眠れない夜のただのつぶやき。
♪経験が邪魔をする~♪
ってglobeの歌があった。
過去の経験(たいていの場合、失敗)にとらわれて臆病になることはよくある。
逆に、「経験がものを言う」場合もある。
過去の経験を基に学習して次の成功確率を上げることで、これもまぁ、よくある。
どっちにしても過去に自分がつみ重ねてきた経験が、これから自分が何かを選択する際の「先入観」になっていることには違いない。
いい意味か悪い意味かの差はあれど、人は常に経験にとらわれている。
いろいろな経験を繰り返していくうちに、脳には自分の行動の轍(わだち)がつく。
たとえば。
雨の日にお気に入りの靴は履かない。
デートの後には必ず「楽しかったね」メールを自分から送る。
何回かの会話の後で、その人に合った相槌の打ち方を習得する。
居酒屋でからあげにレモンをしぼる前には許可を取る。
カラオケで部長の十八番のときの合いの手の入れ方。
使いやすいメモ帳のサイズ、ペンの太さ。
私はこういうものすべてに、失敗や成功の経験から習得した経験則を持っている。
経験則は、もはや無意識レベルで「クセ」になり、自分の行動を限定してしまう。
日常レベルのライトな「どうしようかな」という悩みなら、脳は過去の経験から効率的に成功への最短ルートを導き出して、私に提示する。
私はその轍(わだち)に乗っかるだけでいい。
たいていの悩みなら3ステップ踏む程度で答えにたどり着く。
毎回、無数の選択肢の中から、自分の経験に基づいて同じ選択ばかりを選ぶようになる。
脳の轍(わだち)を作るのは、経験だけではない。
科学、常識、物理、論理。
こういったものは間違いなく脳内の思考回路のパーテーションになっている。
人は、物事を考えるとき無意識に科学や常識を引き合いに出して
「常識的にありえない」
「科学的根拠がない」
ことはハナから信じない。
少なくとも堂々とは、信じない。
私がものを考えるとき、それが未経験の分野であっても、科学や常識によってすでに轍(わだち)がつけられていることは往々にしてある。
たとえば。
ドライヤーのHOTからは冷風は出ない。
一重は自然に二重にはならない。
視力は自然には回復しない。
マニキュアは1秒では乾かない。
ぬいぐるみはしゃべらない。
ひまわりの種からヘチマは生らない。
教師はその専門分野において頭がよい。
たいてい、こういう「常識」を人は無条件に信じる。
そしてものを考えるときは無意識にこういう「常識」をあてにする。
人間の脳は10%しか使われていないという説はよく聞く。
人は自分が経てきた経験と、自分の周りの常識・法則によって自分の脳に轍(わだち)をこしらえて、脳の使う部分を限定するんじゃないかと思う。
道しるべのない道を、なにもあてにせずに自由にどんどん歩き進むのは怖い。
だから人は、未来を歩くときまで自分の足跡や世界の法則を道しるべにして歩く。
もちろん、それは自分が生きやすくするために行ってるわけだから、自分の社会性につながるわけで、いいことだ。
メリットのほうが大きい。
けど、もしかして、もったいないこともあるんじゃないかなぁ。
本当は、もしかしたら、人生すべて、「そうなるとは限らない」ことばかりなのかもしれない。
メールのタイミングもレモンのタイミングも合いの手のタイミングも相槌のタイミングも、今自分がしてるやり方が正しいとは限らない。
いや、それが「正しい」としても、それが「面白い」とは限らない。
もっと言えば、ドライヤーのHOTからは温風が出るとは限らないし、ぬいぐるみがしゃべらないとも限らないし、ひまわりの種からヘチマが生らないとも限らない。
すべて物事は「そうあるとは限らない」のかもしれない。
「そんなことは常識的にありえない。」
とか
「過去の経験からこうなるに決まっている。」
とか、盲信してきた「常識」や「経験」のほうがよっぽど根拠がない。
どうせなら、なにごともまずは信じてみたら、面白いのかも…。
本当は人は、使われてない脳の90%を使って地震を予知したり、雲を動かしたり、ポルターガイストを起こさせたり、絵の才能が急に開化したり、視力が回復したり、不可能な恋愛を成就させたり、できるのかもしれないのに。
うーん。信じるって、デカイな、意外と。
うん、あれこれ信じてみたら、いいよ。私。
そんなことを悶々と考え、とりとめもなくなったところでちょうど眠気。
寝るとします。
夏到来
新宿駅東口。
アルタの右隣あたりのビルの屋上に、巨大なみずほ銀行の看板が立っている。
東口からその看板を仰ぎ見ると、ぽっかりとあいた空にででーんとそびえたつ看板、で、まぁ壮観。
ほっほーよくやってるねーという気分になる。
新宿東口に行くときにはたいてい定点観測しているこの看板、こないだ、ふと仰ぎ見たらバックがキンキンの青空で、その爽快さ&迫力ったらなかった。
たとえ隣にコカコーラの看板があっても、さわやかさでは負けてないと思った。
やばい、夏が来る!!と身をもって感じた。
夏が好きだ。
でも、夏は毎年毎年、早足すぎる。
いきなり直面し気づくと終わっている。
7月中旬、ようやく梅雨が明けて本格的な夏の到来だって騒がれたと思ったらすぐに、やれクラゲが出るだの、日が短くなってきただの、挙句、庭で虫が鳴き始めて、ラジオで井上陽水の「少年時代」が流れ始めて、おや入道雲、台風もゴロゴロ、あっという間に秋だ。
大好きな季節なのに、夏の良さを一番強く感じるのはたいてい、夏が終わってその年の夏を振り返ったときだなんて、それじゃぁ遅いのだ。
今年は、決めた。
みずほの看板を皮切りに、夏を感じるたびに、いちいち心に意識的に刻むのだ。
夏の終わりの、物足りない感じ、なーんかやり残した感じを、今年こそはなくすのだ!!
