いつもお読みいただきありがとうございます😊本質の追究者の武井義勇(たけいきゆう)です。
藪下遊氏著『「叱らない」が子どもを苦しめる』を読みました。久しぶりに本を一冊読み切りました。しかも2日間で。
ある方に「カミーさん、絶対気に入ると思うよ。ぜひ読んでみて。」と薦められて、そのチャットの最中にAmazonでKindle本をポチり、そこから一気に読み始めました。僕にしては相当早い展開でした。
それほどこのタイトルに惹かれたし、紹介してくださった方ともいつも共感的に話ができているので、即決でした。そして読了後の感想。
「すごい本だぜ!」
今日はこの本から考えたことをシェアしていきます。
近年は「叱らない子育て」が基本となりました。数十年前までは、学校や家庭でも体罰は当たり前。戦時中の名残か、鉄拳制裁は市民権を得ていました。
僕もその名残を受けた一人です。小学校時代には、担任からの暴力はあったし、周りでも体罰によって苦しめられた友達がいました。
この時代が良かったなどと言うつもりは毛頭なく、むしろ憎しみまでも感じますが、この頃に起こった子供たちの問題と、今子供たちに起きている問題は社会的背景に左右されていると感じます。端的に言えば、現代は「圧に弱くなった」と言えます。
コンプライアンスがどうとか、暴力がどうとか言われるようになってから、比較的平和な社会になってきたように思います。そう思う一方で、変なところで人は不幸へと導かれてしまいます。
この本で取り上げられている「圧に弱い」のは、圧から逃げる人たちを指しています。自分にかかる圧(これを筆者は、世界からの押し返しの力と表現しています)から逃れるために、「人のせいにする」「心身の不調を理由にする」「(問題を)見なかったことにする」「問題が起きても対応しない」などの行動に出ます。
あなたの周りにもいませんか?自分がまいた種であるにも関わらず、そこから問題が起きた時に、自分とは関係ないと言って逃げる人。そして問題が周りにいる人たちに降りかかってくるために、その人たちが疲弊することになるのです。
ある女優が、プライベートである芸人にエアガンで撃ったという話を聞きました。その女優がバラエティに出ていたのを見て、芸人が「オレをエアガンで撃った人だ。」とツイートしたところ、炎上しその女優が何らかの社会的不利益を被ったとのことです。
この時、そもそもエアガンで撃つという所業を行っているにも関わらず、「お前のせいで私は入院せざるを得なくなった。どうしてくれるんだ!」と言ったとか言わないとか。
こういう状態を「被害者ムーブ」というのだそうですが、批判はするが批判は許さない、自分は加害とするが自分への加害は許さない…みたいな心理の人がこのような状態になります。
圧から逃れる人が出てくると、周りはその人に振り回されます。世界からの押し返しの力を排除しようとすると、こういった不幸な人を生むことになるのです。
こういったことを「多様性の社会だから」と一言で片付けようとする風潮があるように感じます。けれど僕は、自分都合で好き勝手にする人を多様性の一言で片付けたくはないんですよね。
叱るという行為は、相手の失敗や弱さ、改善すべき点を指摘するものです。これを著者は「世界からの押し返しの力」と書かれています。この力は、人の成長のために不可欠な力です。
だから僕は、子育てや教育活動において相当叱っています。叱ることを忌避する傾向がある現代において、僕みたいなタイプは結構稀です。絶対に許さないといったことには頑として譲りません。
例えば、宿題や提出物を出さなかった場合には叱ります。それは提出しないから評価できないといった狭義の意味ではなく、そういうものを出すか出さないかは、人間の信用問題に関わっていると考えるからです。
提出物を出さない子は、基本的に圧に弱い子です。面倒なことや失敗することから目を逸らして、誤魔化しながら過ごす子が多いです。はっきり言うと、こういった子を信用することはできません。調子のよいことを言いがちですが、大抵の場合最後までやり抜く力に欠けています。ですので、クラスの重要な役割には決してつけません。
僕がそういった子を叱る理由は、「気づかせる」ためです。こういう子は、自分が面倒なことから逃げる傾向にあることを自覚していないことが多いのです。だから僕は率直かつ明確に伝えます。
「あなたは代表委員(クラスの代表)になりたいと言っているけれど、それは無理だと思うよ。だって宿題はほとんどやってこないし、遅刻もするし、忘れ物も多いよね。周りの友達もそういう普段のあなたを見ているよ。そういう人は信用ならんよね。」
