インテリぶってしまう自分
明日、とーっても頭がよく、知識が深く、趣味人の友達に会う。
彼女は自覚的にインテリで、ちょっと鼻持ちならない、衒学的なところもある。
文化・芸術に関するフットワークとセンスがよいことを自覚しておりそのことにプライドを持っていて、そんな自分が好き、っていうタイプ。
でも頭が突き抜けてよくって、そして人間的に魅力的で、人を惹きつける。
普段は好きな友達なのだけど、今の私には、とても苦手意識を感じさせられる。
といってもそれは彼女のせいじゃなく。
自分が、自分の汚い、嫌な面を彼女に見せることになりそうだから。
今、私、自分に自信がないからか、とっても
「自分の知識ひけらかし欲求」
がわいている。
私だってすごいんだから!!
というような。
もう、そういう俗っぽい対抗意識や見栄を張る部分は五月病期間にすっぽり抜け落ちたかと思ってたら、しぶとく私に残ってやがった。
たぶん、知識をひけらかすことで彼女に認めて欲しいわけじゃなく、
彼女の性格や凄さを肌で感じているからこそ、
「私のことをつまらないやつだと思われたくない!!」
って強く、強く、思ってしまうのだ。
だけど、いつも思う。
たいしたやつだと思われたくて、見栄を張って、虚勢を張って、リキんで言葉でいくら自分の凄さを伝えようとしても、絶対に、残念なくらい、伝わらない。
だから、リキんでも、前のめりになっても、意味はないのだ。
自然でいるがよろし。
でも、私は頭でっかちで、しかも人が自分をどう考えているかに被害妄想と自意識が過剰だから、きっとすっごく気になってしまうと思う。
自分が何をしゃべっているかを、いちいち反芻して、自分に毒づいたりガッツポーズをとったりしてしまいそうだ。
彼女に見栄を張る自分も嫌だけど、
かといって気にしすぎて、卑屈になって、逆に自分を
「あたしなんかたいしたやつじゃありませんよへっへ」
って道化にしてしまうのも嫌だ。
会話の時には、答えを急がず、機転に頼らず、よーく咀嚼して、きちんと自分の言葉で返せるようにしよう。
私は自分が知っているもの以外のものは、間違いなく何一つ知らない。
私がなり得ている自分以上には、どうがんばっても見せることはできない。
だからといって今の自分以下にわざわざへりくだるのもあほらし。
自分はそんなに捨てたもんじゃない。
あせらず、自然に、自然に。
会話をおもしろがろう。
冷や水
ブログを読み返して、ここ数日の私はどうかしてると思った。
同じ主張を鼻息荒く繰り返して。
単に自分の考えたことを必死で正当化したいだけみたいだ。
少なくとも、そう見える。
一生懸命生きてる、がんばってる、私はこう思う、私はこう生きていく、そう自分に言い聞かせているだけに見える。
自分の考えたことが間違いだとは思わないけど、
思考が発展せずにぐるぐる山手線に乗ってるサマは、
バカの一つ覚えみたいに名前と公約を連呼する選挙カーのようだ。
選挙カーと同じく、目的は「洗脳」なのかも。
繰り返し書くことで自分自身を洗脳したいのかな。
自分の生き方や考え方が正しいって思いこみたいのかな。
そういうのはとどのつまり自分の自信のなさの現れだったりする。
このへんで立ち止まって、軌道修正。
鼻息荒い自分に冷や水をかける。
無駄に関する考察パート2
私が最近やってみたいなーと思う、ぜいたくな時間の過ごし方は、
「ディズニーシーに行ってアトラクションは全然乗らずに昼間っから酒飲んで、ショー見て、ぐうたらすごす。」
というもの。
「どうせ金払ってんだからひとつでも多くのアトラクションに乗らなきゃ。楽しまなきゃ!」
生き方において、私がそういうかんじの考え方をして生きていたときは、
とても心が窮屈になって視野が狭くなって
人と自分を比較して自己嫌悪したりして
「見栄っぱりで自分に自信がないやな女」
になってしまっていた。
そこからドロップアウトして、五月病になって、
仕事も友達も彼氏もすべてなくなって、
どうしようもない気持ちで日々すごしていたけど。
いろいろ過ぎ去ってみて。
今は「たいしたことのない自分」という本当の自分のサイズで、
