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武井義勇(kammy)のブログ

僕は、公立小学校の教員をしています。

その中で大切にしたいことや、自分の生き方を考えてきました。それをシェアしていきたいです。

いつもお読みいただきありがとうございます😊本質の追究者の武井義勇(たけいきゆう)です。


最近「老荘思想」にハマっています。老子と荘子という古代中国の卓越した思想家の思想を合わせて老荘思想と言います。


主に老子の言葉にハマっていますが、どうしてこんなにもしっくり来るのだろう?と考えてみると、僕がこれまで学んできたことに通じている感じがするからだと気づきました。

具体的に言えば、アドラー心理学やセルフ・コンパッションと似たところがあるように感じます。僕がこの二つに共通して感じるものが「自然体」なのですが、これが老荘思想の「無為自然」という核になっています。



この思想のベースには「人間も自然の一部」という考え方があります。ともすると、人間が最も優れた生物であるかのような錯覚を抱いてしまいますが、人間もただの動物で生きるために食べ、寝て、子孫を増やすことが基本的な活動です。


社会が複雑化し、様々なテクノロジーが生み出され、宗教や哲学によって「幸せに生きるとは何か?」といったことも考えるようになりましたが、基本的には生まれて死ぬだけです。



人間は生きることに過剰に意味づけをしすぎてしまったのではないか、と老荘思想を読むうちに考えるようになりました。前々回、哲学について熱く語っている僕ですが、一方で生物的に生きることも受け入れている気がします。



少し前に、熊が出没する地域に関するニュースの中で、「熊だって生きている。保護するべきだ。」といった論調を見聞きすることがありました。

反対に、「人間だって生きるためには熊を駆除するのは当然だ」という意見も出てきて、互いに平行線を辿りました。


僕はどちらかの意見に同調することもありませんでしたが、1つ感じたことは「人間はなぜこんなにも傲慢なのか」ということでした。


自然界と共生しようといったスローガンが掲げられることがあります。自然を大切にしましょう、と。それには一理あると思いつつ、これすらも傲慢に感じます。


と言うのも「共生」という言葉の中には、人間と自然界を隔てる壁のようなものを感じるからです。人間と自然は対等な関係にあります。


誰かが書かれていたことですが、この考え方には「自然界に生かされている」という謙虚さがありません。人間はただ自然の中の一部なので、自分がコントロールできるものではないのです。


Voicy対談で、碓氷早矢手さんと澤奈緒さんがお話されていたことの中に、同じような言葉が出てきました。碓氷さんが生物界の仕組みについてお話されている過程で「強いものが生き残るのではなく、生き残ったものが強いのです。そしてそれは自然界によって選ばれる。」とおっしゃいました。

僕は驚きました。以前この対談を聞いた時には聞き逃してしまったこの言葉に、ピコーンと反応した自分がいたからです。

そうなのです。自然界で生き残ることを決めるのは、人間ではなく自然の方です。もし人間が不必要となれば、自然の方が淘汰していくわけです。僕たちは自然に生かされています。


ティラノサウルスは絶滅しました。しかし当時からいたと言われる昆虫や哺乳類の祖先は生き残りました。力では圧倒的に強い恐竜も、その巨体ゆえに淘汰されてしまったのです。



昆虫は強いですか?一匹一匹を見るとさほど強そうには見えません。しかし地球上の生物の中で最も種類と数が多いのが昆虫なのだそうです。ある意味地球上の覇者は昆虫だと言えます。やはり生き残ったものが強いわけです。



そう考えてみると、先程例示した熊については、僕は駆除という方向性がよいのではないかと考えます。

その理由は生き残るためです。生物の本能的な目的は、生き残るところにあります。生きるために動物的な本能があって、それは人間にも確実に存在します。


生き残るためには、武器を取ってでも戦わなければなりません。死んでしまったら何もかもお終いだからです。


もしその所業が自然界と反しているというならば、おそらく自然界の方が人間を淘汰する方向に動くことでしょう。だから僕たちは、自分が生き残ることにしがみついてもよいのではないでしょうか。


人間は身体的に弱い生き物です。でも知恵は他の動物よりあると思います。だから道具を発明し、それを活用してきたのです。


それを使って生き残ることに何の躊躇いがいるでしょう。


少し補足しておくと、核兵器等を使うことは許されないと思います。と言うのも、それは自然界を傷つけるだけに留まらず、人間自身を滅亡させるからです。


自分たちが生かしていただいている自然を大切にするのは、自分たちのためです。もっと自然というものに敬意をもつ必要があるのではないでしょうか。


「上善水の如し(じょうぜんみずのごとし)」

これは老子の言葉ですが、最上級の生き方を老子は水に見出しています。

水は、その存在がどの生物にも大切なものにも関わらず、決して他のものを邪魔しません。加えて器によっていかようにも形を変えることができます。上へ上へと上ろうとするよりは、下へ下へと下りていきます。

非常に控えめでありながら、要所に広がっていく力もあります。確かに最上の生き方と言えるかもしれません。

水は自然界そのものです。時にはその力によって、人間を哀しみの底まで誘うこともありますが、それを含めてその恵みに感謝するしかありません。


人間も自然の一部なので、自然の中で生きていくことが当然です。自然を自分と同列に置くのではなく、それに生かされることを自覚し、守ってもらっていることに気づくことが大切だと感じます。


その謙虚さをもって生きると、より自然体に近づいて生きやすくなるのではないかと僕は考えています。


水のように、決して周りに邪魔になることなく、すっと相手の懐に入っていけるような自分になりたくないですか?


最後までお読みくださりありがとうございました。