・・・って毎年夏の初めに考えるんだよなぁー。
でもまぁ。
なにごとにも意欲ゼロの今年、例年にまして、夏が過ぎるのが早いに違いない。
ちょっとは、悪あがこう。
江ノ島
青空と強烈な光を携えて、新緑がわっさー揺れる。
家にいて、そんな初夏にありがちなビジョンを窓から見ていると、外にはなにかしら素晴らしいこと胸踊るなにかが待ち構えてくれているような、自分がそれらに置いてけぼりにされているような焦りを覚える。
しかたないから午前中に家を出て、最寄駅の券売機の前で路線図を見上げる。
どこに行こう。
西へ、西へ、頭の中で想像する。
東へ。北へ。
でも、どこでなにをする想像にも心を動かされない。
思えば自分発信でどこかに行きたいとかなにかをしたいとか思うことがなくなって久しい。
そういえば自分から誰かに会いたいと思ったこともなくなった。
それでもまだ誰かが私に会いたいと思ってくれていることに、感謝することだけは忘れないようにしよう。
結局、しかたないから行き先が決まらないまま電車に乗る。
晴れて、風のある、初夏の日なのだから、こんな日に江ノ島に行って、気持ちよくないはずがない。
と狙いを定めたのは早計だった。
何も感じることのないまま、おみやげ物やさんや浜をブラブラして一時間ほどで撤収。
街中に引き返し、喫茶店で読みかけの小説を読んで、帰宅。
文句なく気持ちよいとされているスポットに赴けば自然と心が明るくなるのではないか作戦は徒労に終わった。
心が何も感じないなぁ。
せっかくの、初夏なのに。
行きたい場所も、したいことも、会いたい人も、なにもない。
今の私には、心の許容量がやたら狭くて、さまざまな場所にある美しさとか、面白みとか、違いとか、そういうものを自然に感じることができない。
電車でどこかに向かっているときは、少しだけわくわくするけど、どこであれ、どこかに着いてしまった瞬間に、とたんに心が何も感じなくなってしまう。
「どこか」に到着する、そこにたぶんすごくあるはずの多大な意味や莫大な価値を感じられるようになりたい。
大橋巨泉イズム
最初は、スッピンのときのごまかし用に買ったのだけど、最近では自分を守るバリアの役割をさせるようになった。
自分と相手の顔と顔の間に、めがねを挟んでいるという安心感。
ひとつクッションが入る感。
今では人と話すときに、私の顔と相手の顔の間になにもないとちょっとその「直接!!」感に耐えられずときおり目を伏せてしまいがちになる。
意味もなく鼻を触って、顔と顔の間に「手」というクッションを入れてみたり。
まだ対人スキルの雲行きは怪しい。
マンガンの単一
タイム イズ マネー。
この1年を1万円に換算するとする。
私はこの一年を、つまりその一万円をどう使ってきただろうか?
たぶん、私はその一万円で、マンガンの単一電池を買えるだけ買った。
つまり無駄にしたってことだ。
でも、山ほどマンガンの単一電池は手に入れた。
単一電池、しかも、マンガン。
使い道に困る。
でも、稀に必要な場所もあるわけだよ。
山ほど手に入れたマンガンの単一電池にも、用途と価値は、あるってことよ。
お気に入りを持とう
色は何色がすき?
