自分の人生の舵を取れ! ⭐︎武井義勇(kammy)のブログ

自分の人生の舵を取れ! ⭐︎武井義勇(kammy)のブログ

僕は、公立小学校の教員をしています。

その中で大切にしたいことや、自分の生き方を考えてきました。それをシェアしていきます。

自分の人生の主役は自分自身です。いかに生きればもっと幸せになれるのかを追究しています。

いつもお読みいただきありがとうございます😊本質の追究者の武井義勇(たけいきゆう)です。


僕は自立を目指して教育活動や子育てを行っています。が、それが時に極端かもと思うようなこともあります。

家では結構徹底して「使った物は自分で片付けさせる」ことを行なっています。息子たちが片付けていないと激怒することもあります。

自分でもなぜここまで厳しくするのか、実のところよく分かっていませんでした。でも最近その理由がようやく分かったのでした。

その理由とは「有難さに気づけない子になるのが怖いから」です。

これは実感を込めて理解していることです。僕が有難さに気づけない人間で、そのことによってしなくてもよい遠回りをしてきたから、理解していることです。


社会に出てから幾多の人と接してきましたが、社会人として最も致命的な欠陥がある人には、必ず「有難さに気づいていない」特徴がありました。人が何かをしてくれた時に、すぐに感謝の言葉が述べられないのです。


例えば、自分が仕事上でミスをしてしまったときに、本来ならば自分で処理しなければならないところを、先輩や上司が対応してくれて事なきを得たようなことがあったとします。これはすぐにでも飛んでいって「先輩たちのお陰で事なきを得ました。有難うございました!」とお礼を伝えまくらなければなりません。

しかし感謝の薄い人は、特にお礼を言うこともなく、しれっと仕事を続けます。これは社会人としてあるまじきことだと思います。

ではなぜそのようになってしまうのでしょう。僕が考えるに、「周りが何でもやってきてしまったこと」に原因があると思いました。


乳幼児期の子どもは、発達段階として親などが全部のお世話をします。牛乳を注ぐことも、体を洗ってあげることも、お気に入りのおもちゃを取ってきてあげることも、全て周りがします。これに問題はありません。

しかし4歳くらいになれば、徐々に自分のことは自分でできるようになってきます。例えば、食べ終わった食器をシンクまで運ぶことくらいなら自分でできるわけです。

でもこれを、子どもだからやってあげようと言って親が中高生になるまで続けたらどうなるでしょう。当然「やってもらって当たり前」の状態になります。

この感覚を身に付けてしまうと、今度はやってあげないことで文句を言ったり、蔑んだりするようになります。「今までやってくれたのに、なぜオレがならなければならないの?」となるわけです。


自分で自分のことをやるのは、手間がかかったり面倒くさかったりします。食器を運ぶ小さな労力ですら、やらない子はやりません。ではその代わりのコストは誰が払うのでしょうか。

ここで親は「言ってもやらないし、やらせても面倒になるだけだから、私がやってしまおう」となりがちです。親が代わりにやってあげてしまうのです。

すると子どもは、「自分のお世話をするのが親の仕事」という認識をするのです。そうなるとこの子どもはある誤学習をすることになります。「面倒くさいことは他人がやればいい」というものです。

この学習をした子どもは、有難さへの感度が著しく低くなります。むしろ皆無と言った方がよいかもしれません。この手の子どもは愚かな万能感を得ることとなります。

「私の言うことは正しい。私の為すことは正しい。たとえ私が天に背こうとも、天が私に背くことは許さん!」という曹操孟徳ばりの思考を手に入れることとなります。

百歩譲って、皇帝ならばこれも許されるでしょう。しかしこの世の大半の人ならば、この思考をもつこと自体狂っているのです。


僕は、自分が昔これに近いところがあったために、社会にとても生きづらさを感じていました。自分に降りかかる火の粉が何でやって来るのかも分からなかったし、それを取り除こうとしない周りに不満ばかりを溜めていました。今なら分かります。傲慢でわがままでいけすかない奴だったから、周りからも相手にされなかったし、大切にもされなかったのだということを。


息子たちには、僕と同じ轍を踏んで欲しくないと願っています。もちろん痛い目を見ることで成長できることもあるでしょうが、下手をすると捻くれたり病気になったりするかもしれません。そんな姿を見るのはとても忍びないです。

だから「自分のことは自分でやらせる」のです。その手間や労力がどんなものかを知っていれば、誰かが代わりにやってくれた時に、素直に感謝の言葉を発することができます。有難さに気づくことができるということです。


有難しの反対言葉は、当たり前です。もし周りの人が自分のために労力をかけることを当たり前だと思ってしまったら、社会人としては落伍者と言わざるを得ないでしょう。使いものにならない社会人となり、最悪の場合その存在自体が疎まれるようになります。

僕は息子たちをそんな社会人に絶対したくありません。そしてそうなってしまうのではないかという不安をいつも抱えています。

この不安が僕を、指導の厳しさに駆り立てるわけです。「有難さに気づけない愚か者にだけはしたくない」この強い思いが根底にあります。


表面的に見れば極端に見える指導も、その根源を考えてみれば納得できることがあるのではないでしょうか。厳しい人は世の中にたくさんいますが、表面に囚われず、その真意を推し量ってみることも大切なのかもしれません。

最後までお読みくださりありがとうございました。