻り続けるわけです。


麹町中で起こったことは、この革命の仕組みに似ていると考えました。現在の学校教育に批判的に取り組んできた工藤先生。それはアンチテーゼとして必要なものではありましたが、巨大組織である公立学校の仕組みには反逆に等しかったのかもしれません。


結局揺り戻しに逢い、元通りになっていったようです。


ここで少し話を変えます。


僕が尊敬する校長先生のお一人に、湘南学園学園長でおられる住田昌治先生がいらっしゃいます。茫洋とされていて、サーバントリーダーシップを発揮されている方です。


僕は工藤先生とも住田先生とも直接お話したことがありますが(zoom越に笑)、お二人の印象は真逆とも言えるものでした。


工藤先生は切れ者という感じで、こちらも緊張感を伴ってお話をさせてもらいました。質問をいくつかされたのですが、たじたじになりながら答えた記憶があります。


一方住田先生は、話を受け止めるように聞いてくださり、身近な存在のように感じられました。


この住田先生が常々おっしゃっている言葉に

「じわじわ」「中庸を行く」

というものがあります。住田先生はこれらの言葉を地で実践されていて、とてもフラットな印象を受けました。


僕は、工藤先生も住田先生も尊敬していますが、本気で変えていくならば住田先生の方法をとることがよいと考えています。


そして住田先生の変え方を「維新」だと捉えています。


維新とは簡単に言えばリフォームです。家の各所を直していって、いずれは家全体が変わっていくようなものです。

明治維新とは激動の社会でした。だから維新と聞くと大きく変わる印象をもたれると思います。しかし日本では、革命ではなく維新を選んだことによって強い国として残ることができました。


明治維新でリフォームされたのは、政権者の交代です。江戸幕府から薩長を中心にした藩閥政権へと変化したのです。

ではこの時代、革命が起こったとしたら何がなくなったでしょうか。それは「天皇家」です。2600年以上続いていた天皇中心の国家が消滅することが革命です。これは世界史上最も大問題だということが分かるでしょうか。


つまり、明治維新は「維新で済んだ」と考えた方が妥当だということです。ちょっと余談が長くなりましたので元に戻します。


維新とは「土台を変えずに、少しずつ変化させていくこと」です。この時に大切なのが、じわじわと進めることと、極端に走らないことです。


日本の今の学校教育を変えたいのならば、じわじわと進める必要があります。僕はこれを「しれっと作戦」と名付けているのですが、変わったことに気づかれないくらいの程度で変えていくのが上策です。


では具体的にはどうすればよいのかということになりますが、長くなるのでここでは少しだけ僕なりに考えた例を示します。


1.授業時数を1割カット
体裁的な授業時間は確保しつつ、実質を変えます。総時間の1割をバッファにする感覚をもつのです。自由裁量にするということです。


2.行事の時間短縮
運動会を1日実施する学校は極端に減りました。表現活動を無くすなどして工夫しています。全然これでありです。5年もすれば、午前で終わる運動会が当たり前になります。

また、学習発表会等も授業時間内でできる範囲で行います。


3.保護者の期待に応えない
放課後のトラブルは保護者の責任にし、宿題の量の増減に関わる要求等を跳ね除けます。保護者は学校に必要以上のサービスを求めてきましたが、それを拒否します。学校はあくまで保護者のサポーターであり、子どもの教育の責任を保護者にとってもらいます。


4.定時に帰る
教員側の意識の問題です。定時まで、土日にもやらないでできる範囲で仕事をします。

当然力は伸びませんが、それはその人の資質というより仕組みの問題です。毎日8時15分から15時までほぼ休みなく働いていて、余白もない中でやっているのですから、それで能力を伸ばせというのはお門違いです。

定時に帰って不都合が出るのであれば、仕組みを変えるべきです。その前にやることは、法律の範囲内で働く実態を示すことです。



これらのことは、やってみるまでは批判されることが多いです。「運動会が午前中だけになったら迫力がなくなる」「あの先生は、放課後のことに対しては何も動いてくれないよ」「定時で帰ったりしたら、仕事が終わらないじゃないか」などといったものです。

そして実際に、初めのうちは批判に晒されます。運動会アンケート等をとると辛辣な意見も結構出てきます。


はっきり言えば、それを無視します。変化する際に批判が出てくるのは当然のことで、それを真に受けていたら変えられるものも変えられないのです。

こうして結局、変えてみたものが次第に当たり前になっていきます。すると人々は忘れます。10年もしたら「えっ!?昔はそんな非効率的なことをやっていたの?」などと時代遅れのレッテルを貼られるようになるわけです。


大きく変えるのではなく、小さく変える。僕が最近様々な記事で「2割」を訴えている理由がここにあります。


2割ずつ変えていく。2割の変化をさせた後はしばらくそれを続けます。数年後にまた違う2割を変えていきます。そうやってマイナーチェンジを繰り返しながら変化をしていきます。



多くの人は、変えなければならないとなった時に「大きく変える」ことをイメージします。でも大きく変える必要なんてありません。しれっと小さく変えていくのです。


時代の変化期にある今、学校教育も変わっていかなければなりません。しかし旧態依然とした体制は何ら変わる空気を出せていません。新しい変化を受け入れられない人が多いからです。


変えたくない、変わりたくないというのは、動物の本能です。だからその方が自然ではあります。けれど「変わらない」を選択すると、失速し、そのうち失墜していくのは歴史が証明しています。


だから変わりたくないのであれば、逆説的になりますが、ちょっとずつ変わる必要があるのです。革命を起こす必要はありません。維新でよいのです。根本を変えようとせずに、表面からでも変えていきましょう。

それがいずれ大きな変化に繋がっていくはずです。


最後までお読みくださりありがとうございました。