「ディズニーシーに行ってアトラクションは全然乗らずに
昼間っから酒飲んで、ショー見て、ぐうたらすごす。」
ような考え方をして生きてることに気づいた。
別に人に誇れるものでもないし非常によいわけでもない。
けど
人と自分を比較したりしなくて済む、
自分を自分以上に見せなくて済む
「そのまんま」サイズは意外と心地がよいのだ。
悪くない。
それでいいのだ。
でも
「どうせ金払ってんだからひとつでも多くのアトラクションに乗らなきゃ。楽しまなきゃ!」
そういう考え方で時間配分のプランを練り、
充実した一日を過ごせる人を今は尊敬するし、
そういう人の話は聞いていて面白いことが多いから嫌じゃない。
いろんな経験は、確かに人を面白くする。
ただ私自身は、今はそうやって生きないことを選択したのです。
こっちの道のほうが、今の私には、自分を好きでいられるようになる日に近いような気がするから。
因果応報
過去の出来事と今の自分、それにまつわる自分の気持ちを書いていてとても難しいと思うのは
つい、「過去の行動」と「今の自分」を
なんでもかんでも因果で結んで肯定したくなる悪い癖だ。
あの日々があるから、今の自分がある。
あの日々に無駄だったことはなにひとつない。
あの時転落したから、自分は人の気持ちが分かる人間になれた。
単にひとつひとつ「点」として存在しているだけの事象を、
自分の頭の中でこねくり回しているうちにいつのまにか線でつないで
「私はこう考えたので、こう行動した。それはよくないことかもしれないが、その結果、こう変わった。めでたしめでたし。」
という起承転結的な、因果応報的な
ひとつの物語に仕立て上げてしまいそうになる。
それらの多くは確かにそういう因果律で結ばれているものもあるだろう。
でも、「それらの多く」はあくまで「多く」であって「すべて」ではない。
すべていっしょくたにして
「あの日々すべてのおかげで○○になった。」
って肯定してしまうのは、本当じゃないように思う。
こないだ読んだ、アルケミストってブラジルの本の影響かもしれないけど、
因果応報や起承転結って私個人の起承転結や因果応報よりももっと大きい、
もう宇宙とか目線で書かれているのかもしれないなぁなんて考えるようになった。
昨日私は少し素直になれた。
それは今まで私個人が考えてきたことや行動したことのおかげではなくて、
はるか300年前のアフリカの象のくしゃみのおかげかもしれない。
もっと大きななにか。
因果応報はもっと、風が吹けば桶屋が儲かる方式なのかもしれないよ。
そんなことまでは私には分からない。
因果応報の矢印を解明できない。
だから、せめて自分に分かる範囲は大雑把にまとめて大団円にしたりしないでできるだけ嘘のないよう、考えていこう。
自分の好きな部分
今、自分のここがすき、ってところがとくにない。
そのことに気づいてガッカリし、ちょっと考え込んで探してみた。
自分のすきなところ・・・・・
やっぱりない。
しいていえばいろんな趣味に偏見がないとことかは、まぁ自分の中でも悪くない部分かなぁ、とまぁそれくらい。
などなど考えてるうちに、好きなところは見つからないのだけど
「自分のここを好きになれたらいいな」
ってところが見つかった。
それは
「被害妄想的なまでに、気を使いすぎるところ」
「相手の気持ちを考えすぎて、相手に嫌な思いをさせたくないあまり卑屈になってしまうところ」
これは、今の自分にすごく顕著な特徴で、実は今の自分で一番イヤな部分。
一番、嫌いなところ。
本当に、こんな自分を器が小さいなぁと思うし、直したい。
この性格のせいで、ほんと、人間関係で苦労させられてると思うし、自己嫌悪の原因もこいつらであることが多い。
でも直すよりも、すきになれたら素敵だなぁ。
と思った。
といっても盲目的に肯定するんじゃなくて、きちんと筋を通して自分自身に
「ね?あなたのここはいいところよ」
って納得させてあげられるような理由を見つけて、きちんと好きになれたら、それってすごい。
それをゴールにしてみよう。
で、自分の好きなところ探ししてみよう。
ゴールの決まった出来レースだけど、たどり着けるかな?