花はなんの花がすき?
町はどの町がすき?
時間帯はどの時間帯がすき?
こういう質問に、ひとつひとつ的確で自分にしっくりくる答えを持っていたいなぁと思う。
いろいろな分野で自分の「お気に入り」がちゃんとあるのにあこがれる。
お気に入りは、お気に入りになるまでのエピソードがたいていある。
たとえば、昔家族で北杜町のひまわり畑を見に行って以来、ひまわりがすきだとか、スペインに旅行して見たことないような青い空を見て以来、青が好きだとかそういうエピソード。
つまり、出来事をきっちり心で受け止めたしるしとして、お気に入りができるのだと思う。
そういうのに、あこがれる。
私はぼーっとしているせいか、普段生活していて心が動かされることがあまりない。
だから、好きな色は?ときかれると困る。
好きな時間帯もないなぁ。
好きな曜日もないや。
私の心はあまりにも偏食で、受ける感覚がニブすぎる。
まるで世界を眼鏡ごしに見ているような、すべての出来事を当事者としてではなく観客席から見ているような、軍手をしながらものを触るような、間接的でぼやけたかんじ。
まぁ心の偏食のせいにしててもしかたないので、意識して、自分のお気に入りを増やしていこう。
ひとつのお気に入りは、自分の一面だけを映す鏡みたいで、なんだか増えれば増えるほど、自分の像がはっきりと結ばれていく気がする。
背骨
10年来の男友達。
彼が転勤したこともあり、今じゃ年に1、2回、仲間と集まるときに会うだけだけど、少し、彼は私の心の支えになってくれていた部分があった。
22のとき。
彼は、本当にまっすぐで、青臭いほどに、誠実だった。
私は彼のまっすぐさに、何度も打ちのめされて、打ちのめされるたびに心が洗浄されるようだった。
彼が会社でつらいことがあったとき先輩がしてくれたことに対して、
本当にうれしかったんだ、おれはこういう男になるんだ、絶対に、この気持ちは忘れないんだ、
って泣きながら熱く語る彼が本当に頼もしくて、絶対に、
世界が薄汚れてみんな大人になって妥協とかずるがしこさとかいろいろ覚えて、ああ、この世は青臭いキレイゴトだけじゃ生きていけないもんだなぁと打ちのめされて、ふて腐れて、心がパサパサするときがきても、
私はこの人がこの世にいるなら、まだ戦えると、
世界を敵に回しても、彼がこっち側にいてくれたら、私は戦えると
そう信じることができた。
彼氏に対して思うのとは、また違う、特殊な信頼を持ってた。
かといって彼に恋愛感情を抱いたことはないし、彼には自己中心的なところもあって、うっとうしく思うこともたっくさんあったし、また普段の生活の中では彼の存在は私にとって重要なわけではなかったけど、それでも、彼は私にとって特別な人だった。
学生を卒業して何年かたつと、こういう不思議な距離感の友達が出てくる。
一緒にいる時間が長いから大事な友達、一番好きだから大事な友達、という当たり前の理屈では計れない、一緒にいる時間は短いしめっちゃ好きって積極的な思いはないけど、大事っていう。
それはきっと歴史のせいだ。
年を取ったせいで、友達と自分との関係を測る物差しに新しく、過去という時間軸が追加されて「今現在」以外も計れるようになったということだろう。
今日は久々に彼を含め、仲間で飲んだ。
彼に関する、不誠実な話を聞いた。
はっきり聞いたわけではないから、まだ分からないけど、おおかた、彼が今二股をかけている、とかそんな話だと思う。
私が物事を考えるとき、物事を見るとき、無意識で寄りかかっていた柱が、一瞬にして溶けて消えてしまった。
彼が、今までいてくれていた、いてほしい位置から消えただけで世界はまるで魑魅魍魎のうごめく暗黒の世界のように思えてきた。
この喪失感ったらなかった。
帰りの電車で、よしもとばななの海のふたを読みながら、顔を髪で隠しながら、隠し切れないくらい泣いた。
人は、自分ならではの「確実なもの」「揺るがないもの」「盲目的に信じられるもの」を見つけて、それを頼りに心を強くして、物事を見たり物事を考えたりして、世界を生き抜いていくのだと思う。
「盲目的に信じられる確実なもの」という存在は、自分の背骨を強くするカルシウムみたいなもんで、たとえば、子供にとって親がそうなんだろう。
確実なものを持たずに生きるのは、世界を信用しないで生きるということだ。
私にとってその「確実なもの」のひとつが彼だった。
世界を信用せずに生きるのは、絶対なんてない、と思いながら生きるのは、つらい。
浮気しちゃったー、二股かけられてさー、風俗サイコー、不倫しててさー、
そんな話は友達からときどき、当たり前のように聞く。
だから私も当たり前のことのように話を聞いていた。
別に私は潔癖症でもなければ、自分自身、清廉潔白な恋愛をしてきた…と100%誇れるわけでもないので、そのへんは自分の答えられる範囲で相談に乗ったり、笑い話にしたり、強く励ましたり、そう、私は確実に「順応」していた。
私の年代の、思考の流れ、思考の潮流にきちんと順応していた。
でも、彼の二股話だけは、私が二股されたわけでもないのに、勝手に裏切られたような強いショックを受けて、立ち直れないなんて、まったく私は自分勝手でしかも馬鹿みたいだ。
たぶん、被害妄想の強い、自己愛の塊の馬鹿なんだろう。私は。
彼を喪失した自分が悲しいだけなんでしょ?
