教育にもバランス感覚が求められる | 武井義勇(kammy)のブログ

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僕は、公立小学校の教員をしています。

その中で大切にしたいことや、自分の生き方を考えてきました。それをシェアしていきたいです。

いつもお読みいただきありがとうございます😊キョウイクの探究者の武井義勇(たけいきゆう)です。


3月29日、久しぶりに教員研修に参加しました。最近の僕は教員向け研修会に参加することがほとんどなくなっていましたが、今回参加した理由は、講師のお二人がスーパーティーチャーだったからです。


授業や学級経営のエキスパートを僕はスーパーティーチャーと呼んでいるのですが、正にそのような方々です。僕が信頼する方が主催した研修会だっただけに、それはお墨付きです。


当然のことながら、有意義な学びの時間を過ごすことができました。一言で言って楽しかったです。学びが深まりました。

お二人は師弟関係にあります。だから話をされる内容も自然と似てきます。ただそれぞれにアプローチの仕方が異なるとは感じました。

でもお二人の話を聞いていて、共通点を感じたことがあります。それは

「褒めるも叱るもどちらも大切」

ということでした。お二人とも「褒めまくりましょう。褒めることは大切です。」と伝えられていたのですが、その方法は決して「甘い」ものではありませんでした。

徹底するべきことは徹底するために、何度も繰り返しやり直しをさせているのです。

例えば手紙を後ろの人に配る時には「はいどうぞ」と言い、受け取った方も「ありがとう」と言うことをデフォルトにしています。それを習慣化させるために、できていなかったらやり直すように指導しています。


また全員参加の授業にするために、「1分間で書きましょう。」と指示をしたら、本当に1分で書かせます。正解かどうかは別として、何でもいいから書かせるのです。これを徹底することで、「この先生は有言実行する人だ」という認識を子供たちに植え付けます。


褒めまくりましょうという言葉と共に、できていなかったら指摘しやり直しをさせる厳しさももつ。要するに、バランスを保った指導をされているわけです。


印象的だったのが、お二人とも自由進度学習に対しては否定的だったことです。一斉指導型の授業を確立した上で行わないと、学級崩壊を引き起こしかねないとおっしゃっていました。


僕はどちらかというと、一斉指導型をやめて自由進度学習型に変わっていくべきだと考えていただけに、これについては意外に感じました。あれほどの力のある先生たちが難しいと言うのであれば、そうなのかもしれないとも思いました。


ただ僕は、それは全て学級の成熟度合によると考えました。自由進度学習がダメとか、一斉指導方が素晴らしいという意味ではなくて、基本をしっかりと指導しておかないとどちらも成り立たないのだと思います。


例えば、普段の生活からルールを守らず、わがまま放題している子供がクラスにいた場合、自由進度学習を行おうとすれば崩壊の一因となることは容易に想像できます。

また、ルールやマナーを守って行動できる子供が多ければ、一斉指導だろうと自由進度だろうと適応することができます。

大切なことは「建設的な人間関係を築けるかどうか」によるということです。


教師が何も働きかけをせずに、建設的な人間関係を作ることは、余程のことがない限り難しいです。


そのためには、教師が工夫し適切なアプローチをしていかないといけません。

そのアプローチの1つが「褒めること・叱ること」なのだと思います。


僕は二人の講師のように、体系的に子供たちのリレーション作りをしているわけではありません。何となくの感覚で行っているところも多いです。

ですから、学級の構成要因つまり子供たちの質によって左右されることが多いわけです。


しかし自分としては、感覚的にではあるものの、褒める叱るをバランスよく行っている実感があります。知識や経験はお二人の講師に遠く及びませんが、何が教育にとって大切なのかを理解しているつもりです。



褒める教育が良いと言われれば、叱ることは批判の対象となります。褒めすぎてもダメだと言われれば、叱ることがクローズアップされます。僕はそれが違うと思うのです。


時代の流れが変わろうとも、本質は何も変わりません。褒めることも叱ることも、両方大事なのです。これを揺るがしてはなりません。


世の中に起こる問題を紐解いてみると、このバランスを崩しているものが多くあります。バランスがどちらかに傾きすぎてしまうと、問題が大きくなります。

すると片方に偏った力を元に戻そうと、反作用の力が働きます。この反作用が大きすぎると、また別の問題が起こってくるわけです。


今教育界では、これまでの一律一斉の指導の限界から、反作用として子供の自由を認める教育内容が求められています。それが一斉指導か自由進度学習かといった例として問題として挙げられます。

しかし実のところ、こういった議論は不毛なことが多いです。僕もその一端を担いでいるのですが、その上であえて言います。


「やっぱり何事もバランスが大切」

です。


僕はアドラー心理学を軸に教育活動を行っています。けれどアドラーの教えに背くようなことも結構行っています。


と言うのも、僕の中ではしっくり来ない教えがいくつか混ざっているからです。

例えば今回の「褒める・叱る」の話ですが、そもそもアドラー心理学では、褒めたり叱ったりして人をコントロールすることは御法度です。だから褒めましょう、叱りましょうという言葉自体に抵抗感があります。

でも実際の僕は、コントロールするような褒め方や叱り方を数多くしています。アドラー心理学を軸にしていると言い切るにはなかなかシビアなところです。


しかし僕は、アドラー一辺倒になること自体が危険なのではないかと考えています。確かにアドラー心理学は非常に優れたメソッドではありますが、完璧ではないのです。他にもモンテッソーリ教育やシュタイナー教育といったものが存在していますが、それぞれが万能ではないと考えます。


つまりある1つのことに傾倒しすぎると、どうしてもバランスを欠いてしまうことが往々にしてあるわけです。


僕は子供たちに良くなってもらいたいと思った時に、おだてるような褒め方をすることもあります。
子供たちに絶対に間違った方向に進んで欲しくないと思ったら、怒鳴りつけてでも止めます。


それが効果的かどうかは別として、自分の思いを最優先させることがあるものです。

アドラー心理学的には間違っているアプローチの仕方だけど、そういう時もあろうかと自分を納得させることもあるわけです。


則ち、自分が完璧になろうとしないことで自分の中でバランスを保っているのです。


カップラーメンを食べることは体に良くないことは分かっているけれど、時々子供たちにも食べさせることがあります。

夜更かしをさせることは体調に良くないけれど、時々は仕方ないかと諦めます。

掃除も片付けもしなくて部屋がぐちゃぐちゃだけど、疲れてるから休むのを最優先にすることもあります。


「こうあらねばならない」に縛られて、それしか見えなくなってしまうと、どうしてもバランスを欠いてしまいます。何でも完璧にこなすことは、正しいことではあるけれど人としてどうなの?と思うことがあります。



ちょっと主旨とズレてきたので話を元に戻すと、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」という言葉があるように、何事もやり過ぎは良くないのです。どんなに良いと言われるものがあっても、それをやりすぎたりとり過ぎたりすると、心身に毒になることは数多あるわけです。


褒めましょうと言われて褒めてばかりいるのが良いわけではなく、叱ることも大切だと言われて厳しくしすぎることも良いわけではなく、その間をいくわけです。

どちらも大切。時にそれを使い分けながら、バランスをとって活動していくのです。それしか本当に良くなる方法はないのだと僕は考えます。


どちらが良くてどちらが悪いと二項対立にするのではなく、どちらも必要なのではないかと考えながら柔軟に対応していきたいです。

教育にもバランス感覚が求められています。極端に走ることなく、平均台をふらふらしながらでも渡っていけるように、バランスを見ながらやっていきたいです。


最後までお読みくださりありがとうございました。