無理なら無理で、頭をかいて引き返せば大丈夫。
人生、無駄ばかり。
いまさらいっこやにこ増えても問題ないや。
(という怠惰な意志を前回に引き続きまた意識的に持ってみる。ドキドキ。)
無駄に関する考察
努力しなくてすむときは努力しなくていいのだ。
努力しなくちゃいけなくなったら、努力すればいいのだ。
そんな怠惰な意志を持つことを自分に許すのはドキドキする。
タブーを意識的に破るのは初めてで、このさき何が起こるかドキドキする。
意外と、ワクワクする。
「行動力とポジティブさを持って前向きに行動し困難から逃げずに高みを目指す。」
的な暗黙の自分律。
もちろん守れてきたわけではないけど、
そうありたいという理想は常に持っていた。
だからどんなときも自分にかける
前向きな言葉はいつも用意してあった。
前向きな言葉を口にすると、それはまるで呪文みたいに自分を強くする魔法をかけてくれる。
だから人は前向きさを過大評価する。
「自分のしてきたことになにも後悔していない」
「こういう過去があったから今の自分がある」
と自分の過去すべてに肯定的な存在理由を見つけてあげて、過去が積み重なってできあがった「今の自分」をより強いものだと思いたがる。
確かに、確かに。
前向きで強い言葉は、私を強くしてくれるのだけど。
反面、いつのまにかなかったことにしていた
「無駄」や「後悔」や「駄目」。
去年くらいから落ちたエアポケットで過ごした日々は、まるで無駄だし後悔しないわけにもいかない。
だからもう、
「人生に無駄なものなんかない!すべてが私のためになっている!」
と声高に前向きさを叫ぶのをやめて
「けっこういろいろ無駄だったけど、それもまぁ悪くない」
あたりで落ち着こう。
もちろん「無駄」はベストにはなり得ないが、
悪くない、レベルになら認めてやらんこともない。
前向きな言葉を信じて、高みを目指す人を、かっこいいと思う。
だけど私はその理想を追いすぎて、弱い自分を許せずに余裕を失ってしまっていた。
自分の選択してきた道やこれから自分の歩く道を最善のように思いこみ、説得力のある言葉で確信を固め、自分よりも余計に他人にその「自分の取る行動の素晴らしさ」を分かってもらおうとしていた。
「うらやましがってもらうために、自分を誇る。」
「自分がいかに幸せかを感じさせるために、他人を嘲笑する。」
そんな自分に成り下がってしまっていた。
思えば、そこからエアポケットに転落したんだっけ。
「転落」、まるで負の言葉、これを今後
「あのとき転落したのもすべて無駄じゃなかった」
なんて言い始めたら、その根こそぎ前向きに転化させようとする思考回路がまた転落の始まりだってことを覚えておこう。
これは諦めとか悟りとかじゃなくて。
単なる理解。
私は大いなる無駄の中で得た、
ほんのちょっとの矜持や
ヘンテコな感性、
そして以前の前向き地獄・幸せ比較呪縛から
逃れた心の余裕が今はけっこう大事で、
そんなのも悪くないと思うんだ。
サーフズ・アップの狂気にシンクロしたり、
体をオーガニックにあつらえたり。
いつぞや、私が幸せを比較して卑屈な気持ちになってしまっていた友達に一年以上ぶり?に会った。
彼女は今も私がドロップアウトしたリングで戦っていた。
人と自分の幸せを比較して、前向きに高みを目指す、という。
けっこう、つらそうだな。と思ったけど、それが彼女の美学なのだ。
なんだかんだいってそういう彼女の不断の努力を神様は見過ごさないと思う。
今はそういう彼女の凄さ・かっこよさを称えたい気分だし、それと同時にそうならなかった自分を嬉しいと思う。
つまり、私と彼女には違う価値があるってことだ。
最近どうなん、と言われて、私はエアポケットに落ちた話や現状を話した。
ああ、虚勢を張らずに彼女と話すのは何年ぶりか。
彼女は
「あんたそれ暇だからだよ。普通の人は忙しくてそんなこと考える暇もないし、仕事してりゃつらくなってもそんなに落ちることもできない」
と言った。
まったく、彼女一流の返答で、悪くないね。
彼女は彼女らしく、私は私らしく、またどこかで考えを交感させながら互いの道を進んでいこうじゃないか。
私と彼女は「違う。」だから二人でいれば滅びない。
いつぞや二人でそんな話をしたでしょう。
最後の電話
元彼から久々メール。
「今、○○駅のホームにいた?」
確かにいたけど、もうこれ以上関わるのもよくないから返事はしなかった。
後日、非通知で電話がかかってきて、出てしまった。
私はちょっと怒った口調で話し、電話は切れた。
そこで終われば良かったのに。
なんだか自分の怒り口調を謝るために、夜、電話をかけなおしてしまった。
つまらない雑談から、別れたときの話へ。
彼に
「どのみち、水と油だから、もうふっきれてるしね」
「一人の時間っていいね。二人でいたときは、やりたいことがあっても犠牲にしてた部分あるし。そういうときって結局ケンカとかになっちゃってたし」
とか言われて、それが彼流の強がりなんだって分かってたけど、私もついムキになってしまった。
ぐだぐだの電話は後味が悪く、気分を萎えさせる。
別れてからというものの、電話とかで話せば話すほど、
「いい相手と付き合えてよかった」
みたいなうっとりした気分は冷めていき、
「ほんと別れてよかった」
みたいな気持ちに侵略されてきた。
彼もそうだと思う。
美しい別れなんて、もうめんどうなことは考えるのをやめて、自分の人生だけ考えて生きよう。
別れたけどいい女だったよ、なんて思われたかったけどもう無理だろうし、そんなことはどうだっていいのだ。
ぐだぐだとこういうから回った電話が続いてはいけない。
私は電話とかをするとどうしてもいい女になれないから。
もう、これで永遠に最後にしよう。
最後に話した言葉がどうだったとか、どうでもいいや。
こだわるな。
前を向け。
さようなら。
メールが来た。
さようならをきちんとこめたメールを返した。
そこから返事は来ない。
来ないことが気になるのも2~3日だろう。
あとは、もう、いつになるか分からないけど「完全に無関心」「風化した思い出」になる日まで、後戻りすることなく進むのみ。
マイナス思考の螺旋階段
なんなんだー
なんなんだー
なんなんだー!!!