といった感じです。結構キツいと思われたかもしれません。でも僕の教員経験から感じるのは、この手の子供にはこのくらい言っても伝わらないことが多いです。
それほど「気づかせる」ということは骨の折れる作業なのです。
では、叱る必要のない子供たちに対してはどうなのでしょうか。
僕が担任をもって、1年間一度も叱ったことのない子供たちもたくさんいます。当然のことながら、このような子供たちはやるべきことをきちんとやっているからです。
よく、こういった子供たちは叱られ慣れていないので「圧に弱い」と思われることがありますが、僕は全くそのように思いません。
なぜなら、どんなに叱られない子供たちにも、世界からの押し返しの力は働くことがあるからです。
例えば、家で親に叱られたことのない子はおそらくほとんどいないでしょう。時間を守らずに叱られる。きょうだい喧嘩をして叱られる。片付けをしなくて叱られる。何かしらで親には手をかけさせています。
また親も完璧ではないので、時々感情的に怒ってしまうことがあります。それは子供たちにとっては理不尽に思えるようなこともあるかもしれません。しかしそれだって、人間だもの、仕方のないことです。
だから、どんなに学校で素晴らしい子供たちだって、少なからず叱られた経験はあるはずで、日々世界からの押し返しの力に晒されているわけです。
社会人になっても同じです。今の世の中は、コンプライアンスが大切などと言われているけれど、完璧には無理です。むしろ、コンプライアンスに縛ること自体がコンプライアンス違反になるのではないかと思うほど、窮屈な状態になってしまいます。この状態は、世界からの押し返しの力が発動したものです。
社会に出ればどうしたって圧は存在し、それはなくならないわけです。そもそも完璧にその圧をなくしてしまったら(絶対にそんなことは無理ですが)、人は脆弱になります。人は死んだら天国に行くことを希望しますが、天国が現実にあったら人を堕落させるだけなのではないかと思います。
圧があるから、人は何か欠けていることにも気づけるし、成長できるのです。これをなくしてしまったら、生存能力の低い人間しかいなくなってしまうと僕は考えます。
要するに、バランスの問題なのです。世界からの押し返しの力が強すぎると人間が壊れてしまいますし、反対にその力を弱めていけばいくほど、人間は脆弱になっていきます。
伊達政宗の言葉とされている
「義に過ぎれば堅くなり 仁に過ぎれば脆くなる」
にも語られているように、どちらも必要で、そのバランスを常に見ておく必要があるのではないかと考えます。
そしてこの押し返しの力があるからこそ、活躍している人がいるのも事実です。
僕は毎日、Voicyという音声アプリを聞いて学びを深めています。ここでパーソナリティを努めている方々は、過去に世界からの押し返しの力をたくさん感じてきた人が多いです。
発達障害のために周りから浮いてしまった人。不登校になってしまった人。うつ病などの病気を経験された人。ブラック企業に勤めて心身を壊してしまった人。毒親に育てられて、感覚が麻痺してしまった人。ステップファミリーで育ち、継母や継父との関係に苦しんだ人。いじめられた人。暴言や暴力を受け続けた人などなど。
僕には想像もできないような生活経験をされてきた方が多いです。けれどそれを見事にバネにして発信していらっしゃいます。そういう経験をしてるからこそ、深みのあるお話ができるわけです。
世界からの押し返しの力は、人が生きている限り無くなりません。僕が目指す平和な世界の中でも、これは必要不可欠な要素となります。それはこの世に完璧なものなど存在しないからです。
もしこの力の全てを否定し、避けようとすれば、それは後々に大きな反動となって返ってくることでしょう。
大切なことは、世界からの押し返しの力を厭うのではなく、それに真正面からぶつかっていくことです。もちろんその過程では、そこから逃げた方がよいものもあります。しかし僕の経験からしても、自分の心身が傷つき大変な思いをしたものでも、真正面からぶつかったものは大きな力となって生かすことができています。
だから世界からの押し返しの力を必要以上に恐れないようにしたいです。これから先もきっと苦しいことや大変なことはあると思いますが、それに正対したいと思うのです。
今日は前半辛口、後半希望をもってお伝えさせていただきました。
最後までお読みくださりありがとうございました。