マクロな視点で語りたい人 | 自分の人生の舵を取れ! ⭐︎武井義勇(kammy)のブログ

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僕は、公立小学校の教員をしています。

その中で大切にしたいことや、自分の生き方を考えてきました。それをシェアしていきます。

自分の人生の主役は自分自身です。いかに生きればもっと幸せになれるのかを追究しています。

いつもお読みいただきありがとうございます😊本質の追究者の武井義勇(たけいきゆう)です。



今回は、最近気づいた僕の性質についてのお話です。ご興味がある方はお付き合いください。


その気づいた自分の性質とは、

「マクロな視点で語りたい人」

だということです。


僕はミクロの視点よりもマクロの視点をもつ方が得意だし、それが自然体だということです。


これだけでは意味が分からないと思うので、具体的に語ります。



僕は常に全体を見ています。クラスのことを考える時も、個人の課題や問題に向き合うよりも、クラス全体への影響や解決の仕方を考えます。


クラスの中に、ルールを守らない子がいたとします。僕はその子にアプローチをかけるよりも、全体がその子へどのような反応をするのかを見ています。ルールを守らない子がいた場合でも、周りの反応は二手に分かれます。

「全くもう!先生なんとかしてよ、あいつを。」
というパターンと
「まああいつなら仕方ないか。大目に見てやろう。」
というパターンです。

簡単に言えば、前者は嫌われていて、後者は好かれています。後者の場合、僕はあまりこの子にはアプローチをかけません。むしろルールを守らないことをおもしろおかしく取り上げることで、周りへさりげなくルールを徹底させるように促します。

前者の子の場合、いじめに繋がらないようにだけ気を付けています。それ以外は大抵放置します。なぜなら、この手の子どもは言っても分からないからです。

僕が注意するまでもなく、周りの子どもたちが煙たい気持ちで接します。すると自然と孤立していきます。僕はそれを本人の責任だとするようにしています。


これだけ書くと「なんて酷い教師なんだ!」などと批判されるかもしれませんが、それはミクロの視点しかもたない人の意見です。


長い目で考えた時に、その行動について本当の意味で価値付けできるのは本人しかいません。つまりここで世渡りをするスキルをアドバイスしたとしても、本人に自覚がなければ無意味だと考えるからです。


自分の行動が周りに悪影響を与えていることを「後悔」として認識しなければ、変わることはできないと僕は考えています。その場を取り繕うようなことは、実はもぐら叩きでしかない場合が多いです。


職場の人間関係も同じように、マクロな視点で見ることが多いです。


ある子どもが教室から飛び出したとします。すると多くの人はその原因を考えようとします。その原因究明も大切なことですが、これが担任の指導法等にベクトルが向くと多くの人が苦しむことになります。


その子の特性、家庭環境、学年環境、担任との相性、本人の感情等、理由は複雑に絡み合っているので、どれか1つに限定できないのです。それにも関わらずミクロの視点で原因ばかりを追求すると、結局担任が責められることとなります。


担任は自信を失いますし、同僚との関係も悪化します。さらには焦りや疲労、不安等で心身を壊していくのです。職場環境が負のスパイラルに巻き込まれます。


学級崩壊等の問題は、確かに一人の指導力不足が原因であることが多いものの、個人に責任が集中してしまう「仕組み」自体に問題があります。なぜかこの仕組みに問題があるということに気づけない人が大半なのです。僕は仕組みがおかしいということに気づいています。


だから、管理職のリーダーシップのあり方や、学級担任制度、同僚との人間関係の構築等に目が向きます。問題の指摘を、直接的な原因ではなく、もっと広く遠いところに向けているのです。けれどこのような見方をする人はほとんどいません。



僕は「専門性を磨く」ということに苦手意識をもっています。考えてみると、専門性を磨く行為はミクロの視点を極めることです。

マクロの視点をもちたい僕にとって、ミクロを極めようとする研究は肌に合わないのです。


3年前、人生について大きく考え直すきっかけが起こりました。この時僕は「学者になろう」と勉強を始めました。しかし数日で心が折れました。本の内容が全くといっていいほど頭に入ってきません(笑)。専門用語等も分からないし、読んでいるうちに別のことを考えてしまうし、一つのことを極めようとすることは僕には合わないことを痛感しました。


しかし僕は「考えること」は大好きです。1つのことを極めることは不得意だけど、様々な知識を結びつけて、広く遠く考えることは得意です。


一つ一つの知識自体は浅く未熟なものも多いけれど、それを掛け合わせることで別の情報として発信することができます。


例えば職場のマネジメントを考える際に、僕が活用するのはアドラー心理学やセルフ・コンパッション等の心理面のこと、日本の社会構造の現状、リーダーシップ論、自然界の摂理等です。


断片的な知識しかないけれど、それを組み合わせることで本質に追究できるようになります。


今の日本のリーダー層には、「オッサン」という種類の人が蔓延っています(社会構造的視点)。これを成してきたのは、年功序列に基づく社会的価値観の頒布です(社会構造的視点)。


役職が高いことによって偉いと勘違いした輩(心理学的視点)が、若者の自由的発想を阻みます。自分たちが築いてきたポジションを侵食するのではないかと恐れるからです(心理学的視点)。これによって若者が虐げられ、組織の活性化が阻まれます(社会構造的視点)。


リーダーとは、背中で自分を語る人たちです。それがかっこいいものなのか、それとも汚く醜いものなのかによって組織のあり方が大きく変わります(リーダーシップ論)。そしてかっこいいリーダーの下では組織は活性化し、醜いリーダーのいる組織は崩壊へ向かいます(自然の摂理)。


僕が語ることは全てに当てはめることができるものではありません。けれど多くの人が「確かにそういうところはあるよね」と思っていただけるような話をすることはできていると自負しています。


これがマクロの視点で語るということです。



僕は今年度、ようやく自分を開放してきています。今まで躊躇していましたが、僕が語ることはきっと誰かの気づきに繋がると信じられるようになってきたからです。


話の分かりそうな同僚に、マクロな視点での話を投げかけるようになったのです。反応はいまいちではあるものの、一般とは異なる視点での話はきっと気づきの一助になっているはず。そう信じて自分の考えを発信しています。


この時に僕が特にキーワードとして挙げているのは

「修養」

というものです。マクロな視点をもつということは、修養に軸を置くことです。修養とは「人間力を鍛えること」です。


これについては過去の僕のブログでも多くを語っています。つまり僕の軸が「修養」にあることの証拠です。


これまでの学校教育は、教師の「研究」に視点が絞られてきました。そのことによって日本の教師の指導力は、世界でも群を抜くくらいとなっています。しかしあまりにもここに偏りすぎてきたきらいがあります。


今世界では、「いかに教わるか?」ではなく、「いかに学ぶか」ということがトレンドになっています。それは要するに修養の部分を伸ばすことに繋がっているのです。




ミクロも大切だけど、もっとマクロな視点をもつ必要がある。僕は最近それを痛切に感じています。そしてこれについては僕の得意分野です。だから僕がマクロを語ります。理解されないことの方が多いけれど、これは僕だからできることです。


このブログでもずっとマクロな視点で語ってきました。これからも同じくマクロで語っていきます。

僕のブログを毎回読んでくださる方に感謝申し上げると共に、これからもよろしくお願いしますとお伝えします。


最後までお読みくださりありがとうございました。