もうむりだ。
これ以上、人と接したくない。
人と接するたび、心をタワシで削られている気分になる。
もしくはおろしがねで心をおろされてる気分だ。
ただ、ただ人と接するだけなのに、地雷を撤去するときみたいにビクビク緊張してしまう。
不安が募って、心がやりきれなくてぐっちゃぐちゃだ。
おろしがねの仕業ですりむけてガリガリになってる心の実像が目に見えるみたいだし、肌で感じられるみたいだし。
知り合ったばかりの人たち、始まったばかりの空間、入ったばかりの人間関係。
もうそのすべてから徹底的に足を洗いたい。
もう二度と「はじめまして」のない世界に生きたい。
もうなんだって私って人間は、人間関係のスタートを切らせたらダントツでへったくそだ。
かといって、すでにある人間関係を守るのもやっぱり下手で、もう天気・町並み・建物・自然・・・そういう無機物だけの世界で生きたい。
もうむり。
鈍感力が足りない。
私が言葉を発しても、発しなくても、みんなが私に対して顔を歪めている気がして、顔を上げられない。
もう知らない。
人と接しない自分の未来を思い描くと幸せな気分になる。
末期的だ。
知らないよ。
たとえば今日、単にハプニング的に「出来事」に巻き込まれただけ。
丈夫な人なら、鼻先であしらって、こともなげに場を収めるんだろう。
私はなぜ、最大公約数でしか約分できないんだ。
引き出せる限り最大限に大掛かりでひんしゅくものの対応しかできない。
もっとスマートにどうしてできないのか。
でもスマートって何。
もっと、もっと、動じない心?
くやしい。
自分の人間力と技術と対外交渉力と女力ともうすべてが尋常じゃなく低い。
異常。
ああもう!!!
仲良くなりたい人にはうっとうしがられて。
(嫌われてるに近い)
やさしくしたい相手にはそっけないと思われて。
(そっけない態度を取ったつもりもないのに)
悶々と細かいことまで気になってくる。
第三者からは、仕事が遅いって思われただろう。
(努力しなければ!)
第三者からは、車で送ってもらいたがってるって思われただろう。
(これは全然ちがう。)
第三者からは、ずる休みするつもりだと思われただろう。
(ちがうのに!)
自分の思考回路がうっとうしい。
キャパのちっさい人間だなぁ。
でも、無駄なマイナス思考がとまらない。
とにかくすべてが私の意図しない方向にころころ転がっていき、誤解が体感できるレベルまで大きく積み重なって、私をつつみこむ場のオーラがいちいち攻撃的に感じられる。
もう誰も彼もから、いなければいいのにって思われているんじゃないかって気分がまた私の心をすりおろす。
こういうのって、全部、わたしの心の受け止め方の問題?
じゃぁ「鈍感力」でも買ってきて読めばすむ問題?
そうじゃないと思う。
確実に、私の下手なあしらいで、周りの人々から痛々しい人を見るような痛い視線を浴びせられているように感じるんだもの。
これは被害妄想?
私の一挙手一投足、一言一言で、人が顔を歪めているという、人を不快にさせているというのが事実なのか被害妄想なのか分からないけどどっちにしてもそう考えてしまう自分が、苦しいことに変わりはない。
もう、今「あの場所」にある縁をすべて切りたい。
もう、「あの場所」でがんばりたくもない。
人と接するのがこわい。
悪いのは「あの場所」のせいじゃない。
その証拠に、今私はほとんど「知り合ったばかりの人すべて」に、こういう気持ちを抱いてしまうから。
誰とも知り合わず、身内だけの内輪にこもっていた時期よりいいの?