勝手に信じて勝手に裏切られた気になって、そんなこと彼には言えない。
ぶつけるべき言葉はそんな自分勝手な思いじゃない。
できるだけ、早いうちに、彼に、言うべき言葉を見つけよう。
彼のために考えた言葉。
そして、できたら彼に電話で届けよう。
もう、前と同じように彼を見ることはないけど、彼は相変わらず、大事な友達であることは違いがない。
HP(ヒットポイント)
RPG的に言うところの、HP(ヒットポイント)が異常に少ない日が最近、よくある。
そういう日は、まつげパーマがかけたくても
「美容室に電話して予約がいっぱいですって断られるダメージ」を食らったらもうHP使い果たしてしまいそうで、予約できなかったり。
カルチャースクールに文章講座っていうすてきな講座があって参加したくても、
「そこに一人で参加して周りがみんな常連さんばかりで一人孤独でいたたまれないダメージ」を食らったらもうHP使い果たしてしまいそうで、予約できなかったり。
ウィンドウショッピング中に素敵なストールを見つけても、
「それの値札をひっくり返して値段を確認するまでに店員さんに強気の売りアピールをかけられたときのダメージ」を食らったらもうHP使い果たしてしまいそうで、ストールに近づけなかったり。
音楽を聞きながら歩いていてお店に入ったとき、イヤホンを耳から外したあと、
「イヤホンをポケットにしまう動作が店員さんに万引きと疑われるダメージ」をを食らったらもうHP使い果たしてしまいそうで、わざわざレジの前で店員さんにアピるようにイヤホンをしまったり。
センシティブ。
書けば笑えるくらい、最近HP少ない。
こんなんじゃ、今やってるその場つなぎの仕事を終えて就職活動ができるだろうか、不安。
まつげパーマの予約が断られることと同じように、面接に落ちることが怖い。
あほか。
いやもうほんと、あんたあほですか。
自分の才能はどこにある?
Lesson 175 自分の才能はどこにある?
http://www.1101.com/essay/2003-12-03.html
他者との関係。
これは、初耳。
新発見。
まったく未知の、想定外の、考え方や事実に出会うと、
私の頭の中に小さな部屋がひとつできる。
まだ、家具は空っぽの本棚だけ。
そのことについて深く考えたり、新しい付随情報を得たりすると、その部屋に本が収められていく。
最近は、既存の部屋を本で埋めることはあっても、
新しい部屋ができることってほとんどなかったから、うれしい。
実はもうひとつ、大事な友達に打ち明けてもらった話でも、新しい部屋ができたばかり。
ふふふのふ。
会話
昨日の記事に書いた彼女と、あと
彼女の友達たくさんに会って、
もうめいっぱい、
これ以上ないってくらいリキんで、
たくさん空回りして、そして、
頭も心もいっぱいいっぱいになって、
帰り道別の友達の前でちょっと泣けたりもして、
そしてその子と話していて、
会話がケミストリーを起こして
それに癒されて少し落ち着いて、帰宅。
もう泣けるくらい、そして頭の中で樹海に迷い込むくらい、自分のダメさ加減に落ちたけども、でも人と話すと言うことは、人に影響を受けて、人に影響を与えると言うことは、とても面白いものなのだなぁ!!!
打てば響く、鼓のような会話をもっともっとしたい。
いろんな人と話したい!!!
センシティブな自分におびえているけど、現代社会ではセンシティブだと生きづらかったりレッテルを貼られたりしてしまうけれど、ネイティブインディアンの世界では普通なのだそうだ。
人を惑わすことを恐れていてはいけない。