おろしがねでおろされてる気分もひとつのリハビリ?
そんなわけない。
自信をなくすばっかりだ。
言霊ってあるらしい。
前向きでキレイでまっすぐな言葉がいいことを呼び寄せるのは本当だろう。
だから後ろ向きなことを書きたい自分に躊躇する。
でも、思いっきりとことんどこまでも後ろ向きな発言ばかりしてもいいじゃないか!!!!!
しらないよ!
因果も応報もあるもんか!!!
後ろ向きはダメだと分かっているけど、でも後ろ向きになってしまうんだ!!!!
もう、自分がダメで弱くて心がもろくて被害妄想が強くてどん底で人を不快にさせ嫌われてもう本当に人と接しない人生がお似合いなそんな気分なんだ!!!!!
私のこときらいでしょ!知ってるよ!
そう思うと心が楽になる。
だって本当は好きになって欲しいから。
彼に、彼女に、みんなに、私を好きになって欲しいから。
だけどそう願って願いが叶わないのはつらい。
そう願わないのが楽。
がんばって得られる、しあわせで暖かい未来よりも
がんばらないで得られるものを得たい。
けど、がんばらない自分に戻るのはいやだ。
がんばるしかないのだとして。
どうがんばる?
なにをがんばる?
前の会社で荒んだ人間関係に悩んだとき、友達とご飯を食べたり趣味にいそしんだりして現実から逃避し、そしてそれはなんの解決にもならなかった。
職場の人間関係を改善したのは「時間」、ただそれだけ。
事態を変えるために私にできることなんかあまりないんだ、という経験が教えてくれる、絶望。
希望を持って毎日なし崩し的に戦うだけじゃ、何も変わらない。
変わらないと分かっているけど、それ以上がんばるのは・・・
それ以上がんばるのは・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
忘れていた
ラフォーレに置かれていた、このタブロイド紙、「GENERATION TIMES
」をなにげなく手にとって読んでいて、その記事を読むうちに、あぁ、そうかと思い当たった。
あぁ、そうか、私は忘れていた。
その記事はうまくはないけれど、とても暗示的だった。
そうだ、私は、こういうことをするのが好きで、こういうことがしたいのではなかったっけ?
そうか、そうか。
でも、そんな青い記憶、なんだか照れるよ。
夢と現実のギャップを思うと、口はばったいよ。
でも、とてもうれしかった。
ずっと忘れていた。
鹿の首に手を回して自分の名前を思い出せなくなる森を歩いていた、童話の主人公みたいに。
また忘れないように、書いておこう。
そして、現実的に考えよう。
うねる日々
昨日今日で、ちょっとバタバタ用事をこなした。
途中、思い立って目黒のCHUM APARTMENTへ。
かわいいカップに気持ちも和む。
ただお茶を飲んでまったりと。
とはいえ。
私が今、自分のやるべきことを成していたり、もしくはそのへんについてすでに達観していられたら、平日の昼間にカフェでまったりできることを幸せだと感じられるんだろうけど、残念ながら私はその境地にいない。
なにをしてるの私は。
という思いに駆られて、ため息。
自分を奮い立たせるために、ある本を手に取る。
「アルケミスト」
ブラジルのベストセラー作家パウロ・コエーリョ著。
少年が夢を叶えるお話なんだけど、ちょっと啓蒙書にも近い。
大いなる魂という考え方が面白い。
この本によると、夢を実現するために動くと、最初はビギナーズラック(と書くと安易だけどもっと神や宇宙の意志によって)面白いくらい物事がうまくいくらしいんだけど、最近私、面白いくらいツイてない。
友達との約束していた講座も仕事と家族の用で全部潰れてしまったり
電車に一本乗り遅れて劇を見そこねたり
電車で降りる駅を寝過ごしたり
出かけた日に限って雨や台風
地図を持ってるのに迷子
探していたお店が休日(二店舗も)
買った商品が家で見たら腐ってた
・・・。
まーいろんなことがすんなりと行かない。
しかもその多くは自分のせいだったりする。
小まめに続く小さな不運は私の足の向きを正しているのか、私の意志が折れないのを試しているのか。
でも、運や自分が私の鼻先で裏切っても、私は私を乗せて目的地へ向かう電車が光を反射して私の髪を光に染めるのを見てなんとなく華やいだ自分の気持ちを信じる。
そんな今日、ただ興味を持つものにごくたまに気まぐれに向いていただけの足が、一瞬、向かうべき道を見つけた気がした。
「アルケミスト」効果!?
なんつって。
この気持ちにはきっと「旬」があるから、今、旬のうちにいろいろ探してみなくてはね。


